1-2 アイスブレイク
慧理は夢を見ない。眠りが深いせいか、朝起きたときはただ「起きた」という現象がそこにあるだけだった。夢というのは都市伝説なんじゃないかとさえ思った。起きているときだって慢性的な靄がかかったようにつまらない世界にいるのに、寝ても夢には逃れられない。現実に縛り付けられて、死ぬまで心臓が動かされている。
どうなるだろう……もし、私が死んだら。Auto-syncは常に心拍数をモニタライズしており(削除できないアプリケーションなのだ)心臓が止まった瞬間に所有者を死亡したとみなす。情報は即座に彼女の家族として登録された所有者のAuto-syncに送信され、目の前に仮想ディスプレイ――本物の仮想ディスプレイ、所有者にしか視認できない――が開き死を知らせる。また市の病院と警察の死亡者リストに自動的に登録され、公共施設に必ず設置されている大型マップに死亡した場所が赤い点滅と小さな波紋で表示される。死にました、死にましたと。やがて死体は30年前から実用が開始された白くつるりとした万年筆のような小型格納器に格納され、自前の羽根でさっそうと病院へ直行する。ヘリコプターと全く同じ仕組みだが、騒音はいくらか改良されている。遺体安置所には文房具のショーケースのように白い鞘が並んでいる。遺族が到着ししだい、数人の看護婦たちが静かに足音をたてながら該当の格納器を探して搬出する。お買上げ、というわけである。
そしてその場にふさわしい哀悼の意と、悲しみの表情と、親族による涙が「死」という一大イベントを締めくくるのだった。理想的で効率的な死とその処理が実現していた。また死亡者の情報は死因別にカテコライズされ、いつでもデータベースから閲覧できる。Apple社が認める国であれば死亡者の生年月日等含む個人情報は完全に所有権を失い、共通の財産となる。よって誰でも死亡者の好んだ食べ物、恋人、人生や性的嗜好を知ることが可能である。
色白の男は青樹と名乗り、170センチの男は真宮と名乗った。真宮は哲学科、青樹は慧理と同じ情報科学科に在籍していた。
「どうせ哲学科なんて蔑まれるのがオチなんだよな。後数年でこの学科は無くなるだろうし……」
「そうとは限らないよ。社会に適合できない人間を隔離するのに役立つ」
「そうやって多数派の視点から思考停止するのはよくないと思うけどね……」
真宮と青樹は奇妙な双対性を持っているようだった。焼けているか否か、外向性と内向性、楽観と悲観(青樹のほうが楽観的なようだ。真宮が哲学科にいるのは妙にはまっていて、常に存在を疑いながら生活しているのだろうかと慧理は考えた)、適当に茶髪をオールバックにしているだけなのと、神経質に黒髪をショートカットに整えているのと。共通しているのは、ある種の反骨精神だった。
「崖内慧理、20才、情報科学科、埼玉県越谷市在住、越谷市立第三小学校卒業、越谷市立南中学校卒業、埼玉県立早稲田高等学校卒業。大学は現役で合格したのか」
「待って下さい。青樹……先輩、Auto-syncを着けてないようですけど」
「青木先輩はサードパーティ製のニセ物を着けてるよ。埋め込むのではなく貼るタイプ。あいつもそう」
「金が無いだけなんですけどね」
よく見ると青樹の手首のどす青い整脈に艶消しの四角い透明なシールが張り付いていた。人差し指を押し付けると純正Auto-syncと同じように仮想ディスプレイが現れ、青樹が可視化するとAuto-syncと全く同じUIの20cm×20cmのパネルが表示された。
「青樹亥庵、22才、情報科学科、東京都三鷹市在住、カリフォルニア州コビーナ小学校から神奈川県横浜市立中央小学校、横浜市立北中学校、神奈川県立工学技術高等学校卒業」
「悲しみの帰国子女、イアンくんよ」
「うるせえ。英語ができない帰国子女だっているんだよ」
