伊勢丹との衝突地点

 毎年思うのは、二十三日が絶妙であり奇妙であるということだ。二十三日の休みは、二十四日を予感させる。街の彩りはクリスマス・イヴ。しかしジーザス・クライストを祝うのに、僕らは僕らの神に休みを頂いている。誰もその根拠なんて気にしちゃいなくて、結局は形骸化した習慣があるだけだ。それがのちのち大衆文化とか言われるのかもしれないけれど。それでも僕は違和感を覚えてならなかった。

 書籍のラッピングやプレゼント包装を頼む客が多いことに辟易としながら、僕はその日の仕事を終えた。クリスマス直前だし仕方ないと割り切れば、結局いつもと何も変わらな一日だった。ただ駅前の喫煙所に人気がなかったぐらいなもので。

 翔子との待ち合わせは、六時に新宿駅だ。五時にバイトが終わった僕は、ガラムの残りを吸ってから、電車に飛び乗った。空になった箱は駅前のゴミ箱に捨てたのだが、それでも池野の幽霊が背後に憑いてまわってる気がした。


 池野の幽霊。

 それは確かに憑いていたのかもしれない。

 あいつは衆人環視に吐き気を催すといった。実は最近、僕にもその感覚がわかるような気がするのだ。

 吐き気というよりも、それは嗚咽と呼んだほうが正しいと思う。喉に込み上がってくる違和感。それは異物のごとく僕に嘔吐を強要するのだが、しかしそこに実体はないのだ。吐き出したいのに、吐き出せない。僕は空虚な吐き気と対峙し、それを体内から追い出そうとする。そして吐き出そうとしてはじめて、はなからそんなものは存在しなかったと知る。胃のなかに異物など存在しないし、喉に小骨が引っかかったわけでもない。そこには、何もないのだ。無だけがあり、僕はそれを吐き出すことに終始する。終わらない吐き気。ものを吐き出すことに意義はなく、吐くという行いそのものに意味を求めているのだ。

 それがいま、僕に起きていることだ。嗚咽の頻度は限りなく低いが、しかしたびたびそれは発生する。原因はわからない。タバコの吸いすぎでもないし、なにか悪いものを食べたわけでもない。ただ寒気のようなものが全身を襲い、嘔吐感を呼び覚ます。精神の傷と、肉体の傷の平均化を図るみたいに……。

 僕は、久高先輩のみならず、池野の後追いになろうとしている。そんな気がしていた。


 そんな嘔吐感をはらんだまま、僕は新宿駅東口にたどり着いた。乾いた冬の曇り空だった。翔子はすでに交番近くのロータリーにいて、スマートフォン片手に僕を待っていた。

「あ、宮澤さん。こっちです」

 手を振る彼女に、僕は軽く応じた。

「お父さんへのクリスマスプレゼントだって?」

「はい。毎年送ってるんですけど、男性の喜ぶものってよくわからなくって。いつもはお菓子とか送るんですけど。せっかくなら、今年は宮澤さんに聞いてみようと思って」

「僕みたいな大卒フリーターの作家志望と、財閥系企業の役員を一緒にしちゃいけないよ」

「でも、わたしたちは同じ人間ですから」

 ――同じ人間ですから。

 その言葉に、僕は一瞬だけ吐き気を覚えた。だけどすぐにそれは飲み込んで、押し殺した。

「どうかしましたか? 顔色が優れないみたいですけど?」

「問題ない。仕事で疲れてるだけさ。それより、さっさと買い物を済ませちゃおう。店が閉まる前にさ」


     *


 それから僕らは新宿伊勢丹でプレゼントを探した。だが、僕に気の利いたアドバイスなど出来なかった。スーツの善し悪しなど知ったことではないし、時計の価値もわからない。男性用の香水などもってのほかだ。

 結局予算の都合もあって、プレゼントはネクタイに落ち着いた。だが、翔子は初めからそれを買うつもりでいたようだった。値段も手頃だし、ビジネスマンへのプレゼントしては最適だったから。

