1-3 あなたは誰

 中世まで画家は家業だった。例えばブリューゲル一族はアントワープで栄えた画家一家だ。父のピーテル・ブリューゲル、子のピーテル・ブリューゲルは父から子へ同じスタイルの絵柄を受け継いだ。依頼する者もそのほうが都合がよく、同じ質の絵画を受け取れる。一種のブランドのように家名は機能した。また、ヤン・ブリューゲルのように父とは違うスタイルの絵画のスタイルを模索する者もいた。彼は花のブリューゲルと呼ばれ、また違うブランドを築いた。彼は父のピーテル・ブリューゲルのような風景画ではなく、花の静物画を多く描いた。その子供も、彼の友人ルーベンスの庇護を受けつつ父と同じ花のブリューゲルになった。

 真宮は特に《バベルの塔》が好きだった。ピーテル・ブリューゲルがイタリア旅行で受けた衝撃はきっと現代の旅行で得られる驚きとはきっと比べ物にならないだろう。だからこそバベルの塔を描いた――崩れているのか、それとも建設中なのか?彼が好きなのは《大バベル》の方だった。圧倒的な遠近感で描かれたバベルの塔、画面左、王のもとにひざまずく労働者、右下にはバベルの塔の麓に近づく船。当時の神学的な考え方を表しているようにも見えるが、それと同時に皮肉にも捉えられないだろうか。必死にバベルの塔を建設/修復しても、結局神は傲慢だとみなす。人間が神の領域に入ってはいけないという戒めとあきらめがちらつく。


 「出た。7月14日、国内のテロ組織《Exit》が日Google社の人間の精神の一部に介入するアクセス権について抗議を行う。奴らは今までに爆弾テロ・誘拐・錦糸町での無差別銃乱射を行っている。この中に一人知り合いがいる。チャンスだぞ」

 青樹は2週間前から海外の掲示板《Zero-chan》で情報の入手を行っていた。基本的に匿名ブラウザでしかアクセスできないサイトというのは移り変わりが激しく、一つのサイトが潰れるたびにまた情報先を探さねばならないのだった。最近は国の取締りが厳しくなり頻繁に違法サイト運営者が無念の摘発を受けていた。そのため利用者はさらに慎重になり自衛手段を強化する必要があった。今やTorは600回ものサーバー経由を経てウェブサイトにアクセスできるようになっていたが、それを追う国(そして技術を提供するGoogle、Microsoft)の進歩もめざましく、両者はさながら両輪のようにお互い足並みを合わせて、互いに追い越そうと身をよじりあっていた。

 「で、今回は自爆ってわけ。いいじゃん?テロスタンプラリーを埋めていってる感じで」

 「最後は組織内分裂か」

 「仲間への拷問も忘れずに」

 7月14日は世界国際平和共同推進委員会WPOが来日する日取りになっており、かならず日Google社を訪れるはずだった。両者は日本で頻発するテロに警戒していたものの、東京の進んだセキュリティシステムと思想統一を高く評価していたため予定通り会合が行われることになった。

 「このミーティングが日本全国のAuto-syncを義務付ける足がかりになるかもしれない。だからExit側も必死だろう。もはや日本は企業に支配され統治国家とは呼べないまでにしても、アメリカの手が入れば軍事が絡んでくる可能性も大いに有り得る」

 12時40分、真宮が席を立った。「じゃあよろしく。後で戻る」哲学科の学生は語学の習得で忙しい。

 ほどなくして慧理が部室に入ってきた。この埃っぽい空間……常に頭上と足元に小さな通気口を備えた高度空気清浄機が余計な塵や湿気を除去するので、あくまで比喩としてだが……に新しい顔がいるのは少し妙に思えた。慧理は鎖骨の下まで伸ばした髪を後ろでひっつめており、一房の後れ毛が顔の両端にさがっていた。今日は白いシャツとジーンズを履いていた。「遅いよ」青樹は横目で慧理を見やった。