青樹は慧理に親しげに笑いかけた。「もうできるよ」
「真宮錠丹、23才、哲学科、東京都立川市在住、大阪府西成区長橋小学校、西成区新今宮中学校、東京都立立川高校卒業」
「あと敬語はいいよ。変な感じするから」
「え、じゃあ私……」
「テロ活動したいんだろ?一応サークルって体だし……」
「3日でやめるさ」青樹が言った。「だってつまんないし女の子には」
「またそうやって差別的発言をする。いつこのサーバーが解析されてもおかしくないんだぞ。そうなったら過去の発言データを洗いざらいひっくり返して……」
「偉い人たちがやってきてしょっぴかれるんでしょ?かまうもんか」
「かまわないっつの。それに崖内さんは他の奴らとは違う」
「ずいぶん優しいな」青樹が驚いたように言う。
「だって俺たちを見つけるの結構大変だったでしょ?」
突然話を振られ、少したじろぐ。
「えーと、別にそんな大変じゃなかったです。私の端末は特に公的機関のものでもないですし、普通にサイトに入れました。それに管理者のアクセス履歴にここの大学のWebページがあったので」
「は!」
青樹が慌てて自身のMacbookを立ち上げ、Chromeの履歴を確認する。そしてどうしようもないというふうにため息をついた。
「なるほど、これは俺のミスだ」
「それに、PornHubにも……」
「わああ!」
「あれほど自分で匿名クライアントを使えって言ってたのにな」
「違う、PornHubにはこの前生前の人間の過度な情報漏洩を指摘した米FBI局員の告発動画を見ようとアクセスしただけだ。お前みたいに毎晩変な動画を見て無駄な時間を過ごすようなことはしないの僕は」
「知ってるさ、BDSMで手っ取り早く抜くんだろ。特にファッキングマシーンもの……」
「ほんとに黙れよ!あのさ、そもそも、なんであんたPornHubなんか知ってんの?というか、パスワードいちから試したの?」
「はい、だって試してればいつか到達するでしょ。どのパスだったかはわかりませんけど3時間ほどで開きましたよ」
「あああ、もう……一応怪しまれないように一般市民らしくサイトはChromeで作成してたんだよ。わかったから、これ以上僕の性癖を開示するのやめてくれる?この間死んだ教授の個人識別情報を閲覧してたら膨大なアクセス履歴が出てきて参ったね。死んでも死にきれないわな、あれは」
真宮はなぜか勝ち誇ったようににやにや笑いながらブラックコーヒーをすすった。
「崖内さんもどう?ミルクと砂糖あるよ」
「じゃあ、頂きます……」
「敬語はいいってば。ねえ?」
青樹はまだ興奮おさまらずMacbookの有機ディスプレイを見続けている。Chromeは閉じ、LinuxからWebページを閲覧していた。何かキーを打っているが、画面にはTwitterが表示されていた。
「まあ……君はそこそこ能力もあるみたいだから……やりたきゃ、やれば?テロにはいくらでも働き手が要るんだ。食うには困らない……」
慧理はマグカップにコーヒーとミルクを注いで一口飲んだ。酸味がなく、慧理はこの二人に好感を抱いた。
「今度都内で自爆テロが行われる。俺達はその場に『共同体』を唱える国の要人を集め、物理的に殺そうと目論んでいる。他にも傘下の別のテロ集団が支援に入るそうだ。来る?」
青樹は「殺す」と明言した。これは正義ではなく、殺人。ニュースは騒ぎ立て、より一層共同体は結びつきを強くする――それと同時に、この結びつきが強すぎると感じる者も出てくるのだ。
「うん――やってみたいな」
慧理は部室を見回した。今時紙の本が山積みにされてあらゆるスペースに積まれている。そっけない大学から支給された長机は重さでやや歪み、その下にまた本が山を作っている。壁にかかった聖母子像や最後の審判が描かれた道徳的な絵画には不釣り合いな会話をしていた。
「PornHubは私もたまに利用しますよ」
