再びハイライトを燃やして
僕らは居酒屋にもバーにも入らなかったし、ましてやホテルに向かうこともなかった。たしかに先輩は傘のなかで肌を擦り寄せてきたけれど、しかしそれには不思議と性的なものは感じられなかった。ただそれは、強まり続ける雨粒から身を守るための行動だった。いわば、条件反射的な、本能的な防衛反応だったわけだ。
それから僕らは、こんな時間に東口の喫茶店に入った。周りの大学生や若い社会人は安居酒屋に飲まれていくというのに、僕らは敢えてコーヒーとタバコを求めたのだ。
純喫茶風の店だった。艶のある合皮張りのソファーに、古ぼけた白のテーブル。有線放送のクラシック。そして化粧っ気のないウェイトレス。僕らはブレンドコーヒーだけ注文し、灰皿を要求した。ウェイトレスは愛想のない返事をして水だけ置いていった。
先輩は僕に対面するように座ったけれど、僕はなかなか目を合わせられなかった。しばらくのあいだ僕は水を飲み、そしてその残りを確かめるようにグラスを眺め続けた。
「偶然じゃないのよ。すべて必然だったのよ、みんな」
突然、先輩はそう言った。そしてウェイターの女性が二人分のコーヒーを持ってきた。
「なにが必然だって言うんですか」
「すべてよ。私達を取り巻くことすべて、あらゆること、この世界にあまねく存在するものすべて……。例えば、いま私がここにいて、宮澤くんと会って、話していることとか」
備え付けられたミルクと砂糖。先輩はそれをどかして、ブラックコーヒーを口にした。まだ熱かったけれど、彼女はそれを気にしない様子だった。
先輩は一口だけ飲むと、頬杖を突き、灰皿に目を落とした。それから僕の顔を見た。「吸わないの?」と目で問うているようだった。僕は首を横に振った。
「あらそう。……ねえ、あの子、いい子だね。志乃原翔子ちゃん、とってもいい子じゃない」
背筋に寒気がした。ぞわり、と虫が背を這うような気がした。
「どうして先輩が翔子のことを……」
「言ったじゃない、ぜんぶ必然だって。君が私とカンケイを持ったことも、翔子ちゃんと関係をもったことも。それを期に私を燃したことも。そして君が筆を再び執り始めたことも、すべて……。
なに、別に探偵を雇って調べさせたとか、そういうわけじゃないのよ。むしろ使ったのは、あの子のほうかもしれないわね。つい一月前のことよ。とつぜん私の家に手紙が届いたの。ファンレターだったわ。作家でもないのに、私ファンレターもらったのよ。あなたの小説が好きですって、ぜひ一度お会いしたいですってね。それが私と翔子ちゃんとの出会いだった。それからしばらく手紙でやりとりしたわ。彼女、いろいろ教えてくれのよ、いまの君のこととか。とつぜん私についての小説を書き始めたとかなんとか」
僕は言葉が出なかった。
翔子が先輩と会っていただって? 翔子はそんなこと僕に言わなかった。何も聞いていない。
「……会ったんですか。翔子と」
「いや、文通だけよ。なんだか気恥ずかしくてね。私はもうあのときの久高美咲じゃないから。……でも、文章のなかでならなれる気がしたのね。だから、ずっと筆談だったわ。でも、それでも彼女のことはよくわかった。とってもいい子よ、あの子。私なんかとは違う。純粋で、言葉もきれいで、汚れなくて、私なんかが直に触れたら壊れてしまいそうなの。文通にとどめたのはそういうことからかもしれないわね」
コーヒーを口へ。豆の匂い。僕も鏡のように対になって飲んだ。
「ねえ、私の小説、あの子に読ませたのは君でしょ、宮澤くん? だからあのとき、君は私の小説がどうこうとか言い出したんでしょ。……そして君は、私の本を食べた」
「……ええ、食べましたよ。それも翔子から聞いたんですか?」
どこからか吐き気が込み上げた。首を内側からしめつけられるような感覚。喉仏が風船のように膨らんで、喉を圧迫するようだ。しかし、喉仏は吐き出すことはできない。この吐き気には抗えないのだ。。
僕は口直しのようにコーヒーを飲んだ。でも、コーヒーの酸味よりも、吐き気の苦痛のほうが圧倒的に強かった。
「そうよ。彼女、ぜんぶ教えてくれたわ。だからお返しに私と宮澤くんのことも色々教えてあげた。……ねえ、どうだった? 燃やしてみて、気分良かった?」
「いいわけないじゃないですか。好きなものを、燃やすしたんですから」
「そうね。だから葬儀なのよ。愛する人を灰にするのが、楽しくてたまらない人なんて存在しない。たしかにそれは輪廻するものだけど。灰は大地を癒し、新たな生命を呼び覚ますけれど。でも、それは私たちの目に見えるものじゃないから。すぐにわかるものじゃないものから。生命は輪廻すると信じ、祈ることしか私達にはできない。言い訳を見つけて、それを信じるよりほかにないのね。だから、それはつらくて当然なのよ。だって灰に価値があるように見えないもの」
先輩はそう言ったけれど、灰皿に灰はなかった。口惜しむように吸うタバコもない。僕も吸う気は起きなかった。
「そういえば読んだわ、宮澤くんの小説。翔子ちゃんがコピーをくれたの。つい先日ね、郵送されてきたの」
