生きることを求めて

 それはお互いに贖罪しょくざいであり、赦しでもあったのだと思う。お互いに犯し続けた罪だとか、他人になすり付け続けた過ちだとか、そういったものを赦していく。告白し、許容していく。そうすることでお互いの傷だとか痛みだとか、欠損だとかを愛撫し、慰めていく。そういう作業だったのだと思う。

 僕らはコンビニを出てから、再び傘を差して寄り添い、新宿の街を歩いた。

 夜明けまでの雨宿りの場に選んだのは、以前も利用していたあのラブホテルだった。いつも先輩との情事に使っていた淫靡な宿。だけど今日は、その行為の最期にまでは至らなかった。至らずとも、満たされたからだ。

 部屋に案内されたら、二人で熱いシャワーを浴びた。冷え切った体を溶かし合うように、お互いの肌を愛撫し、摩擦し、暖めあった。でもそれは抱擁であって、抱くことではなかったのだ。抱きしめて、愛を囁きあうことでもなかった。それは、お互いにお互いがそこにいることを確かめるための行為だったのだ。互いの傷の位置を悟りあって、それに触れないようにしたり、優しく撫でたり。そういうものだった。

 だから僕らは互いに手を伸ばしあい、確かめあったのだ。

 ここにいるよ。ぼくは、わたしは、ここにいるよ――

 そうしてそれが終わったら、僕らは暖房の効いた部屋にバスローブのまま転がり込んだ。髪も肌も濡れたまま、ベッドの上に寝転がったのだ。そして、求めるように互いの唇をむさぼりあった。先輩の口はメンソールとラム酒の味がした。きっと僕もそうだ。

 僕らはただ口吻のみを続けた。それ以上は何もしなかったし、必要なかったから。タバコを吸うみたいに、お互いの口の中に残されたニコチンの残りカスを探すみたいに、舌を絡め合った。歯茎を舐め、頬の裏をこすり、舌の裏をくすぐりあった。あふれ出る唾液は潤滑油。僕らはただそれを続けた。そして、それが心の充足につながるような気がしていた。先輩の口からハイライト・メンソールの匂いがすると、僕は安心してたまらなかった。

 やがて咥内からタバコの味が消え去ったときが、一時停止の合図だった。僕も先輩もそのタイミングがわかっていた。言葉をかわさずとも、口が物語っていた。

 唾液の糸を伸ばして、お互いの口を離した。そのときにはもう髪は乾いていたけれど、体は汗に濡れていた。先輩のまぶたには、しずくがあった。

「ねえ、もう一本吸う?」と先輩。

 僕は小さく首を縦に振った。


 それから何本吸ったのかはわからない。きっと二十本ずつだ。ベッドサイドのゴミ箱には、くしゃくしゃに潰されたハイライト・メンソールが二箱あったから、きっとそうだ。

 僕らはタバコ一本を吸っては、また求めるように唇を重ね合った。そしてお互いに舌を絡ませ合い、やがてヤニの味が消えたら、またタバコ吸い、唇を重ねた。互いに摂取したニコチンだとかタールだとか、苦痛だとか快楽だとか、そういったものすべてを共有するように。

 時間がどれくらい過ぎたかはわからなかった。締め切ったカーテンからは、夜が明けたかどうかも判然としなかったし、時計を見る気も起きなかった。それに何より起きあがるのも億劫だった。それはきっと、僕が『この時間がずっと続けばいいのに』と思っていたからだと思う。先輩のぬくもりが永遠であればいいと思ったのだ。だから時計も見たくなかったし、外の風景なんてどうでもよかった。この二人の間ですべてが完結していればいいのにと、そう思っていた。

 やがて僕らは、ただお互いを赦すように唇を静かに重ねた。そして抱き合ったまま目を閉じた。お互いの体温が感じられるぐらい近い距離で。お互いの吐息がわかるぐらい近い距離で。

