短波長の夏は殺戮の季節
@reizouko
1-1 孤独と出会い
夏は幸福の季節である。人間が太陽の恩恵に預かれることは、幸福だ。
白日のもとには全てが等しく手を繋ぐ。額からじわりと汗を垂らす甘美な経験。その嬉しさに思わず天を仰ぎ、眩しさに目を細めてしまう。
誰かの指が私の瞼を力強く押し上げる。ここでは目を閉じてはいけない決まりになっているのだ。
私は指をどかし、瞼だけの力で目をひらいた。瞳孔の中心を太陽に据える。この短い波は私の視神経をゆっくり侵し、真っ白な世界へと連れてゆく。もう二度と戻れない場所へ。何も見えない、何も感じない、ただ幸せだけが在る場所。
誰かがそれを、天国と名付けた。
部屋はひんやりと薄暗い。薄いカーテンの向こうにシャッターが窓の半分までおりて、効果的に空撮カメラと日差しを遮っていた。空撮カメラが描く太陽系を熟知し、シャッターは規則正しく上がったり下がったりする。近代的な匂いを感じる。慧理がマンションに帰宅してから20分、設定温度24度強風を忠実に守り続けたエアコンにより、部屋は適切な温度に到達した。風が慧理の汗ばんだ首を優しく撫でるたび、腐った水のような匂いがした。大学から家までは、遠い。慧理の日常を構成するマップは空調の効き加減で構成されており、冷房が寒いほど効いている場所は大きな点が浮かび(大学・スーパー・家)、鈍感な人間が空調の権限を握っている場所は小さく(図書館・公民館)その間をつなぐ線である交通機関にももれなく空調のランク付けがされていた。(埼玉の電車は役立たず、新型東京メトロは十分な冷房)
そして合法的に飲んだ酒――生まれて始めての。ミントの冷たさが喉から鼻に抜ける。慧理はすでに慣れ親しんでいたが、改めて社会的に認められたアルコールを舌で転がした。慧理は処女のまま二十歳を迎えた。心地よい暗さの、冷房で冷えたフローリングの上で誰にも侵入を図られたことのない下着の下に右手を入れてまさぐってみた。何も感じなかった。急に手持ちぶさたに感じ、慧理は左手で20☓☓年型Macbookを開いた。右手をTシャツで拭った。
「市内で発砲 重軽傷合わせて25人が被害」
近かった。とはいえ心配することはなく、慧理はマンションの6階でゆっくりニュースを読んでいるぶんにはエンターテイメントとして楽しむことができた。彼女はテロだとか戦争だとか漫画じみたことは年相応に好む。例えば「ISIS」かつてメディアを賑わせた集団を彼女は行く末をわくわくして見守っていたものだった。20☓☓年現在彼らは表面上消滅したことになっていたが、彼らを模倣したテロ集団が世界中に潜伏していた。東京も例外ではなく、数々の思想を掲げ爆発物を配置したり銃をぶっ放していたりしたのだった。世界は少し幸福になり、少し監視が厳しくなり、人類が統一されようとしていた矢先……ささやかな抵抗が各地で起こっていた。そして今日、彼女の大学の学生用サーバーがハッキングされ、こんなメールが学生生活課から一斉送信された。
「抵抗せよ。
我々は共同体ではない。
人類は一つの生き物ではない。
共有するな。
統一されるな。
我々は自由意思の元に生きる権利を要求する。
今すぐ手首のAuto-syncを取り外して欲しい。」
無理な話だった。Auto-syncは公共交通機関へ入場するただひとつの権利となっていたし、銀行へのアクセス、大学の敷地をまたぐ際にもこれが必要だった。Apple社がGoogle社と共同開発したいわば統一デバイスであり、故ジョブズの意思を継ぐ「これ一つで全てが完結する」機器であった。いわば”スマートフォン”の後継機種であり、量子技術を採用した極小マイクロチップを手首に埋め込むことにより生活する上であらゆる手続きが行えるデバイスである。日本ではアメリカから2年ほど遅れて導入された。20☓☓年現在すでにAuto-syncは都内を中心に日本全国でおおよそ72%の成人が所有していると文部省が中期報告書に記載している。手首に小さなチップを埋め込み(天然痘の『植え付け』技術にも似ている)仮想ディスプレイを手首の周りに構築する。それ一つで文字通り生活に関わるあらゆる手続きが完結するのであった。
