1-13 銃・口論・鉄
8月の太陽が目に痛い。
大学は夏季休暇に入ったものの、課題にひたすら終われる真宮はずっと課外センターの部室に引きこもっていた。彼のボロアパートより大学の部室は空調が行き渡り、コーヒーメーカーもあった。読書にはコーヒーを共にするという伝統的な美意識を彼は好んだ。それは古典にしばしば描かれる遥か彼方の上品な生活様式を身近に感じさせ、より深い思考が実現する、と真宮は固く信じていた。
青山支社侵入の計画は2週間後に迫っており、すでにヘルマンがある程度手を回していた。翻訳プログラムの口調のせいで彼の振る舞いには時々滑稽に思える瞬間があったものの、実行力のある人間だった。ヘルマンが真宮にスーパーの割引コーナーで栄養キューブと賞味期限切れ寸前のやけに鮮やかな惣菜を漁る最中に話しかけたのも彼の情報検索能力があってのことだった――正確には彼の所属するチームが開発したアプリケーションの有能さからだった。現在政府から人々に提供される感情というのは、ヘブンズタワーと呼ばれる本部を兼ねた電波塔から日本全国に、蜘蛛の巣状に広がるようにしてAuto-sync所持者の脳内に届けられる。ヘルマンの所持するアプリケーションはその蜘蛛の巣から外れた者を検知するという仕組みのものだった。ヘルマン・ヴィトゲンシュタインは29歳の諜報員だった。「デカい傷の一つ欲しいものでありますが、我が組織の医療技術が優れすぎているのです」ヘルマンは器用にウインクした。彼は大量の缶ビールを真宮に奢った。
ドイツの反共同体勢力は規模は小さいものの政府を圧倒するほどの力を持ち、現に日本における神保町のような街が国内に多数点在していた。第1次世界大戦時のような「大衆」の愚を再び犯さんと決意する者が案外多くいたのだ。彼らは軍備に重きを置き、敵対する国や大企業と小さな内戦を繰り返していた。
青山支社にあまり多くの人数を割く必要はなかった。共同体思想の社会においてはとにかく目立つことが致命傷となる。それゆえ数十人規模の少数で、確実にCADデータの奪取を行う必要があった。Exitに話を持ちかけるとすでにドイツ側からのオファーが来ていたらしく、日独共同でのテロ計画となった。久々にExitと連絡を取ったとき、相田が応対した。
「戦闘につきなさい、真宮くん」
それが相田が真宮に課した役職だった。
真宮に対し、慧理は自ら兵士に志願した。銃を握る感覚はなんだか慣れ親しんだような安心を与えるものだった。同時に、これなら自分の存在が周りに認められるような気がしたのだ。軽量プラスチックと鉄の塊。彼女は銃身に確実性を見出すことができた。つまり、銃とは絶対に裏切らない、信用に足る存在だということだ。初めて手のひらにグリップを添えた瞬間から直感した。気持ちが良い。
よりどころが必要だった。自分をはっきりした存在にするには、自分以外のところに信頼を委ねる場所がなければならなかった。変わらなければならなかった。もう、ぼーっとして、鈍臭くて、いてもいなくても周りは気づかない、そんな存在は嫌だった。みんなが私を好きになってくれればいいと思った。引き金を引くことで重傷を負わせ、みんなが私を褒めてくれるなら、結構だった。とにかく変わりたかった。今までの私は漠然と霧の中を漂うように、地面があったら、足を前に出し、階段があれば何も考えずにとりあえず登ったものだ。先に何があるのかもわからずに。これからは違う。必ず霧を払いのけてやる。私は一体何なのか、どこから来たのか、自分で突き止めるんだ。
決行の日はすぐ訪れた。午後7時の蒸し暑い夕暮れが東京にしぶとく太陽の残滓を残している。等間隔に植えられた街路樹に鈴虫が住まう。道路の両端を伸び縮みするようにビル群が過ぎ去ってゆく。青山支部襲撃部隊はいくつかの乗用車に分散し、溶けきらない夜の闇の中を走る。
