1−8 亡霊
日Google本社79階第3会議室には所謂『御上の方々』がずらりと鎮座ましましていた。錚々たる肩書、高学歴、慈善事業、ボランティア、チャリティー、成功、等のタグクラウドを一通り持っていそうな面々である。
上層部が集まった理由はもちろん件の自爆テロであり、米Googleや世界国際平和共同推進委員会WPOの割合地位の高い人物が死亡したということがもっぱらの争点だった。死亡したこと自体が問題なのではない——後処理が大事なのだ。いかにGoogleの対応に全世界が納得するかが重要であり、もちろんいざとなればAuto-syncの感情シンク機能を使って強制的に所持者たちに納得させることはできたが、すると半共同体主義からの声がうるさい。まさにあちら側の「思惑通り」になってしまうのである。
ではどうするか?長い長い議論の末、犯人探しが得策だろうという結論に至った。
法的な手段で、理性的にたち向かうのだ。テロとは人命を軽視した許されざる行為であり、たとえ目的が何にしろ、残酷な行為であることには変わりない。平和な世界を皆が望んでいるのだ。そのために我々は共同体となり、全てを共有し、皆助け合って生きていく必要がある。争いのない幸せな世界まであともう少しなのに、なぜそれを邪魔する?——ということを考える者も少なからずいたが、大抵は保身、つまり役割をこなし、今の地位にとどまることを望む者が大半だった。生きていかなければならない。あともう少しで、楽ができる……穏やかにベランダで新聞を読み、家事をこなすAIにバッテリーを入れてやり、完璧な妻/夫とソファで何も考えず座っている……金は入ってくる、地位はある、尊敬される、最高の人生がここGoogle本社には約束されていた。
人間は大きな流れに沿って海の用に一方向へ揺らぐ。その揺らぎ、すなわち多数派の理想がたまたま、共同体となって幸せに海原に漂うことだったのだ。
慧理は目覚めた。意識が戻ったということは目覚めたということなのだ。しかし、目の前には何も見えない。ただ意識だけがあった。ただ真宮が呼ぶ「自我」だけがそこにあった。
死んだのか。生きているのか。それすらわからない。ただ確実なのは自分に意識があるということであり、思考することができた。むしろ何も考えない方が難しかった。思考は水のように意識の切れ目から流れ込み、慧理に思考停止を許さなかった。
「ここはどこなんだろう。私は誰なんだろう。だけど記憶ははっきり残っている。その気になれば思い出せる。私は精神汚染された。その前には——青樹先輩、真宮先輩とテロ組織にインターンしていた。なぜ?それは私が二人の偽装されたサークル「フランドル・ルネサンス美術同好会」に加入したから。これは真宮先輩の趣味だ。なぜ入ったの?それは彼らが大学のサーバーをハッキングして意味のわからない文章を全校生徒に送ったから。私は退屈な日常が嫌で、抜け出したかったから。なぜ退屈だと思ったの?それは……
私はどこか社会から阻害されていると感じていて、皆の言っている意味がいつもわからなくて、いつも私はずれていて、DNA操作を受けていなくて、笑うことも悲しむことも自分の実感としてよく理解できなくて、周りに合わせて表情を作っていた。それが辛かった……そう、辛いという感情はいつでもあったし容易に理解できた。いつも辛かった。いつも後悔していた。それが私だった。
だけど小さい頃は違くて、だって友達がいたから。誰だっけ……私は本当にわすれっぽい……ダメな人間。誰?素直に笑い合える人……
思い出してはいけない気がする。思い出そうとするとものすごく気分が悪くなる。
少なくとも私には最近とてもいい友達ができた。真宮先輩と青樹先輩だ。彼らのことは正直あまり知らないけど、いい人たちということはわかっている。
それに精神汚染されている時、一瞬見えた……青樹先輩は少し泣いていた」
「こんにちは、崖内慧理さん」
ウェーブした腰まである長い髪を揺らしながら一人の女性が病室に入ってきた。地味な白衣を着ているが、顔と髪型、そして体型はかなり派手だ。彼女自身も持ち前の華やかさについては自覚しているようで、胸元を隠そうともしていない。
「あれ、起きてるかと思ったんだけど」
慧理は虚空を見つめている。女性の存在には気づいていない。
「ごめんねー起きてちょうだいな」
女性が優しく慧理の肩を叩くと、慧理はいきなり我に返った。
「おはよう。朝早くにごめんなさいね。崖内慧理さんで間違いないわよね?」
「はい!私です。おはようございます!」
「今日が何日かわかる?」
「今日は7月の…16日ぐらいかなー?」
「正解。意識ははっきりとしてるし、ちょっと充血してるけど、元気そうね。しかしすごいわ、精神汚染されて次の日にはもう回復してるなんてね。ちょっとタフすぎない?普通なら半年は寝込むものだけど」
「え、そうなの?知らなかった…あたしラッキーだったのかな!」
女性は手元の資料をぱらぱらとめくる。病院から精神状態の記録が入手できたのだ。崖内慧理、20歳、中央蘭塾大学情報科学科2年生……
「そうかもね。何より後遺症もなく、無事でよかったわ。ねえ、才原ななかさん?」
慧理の瞼が一瞬驚いたように開いた。それから女性を見つめる——
「誰だお前」
女性は首筋にまとわりついた髪をかきあげた。
「申し遅れました。私、心理学科院2、舞浜えみりと申します」
舞浜えみりは中央蘭塾大学心理学科大学院2年生、論文発表に追われる学生であった。彼女は主にフロイトの流れをくんだ人間の自我の出自について研究していた。
