1-11 好きじゃない

 純粋なカーボンナノチューブで建設された「監視局日本支部」兼、世界国際平和共同推進委員会WPOの構える高層ビルが東京駅のすぐ側にそびえ立っていた。全320階で構成されたこのビルは有名な観光名所となっており、連日多くの観光客で賑わっていた。通称「ヘブンズラダー」と呼ばれる全長2038mのこの建造物は、スカイツリーのような高さに重きをおく電波塔とは違い、純粋に業務に必要な部署を一つのビルに詰め込んだ結果、現在の果てしない高さになったのだった。

 WPOの最も重視する部署は「監視局」である。これは日本中のAuto-sync装着者——理論上は全国民を監視・管理する部署だ。体温や網膜記録等の生体情報から、脳波による感情の起伏の統一度、発言内容などがここ監視局に集約され、半永久的に保管される。3DCGが登場してまもない頃の物理演算シミュレーションのために並べられた架空のドミノのように、20cm角に収められたスーパーコンピュータがずらりと1フロアを占領し、日本全国に新たに導入が始まっている新型Auto-syncによる網膜データ、もしくは市町村ごとに徘徊している盗聴器から収集収集した視覚・聴覚情報を解析する。「平和規定」に接触する語句や行動が認められた場合——テロ活動につながる爆弾の制作から、それに並ぶ計画の構想の発言、危険思想を導く哲学書・古典等の閲覧、同じく流血や猥褻表現のある映像媒体の閲覧——これらは等しく処罰の対象となる。

 そしてしばしば、平和の象徴、ここヘブンズラダー周辺は危険思想を持った人物が何かを訴えに行きたいと思わせる場所だった。昼下がり、修学旅行の高校生やSPF200の日焼け止めを塗りたくった女の軍団、仕事回りの笑顔のサラリーマンの中に、成人男性が一心不乱に割り込んでくる。茶髪が額にはり付き、意識が朦朧とする中脚を前に出すことだけを考えようと必死に何かから逃げている。観光地特有の浮き立つような喧騒の中で男の姿は甚だ異様だった。それもそのはず、男以外の18歳以上の成人は皆完璧な感情統制をもって、穏やかに東京の街並みを誉めそやしているのだから。茶髪の男だけが感情を操られていないということは明らかだった。

 男が走る。一人の少女の顔に、驚きが広がる。少女の母親も男を見る。父親も。その隣にいるカップルも、老人も、男を驚愕の表情で見つめる。やがて観光客一帯が男を異様な目で見つめる。インクを垂らしたように感情のさざ波が群衆に広がった。これも国が行う感情操作の結果だ。不穏な感情を人々の間で瞬時に共有するシステムは危険を察知するうえで有用であり、現に今までも数多くの犯罪を防いできた。

 3人の国家権力が男を追う。優劣は明らかだった。力尽きようとしている男の歩幅はだんだん小さくなり、国家権力である警察との距離が縮まる。男は足を止めなかった。彼らのうち、先頭を走る者が腰から銃のようなものを取り出し、男に向けて何かを発射した途端、男は自制を失い前につんのめりコンクリートの上に頭をしたたかに打ち付けた。プラズマ粒子による”投げ縄”が男の左足を捕捉したのだ。警察が男をいたって紳士的に——首根っこを掴んで——立ち上がらせた。「署に同行お願いします」男の喉が焼けそうに空気を求める。「……は……」悲しい全力マラソンの最期だった。男は俯き、そして空を見据えたかと思うと突然大声を張り上げた。

 「……け……気づけ!この世界は……ユートピアなんかじゃない!完璧なんかじゃない!……ここは……!」縄状になったプラズマ粒子が男の胃を圧迫する。連行は迅速に、静かに行われる。群衆は糸がほぐれたように速やかに日常に戻ってゆく。