真宮は支給された衝撃吸収コートを着込み、居心地が悪そうに身じろぎした。ドイツの兵士が着用する戦闘服は主に戦闘補助スーツと防御用のコートの二点だ。ドイツの軍事技術はここ5年で飛躍的に上昇しており、兵士の戦闘能力の向上、傷痍の防止両方の実現を目指していた。戦闘補助スーツは薄くぴったりとしたしなやかな生地で、服の裏には人工筋肉が基盤のように張り巡らされている。”身体の拡張”をテーマとして開発されたこのスーツは、装着すると自分の皮膚の一部かのような錯覚を覚えるほどに身体に馴染む。上に羽織るコートは軽く、レーザー光を通さない電磁バリヤを纏い、銃弾の衝撃を吸収する薄いゲル状の網が繊維に織り込まれている。
車内には10人程度のExit社員、真宮と慧理、ヘルマンが乗車していた。そして隣に見知らぬ女性が見えないディスプレイに向かって何か口頭記述していた。ドイツ語だった。この車はおそらく兵士が集められているのだろう。
「お二方!こっちへ」
ヘルマンが二人に向かって手招きをした。隣にいた女性が人が良さそうに微笑みかけた。長い赤毛を腰まで垂らしていた。
「妻です」
赤毛の女は二人に握手を求めた。
「リーゼ・ヴィトゲンシュタインだ」
握力が強かった。モデルのような長身で、真宮とほぼ同程度の背丈だった。彼の正確な身長は182cmだったから、立った状態で同じ目線にある女性は珍しかった。スタイルの良さで言えば舞浜さんとはまた違う身体だなと真宮は密かに思った。舞浜さんは肉付きこそいいけど手首なんか折れそうなほど細い。対して目の前にいるドイツ人女性はしっかりとした筋肉を差し出した腕にそなえていた。舞浜さんが怠惰なら、こちらは勤勉。戒律。
「君たちの話は聞いている。いきなり夫に話しかけられてびっくりしただろう?しかし、こちらも切羽詰まっていたものだから」
「いえ……お世話になってます」
「妻は我らが所属するテロ組織の中で兵士200人程度をまとめるジェネラルです。軍隊で士官のポジションにつく者と言えばわかりやすいですかね。各国のテロ組織に比べて小規模な編成ですが、ドイツの共同体側の捜査網に引っかからないためにはこれが限界なのであります。奴ら、容赦ないので」
「ダーリン、滞在先のホテルはジャグジー付きを予約してあるよな?」
「あ……それが、あいにく全部埋まってまして……今ちょうど夏休みシーズンで、その……」
大学生二人に向けて笑みを浮かべていたリーゼの目元が引きつり、冷酷に夫を横目で睨んだ。不吉な静寂が4人に訪れた。
「戦闘後の贅を尽くしたバスタイムこそが私のパフォーマンスを左右すると、あなたならよくわかっているはずだが」
「どこも空いてなかったのであります」
「そんなことは聞いていない。私は取れと言った。あなたは受諾した。5分以内で解決しろ」
「は、了解であります!」
”グレーハウンド犬のように敏捷に”ヘルマンは都内のジャグジー付きのホテルを検索し始める。リーゼは再び二人に微笑んだ。
「すまない。夫は少し抜けている部分があってね……」
「あ、あはは」
真宮は慧理をちらりと見た。慧理も助けを求めるように苦笑いした。彼女もまた戦闘服を羽織っていた。サイズこそ違えど自分と同じ服を着ているのは妙な気分だった。一応ヘルマンから給料は出ているから、バイトという気楽な扱いなのだろうか?それにしては、テスト前のような、注射前のような、夜明け前のような、嫌な焦燥感が胸にこみ上げてくるのを感じていた。後輩の女の子が銃を持つから?自分が望まない配属先に不満を持っているから?それとも……死ぬかもしれないから?