 「ごめんなさい、昼飯食べてたら遅くなってしまって……」

 ああ、敬語は無しだった。慧理は適当に椅子を引っ張ってきて、持参した麦茶を飲んだ。青樹は慧理の手首を見た。嘘の情報。介入者を騙す高度なファイアウォール。

 青樹はおもむろに立ち上がり、慧理から窓の日光を遮るように見下ろした。

 「君が本当に信頼できる人物か、証明してもらいたいな」

 慧理もただならぬ威圧感を感じ、つられて立ち上がった。

 「何をすれば……」

 こうして立っても青樹は慧理を見下ろせた。青樹の目は、冷たい。彫りが深いのは米国に11年間滞在していたのと関係があるのだろうか?慧理がちらっと下を見ると、青樹がヒールに底上げされた靴を履いていることに気づく。ブランドものにも見える……現代ではヒールは足の変形を起こし機能的でないと忌避される傾向にあるが、彼はこうして黒く上等の足幅のやや細いヒールを履いていた。青樹は小瓶に入った液体を取り出した。

 「まずこれを飲んでもらいたい。3分経ったら電気を消す。はい」

 水のような液体が入っていた。蓋を開けても無臭で、思い切って口に入れても味はしなかった。ぬるい液体が慧理の喉をつたっていった。

 「これ何?」

 「真宮が生物工学科の友人から手に入れた、BaSO4を元にしたX-ray不要の……まあバリウムみたいなものだ。というか、教職員の健康診断の時期だったら簡単に入手できるんだけど……なぜか真宮の友人が持っていた」

 やがて、慧理の胃の底でねこじゃらしが揺れるような刺激が起こったかと思うと、波のように胃の前後を行ったり来たりし、圧迫されるような不快な感覚が全身にゆっくり広がっていった。

 「電気消すよ」

 青樹がブラインドに向かって手を上げると高感度センサーが反応し上から閉じ始め、手を下に下ろすと電気が消えた。閉じゆくブラインドの中、慧理の食道から血管までもが白く浮かび上がっていた。

 「うわっ……」

 スニーカーの下から枝分かれしたフラクタル的な毛細血管が足首に向かってこわごわと軌跡を描くように収縮し、ふくらはぎを通って足の付根まで到達している。柔らかな枝のような体中の毛細血管と臓器の輝きは強くなってゆき、手首の血管の束が白く光っている。

 青樹は薄い黒のノートパソコンを開き、手首のニセAuto-sync――Neumannのディスプレイをリサイズし慧理の目の前に等身大のパネルを作る。すると黒いノートパソコンに慧理の身体情報がリアルタイムで紐づけされ、スキャンが開始された。

 「これは何をしているのかな」

 「君の所有者を調べている」

 青樹が最初に疑ったのは、慧理の身体が企業の所有物なのではないかということだった。今では自分の体の更新権限を企業に任せておく者も多かった。つまり血中のナノロボットのアップデート、企業のすすめるゲノム編集を施す等、自身の生活サイクルを適切に管理するために企業に身体の全情報を明け渡し企業の所有物として登録するのである。その場合ナノロボットには一つ一つ企業のシリアルナンバーが刻印される。未だ類似品を扱う中小企業も多く、Googleの子会社である23andMeは他の企業との差別化を必死で進めていた。今や23andMeはゲノムだけではなく医療分野にも手を広げていた。

 企業の所有物ということは、すなわちテロ組織にとっては危険な存在となりうる。網膜の視覚情報からGoogleにテロ内部の情報が漏れたらたまったものではない。よってもし彼女が企業に身体の全権限を渡していれば、その場で彼女と企業との生体活動のつながりを断ち切らなければならない。つまり――所有者の死によって。

 慧理の手首の血管を拡大すると、丸い小さなナノロボットがゆっくりと決められた道筋を巡回していた。それはGoogle社のものだったが、よく見ると4年前の下位モデルであった。まだ23andMeが身体の情報を収集していなかった時期に制作されたものであり、今では製造されていないナノロボットだった。もちろん新しいナノロボットに変えることは可能だったし、「虫下し」を飲んでまた新しいナノロボットが入った錠剤を飲めば簡単に更新できたが、慧理はそれをしていなかった。よって網膜情報を企業に提供することは不可能であり、完全な所有物にはなっていなかった。

 青樹のもう一つの懸念は彼女自体がロボットではないかということだった。馬鹿な考えだとは思ったが、今ではAIも感情を理解し十分に人間としてのふるまいをすることができたし、それにセクサロイドなどはほとんど人間と見分けがつかないほどだった。さすがに人間であればロボット特有の人間にはありえない挙動はわかるはずだが……彼女が人間以外の何かであるという可能性だって十分ありえたのだ。昨今のテロ組織は国や企業の送り込んだスパイによって壊滅させられるという憂うべき実情があり、青樹も敏感になっていた。

