四人目のミサキ

 夏が死に、冬が目覚め始めた。秋だ。

 その日、僕はバイトが非番だったので、相変わらず執筆活動に明け暮れていた。といっても、キーボードを打ち込むのではなく、推敲作業だ。一応の完成をみた『ミサキ』の物語は、コピー用紙二〇〇ページあまりに印字されている。僕はそのワープロ原稿の束を手に、神田の喫茶店にきていた。チェーンではなく、路地裏にある個人経営の純喫茶だ。全面喫煙可なので、前からバイト前の暇つぶしなどによく利用していた。

 奥のボックス席で翔子を待ちながら、淡々と紙面に赤を走らせていた。お供はブレンドコーヒーと、メープルシロップのパンケーキ。タバコを吸いたくもあったけれど、買うのが億劫だったので今日はそれだけだ。

 やがて翔子がやってきたのは、九十八ページの推敲作業に入ったころだった。カランコロンと懐かしいドアベルが鳴って、彼女は店内にやってきた。気むずかしいマスターがカウンター越しに「お一人ですか」と聞くと、彼女は「待ち合わせです」と僕に目配せした。

 するとマスターは目線をはずし、休憩に戻った。たっぷりの白髪を蓄えた仙人のようなマスターは、コーヒーを淹れるかタバコを吸うかしかできない職人気質だ。僕は彼がコーヒー用品と喫煙用品以外を手にしたとこを見たことがない。

 相変わらずマスターは、平日昼下がりの閑古鳥鳴く店内で静かに紫煙をくゆらせた。翔子はその様子に一瞥をくれてから、僕の向かいに座った。

「すみません、授業のあと教授に質問行ってて。なんかわたし、気に入られちゃって」

「いいよ、別に。今日は非番だから、そんな忙しくもないし」

 僕はコーヒーを一口飲み、暗に視線を原稿にやった。

 九十八ページ目にボールペンの置かれた原稿。小説の印字されたコピー用紙には、赤青黒の三色が躍っている。赤が最優先の修正箇所。青が保留。黒がその他のコメントといったところだ。

「読んでもいいですか?」

「いいよ。ただ、九十八ページ以降はおすすめできない」

「じゃあ、このあいだの続きから。えーっと……」

「四十二ページだよ」

 ハラリとページがめくれる。

 翔子は四十二ページ目から、付箋と赤線だらけの原稿を読み始めた。彼女は僕の審査員。彼女が読んでおもしろければ、それは僕にとっても良い小説ということになる。

 九十七ページまでのあいだ、翔子は黙々と読み続けていた。途中、ブレンドコーヒーを注文するために中断はしたものの、それ以外は食い入るような勢いだった。


 軽井沢での一件以来、僕と翔子の関係も変わった。小説を貸し借りしあう関係から、書き読みしあう関係になった。僕は小説を書き、彼女はそれを読む。それは、お互いにとっても都合のいい関係だった。

 僕は、小説の書けない小説家志望。

 翔子は、小説の読めない文学研究会員。

 お互いの欠点を、お互いに補いあう。僕らはそんな依存関係になり始めていたのだ。僕は翔子が読める小説を書いて、彼女はリハビリのためにそれを読む。吐き気と真っ向から対峙することで、徐々にその原因を探っていく。いっぽうで僕は、今まで小説が書けなかった原因である久高先輩を書きつづり、そうすることで自分が思い描く小説を書き下していく。ゆくゆくは新人賞に応募するために。


 翔子が九十七ページまで読み終えたのは、ちょうど僕がパンケーキを完食したころだった。バターとメープルシロップでふやけた生地をコーヒーで流し込んだとき、彼女はページを繰る手を止めた。

 それから彼女は、机に手をおいて大きく息を吐いた。一服するような深呼吸。目を閉じ、口をつぐんで、しばらくのあいだ彼女は無になる。最近になって気づいたのだが、それは自分の内にある吐き気と対峙する時間だった。おそらく彼女は、こみ上げる吐き気に問うているのだろう。「どうだった、いまの小説?」というように。

 やがて目を開けたとき、翔子は同じように口も開いた。

「良かったと思います。吐き気はなかったですから」

「そうか、それなら良かった……」

 この一瞬がいつも緊張する。

 彼女が判断を下すまでの、この一瞬。これまでに何度も経験してきたのだが、これだけはどうにも慣れない。おそらく不安になるのだろう。僕の文章が彼女を傷つけてしまったらどうしよう、と。

 もちろん翔子はそれも承知の上で読んでいる。それに実際、推敲作業に入る前には、吐き気のために何度か読むのを止めることがあった。といっても些細な吐き気だと翔子は語っていたのだが。それでも僕は十分焦ったし、恐怖もした。なにせそれは、友人の身をもって刃物の切れ味を試しているようなものなのだから。深く切り込みすぎれば、もちろんその友人を深く傷つけてしまう。しかし美しいものを作るには、傷つくことを恐れてはならないのだ。

 翔子は口直しにコーヒーを飲むと、紙ナプキンで口を拭った。どうやら胃酸が逆流して舌を犯すようなことはなかったらしい。

「じゃあ、こんな感じで書いてみるよ。どうかな、感想とかは……って、まだ未完だけども」

「ええ。なんていうか、そうですね……。これは、四人目のミサキさんだと思うんです。あの小説――久高さんの『U19 Girl』に登場した三人のミサキの、四人目。でもそれは、ミサキじゃないんです。ましてや沖縄にいった後のミサキでもない。四人目のミサキ。それは、たしかにミサキさんなんですけど。そうじゃない気がします」

「四人目のミサキ、ね。そもそもあれが三人のミサキであるかもハッキリしないが……。まあ、なんというか抽象的な考え方だね」

「すみません。でも、抽象的にならざるを得ないと思います。久高さんの小説が、まずそういう話でしたし。……完成したら、コピーください。手元に置いておきたいので」

「わかった。なんなら製本もするよ。そのほうが読みやすいだろうし」

「お願いします。それから、できれば二部いただければ」

「二部? ペン入れでもするのか?」

「まあ、そんなところです」

 翔子はすこし焦るように言って、空のカップを口に運んだ。

 僕は彼女の言葉に耳を傾けながら、ペンを机に置いた。

 四人目のミサキ。

 僕はそれを書いている。

 四人目。僕が書いているのは、しょせん後追いの四人目なのか。それとも、誰でもない四人目のミサキなのか。ミサキはどこにいくのか。四人目の作者たる僕にもよく分かっていない。

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