第1話:魔物とナイフと日常の危機

 広がる夕闇は、都会の眩い輝きを時に遮る。その闇の中に潜む影は、欲望を糧に無辜の人間に牙を剥くのだ。

 アルカトピア、とある路地裏。ビル群の影で遮られた黄昏を背に、姿なき影が男に問いかける。


『問おう、貴様の願いはなんだ?』

「そうだな……。ヘヘッ、若い女の血を見たい!」


 男は、危うげに瞳を輝かせた。その焦点は合わず、影の立つ奥を見つめている。彼にとっては、突然の僥倖だった。


『請け負った。あぁ、報酬は後でしっかりと頂こう……。それが、契約のルールだ』


 姿なき影は契約の成立を確認すると、獣のように唸った。路地を抜けて消えていくその声は、虎めいている。


    *    *    *


「知ってる? あの変な噂の話……」

「何それ、聞いたことないわ」

「知らないの!? クラスで話題なんだよ!? ハルちゃんって、ホントに流行に疎いよね……」

「ユウがそういうのに強すぎなんだよ……!」


 放課後の通学路、二人の少女が仲睦まじげに談笑している。“ハル”と呼ばれた少女は相手に曇りのない笑顔を向け、黄昏は二人を暖かく照らした。


「知らないの? 夜のアルカトピアに現れる魔物だよ!」

「あぁ、そういう系ね……」

「十年くらい前からこの街に居るらしいんだけど、願いを叶えてくれるんだって!」

「ぜんぶ伝聞調じゃん。どうせ、都市伝説の類でしょ?」

「もうちょっと興味持ってよ! ほら、この『アルカトピア・ジャーナル』にも載ってるんだよ! ?」

「やっぱりゴシップ誌が情報源じゃん……」


 北条ハルカは、今時の女子高生である。それなりに流行を追い、それなりに恋を楽しんできた。

 しかし、彼女は〈自分で見た物しか信じない〉という確固たるポリシーを持っていた。幽霊も、UMAも、ピラミッドパワーも、それぞれの情報単体では信用に値しない。観測して初めてその実在を理解するのだ。願いを叶える魔物も、彼女は親友が話す与太話として聞いていた。


「やばい、今日は塾なんだよ……。ハル、ちょっと先に帰るね!」


 早足で帰った親友と別れ、ハルは通学路であるいつもの路地裏を歩く。ここを一人で通るのは、彼女にとって珍しいことだった。

 心做しか少し速い日没が、コンクリートの壁を暗く染める。表通りの喧騒はすでに遠く、閑静な住宅街の路地は黄昏に変わっていく。五時のチャイムが流れ、ハルも早足で帰路を駆けた。


 自宅まで、残り数百メートル。夜の帷に包まれた路地裏は、林立する街灯の光によって道を示している。

 ハルは、そこに見覚えのある姿を見つけた。先程まで一緒に歩いていた親友、ユウだ。彼女は、見知らぬ男性と押し問答をしていた。


「塾って言ってたのに、なんで……?」


 ハルの少しの疑念は、刹那の衝撃にかき消される。男が、銀に光る物体を振り上げたのだ! それがナイフだということは、凶器に見慣れていない女子高生でも理解できた。

 鈍色にびいろの刃が赤く染まった瞬間、ハルは駆け出していた。彼女は咄嗟にユウの手を引き、路地裏を抜けるために走る。ユウの腕には、ナイフで切りつけられた血の痕が痛々しく残っている。


「……あの人、何者?」

「わかんない……。急に道聞いてきて、目を離した隙に……」


 ユウを切りつけた男は高笑いを上げ、返り血に染まったナイフをうっとりと見つめる。待ち侘びた、若い女の血だ。新鮮で、鮮やかで、美しい赤だ。加虐心がむくむくと鎌首をもたげ、彼の心は更なる欲望に染まっていく。


『逃がさねェ……』


 ハルは、狭く入り組んだ路地裏をユウと共に必死で走る。夜風がショートボブの黒髪を撫で、背後の小さな足音を届ける。彼女は、男が追跡していることを確信した。

 あの男の姿は、一般的なアルカトピア人そのものだ。多様な人種が住み始めているこの国でそのような断定は意味が無いのだが、ハルは自らの住む住宅街で見るような、所謂“普通の人”だと思った。ただ、その瞳が獣のようにギラギラと輝いていたことが、彼女の恐怖心をなおも刺激している。変態の殺人鬼かもしれないのだ。


「ユウ。目、瞑ってて」

「……うん」


 ハルは意を決して、振り向いた。彼女が視認した追跡者は、既に“ヒト”ではなかった。


『血、血の匂いだ……!』


 声はあの男と同じである。しかし、その姿はがらりと変わっていた。虎頭の獣人めいて二足歩行をする醜悪な獣が、全速力で迫ってきている。

 その獰猛な爪がこちらに向かっていることを理解したハルは、その場から逃げる勇気を失った。大振りのナイフが小さく見えるほど太い、丸太のような腕が。大の男を噛み殺せそうなほど尖った牙が、殺意を込めて向かってきているのだ。


「あれが、アルカトピアの魔物……?」

 呟くように口に出した言葉も、返されることのないまま虚空に消える。


 ユウの様子を見れば、腕から流れた血がぽたぽたとアスファルトを濡らしている。苦痛に歪んだ表情から、彼女は事態が予断を許さないことを理解した。


 その瞬間、ハルは虚空に響く何者かの声を確かに聞いた。変声期を迎えていない子供のような声色の、やけに格好をつけた台詞を。


『答えろ。お前の願いは、なんだ?』

「願い……? この魔物を、なんとかしたい! どうにかして、ユウを守らないと!」

『なるほど、面白い……。まったく、人間って奴は最高だ!』


 風を切る音が、路地裏に広がった。漆黒の影が少女と重なり、暖かい感触が彼女の身体を包み込む。


『さぁ、反撃開始といこうか!』

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