先日の自爆テロについて彼女は特に興味を示さなかったものの、偶然この病院にテロ組織の被害にあったという学生の存在を知った。舞浜は多額の献金を受け取り、Google社のAuto-syncの感情シンク機能を奨励する論文を科学雑誌「ネイチャー」に発表したところだったが、彼女自体はそれほど感情シンク機能は好んではおらずこっそりネット上の情報を元にオフにしていたのだった。
また彼女は精神汚染のメカニズムにも興味があり、感情シンク機能を利用した悪質なテロ行動に一種関心を寄せていた。そこに我が校の学生が被害にあったというのだから、彼女にとっては格好の機会なのだった。
そのかわいそうな学生の名前は崖内慧理といい——たまたまテロ現場に居合わせてしまったようだった。しかし病院に出向くとなぜか彼女は精神病棟ではなく、普通の病室に一人で寝ているというではないか。面会も舞浜の学生証を見せれば簡単に実現した。後に資料を見てわかったことだが、崖内は精神汚染直後こそ泡を吹き瞳からの出血と多大な精神的ダメージを被ったものの、数時間後には意識を取り戻し、正常に正しい文法で話すことができたのだという。
明らかに不自然だ——病院側はごく軽い精神汚染だったということで崖内を通常の病室に移したが、舞浜には大いに疑問が残った。
精神汚染とはすなわち何らかの処置によって自我を崩壊させ、無意識下に押し込めてしまうという行為である。テロではそれに加え感情シンクを利用し自爆者の苦しみを伝播させることもあるが、基本的に目的は自我の崩壊、そして無意識を呼び起こすことにある。
人間の無意識とは厄介な代物で、普段は常に心の奥底に眠っているものの、意識上に上がろうとした瞬間猛烈な抵抗に会う。それはトラウマだったり、PTSDだったり、様々な名称が存在している。これを利用したのが精神汚染だ。舞浜の仮説では精神汚染はそうした「抵抗」を何度も何度も繰り返させることによって人間の自我を完璧に破壊する。
だから、1日もせずに起き上がれるなんて、ありえない……
昨日崖内慧理の病室に面会に行った際、崖内は眠っていた。その代わり、ベッドサイドテーブルに置かれた花柄のカードに気づいた。そこで彼女は指紋を解析しようとカードをスキャニングした。大学の研究室で調べた結果「才原ななか」という人物だと判明した。第三者の存在——舞浜にはこれしか考えられなかった。「誰かが崖内慧理をかばった」のではないかと。
「適当に言ってみたんだけどね。やっぱ勘って必要よね。で、才原ななかさん、なぜあなたは崖内さんの体の中にいるのかしら?」
「あなたにはどうでもいいことなんだけど」
「そうかしら。才原さん、実は気づいて欲しかったんじゃないの?だって彼女、もともとおとなしい性格だったみたいじゃない。そんな態度だったらすぐバレるに決まってるわ」
「違う。慧理はもともと明るい子だった……なぜ彼女がおとなしい性格に変わってしまったのか私だってわからない!ただ……」
「ただ?」
慧理——才原ななかは慧理の身体にまだ慣れていなかった。いや、慣れる必要はないとはいえ……
「言えないかしら」
「……あなたが信頼できる人間とわかれば話すよ」
「信頼…どういう意味」
「今調べる」
そう言って才原は慧理のAuto-syncに入っていた匿名ブラウザで「舞浜えみり」と検索した。
なぜ匿名ブラウザで検索する?”Google”ればいいじゃない?舞浜は何か手がかりをつかんだ気がした。
「舞浜さん、あなたAuto-syncに関係しているんだね。残念ながら何も教えられない」
「ちょっと待って、才原さん。あなた、『共同体』側の人間じゃないわね」
「……」
才原は舞浜を一瞥する。
「それが?」
「もし私が『共同体』側の人間だとあなたが思い込んでいて、それによって私に何も話せないのなら……あなたは誤解している。私は確かにこういう論文を書いたけど、それはGoogleから多額の献金を受け取ったからよ。私個人としてはこのような思想を抱いていない。と言っても、最低だし、言い訳にしかならないけど」
才原は黙っている。なんとか説得しなければ。舞浜は手応えを感じていた。
「私は崖内さんと同じ学校の人間です。そして心理学者を目指しています。私はGoogleから欲しいのは金であって、思想ではないのよ。今は限られたところからしか資金を得られないけれど、将来は別のところから貰うことも検討している。私はあなたが思っているような共同体側の人間ではない。信じて欲しい。それに……
いつまでも彼女の肉体に入っていられるわけではないでしょう?」
才原の目つきがますます険しくなる。焦っているのだ。自分のいられる期間、そしてこの女性の洞察力に。
「……わかった。できる限りのことはお話しします。それにもう、私自身記憶があやふやになってきているの。自爆して以来、すでに多くの記憶が薄れかけている」
薄い保温シートに包まれた崖内慧理の足が居心地悪そうに指の感触を確かめる。白を基調とした、緑をアクセントカラーに使った心地よい病室——人間の心理に基づいて安らぎを与えるよう設計された部屋。それらはおもちゃの塗装のように白々しく平和を実現していた。
「あなた、自爆した本人だったのね」
才原は少し笑った。ブラインドが閉められた窓からは紫外線が一切漏れ出ていなかった。
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