 「あれ……そこにいるのは……崖内慧理?」

 青樹は少々面食らっていた。彼の貴重な睡眠時間である4限生命科学II-Bが行われる大講義室内に、パンを食べる慧理の姿を発見したからだった。

 一瞬、逃げようかとも思った。しかし彼のつぶやきは数メートル先の彼女に聞こえていたらしく、慧理が大手を振って「先輩!」と呼びかけてきたので、仕方なく彼女の元へ向かった。

 「なんで、君入院してたんじゃ……」

 慧理は曖昧な笑みを浮かべた。戻っている。青樹は直感した。数日前の「彼女」はどこかに行ってしまったようで、今の崖内慧理は出会った頃の崖内慧理だった。いや、少し違う——何かが変わったようだったが、具体的にどこが変わったか彼には分からなかった。

 「心配をかけてしまって、ごめんなさい……」

 「本当に大丈夫なの?なんか、すごかったよ、目から血が出てたの覚えてる?」

 「実はあの時のこと、何も覚えていないんだ……。ただ……」

 青樹が身を乗り出したその瞬間、授業開始のチャイムが鳴った。彼は話を続けようとした。しかし、慧理はさっと教壇に向きなおった。

 教授が参考資料をクラウド上で配布する間も彼女はじっと教壇を見ている。スライドを説明している時もかなり興味をそそられているようだった。こんな勉強熱心なやつだったのか?僕なんかいつもこんな授業就寝余裕だけど……。そうか、寝てたからこいつがこの授業にいたのを気づかなかったのか。

 「あのさあ、なんで入院中ちょっと……性格が違ってたの……?」

 慧理は相変わらず前のスライドに注視している。青樹は目線の先を追った。

 (教授……?)

 「なあ!」

 青樹が肩を軽くどつくと慧理ははっと我に返った。

 「な、何……」

 「なんで入院中……」

 「…………」

 だめだ、聞いてない!彼女は相変わらず教授を見ているようだった。なんでまた?白髪が混じった灰色の髪に冴えない風貌の男……遺伝子工学の最近の研究結果がハゲを無くすかもしれないと言っている、もしかしたら白髪もなくなるかも、まあ私はもう遅いけどね……と軽口を叩いて生徒の興味を引こうとしている……生徒たちはくすくすと笑っている……君らはAuto-syncの感情シンクをどれくらいの強度に設定している?政府からの感情統制パックをインストールした者はいるか?君たち大学にいるくらいだから、もしかしたらAuto-syncすら持っていない……という者もいるのではないかな?最新の感情統制パックはかなり出来が良いらしい、値段は少々高いが、悩みなんか感じることなくストレスフリーで毎日の雑務をこなせるらしい。国の官僚なんかこぞって利用しているようだが、確かに彼らの受け答えは耳障りがよく笑顔を絶やさない。不安なことなど何もなく希望に満ち溢れているといった様子でね。精神が非常に安定しているんだ。安心して国を任せられる。君たちもインストールする金がないんだったらせめて受け答えだけでも真似しなさい。くれぐれもダークウェブで落としたりすることのないように……って、そんな悪意を持っている人間は政府から感情を操作されたいとは思わないだろうな。ちなみに私は旧型の感情統制パックを使っているのだが、少々今の流行から遅れていてね。たまにゼミ生から少々静かすぎると言われるよ。今の流行りは『コミュ力を高める』だかなんだかで、かなり社交的になるよう設計されているらしいね。世界国際平和共同推進委員会WPOが規定したガイドラインによれば世界はより人々が快適で幸せに過ごせるようにだと定められている……まあだからいちいち最新のものにアップデートするよう求められるわけだが、何しろ有料だからねえ。大学教授でもついていくのに金がないなんて、笑えるね?学生だったら補助金も出るから、苦労したくなかったら最新の適切な感情表現を脳内にインストールしなさい……

 そして、授業はまたDNAの図版の解説に戻っていった。慧理はぼーっと前を見ている。

 元生命操作機構研究員、現防衛局職員といった肩書を持つ廉教授。

 何がそんなに気になる……?