20XX年7月7日、先進国における度重なる戦争を受けて世界国際平和共同推進委員会WPOは世界を一つに統一することを宣言した。手始めにAuto-syncの着用を全世界に奨励したWPOはAuto-syncに全世界の人々の感情を統一する機能”感情シンク”を搭載することを要請、受諾された。これは人々の思想の相違を無くすことが世界平和の第一歩との考えに基づくものである。人種・宗教の違いを超え、人類が一つの「惑星規模の」生命体になることによって、真の幸せを追求するという思想である。彼らは「共同体」派と呼ばれている。
順調に全世界統一は進行していったものの、やがて一部の反対者が声を上げるようになる。彼らは統一される社会に対して過激なテロ活動に走るようになり、「反共同体」派と呼ばれることになる。慧理はそのいざこざを退屈な日常の一つの逃避先として見出していた。一つの映画のように。
メールを送ったのは学生だろうか。慧理の通う「中央蘭塾大学」のセキュリティは徹底されているため、ハックするのはかなり難しかっただろう。だけどやった――できの悪い声明文を全生徒に送りつけたのだ。何か彼らの信じる思想のもとに。暇を持て余し、生きがいを見つけようと渇望する生徒はテロに光を見出した。楽しそうだな、と慧理は思った。
慧理には全く、何も関係がなかった。全てが関係なかった。夏も、日差しも、気温も、テロも、大学も、友達も、家族も、誕生日も、二十歳も。
慧理は自分のことはつまらない大学生だと思っていた。情報科学を専攻し、ほどほどに情報共有用の友達を持ち、成績はまあまあ良い。これだけ。彼女が昔から忌み嫌っていたのは自己紹介とか自己アピールとかいう類のもので、面接の練習に自己分析をやらされたときは発狂しそうになったほどだった。まず、自分の悪いところを書き出させる。引っ込み思案消極的等々。じゃあ次に悪いところを良いように置き換えてみて。引っ込み思案だったら、他人の気持ちを思いやれる、というように。ほらね、自分が思っている短所は、長所にもなりうるのよ。そうとは思えなかった。慧理の手は硬直し、必死に良いように置き換えようとしても、それは真実を語っているとは思えなかった。消極的だったらそれは消極的という意味しか持たないのである。面接には落ちた。
どの人間も慧理の人生には交わらなかったし、立ち入りさえしなかった。慧理がそれを自然な状況なのだと理解した時、彼女を苦しめていた客観的視点が消えてなくなった。何も関係がない。私とは、何も関係がない人間だと定義できる。
……誰がやったのかな?慧理が都内のテロ集団を匿名ウェブブラウザTorで検索をかけると該当する集団の名前がずらずらと出て来る。ご丁寧にリスト化したものがあったので、片っ端から検索をかけた。
やがてひとつの名前に行き当たった。「フランドル・ルネサンス美術愛好の会」絵画サークルを装っている集団のようだった。リンクをクリックするとカーソルが円を描き始め、2分ほどしたところでサイトに入れた。
「ご来場ありがとうございます。私たちはルネサンス期のフランドルで描かれた美術作品をこよなく愛するサークルです。社会人の方からリタイアメントされた方まで、幅広い年代の愛好者たちが集っております。ルネサンス美術に少しでも興味関心のあるあなた、ぜひ一緒に語らい合いませんか。このサークルでは週に一度集まったり、また展覧会後の活発な意見交換をしております。都内では最も大きなサークルで歴史も古く――」
