ガラム・スーリヤ
――もう俺の人生はここで終わってもいいような気がしたんだ。
頭の中で池野の言葉がリフレインし続けている。こびりついて離れない、まるで呪いのように、僕の体に重くのしかかり続けていた。
それはたしかに、一つの答えであったと思う。
「もう死んでもいい。僕にはもうやるべきことはないのだ」
究極の充足感というのは、人を殺す。社会から迫害され、流浪の旅を続けた池野は、ようやく真の充足感を覚えたのだろう。だけど僕は、それが彼の錯覚だったのでは? と思えてならなかった。
クリスマス直前の日、僕はバイトに行く道すがらの電車で、その場所を見た。池野が自殺を図ったという、イギリスにあるイーストボーンという場所だ。ふと思い立って、スマートフォンで検索をかけていた。
たしかにそれは実在した。芝に覆われた白亜の断崖絶壁。セブン・シスターズという崖だった。真っ白い崖は、その頂上を芝で青く萌やしていた。
おそらく池野は、ドーヴァー海峡を望むその絶壁へ飛んだのだろう。あるいは、芝の上で薬でも飲んだか……。どちらにせよ、彼の遺体はは海の青の中か、芝の青の中にあるはずだ。僕はそれが羨ましいと思ったし、しかし惨めだと思った。
――池野。僕は、おまえはもっと才能のあるやつだと思っていた。もし赦されていたのなら、おまえはもっと学問に励んでいたはずだ。確かに回り道をしたかもしれないけれど、でもおまえの終わり方は、こんな惨めじゃなかったはずだろう。
僕はそう思ったけれど、でも同時にそれは他人の判断に過ぎないとも思えた。しょせんは、他人が勝手にそう思っているだけだ。無責任な、自分勝手なお節介だ。
池野は言った。
『責任を押しつけるのは誰にだってできるさ。でも、押しつけられた側は何もできない。いかに理不尽でも、黙るしかできないんだ』
そうなんだ。それは僕にもわかるんだ。
誰かに文句を言うのはカンタンだ。池野の死が正しかったのか、間違っていたのかなんて、第三者がとやかく言うのはカンタンなのだ。だって、無責任なのだから。
でも、本人は違う。すべてを賭けたうえで、そう考えることしかできなかったのだ。そこに正しさとか、間違いだとかいうものは存在しない。あるのは、その死が正しかったと思えるだけの充足感と、その根拠だけだ。そして池野にとっては、それが音だったのだ。
――池野、おまえは赦されたかったのか?
バイトに向かうあいだ、そしてバイトのあいだ、僕はずっとそんなことを考え続けていた。池野が死を選んだ理由。彼が求めた音。それは、どんなに完璧なものだったのだろう。僕の『ミサキ』は、彼の音と並べても遜色のない品なのだろうか。
僕は顔をうつむけ、考え続けた。クリスマスが近づく十二月の寒い日だった。
*
夕方。遅番との交代作業を終えると、僕はいつものように喫煙所に向かった。今日は佐々木は非番だったので、僕は一人だった。
夕方の喫煙所は、仕事帰りのサラリーマンと、これから出勤という水商売の男女に溢れていた。僕はその片隅でぼんやりとタバコを吸った。ただ、それはハイライト・メンソールではなかった。なんだか先輩と同じという気分にはなれず、結局ここ最近はいろいろと試していた。
今日は、ガラムだ。ガラム・スーリヤ。僕はまた池野の幻影を求めていたのだろうか。あるいは、彼にあの音の正体を聞き出したかったのかもしれない。だから彼と同じモノを吸おうと思った。まるでイタコだ。
いつものようにマッチで火を点けると、バニラのような甘さ、そして仏前のようなにおいが広がった。ガラムの強烈なタール値は、僕の脳をいたずらに傷つける。ニューロンを切り崩していくようだ。
ガラムのにおい。盂蘭盆のようなかおり。僕は、自分の体に染み着いた彼の記憶をたどった。池野のこと。僕は、あいつの死を自分に重ねているだろうか。
あいつの忠告。彼は、作り出すべき音を完成させたとき、すべてはうまくいくようになると言った。だが、何がうまくいくというのだ? むしろ僕は落ちぶれている気がする。書ききった先に待っていたのは、空虚だったのだから。先輩も、池野も、誰もそこにはいない。僕は書きたいものを書ききった。すくなくとも、今はそう思っている。だから、もうそこには何もないのだ。その先は存在しない。
だんだんと僕はすべてが空回りしているように思えてきた。書き上げた小説が、いまでは心憎い。あれを書いていた時は幸せだった。まだ心のなかに先輩の幻影がいたから。でも、もうすべて吐き出してしまったのだ。そしてその先輩は、紙に印字されて、衆人環視のなかへと旅立っていった。僕が好きだった久高美咲。僕が愛してやまなかった久高美咲。消えてしまった久高美咲。そして、ミサキ……。はたしてそれで良かったのか。それとも、僕は秘めたる恋慕をそのままに心の中にしまっておいたほうがよかったのか。
考えるうちにガラムは先細りしていった。そうしてフィルターの根本まで吸い終えたとき、携帯が震えた。
メール。翔子からだった。
ハイライトを燃やし尽くしても、僕の中の喫煙ルールに改正はなかった。吸い尽くしたガラムを灰皿に捨て置くと、僕は神田駅を出て中野に向かった。中央線快速電車、立川行き。車内は帰宅者の波で込み合っており、座れる見込みはなかった。
吊革につかまりながら、僕は翔子からのメッセージを読んだ。
〈二十三日の金曜日ってあいてますか? もしよかったら、父へのクリスマスプレゼントを選ぶのを手伝ってほしいんですが。〉
――二十三日。
十二月の二十三日。祝日の金曜日は、僕には関係のない話だった。世間は三連休もやぶさかではないと言いつつ、そんなことができるのは一部学生と金持ちだけ。僕のようなフリーターには関係のない話だった。誰もクリスマスデートにレストランの給仕人の事情など気にしないし、イルミネーションを彩る夜景のことなど考えていない。その一つ一つに誰かが介在しているなんて、何も思っていない。僕はそういった何も思われない側の人間だった。
〈バイトがあるから、六時過ぎなら大丈夫だけど。〉
返信。
送り出されたデータを一瞥してから、僕は流れゆく車窓を見た。
電車は人を吐き出し、飲み込み、それから新宿駅を出ていくところだった。車内の顔ぶれはだいぶ変わったけれど、誰もそれに気づくようすはなかった。みんなスマートフォンの画面に目を落として、自分としか向き合っていない。自分の都合のいい場所としか向き合っていない。隣の会社員が何者であるとか、そんなことはどうでもいいのだ。
新宿を出て中野に着く直前で、返信がきた。
〈大丈夫ですよ。新宿でいいですか? それなら宮澤さんも来やすいですよね?〉
〈かまわないよ〉
返信。
中央線は中野に停車。
夢に破れた者を吐き出した。
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