「尻に敷かれてるみたいですね」
「はっ!毎晩尻に敷かれているのであります!」
「ダーリン、違うぞ。彼が言っているのは『夫が妻のいいなりになる』という慣用句だ」
「なるほど!確かに……その通りであります!」
慧理は意味がわからないというふうにまた真宮を見た。
「あの、リーゼさんは何でその口調をインストールしたんですか」
「一番クールな口調を頼むと店員にオーダーしたんだ。私にふさわしいジェネラルの口調にしてもらった」
兵士と士官か…… しかし日本語でもドイツ語でも両者の関係性は変わらないと容易に推測できた。
そうこうしているうちに、青山支社が近づいて来てしまった。真宮はいよいよ重苦しい感情が身体中にのしかかってくるのを感じた。不確定要素が多すぎた。俺はまだ2週間程度のシミュレーションでしか戦闘経験がないのに。週2回のバスケサークルなんて運動のうちに入らない。広い乗用車がまた角を曲がる。ジェットコースターの頂上に留め置かれているような気分だ。支給された抗不安薬を二錠水で流し込む。セロトニンの再取り込みを防ぎ脳内に幸せな物質が増えていく。効果はよくわからなかった。
「青樹と何かあったの」不安が耐え難いものになり、慧理に呟いた。彼女はこちらを向いて、「ちょっと」と言い、「大人気なさすぎる、青樹先輩は。本当に22歳?正直失望した……。いくら何でもあの言い方は本当にひどい。何かが欠けてますよ。まともじゃない。よく仲良くできるね、先輩……」
堰を切ったように非難があふれ出でた。それに、まるで真宮に非があるかのような言い方だ。
「あいつも悪いやつじゃないんだよ」話したら少し不安が紛れた。
「じゃあ先輩は青樹先輩の味方なんだね…… いいです、もう、どうせわかってくれないから」
彼女は甘えているんだな。珍しいことだと思った。彼女もまたテロ現場に赴く瞬間に不安を感じているのだろうか。
「別に先輩が私のことどう思おうがどうでもいい……けど、あんなこと言うなんてひどい」
「どうでもよくないんだろ」慧理がようやく真宮の目を見た。真宮が自嘲っぽく笑った。
「俺も青樹も慧理ちゃんのことどうでもいいなんて思わないよ。わかんないとこはそりゃいっぱいあるけど」慧理は黙ってこちらを見つめている。少し目の周りが赤くなっているのは気のせいだったのかもしれない。
「私絶対先輩に嫌われた」慧理の声がゆらめき、またうつむいた。
「今まで喧嘩なんてしたことなかったから。あんなにカッとなったの初めてで。本気で怒ったことなんてなかった。私、バカだから……ひどいこと言った」背に見えない荷が背負わされたように彼女は体を縮めた。「あいつのことは怖がんなくていい。不器用なだけだから」車が止まった。両開きの扉がしなやかに開閉し、速やかに兵士が降り始めた。慧理はその場を動こうとせず、じっと顔を見せずに下を向いていた。真宮はあやすように慧理の頭に手を乗せて、離した。つまらない口論なんだから気楽に考えろ、と言えたら楽だったが。彼女のことだからいちいち深刻に受け止めて、ますます深みにはまってしまうだろうと思った。そして気楽に考えられない自分が嫌になる。思考は反芻すればするほど悪い方向へ向かう。そして間違った結論を導くのが常だ。
「二人とも、到着だ!降りろ」夜の闇の中からリーザの声が飛んできた。これから人を殺すことになるかもしれないのに、口論のことで悩むなどおかしな話だ。真宮はのろのろと立ち上がった。国に管理された感情なら、くだらないことで悩む瞬間なんてないのに。彼のように他人に深入りすることもなく、平和に暮らして行けるのに。
慧理が仕方なく立ち上がった。
「変わらなくちゃ……」
彼女は真宮の背にそっと額をくっつけると、しばらくじっとして、先に出ていった。
リーザとヘルマンの指揮下にはそれぞれ5人の兵士がついた。リーザは近接戦、ヘルマンは銃を使用した遠隔戦を得意としていた。今回は建物内の戦闘であるためクロース・クォーター・バトル/クロース・クォーター・コンバットを考慮した戦闘方法が組まれていた。彼らはあくまでハッカーの護衛であり、CADデータの奪取さえ済めば無駄な戦闘は行わない方針だった。まずヘルマンがGoogleの社員証で正門のロックを解除する。人間の警備員は配置されていないため、ロック解除時間を数十秒継続させればテロ集団全18人が技術開発青山支社内に侵入できる。
青樹は妙に落ち着いた気分だった。これから本物の社内見取り図を入手し隠し部屋を見つけ出さなければならないのに、社内のしんと静まり返ったロビーを見渡すと、全てがうまくいくのではないかと楽観的な自信が湧いてくるのだった。
「青樹氏、まずは管制室を目指そう」
「わかってる」