 慧理の体内はどう見ても生物が持つ周期運動によって維持されているようだ。呼吸、血液の循環、胃の収縮。青樹は飲みかけのパック詰めされたアイスカフェオレを持ってきて、慧理に飲むよう指示した。

 牛乳とコーヒーと砂糖が混ざった液体が慧理の腔内から食道に落ち、胃に到達する。どう見てもロボットではない。テロ集団を調査するためにここまでリアルに作り込む必要は全く無い。

 「崖内、どこに住んでる?」

 「埼玉県越谷市」

 「もっと詳しく」

 「埼玉県越谷市総合企業住宅ラ・パール10の6の2」

 「何歳?」

 「20歳」

 「出身は?」

 「東京都多摩市」

 「家族は?」

 「…………」

 「家族、は?何人?」

 「…………」

 慧理は答えない。何事も聞かれていないかのようにじっと目の前を見ている。

 「崖内!」

 「何?」

 「か、ぞ、く、家族構成を言え、何人いる?父親は?母親は?」

 「…………」

 「家族は……」

 空調の機動音だけが場を通り過ぎていく。

 「……父親は公務員、母親は都内にて事務。兄弟はいない」

 「確かか?」

 「うん」

 「もう一度言ってみろ」

 「……父親は公務員、母親は都内にて事務。兄弟はいない」

 「国もしくはGoogle、Appleとの関係は?」

 「ない。父親は公務員だが市役所での勤務が主となるため国から見れば末端の存在である。国は人間の管理に関わることは市役所局員には任せないし情報も流さない」

 「ではお前の父親も母親も上に上げた組織とは深い関係がないと判断していいな?」

 「うん」

 「……OK、オーケー」

 青樹が慧理の首に位置する大静脈に手の甲を当てると温かく、下顎骨に両手を添わせ、慎重に首との繋ぎ目を探った。掌はスムーズに首まで下り、人間らしく汗の残滓が残り、甘い匂いがする。このまま力を入れたら絞め殺すこともできそうな気がした。慧理の表情は見えない。ただ毛細血管が目の周りから口へと暗闇の中で集約しているだけである。発光は徐々に弱々しくなり、慧理の眼球が微かに目視できた。

 青樹は女性にか弱さというものを感じたことがなかった。女性は男性と同じく確かにその場所に生きていて、歩いて、物を飲み下し、排泄をしている。その生きているプロセス自体が青樹にとって力強く感じられ、また恐怖の対象でもあった。今指の腹に感じる慧理の汗や動かすと張り付いたようにまとわりつく皮膚の伸縮性もそうで、今自分の首筋にうっすら浮かぶ汗と同じものと考えると、汚らわしいような、恐ろしいような、自分の存在の根幹に関わる部分が揺らぐ気がした。この女は人間である。よって生きている。女は生きている。僕もまた生きている。崖内とまったく同じ生命活動をしている。彼が力を感じる瞬間というのはインターネットを通して誰かの端末に悪事を働いているときのみであり、生まれつきの小柄さのせいか、女性は守る対象とは思えず、自らの性別である男性と同じく破壊する対象としか捉えていなかった。彼はまた男性を憎しみの対象として捉えており、結局人間嫌いなのだった。

 「青樹……くん、ちょっと……」

 青樹が気がつくと、両手で慧理の首を必要以上に締め付けていることに気づいた。

 「ごめんごめん」

 両手を離したとたん慧理は椅子に倒れ込み、息を吸おうと横隔膜を上下させていた。青樹は手のひらに冷房の涼やかな風を感じた。

 「……君が悪意を持った人間じゃないことはわかった」

 青樹はブラインドを上げた。

 真宮が帰ってくるまで30分あった。青樹は慧理に7月14日のテロについて話すことに決めた。


 真宮は授業が終わった後、図書館でボスの画集を借りた。哲学科より美術史に進んだほうがよかったかな、と思う時があった。絵画と哲学は一見何の関係も無いように見えるが、絵画は描かれた当時の思想や哲学を色濃く反映しており、実は深い関係にある。青樹はそっけない効率主義者のようななりをしておきながら、真宮の趣味を理解してくれる友人でもあった。意外と美術がわかるんだ、あいつは。