 ネクタイを締める習慣のない僕には、その価値はよくわからなかったけれど。僕は就職活動半ばでネクタイを外し、むしろそれを首吊りのヒモにすげ替えたような人間だったから。あとは足の乗った台を蹴飛ばすだけのような、そういう人間だったから。


 翔子がレジ前の精算の列に並んでいるとき、僕は婦人服のコーナーにいた。といっても、大半のものは僕の給料では手も出せない代物だった。

 ただ、僕とて贈り物の一つや二つはできる。翔子へのクリスマスプレゼントは、考えていたところだった。もっとも彼女は家族でクリスマスを過ごすつもりらしいし、僕が出る幕ではないとはわかっていた。ただ、彼女へのお礼はしておかねばと思ったのだ。

 僕は再び文章が書けるようになった。そのせいで新たな悩みも生まれたが、しかしそれでも一歩進められたのは違いない。なんにせよ、それはすべて翔子のおかげなのだ。翔子のために、何かできないか。僕はそう思っていた。

 目に飛び込んだのは、冴え渡るブルーのスカーフ。そしてその隣にちょこなんと置かれた深い緑のスカーフ。緑のそれは、きっと誰かが試着したままほったらかしたのだろうか。クシャクシャのまま適当に置かれていた。いっぽうブルーのそれは、四隅を揃えて畳まれていたというのに。

「なにかお探しでしょうか?」

 すると隣から店員が尋ねてきた。

 とっさに僕は何か返そうとしたのだが、その瞬間にまたあの吐き気が襲った。何かお探しでしょうか? というその言葉。それは字義通りの意味だ。何か商品を探しているのか、という意味。しかし僕には、もっと深い意図があるように思えてしまったのだ。つまり、脳裏に久高先輩の顔が浮かんだのだ。それが吐き気の正体だった。


     †


 ――ねえ、宮澤くん。君は何を探しているの?

 ――なにも探してませんよ。

 ――ウソよ。君は書けない理由を探していた。吐きたい理由を探していた。やろうとすればいくらでも書けたのに、君はそうしなかった。だって、そうしたくなかったから。だから言い訳を私に求めた。そして書けるようになった今も私を探してる。

 ――だったら先輩はどうなるんですか。書けない理由を社会に求めて、そのストレスを僕に吐き出している。違いますか?

 ――ええ、そのとおりよ。でも、それの何がわるいの? それが人間じゃないの?

 ――あなたは、そんなヒトじゃなかった。

 ――そうね。でも、それは君にとっての『ミサキ』でしょ?

 ――……だから、どうしたっていうんです。

 ――だから私たちは汚いのよ、宮澤くん。私達の綴る文章は排泄物と一緒。しっこ、おしっこ、ピス、ホーリーシット。わかるでしょ? わかるなら、飲んでよ、私のを。


     †


 しばらくのあいだ、僕は吃音のように口をモゴモゴとしていたと思う。言葉を咀嚼し、吐き気をかみ殺していたと思う。店員は律儀にもそんな僕を待っていた。待つ必要も、価値もないのに。彼女は黙って、僕の顔をのぞき込んだのだ。

 一歩間違えていれば、吐き気は押さえられていなかったと思う。店員に向けて嗚咽を放っていたと思う。もし翔子が助けにこなければ、そうなっていた。

「宮澤さん、終わりましたよ」という翔子の声。

 僕はそれに振り向くと、店員にひきつった笑みを送った。顔には汗が浮かんでいたと思う。


 買い物を終えて伊勢丹を出ると、外には雪がちらつき始めていた。

 新宿は雪のち雨。みぞれのような結晶が降り注いでは、夜景を乱反射し、最後には泥に変わる。アスファルトに落ち、踏みつぶされる結晶たち。誰もその亡骸など気にしない。彼らは水に変わり、泥に変わり、車にはねられ、用水路へと落ちていく。どこかへ運ばれ、それは再生するのだろう。