 授業後に青樹は食い下がってみることにした。

 「随分あの授業が好きなんだね?」

 「え、あ、うん……好き、かな……」

 「授業というよりは、教授じゃないの」

 慧理がビクッと青樹を凝視する。

 「えっと……あの……」

 ……

 「まあ、そんなところかな……」

 青樹は不快な感情が胸を圧迫するのを感じた。50過ぎの中年男性に女子大生が惹かれるとは甚だ信じられないものだった。廉の外見は枯れかけの木の枝のようで何か男性的に優れているところがあるとは思えなかった。それとも、”女の子”にはまた違って見えるのだろうか?奴らは枯れた花をドライフラワーと名称を改め玄関に飾る傾向がある。

 慧理の口元が緩む。「頭いいし、面白いし、それにちょっと……魅力があるなって……」

 魅力!そろそろ彼女をバカにしたくなってきた。

 「じゃ、好きってことなんだ?あの教授が」

 慧理の顔が途端に赤くなる。指先がせわしなくスカートを掴む。

 「す、好き……かな?好き……うん、そうかもしれない……なんだかよくわからないけどたまに目が合うんだ……そ、その、私なんだか、ドキドキしてきちゃって……だから、それって……その……」

 青樹はだんだんイライラしてきた。いつまでたっても要領を得ない。代わりに自分が要約してやる。

 「へえ、そうなんだ。素敵なことだと思うよ。真宮の貸してくれた大昔のハーレクイン小説とかいう奴にそんな話があったな。女性史を語る上で欠かせない貴重な資料なんだって。僕はあれ完全にギャグだと思ってマジで大笑いだったけどね。40か50そこらの大学教授に女子大学生が惚れちゃってね、とうとう教授が放課後のゼミ室に女子生徒を連れ込んでヤっちゃうんだよね。そっから女子生徒は妊娠して大学をやめる。教授は彼女を養うことに決める。ハッピーエンド。って話。僕はバッドエンドだと思うけどね。先生と生徒とか気持ち悪いしあり得ないし、それにだいたい多感な女の子って一度は教師に惚れるイメージあるけど結局一過性のものじゃん。ありがちだよね。まあ、君にも人間らしいところがあったってことは素直に驚いたけど」

 慧理の顔から血の気が引いていた。今なら青樹の紙のように白い肌よりも白かったに違いない。

 「気持ち悪い」

 彼女はその言葉を初めて聞いたように繰り返した。

 「別に冗談だよ。僕はいいことだと思うよ、そうやって誰かに入れ込むっていうのは人生経験として有益なんじゃないの。ただ必ず君みたいな女の子は最後悲しい結末を迎えるって相場が決まってるから……」

 「先輩は……」

 泣きそうな声だった。

 「先輩に……なんでそこまで……」

 慧理は自分の歯が小刻みにぶつかっているのに気づいた。彼の顔をまともに見られなかった。こんな辛辣な返答は想定していなかった。慧理はかっと頭が沸き立つのを感じてくらくらした。ただ一つ、このバカみたいな男の面子を潰すことだけしか考えられなかった。

 「せ、先輩より……!廉教授の方が何倍もかっこいい……!!それこそ……先輩に惚れるような人の方があり得ない……!!」

 二人の間に3秒静寂が張り詰めた。

 先に慧理が動いた。青樹に断固として背を向けて早々と大学の門へ歩き去っていった。

 今度は青樹が立ち尽くす版だった。足元がぐらっと傾いて、危うく後ろにぶっ倒れるところだった。

 ”あり得ない”……

 なんで僕、こんなショック受けてんだろ……

 何も考えることができなかった。青樹はベンチにもたれかかってしばらくじっとしていた。バカみたい、と脳内から声が湧き上がっては消えた。






 その声は自分のものではなかった。だけれども自分の内から響いていた。これはおかしい。自分の中に他の人間がいるのはおかしなことだ。やがて声は実体化し、慧理の前に現れた。