青樹は會田と3階の管制室に向かって階段を登り始めた。お互いの顔は見えない。兵士たちと同じ衝撃吸収コートを纏っていたが、ハッカー達が着用するものはもっと丈が短く、網膜からの脳内ハッキングを防ぐためフードの内側に光を遮断するマスクが据え付けられていた。會田の顔の中央を黒いジッパーが横断している。
社内の広い廊下には誰もいない。社員や科学者はすでに帰宅し、いるのは人間の警備員だけだった。管制室のドアが開いていた。恐る恐る中に入ると、誰もいなかった。先に兵士たちが処理してくれたのだろう。回転椅子が無造作にあちこちを向いているし、靴が片方投げ出されていた。
据付けの「実在する」パソコンにはガラスのディスプレイがはまっている。社内のネットワーク内でのみ使えるものだろう。青樹は盗聴器材をスイッチングハブに刺しパケットの盗聴を開始した。情報を覗き見る。スニッフィングを実行する。
二人は淡々と得た情報の符号の羅列を判読可能な情報に置き換える作業を行った。作業開始から20分、社内の見取り図を構成する情報が出揃った。
隠し部屋は一つではなく、三つに分散されていた。
「さすがに一つの部屋にまとめるなんて馬鹿な真似はしないか」
「どうする?」
「俺と會ちゃんで分担するしかないか。俺二つ行くよ」
「いや、負担が大きすぎる。青樹氏すぐ死にそうだし、俺が行ったほうがいいでしょ」
「でも」
會田がグッとサムズアップする。「任せろ☆」
「CADデータが格納されている部屋とルートがわかりました。今から見取り図を送ります。一部ダクトを通る箇所があります。4階の部屋A、5階の部屋Bには會田が向かいます。僕は7階のCに行きます。4階から上は人間の武装した警備員が待機してます。巡回ルートも把握しましたが、たまにランダムな動きを選ぶはずです。必要があれば処理する必要があります。よろしくお願いします」
午後8時をまわっていた。計画の遂行には2時間もあれば十分と思われた。ヘルマンが慧理を連れて4階にたどり着く。
「巡回ルートは複雑であります。警備員を黙らせるのが先でしょう」
「それって、殺すってことですか」
「状況によります。現在この青山支社からは全てのデータが外部に送信できないようになっています。警備員の網膜記録・心拍数等々のデータはまずこの建物内で一元管理され、国の中枢部に送られますが、今はせき止められた状態であります。だから動けなくさえすればいい……というのが理想ですが」
ヘルマンは碧眼を慧理に向け、見事なウインクをする。
「あっちは殺す気ですぞ」
「…………」
慧理は改めて右手に握りしめた銃の感触を確かめた。できるだけ腕を撃とう、と考えた。殺す必要はない。無駄に命を奪う必要は……
「来た」
壁の後ろから警備員をうかがう。黒いヘルメットに薄い防弾チョッキを羽織っている。甲殻アーマーが肩から腕を覆う。一見無人偵察機のような人型ロボットに見えるが、外殻の切れ目からのぞく薄いスーツを纏った肌が、生きた人間の存在を匂わせる。
腰には実弾の入った銃。巡回ルート通りにこちらに向かってくる。5m、4m……慧理は思わず息を呑んだ。後れ毛がかすかにそよいだ。その瞬間、目の前に閃光がひらめいた。
ヘルマンが銃を抜くのと同時だった。耳をつんざく爆発音が2発。慧理は警備員が膝からくずおれるのをはっきりと見た。「走れ!」慧理が後ろを見ると、もうすぐそこに社の警備員が銃をかまえて彼女に向けているのだった。(腕を撃つんだ!)慧理は撃鉄を引いた。目的は倒れて、動かなくなった。慧理はヘルマンに続いて走った。腕ではなく、心臓に当たっていた。
前方から3体。慧理はシミュレーションを思い出す。あれは敵の頭に標準が出るようになっていたが……目の前にいる警備員には出るはずもなく。右手の人差し指をこちら側に引くと、すぐ結果がわかるのだ。撃った瞬間倒れたらあたり。外れたらもう一回。何度でも引き直せるくじのようだと思った。ヘルマンは的確に銃弾をぶち込む。急にフロアじゅうが静かになり、もう銃を向けてくる者がいないことがわかった。
「すぐに會田殿がこちらへ来るでしょう。今の銃声で5階から上は警戒態勢を敷きました。次からは今のように、楽には行きませんぞ」
結局敵を全員殺してしまった。私は今殺人をしたのか。実感が湧かなかった。心臓は痛いほど脈打っているのに冷静だった。妙な気持ちの昂りと、達成感は心の隅にちらちら残り火のように燃えているが、5階の階段を足音を立てず上る最中も、真宮の背中に額を当てた感触を思い出して少し落ち着き、あれほど思いつめていた口論がようやくどうでもいいことのように感じられ、早く青樹と話したいと思うのだった。
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