 部室に帰ると真宮が慧理に来たる自爆テロの詳細を説明していた。

 「来たな、真宮。疑似バリウムをありがとう。無事慧理の信頼性を確かめることができた」

 「え?」

 慧理のそばに空の小瓶が転がっていた。

 「あれ、カエルに使うやつなんだけど……」

 「え?」

 青樹の口元に歪んだ苦笑いが広がる。

 「なんで言ってくれなかったんだ!」

 「だって、なんにも使いみちを説明しなかったじゃないか!ただ疑似バリウムをくれって言うだけで……まさか人体に使うなんて思わなかったよ!」

 二人は慧理を見た。彼女は気にすることもないというふうに平然としていたが、

 「どおりで排出が変だと思った……水を飲んでも全然出てこなかった」

 「おい、まずいぞ。卵巣に居続けたら将来の……その…機能に関わる…… とりあえず水じゃなくて、別のなんか……よくわからないけど貰ったやつに聞いてみる……」

 真宮が友人を呼び出している間、慧理は腸にまた疑似バリウムの違和感を感じた。青樹は真宮の借りてきたボスの画集を開いた。

 「《快楽の園》……神の手が届かないユートピア、か……」




 哲学も家業だろうか?

 代々受け継がれる知的能力の賜物なのか?


 真宮の両親は無学で経済的に余裕がなく、兄は真宮が幼い頃に成人して家を出ていった。希薄な自意識の中で出会った絵画、それが《バベルの塔》だった。父が西成のパチンコで手持ちの金を使い果たした時、薄い布団にくるまって就寝していたはずの母の癇癪が始まる。真宮にとって大阪は言い争いと金の苦心が充ちる都市だった。父が母を打ちのめし、子供に矛先が向くのを察知した兄は、ときどき幼い真宮と一緒に家から脱出した。区内の小さなプレハブ建ての図書館が避難先だった。この地区は当時近代化から完全に取り残され、旧時代爆発的に普及したスマートフォンでさえ所持率は半分を切っていた。ましてや手首に埋め込むデバイスなど多くの住民に購入する余裕は無かった。個体認証もない粗末な引き戸は簡単に開き、兄弟は本物の暗闇が支配する小さな小屋に大量の本といっとき過ごすのだった。この日も兄は机の上に置いてあるライトを点け、「ほら、好きな本読んでええで」と弟に懐中電灯を手渡した。自分は図書館にある参考書を読んでいた。受験さえ終われば国の補助金がおりるため、兄は持参したノートに問題を書き写しては解くという作業を繰り返していた。工学系の学科に進学を目指していた。

 真宮は手元から伸びる丸く切り取られた空間を伸ばしたり縮めたりしているうちに、床に大判の本が数冊積まれているのを発見した。職員が見落として帰っていったのだろう。真宮はなんとなく近寄っていって、一番上の本を開いた。

 A32枚ぶんの《バベルの塔》が蝶のように折れ曲がり真宮の目の前に現れた。暖色系に色彩が歪められたバベルの塔はいびつな窓を真宮に向かって数えられないくらいぽこぽこと開けて、青空が真宮をあざ笑うように素直に広がっていた。

 この世は悪夢なんだ。小学2年生の終わり際、勉強もついていけず常に注意散漫で教室内を歩き回り、同級生の頭を何度も殴って三者面談が行われた、哀れな真宮は、真っ暗な図書館で自意識が生まれた。「錠丹くんはおちついて人の話を聞くことがむずかしいようです。またおともだちに暴力を振るうなどの行為が見受けられます。なかよし学級に転級させることを検討されてはいかがでしょうか」

 真宮は学年最後のテストで全教科満点を取った。そして取り憑かれるように本を読み始めた。真宮はサルトルを読んでから実存主義に傾倒するようになるが、基本的になんでも読んだ。中学卒業後東京に越してきた真宮は、もはや暴力的ではなく、また陰気な文学少年の様相もなりを潜め、明るく陽気で気遣いのできる、世界が必要とする理想的人物像を体現していた。しかしAuto-syncを埋め込む余裕はなかった。

 父親の暴力、母の癇癪が彼の哲学的土壌を育てたとは言えない。しかし、彼の不安定、信頼を置かないスタンスは彼独自の世界観を作り上げていた。結局何も信じられないのだという極論は彼をテロ行為に走らせた。真宮はそれが社会的にみれば悪いことだとは認識していた。人を殺すのも本能的に嫌だった。しかし、それは青少年が抱く世界に貢献したいという上向きな感情によって必要なことだと判断されていた。


 

 

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