 「ななか……」

 この人物の名前を知っていた。最近知ったのではない。十年以上前の話だ。私は小学校にいた。そうだ、通っていた——それは実体験として実際にあったことなのだ。まだ感情統制が禁じられている学年のころに。この女性は小学校の同級生で、確か、一番仲が良かったはずだ。人見知りで、彼女の転校初日に私が一番目に話しかけたのだ。私たちはたまに悪さをした。そして、学校にもしもの時のために備え付けてある小児用感情統制システムを発動させた。私たちはその時だけ優等生になった。

 「辛いことを思い出させてごめん」

 才原が優しげに語りかけてきた。でも、必要なことなの、と言わんばかりに。

 「辛いことなんてなかったよ」

 慧理は自分が明瞭に話せていることに驚く。その口調はきっぱりしていた。自分がきっぱり話せた瞬間なんてこれまでにあっただろうか?

 「ううん、あったはず。もう忘れなくていいんだよ」

 そんなことを言われても、困る。小学校時代は確かに親に怒られてばかりだったし、私は常に周囲のご機嫌取りを意識してきたが——そんなに辛いことはなかった——週に一度、母親が私のことを電話口で誰かに報告すること以外は。

 慧理の心臓のあたりに重苦しい感情がのしかかってきた。私は母親の求める規律から逸脱しがちだった。何をしても母親は満足しなかった。私は疎ましがられている。常にそう思っていた。私が劣った人間であることは明らかだった。勉強はろくにできなかった。運動は、逆にできすぎて、相手の骨をボールをぶつけて折ったからそのうち遊びに呼ばれなくなった。

 「誰もが自己嫌悪を抱える。私だけじゃない。辛いことなんてみんな経験してるでしょ?」

 「一般論にすり替えても、あなたは楽になれない。もう時間がない……慧理は、ねえ、何になりたい?」

 「何に……」

 私、銃が使えるの。前にExit本社の射撃場で撃った時はかなり手応えがあった。だから、兵士かな?

 「それは向いてる」

 慧理は背中を一突きされたように冷や汗が流れるのを感じた。

 「ごめんね、ここではあなたの心の中を読むことができるの」

 才原は申し訳なさそうに言った。

 「私はとある研究をしてきた。それは世界を変える研究になるかもしれなかった。それはね、つまり慧理のことなんだ」

 おおかた、と才原が付け加える。

 「慧理だったら世界をどうにでも操れるよ。もちろん、あなたと同じような素質を持った人はたくさんいる。でも慧理ならやっていける」

 才原が慧理の手をとった。本当の笑みを浮かべていた。穏やかで、万事がうまく行った時の安心感が感じられた。

 「話しかけてくれて嬉しかったよ」

 才原は慧理より少し背が高かった。離れているあいだに、彼女は成長した。私は子供のままだった。

 「小学校の時は楽しかった。でも私、やっぱり他のところは思い出せない」

 「思い出せる時が来る。成長する日も」

 才原の胸は暖かかった。

 「私、死んで良かったと思ってる」

 消え入りそうな声で……いや、ゆっくりと薬が解けるように才原は消え去ってゆく。慧理は何も言えなかった。でも、何か言わなくてはならなかった。ここは自分の意識の中だったが、この女性は本物の才原だった。

 「ありがとう」

 才原がどこにいるかわからない。

 「絶対にまた、ななかに会いに行く」


 病室は均一な温度に保たれていた。慧理はここが実体のある現実空間であることを感じ取った。大学があり、自らの家がある次元だった。太ももの上に何か落ちてきた。シーツに楕円のしみがいくつかついていた。またひとつ。慧理は自分が泣いていることに気づいた。思考はすっきりしていた。目の前がまたぼやけたが、慧理は明日にでも退院を願おうと決めた。もうこれ以上ここにいる必要はなかった。次に進むことが早急の課題だった。

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