 そうして薄暗闇のなかで、僕らはそのまま眠りにつこうとした。

 だけどしばらくして、先輩の唇は小さく動き始めた。僕は吐息の変化でそれがわかった。

 その動きは石のように静かで、ひっそりとした言葉をもたらした。

「ねえ……宮澤くん……。翔子ちゃんがどうして私の本を読めたか、わかる……?」

「……わからないです」

 僕も静かに応じた。

 すると先輩はクスリと笑い、吐息が僕の耳を愛撫した。

「鈍感ね。だからあの子、私を今日ここに呼んだのよ。彼女に頼まれたのよ、宮澤くんと会って。きっと彼女も気づいてなかったのね。だから私を頼った。だってあなたたち、どっちも純粋で、鈍感だから」

「どういうことですか。翔子が先輩の本を読めたのは、きっと先輩が――」

「バカね」

 そのとき、僕の唇に何かが触れた。

 目を開けてみると、そこには久高先輩の唇があった。

「彼女が君のことを好いていたからよ。愛していたからよ。だから、あの本は生きていられた。あなたのために、私の本は翔子ちゃんにとっての生を持ったのよ」

「……だったら、僕が筆を再び執れたのは、先輩のおかげです」

「ちがうわ。それは、もう消えてしまった久高美咲のおかげよ。私じゃないわ。……だから、今はあの子を大事にしなさい。もう私のことなんて気にしちゃダメよ。久高美咲なんて女、はやく燃やしなさい。もう、食べてしまいなさい」

 唇の隙間から舌が入り込む。

 僕はそれを受け入れるようにしてむさぼった。だけど、もうそれで終わりなんだとわかった。


     *


 翌朝、目を覚ました僕を待っていたのは、ベッドに残された温もりと残り香、そして一枚の置き手紙だけだった。置き手紙には、こう記してあった。


     †

 

 まず初めに、いままでごめんなさい。そして、勝手に消えたことを謝罪します。


 でも、私はもう君が求める久高美咲じゃないから。それは私が一番よくわかってるから。だから、仕方ないことだと思ってちょうだい。君は、もう私を追っちゃいけない。君はもうそういう段階じゃないと思うんだ。

 だからもし――君はそんな人間じゃないって、私はよく知ってるけど――私にまた肉体関係を求めてきたとしたら、今度はぜったいに断るから。


 私が、もうあなたの求めた久高美咲ではなくなってしまったこと。

 それがあなたを深く苦しめたことはもちろん知ってるし、それが私を自暴自棄に陥れたのもわかってる。そしていくら謝罪しても、罪をあがなったとしても、本当の意味で君に赦してもらえないのはわかってる。私や世界が君を赦さないのと同じように。でも、謝らせてほしいの。


 君は私に、「セックスに哲学を説く資格がない」と言ったよね。あの日、私は結構ショックだった。でも、それでも私は最近になって、生の本質は愛かもしれないって、ようやくわかってきた気がする。でも、それは一般化できるような普遍的なものじゃない。エロスでも、フィーリアでも、アガペーでもない。とてもいびつなカタチをしていて、それでいて常にその容貌を変えつづけてる、そんなモノなの。それはときに刃物のように鋭く変化したり、ときに大福のように柔らかく人を受け止めたりもする。そういう変形し続けるものだと思うの。だから君にしかり、翔子ちゃんにしかり、私にしかり。わたしたちは、そういう歪んだ愛だとか痛みだとか吐き気だとかを持って、生を保っていくしかないんだと思う。


 いま私に言語化できる思いは、こればかりよ。見返すと、ひどい文章。あまりにも抽象的すぎる。字も汚いし、サイアク。でも、それも認めていかなくちゃ。それが愛であり、生であり、死である。最近はそんな気がします。



 追伸:もしあの子が死んじゃって、万が一にもしぶとく私が生きているようなことがあったら、また会いましょう。



 追々伸:あの小説じゃ、作家にはなれないわ。だって、私のことを書いているんだもの。


     †

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