第三部
蔓草
軽井沢での一件以来、僕の中で何かが変わったのは、まぎれもない事実だ。
僕は儀式を行ってから、僕は小説を書き始めた。それまで出来なかった文章を書くという行為を再び始めてみたのだ。
ウソみたいだった。いままで書けなかったことが、まったく演技でもしていたかのように。僕の指はキーボードを叩き始めたのだ。言葉をつむぎ始めたのだ。叩いたキーはディスプレイに描出され、それはやがて意味を持った文章となり、生を得始めたのである。
驚いた。そんな能力が僕にあったなんて。
だから僕は、来る日も来る日も小説を書き続けた。狂ったように筆を執りつづけた。そうすることが僕の使命だと思えたからだ。朝がたバイトに行き、夕方に戻ってから、キーボードを打鍵して。それから寝て。バイトに行って、またキーボードを叩いて……。それが何日も、何日も続いた。無我夢中で僕は物語を記し続けた。
そうして書くたび、僕は自問し続けた。あるいは大空に向けて問い続けた。ドーヴァー海峡のはるか向こうで待つ友に向けて。
――なあ、池野。僕が作り出すべき音っていうのは、果たしてこれでいいのか?
†
僕が書いたのは、久高先輩の物語だ。しかし、久高美咲の物語ではない。
主人公はミサキという名前の女性。
彼女はたぐい稀なる文才を持って生まれた少女だ。その才覚は彼女の幼少期より発揮され、大学生となるころには文壇でも一定の地位を持つことになる。
しかし、彼女のそれはただの文才ではなかったのだ。
彼女は一文字を書くたびに、自分の時間を売っていかねばならない。文庫本にして一ページの文章を書くたびに、彼女はおよそ二十四時間という寿命が削られていく。それが、神が文才の代わりに彼女へ与えた罰。ミサキは、およそ一冊の文庫本で一年以上の寿命を喪失する。彼女は美しい文章を書くことで、その命を削り落としていかねばならなかった。
でも、彼女はその能力を苦とは思っていなかった。文章を書けるなら、自分の命など尽きても構わんと考えていたからだ。むしろ死にたいとさえ考えていた。そんな彼女にとっては、神の与えた罰は、もはや罰ではなかったのだ。
しかし、あるときミサキは自分の余命が幾ばくもないことを知る。そしてその寿命の影響か、自分の脳に異常が起きていると知るのだ。ついに訪れた待望の死。しかし、美咲は覚悟を決めることができなかった。作中では死にたいと自殺をほのめかしていたというのに、いざ死がおとずれると、恐怖のあまりどうしようもなくなったのだ。
そこで彼女は筆を置き、一箱のタバコとともに放浪の旅へ出ることにする。それは覚悟の旅であり、自分を殺すための旅。辞世の句を書くための旅だった……。
†
ざっとしてあらすじはこうだ。
不思議だった。いままで一文字書くごとに懊悩煩悶していた僕はどこかに失せ、その代わりに一字一字書くことに興奮を覚えている自分がいた。それは、まるでタバコを吸うように。先輩は自分の小説の価値をタバコに例えていたけれど、まさにそうだと思う。
小説は生きている。小説は人生だ。そして、人生とはタバコである。
*
僕は水を得た魚のように文章を書き始めたが、しかしそれによって失ったものもある。燃やしてしまったものもある。
一つは言うまでもない。久高先輩のことだ。
軽井沢旅行から一週間ほど、僕は休みなしにバイトと執筆を続けた。軽いランナーズ・ハイのようなものだったと思う。ライターズ・ハイ、あるいはオーサーズ・ハイとでも言おうか。眠気も感じず、すべての文章が滞りなくうまくハマっているように見えたのだ。そして実際それは、後々になって読み返してみてもそうだった。僕の小説は、限りなく完成に近い存在でつづられていたのだ。
そんなハイを抜けたのが、旅行から帰宅して二週間経ったころだった。
そんな折、久高先輩からLINEが届いたのだ。金曜の夜、いつものように。まるでこのあいだの電話なんて存在しなかったかのように。
先輩から連絡が来たとき、僕はまだバイト中で、バイブレーションでそれを知った。だけど画面を見る余裕なんてなかったから、てっきりそれは翔子からのメッセージか何かだと思っていた。
翔子との関係は、まだ続いていたから。本を貸し借りする関係ではなくなったけれど、彼女は週に一度は僕のアパートに遊びに来る。そして、僕の原稿を読んで帰っていく。彼女が吐き気を催さなければ、僕の勝ち。そして今のところ僕は全戦全勝だった。
だからそのときも、翔子が「先にアパートに向かってます」とかなんとかメールをよこしたのだと思った。
だけどそれは、先輩からだったのだ。
僕はそのメールをバイト終わりにロッカーで確認した。内容はただ一言、「これから会えない?」だった。僕はすぐに返信する気にはなれなかった。ずっとウジウジしたまま。けっきょく決断くだしたのは、佐々木と駅前の喫煙所に行ったころだった。
佐々木はアメスピを吸っていて、僕は何も吸っていなかった。でも禁煙というわけではなくて、ただそういう気分になれないだけだった。少しばかりクールダウンの期間が必要だったのだ。
喫煙所でただ一人タバコを吸わずに、僕はスマートフォンを見ていた。そして僕は決断を下した。久高先輩のアカウントをブロックしたのである。すべてを拒絶したのだ。未練はなかった。
「先輩、良かったんですか?」
佐々木がタバコを吸いながら言った。
僕の表情から何か感じ取ったのか。それとも画面を盗み見ていたのか。
「いいんですか? さっきの連絡、女の子でしょ。先輩、こないだなら連絡来るとすぐにどっか行っちゃったじゃないですか。飲みの約束もほったらかして。今日はいいんですか?」
「いいんだ。もう、これからは」
「あ、もしかしてフったとか?」
「違うよ。フってもないし、フられてもいない。僕らはそういう関係じゃないから」
「えー、まさかぁー。なんならその子、僕に紹介してくださいよ。ほらほら、傷心の女の子は優しくするとコロッといくって言うじゃないですか」
「ダメだよ」
――そう、ダメなんだ。
「あの人は誰にも惚れたりしないし、惚れちゃいけないんだ。あの人は、そういう人だから。少なくとも僕が好きだったあの人は……」
「どういうことっすか?」
「そういうことだ」
スマートフォンをポケットの中へ。僕は佐々木を置いて、駅へと歩き出した。
後ろでは、佐々木が「もしかして人妻っすか?」とか訳の分からないことを言っていた。
*
僕は文字通り先輩との関係を絶った。あのとき、軽井沢の暖炉で燃やし尽くしたように。アパートの屋上で燃やし尽くしたように。
たしかにあの人は、僕のなかでまだ生きているかもしれない。あの人の振る舞いは、あの人の生き様は、そしてあの人の文章は、僕の心に種を埋め、発芽し、いまなお生きていると思う。しかしそれは大輪の花を咲かせることなく、ただ
僕はその蔓を焼き払ったのだ。だから、あとは土に埋もれた根があるだけなのだ。そこにはもう雑草はいない。本来咲くべき花を殺し、抜け抜けと枝葉を伸ばすものは、もういない。
僕は小説を書き続けた。
僕が好きだった先輩のこと。そして僕がなりたかった先輩のこと。それはもう死んでしまった人かもしれない。でも、僕はそれを生き生きと描く自信があった。翔子が吐き気を覚えるような小説ではないと、そういう自負があった。
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