「翔子が……?」
先輩はうなずいた。
翔子がコピーを二部欲しいといったのは、そういうことだったのだ。
「……最後まで読んだんですか」
「ええ、もちろん。おもしろかったわ」
「感想は、それだけですか?」
「それだけよ、言語化できる感想はね。だって、私はもう書くことをやめたから。いや、正確には書きたいのだけど、やめなければならないと理由をつけて生きているから。筆を置くことが正しいと思おうとしているから。……だから、もう私は言語化できないの。それは赦されないのよ」
「翔子とは文通できていたのに、ですか?」
「痛いとこを突くわね。でも、彼女が特別なのは、君が一番よくわかっているはずよ。小説を騙ることと、文を送ることは違う。それは随筆と小説の違いぐらいに曖昧なものだけど。でも、そういうものなのよ」
コーヒーを飲む。
先輩も、僕も。
左に目をやると、窓の外に新宿の夜景が見えた。十二月の豪雨。突き刺すような寒さと、クリスマスへと変貌していく街並み。電光掲示板の光が雨粒に乱反射し、その輝きを四方八方に向けている。もう誰もその広告の実体をつかめない。
「ねえ、宮澤くん。タバコと火、ある?」
コーヒーを飲み干して、先輩が言った。
「ありますけど。先輩、アイコスでしょ」
「今はそういう気分じゃないのよ」
頬杖を突く先輩。
スーツ姿で、上着にシワがつくのなんて気にせずに。彼女はやおら外を見やり、ため息をついた。
「本当はね、私、『ノルウェイの森』の緑みたいな女の子になりたかったのよ。ほら、村上春樹の。私、アレと『風の歌を聞け』だけは好きでね。
……自由で、気ままで、突拍子もなくて。でも魅力的で、男の子に好かれそうで、でも女の子にもモテそうで……。私、そんな女の子になりたかったの。でもなれなかった。私には対岸の火事を眺めながら平然とギターを弾いていられるような、そんな余裕もないし。ムシャクシャして頭を丸刈りにするような度胸もない。私にできるのは、せめてセミロングをショートボブに変えるぐらいのものなのよ。私って結局その程度だった。事実は小説より奇なり、なんて言うけど。フィクションは完璧すぎるのよ。私は、フィクションにはなれない」
「でも翔子は先輩に心酔してました。彼女を救ったのは、まぎれもない先輩なんですよ」
「いいえ。宮澤くん、君ってば少し勘違いしているようね。よく考えてから、物を語りなさい。……ねえ、それより火とタバコくれない? 私、今日はそういう気分なのよ、わかるでしょ。いわゆる一つの”女の子の日”みたいなものなの。今日は、私たちの日なのよ。……そう。だったら、これから買いに行きましょ。タバコと火を、さ」
喫茶店を出て、コンビニに向かった。時刻はもう八時を過ぎていた。マッチは喫茶店でブックマッチをもらったので、問題はなかった。店名と電話番号の書かれた、昭和のにおいのするマッチだった。
コンビニへ向かう道すがらは、雨の通り道でもあった。空は曇天。曇りきった鈍色の空に月明かりはない。底冷えするような寒さと、耳朶を叩く雨音ばかりがした。
コンビニに入ると、僕らはハイライト・メンソールを二箱買った。僕のぶんと、先輩のぶん。でも、僕らは傘を買うことはしなかった。僕が買ってもよかったし、先輩が買ってもよかったのに。僕らはお互いに相合い傘の関係が心地よく思えてしまって、傘を買おうなんて思えなかった。少なくとも僕は、このまま雨が降り続けて、ずっと二人寄り添っていられればいいとさえ思っていた。
店内を出ると、軒先の喫煙所に立ち寄った。でもコンビニの屋根なんて大したもんじゃない。目前には壁のように連なった水が滴っている。だから僕らは半歩下がって、肩を寄せ合ってタバコを吸った。フィルムをはがして、銀紙を破って、底を指で叩いて一本だけ取り出した。そしてブックマッチを一本擦って、お互いのタバコに火を点けた。お互いのタバコの先端を重ね合わせるように、口づけするようにあわせて、その合流地点に火を灯したのだ。
まもなく火が点いて、ラムとメンソールのにおいが広がった。ブックマッチは表紙の部分を叩いて、パチンと火を消してやった。
しばらく僕らはタバコを吸い続けた。お互いに何も語らず、求めるようにフィルターを咥えた。
「ねえ、宮澤くん。このあとどうしたい?」
先輩は優しく煙を吐いてから、言った。
「どうしたいって。そう言う先輩はどうしたいんですか?」
「そうね。もし君が赦してくれるなら――」
言って、先輩は自らの唇をタバコで塞いだ。キスするみたいに、赤子が乳房を吸うみたいに。
それから先輩は、僕の手に指を伸ばしたのだ。先輩の白く細い指。それが僕の手に絡まって、蔓草のように伸びていった。かつて僕はそれに火を点けて燃やしてしまいたかったけれど、今日はそうは思えなかった。僕の指もまた蔓草のように伸びて、先輩のそれと絡み合ったのだ。雄しべと雌しべのように、お互いに。
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