真宮と青樹は一瞬呼吸が止まった。
慧理が帰った後、二人は部室で向き合って座っていた。窓の外は夜の帳が下り、甲高い虫の鳴き声が途切れること無く続いていた。
「そろそろバイト行くわ……部室の鍵閉めといて」
「いや、僕も出る」
真宮が登山用の小型バックパックに分厚い書籍(ラテン語の書籍はデジタル化される気配はなさそうだ)を詰め込むのを、青樹はぼーっと見ていた。
「なんだよ」
「気づいた?」
青樹もMacbookともう一つの薄いノートパソコンを似たようなバックパックに収納する。「崖内のAuto-sync……変だ」
「何がだよ。そんなとこ見てなかったよ俺は」
「あいつのAuto-syncにこの部屋のWifiを介して侵入しようとした。すると所有者の全情報が表示された」
「そんなことやってたのか……で?」
「普通Auto-syncは外部からの侵入を察知すると腕全体が赤くなり視覚的に危険をわかりやすく表示する。本人と周りに侵入者がいることを知らせるためだ。だけど何一つ反応は起こらなかった。それに、侵入者に情報を開示するわけがないんだよ」
「え……」
青樹は外で鳴いている虫の名前を知らなかった。ひっきりなしに木々を揺らし、草を登り、蠢きまわる虫は彼に自分の父親を思い出させた。社会に取り込まれた父。惨めな父。今はどこにいるかわからない父。そして自分の顔に現れる断片となった父…… LED照明が適切な照度を部屋に維持しているため、真宮の顔の細部まで青樹の永年コンタクト越しに観察できた。とぼけたような、人の良さそうな顔とでも言うのだろうか。悪い人間には見えない。彼の目は詰まったように見える。おびただしい量の文章が彼の目を通り過ぎ、繰り返しているうちに彼の目を埋めていった。それは曇らせたのではなく、彼の目を構成している部品のように、知識が透けて見えるのだった。精巧な作り物。だからこそ、世界を善だと信じたい瞳。
青樹は続けた。
「奴のプロフィールはおそらく全部嘘だ。もしかしたら虚飾と事実が混じり合っているかもしれないが、とにかく彼女のプロフィールは『開示する用』のものであることは間違いない。しかしあれは本物のAuto-syncであることも事実だ。腕の下に埋め込まれた端末には極小シリアルナンバーがちゃんと入っていた。あれはAppleの所有する工場でしかできない代物だから。考えられる可能性としては、多分……」
「多分?」
「あいつのAuto-syncが何らかの汚染を受けているか、またはまだ公表されていない試作段階の新型Auto-syncか、ということだ。発表以前に誰かを実験台として使うことはよくある。少なくとも、まだあいつは信用できない」
「ふーん……よくわかんないけど、とりあえずお前に任せるよ」
「少しは技術面も勉強しろ。騙されても知らないからな」
部室内の電気が消された。即座に人間の目では視認できない波長が部屋の壁を水のように這い、物理的にもセキュリティが確保される。青樹は人差し指をドアノブ型の指紋認証錠に押し付けた。
「嘘ねえ……」
真宮は大学の向こうの重なり合ってその場で静止する街路樹の向こうに、市バスが到着するのを発見した。
「やべえ。バス来た。急げ!」
「いいじゃん次でも……」
倍のスピードで走り去っていく真宮に青樹はよたよたと背負った鞄を揺らしながら着いていった。異変が起きた、と思った。青樹は疑いつつもわくわくしている自分を軽蔑しつつも、受け入れるしかなかった。
慧理はマンションに帰ってきて真っ先にエアコンをつけた。暑かった。冷蔵庫にサイダーを見つけて一気に飲み干した。今日は、あの先生いなかったな。慧理はあの先生の顔を思い浮かべ、少し赤面した。
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