死相
小説が完成したのは、十二月の上旬のことだった。もうそのころには街も冬の装いに変わっていた。
題名は『ミサキ』と三文字のみが付された。僕にはそれ以上のタイトルが思い浮かばなかったし、それが最適だと思えたからだ。ミサキ、美咲、岬、みさき……。どのミサキかは、僕にもわからない。でも、どれもが正しく、どれもが間違っていただろう。重要なのは正しさとか過ちとかではなくて、それが正しいと思えるだけの物語があることなのだから。
結果的にワープロ原稿は、A4コピー用紙に二五〇枚ばかりになった。
そしてある土曜の朝、僕は封筒に入れたそれを片手に近所の郵便局へと向かった。封筒の宛名には、文学新人賞選考委員御中の文字。当選するとは思ってないが、試しに送ってみようと思ったのだ。
向かったのは、土曜でも窓口業務のやっている郵便局だ。バイトが非番なのは今日だけだったし、明日からはまた連勤だった。今日を逃せば、締め切りまでの発送は無理だったのだ。
郵便局は、最寄り駅から歩いてしばらくのところにある。すっかり冬支度を始めた町並みには、慌てん坊のサンタクロースが顔を見せていた。赤と緑のコントラストが町中を彩っていた。
郵便局もそんな具合だった。列のできているATMコーナーを抜けると、窓口周りにはクリスマスカードが陳列されていた。人気俳優の等身大ポップパネルがあり、そのとなりにちょこなんと。目立たせたいのか、そうでないのかよくわからない配置だった。
たしかにグリーティングカードの文化など、日本ではあまり感じられない。あっても年賀はがきか喪中はがきと言ったところだろう。僕は番号札をとってからしばらく待っていたけど、そのあいだ誰一人としてクリスマスカードをとっていかなかった。
だから僕は彼らがかわいそうに思えて、にらめっこをしてみたのだ。
雪景色の雑木林に、トナカイとともにたたずむ白髪の老紳士。吹き出しにはメリー・クリスマスの文字。でも、誰もキリストの誕生日など祝っていない。欲しいのはクリスマスのプレゼントと、イヴから夜通しの情事だけだ。この赤服白髭の男はいったいなんで笑っているのだ。どうしてこちらに手を振っているのだ。コークの宣伝? なら僕はペプシ派だと中指を突き立ててやろう。
『手段の目的化は、物事の陳腐化の最たるものよ』
にらめっこの途中で、脳裏に懐かしい声が囁いた。
先輩の声がいまでも頭の中に響くことがある。そこにあの人はいないのに。亡霊のように現れて、僕に耳打ちして帰って行く。僕に何かを伝えるように。あるいは、僕が久高先輩の言葉を求めているのか……。
そうこうしていると、僕の番号が呼ばれた。僕は小脇に抱えた原稿の重さを感じながら、二番の受付へ向かった。
「普通郵便で、お願いします」
封筒を差し出す。気恥ずかしそうに、選考委員御中の文字を手で隠しながら。
窓口係の女性は慣れた手つきでそれを受け取り、封筒を測りへ乗せた。すぐさま液晶に料金が出て、切手が貼られた。
僕は言われた通りの金額を財布から出して、皿の上に並べる。郵送料金。それがこの小説が編集部まで送られる価値だ。
「はい、ちょうどいただきますね」
窓口係の女性の声。
僕は呆然とそれを聞いていた。自分の書いたものが、こうして誰かのところへ運ばれていくのを見ながら。それがどう読まれるにせよ、読まれないにせよ。それは僕の分身であって、久高先輩への憧憬でもある。その塊は封筒に載せられ、トラックに載せられ、バイクに乗せられて……。
「……あの、お客様」
窓口係が言ったところで、僕ははっとした。
「顔色が悪いようですが……。あの、こちらレシートです」
「ああ、どうも。すみません」
紙切れ一枚。僕は受け取って、郵便局を出た。
顔色が悪いって、どういうことだ?
それから僕はすぐ家に帰り、洗面台の前で自分の顔を見た。
鏡に映された自分の顔。白熱灯に照らされたその表情は、いつもと変わりないように見えた。たしかに、今朝はヒゲを剃っていなかったので、無精ヒゲが生えて不潔に見えかねない。しかし、だからといって顔色が悪いように見えるだろうか? 生気を失ったように見えるだろうか?
「顔色が悪いようですが……」
あの郵便局員の言葉がリフレインする。
いったい僕の何が彼女にそう思わせたのだ。青白い顔? いや、そこまで血色は悪くない。頬も痩せこけてないし、クマがひどいわけでもない。じゃあ、なにが彼女にそう思わせたのだ。
「そうしたら、今までで聞いた中でもっとも美しい曲ができたんだ。俺は不思議に涙が出ていたし、通りすがりの親子も笑ってくれた。そうしたらな、もう俺の人生はここで終わってもいいような気がしたんだ。いままで悩んでいたことや、苦痛に抗おうとしていたこと、そのすべてがどうでもいいように思えたんだ」
脳髄の奥で池野が囁いた。
死んだはずの彼は、自殺の直前、僕ににそう語った。そして僕に、そんな音を作りだせと言った。自分の人生はもうここで終わってもいいんだ。そう思えるようなモノを作り出せ、と。
僕にとってそれは、『ミサキ』だった。これが僕にとってもマスターピースであり、遺書のように思えた。
――死相でも出ていたのか?
まさか。
僕は心で否定したが、しかし否定しきれぬ自分がいた。先輩のことを書きつづった今、僕にはもう何もないような気がしていたのだ。これ以上書くべきことはなくて、ここで死んでもかまわないような気がしていた。
脳裏で池野が囁く。
『俺は好きだったよ、おまえのこと』
そのとき、彼の手が僕の肩をポンと叩いたような気がした。
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