一見したところでは大学とは一切関係のないグループのようだ。書き込んでいる媒体はPCで都内としかわからない。そもそも今日のメールを一斉送信した人間がグループに所属しているとも限らないのだ。しかし「フランドル・ルネサンス美術愛好の会」の管理人xvideaoaki09の使ったブラウザに大学Webサイトへのアクセス履歴があることから、この人物は大学関係者と考えることもできるだろうと慧理は結論した。そもそも学校のシステムをハッキングできるような人物なのだから、そう簡単に手がかりを残すはずがない。慧理が結論した理由はもう一つあり、大学内にフランドル美術愛好のサークルが存在するという事実だった。
翌日、怠惰なチャイムとともに3時限目が終わった後、慧理は昨日調べたサークルの部室へと向かっていた。現代心理学は40代女性の上ずった声につられて大半の生徒が寝ているから、慧理は落ち着いて聴講できた。
午後2時半の日差しは最も高く、地面と垂直に交わる地点から暴力的な熱気を落とし続けていた。都内国立のはずれに位置する中央蘭塾大学はまあまあの広さのキャンパスを所有しており、14棟の建造物と1つのグラウンド、5つの池から成っている。郊外の静かな蜃気楼と、時折聞こえるグラウンドからの掛け声がこの大学の夏の記号を構成していた。うつむいて部室へと急ぐ慧理のうなじは容赦なく拷問に課せられ、アスファルトと同様に焼けていった。動くものはコントラストの中で影を絶えず揺らし、みんなが急いでいるのに、時間はゆっくり流れて人々をいたぶっていた。
授業を受けていた1号館から部室のある8号館までを歩ききると、壁の張り紙にフランドル美術同好会を見つけた。幸いにも木曜日はサークルがある日らしく、2階の磨りガラスの中には蛍光灯が灯っていた。
慧理自身は、サークル活動にあまり縁がなかった。入学当初テニスサークルに2,3度顔を出したが、他の女子生徒の排斥的な目線、男子生徒のがさつそうな手振りとは裏腹に狡猾な思惑に嫌気が差し、結局どのサークルにも所属せず1年が過ぎたのだった。僅かな知能を低俗な会話をつなぐことに必死な若き未来には何も感じるところはなく、つまり彼女はどこに行っても反発し合う人間だったのだ。
本当に嫌な夏。汗がまぶたを塞ぐ……シフォン地のブラウスが背中にべったりと張り付いて、風すら感じない。相変わらず蝉が自己主張も激しく鳴いている。テープ跡だらけのアルミ製ドアを叩くと、隣のドアにまで振動が響いた。部室の向こうからどたどたと乱暴な音がして、冷風とともに170センチほどの男が現れた。
「あの……すみません」
「見学?」
「多分、そんなものです」
いくらか怪訝な顔をしながらも、男は手招きした。
「入って」
慧理が部室に入ると、中にいたもう一人の人物が顔を上げた。やはり男性で、やや小柄で色が驚くほど白かった。部室内には美術に関する書物と、レプリカの絵画。ヒエロニムス・ボス、ジョット、ボッティチェリ等。確かにルネサンスのフランドル美術ではあった。それとMacbook、メーカーがよくわからないノートパソコン2台。入っているのは……Linux。色白の男が不思議そうに170センチの男を見たが、とりあえず慧理に軽く頭を下げた。
「好きなの?美術」
「まあ、それなりに」
静寂。
「昨日のアレって、あなたがたがやったんですか?」
最初から特に歓迎された雰囲気ではなかったものの、決定的に慧理は大学内の部室という緩慢な空間に亀裂をもたらしたことを感じた。裏で二人の男の目線が交わされた。
「突然だな。アレって……何?」
170センチの男が半ば笑うようにして言った。色白の男は読んでいた本に目を落としたが、明らかに目は文を追っていなかった。
「大学の生徒なら、誰でも知ってると思いますけど……昨日のメール、あれ、あなたたちがやったんですよね?」