 ――水は生命のシンボルであり、再生の象徴なのよ。

 久高先輩の声が聞こえた。幽霊のように。雑踏を歩く僕の耳のなかに。

 僕と翔子は東口に向けて歩いていたのだけど、そのあいだ会話はなかった。彼女は僕が疲れていると思ったのだろうし、僕には気を利かせて話を広げる余裕もなかった。

 そうして東口に着いたときには、僕らはもう別れる雰囲気が出来上がっていた。交番前のロータリー。これから飲みに行くであろう人たちが待ちかまえる、狭苦しい道のなか。

「じゃあ、わたしはこれから母と待ち合わせているので」

 伊勢丹の紙袋を持って、翔子はそう言った。

 僕は軽く会釈することしかできなかった。

「ああ、じゃあ。お父さんによろしくね」

「はい。じゃあ、また」

 手を振る翔子は、新宿の雑踏の中に消えていく。雪の降り始めた東京は、底冷えするような寒さになりつつあった。


     *


 そのまま帰れば良かったのだ。

 翔子が駅へと消えていくのを見ながら、僕もその人混みの列に入っていけば良かった。なのに僕はそのなかに分け入ることができず、一人俯瞰してモノを見ていた。思えば、僕はいつもそうだった。

 いっときの雪はみぞれにかわり、やがて雨に変わる。夜更け過ぎにまた雪に変わるかもしれないが、いまは人の熱気に押し負けているように見えた。降りしきる雨は、雨宿りの屋根を叩いていく。傘を持たぬものの不安を煽るようにして、ポツポツと。

 駅前の喫煙所にでも入ろうと思った。そうして踵を返したとき、僕は見つけてしまったのだ。小雨に傘をさしたり、この程度ではささないと無駄なプライドを持つ人混みのなかに、一人だけちょこなんと立つ女性。赤い折りたたみ傘をさして、彼女はクリスマスのバラを添えていた。キリストの血のように、一杯のぶどう酒のように。

 ――久高美咲。

 彼女と目があったとき、僕は悔しくもと思ってしまった。

 まるでそこだけ時間が静止したようだった。アルタ前から喫煙所の脇を抜け、駅へと向かう人の群れ。そのなかで、僕らの時だけは止まったように見えたのだ。雨粒さえも動きを止めて、僕らを待っているみたいだった。向かい合う僕ら。久高先輩と、僕のために。

「ひさしぶり、宮澤くん」

 傘の先をクイと上げ、彼女はその顔を見せた。病的な青白い肌は、赤とコントラストになってそこにあった。ぎょろっとした大きな黒い目は、僕をじっと見ている。決して彼女は、僕以外のを呼んでいるのではない。

 先輩は、あの三月のときと同じ格好だった。黒のパンツスーツにトレンチコート、そして赤いマフラーをしていた。しかし焦茶色で肩まであったセミロングの髪は、バッサリと切り落とされてショートボブになっていた。色味もどこか青黒くなったように見える。そのせいか、先輩の表情はどこか青ざめて見えた。赤が彼女を囲っていたというのに。

「……おひさしぶりです」

 僕は言葉が見つからず、ありきたりな返事をした。

「そうね、ひさしぶり。これから帰るところ?」

「ええ、まあ。先輩は?」

「仕事帰りよ。……ねえ、これから暇? どうせなら、付き合わない?」

 僕はしばらく黙っていた。

 黙っているうち、雨足は強くなっていった。いつしか雪は失せ、雨粒がしとしとと肩を叩き始めていた。それは僕の背にのしかかる池野のように。

 やがて僕の体も雨には耐えきれなくなった。

「入ったら?」

 先輩の真っ赤な傘が僕の頭上へ。傾けられたそれは、二人分の身を守るほどの大きさはなかった。だけど、二人の頭を覆うぐらいならできた。肩を寄せ合って、口づけすらもできるような距離になれば。

 僕は、自然と先輩の傘の中に入っていた。そうせざるを得なかった。

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