静寂、静寂。170センチの男は黙ってコーヒーメーカーに向かい、水をぴったりメモリ5まで注いだ。予め引いてある豆を袋の中の軽量スプーンで5杯投入し、コンセントを入れた。水が沸き立つ音が大きくなり湯気が吹き出した。慧理が色白の男を一瞥すると、彼は慧理に微笑みかけた。170センチの男はさっきより堂々と笑い声をあげた。「こういう人もいるんだな、この大学内に」
初めて色白の男が口を開く。
「それだけで君、確かめるためにここに来たの?Auto-syncに何か思うところがあったとか?」
彼は急に椅子から立った。170センチの男と比べると頭一つ分の落差があった。「それともテロ集団に入って世界を変えたいとか目論んでる?」意外と饒舌だった。色白の男はコーヒーメーカーを見たが、ライトが点灯したままだったため、また慧理に向き直った。慧理は顔が赤くなるのを感じた。確かに行動を起こすのが早すぎたかな、と思った。衝動がすぎた、もっと落ち着いて考えればよかった……まるで私がテロ集団に入りたいなんて思われちゃうよ。いや、実際そういう気持ちがあったのだ。初めて自分の身の回りで異変が起こった感覚――異変に惹きつけられていた。
「もしかして技術面に興味があったのかな」
「あの、意図を知りたいんです。なんであんなことしたんですか」
「だめ?学校のセキュリティを試しちゃ……」
「いや……そういうことじゃなくて……」
170センチの男が肘で色白の男を小突いて黙らせた。
「ただの就職活動さ」
慧理があっけにとられて初めて170センチの男と目線をあわせると、コーヒーメーカーがカチッとライトを落とした。
「テロはビジネスだし、彼らの正義に則って行動して、お金をもらってるんだよ。俺らも同じ――反『共同体』主義の企業なんていくらでも存在する。現在の日本、いや世界は『共同体』思想が本流だが、違う考えを持つ流れもあるってこと。グローバリゼーションは全ての人に等しく均一化を要求した。価値観や思想など精神面の均一化を始め、通貨や教育機関も統一され自由に行き来可能、多少の反発はあれども世界は一つになろうとしているんだな。美的感覚も例外じゃないから今じゃDNAハックなんてのも流行ってるだろ?セレブの子供を見りゃわかる。皆同じような顔してるだろ。まあ、金持ちだけの話じゃない。40年前から遺伝子に細工する人々の割合は増加の一途を辿り、20☓☓年現在年収400万以上の中流階級と呼ばれる階層の約70%強がDNAに何らかのデザインを施している。そして人間は完成する。優しく、思いやりに満ち溢れた、争いのない世界に。だけどまあ、そう簡単にはいかない。俺らのような人間が存在しているせいで」
色白の男はやっとお目当てのコーヒーを大きなマグカップにメモリ2杯分注ぎ、ミルクを3;1の割合で加えた。「そして社会からは悪とみなされることをやりたがる天邪鬼な人間もいる」「だから、俺らはそういった反共同体主義の企業に就職してお金を貰おうとしているわけ。彼らはベンチャー企業とかいう体裁を保っているからわざわざ会社に行く必要はなく、日本にいたまま学生やってても働けるんだよね」170センチの男は慧理になかば諭すような口調で語った。慧理にも多少の知識はあった。
「それで、私、サークルに入りたいんですけど」
「え、話、聞いてた?」
「はい。私もそういうの興味あったので。それに、サークル活動とかしてみたかったし」
「ほんとに、わかってんのかなこの子?」170センチは色白に言った。
色白は今度はにこりともせず慧理に言った。
「よく、理解してるよね?Auto-syncの感情シンク機能をコントロールし、任意の人間を自殺に追い込み、企業間で戦争を仕向けるお仕事を」
慧理はマグダラのマリアさながら微笑んだ。
「はい。大企業の兵士を殺しまくり、利潤を得るエキサイティングなお仕事ですよね、それって」
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