幕間
シャルル=ピエール・ボードレール
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常に酔つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき、君の体を地に圧し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら、君は絶え間なく酔つてゐなければならない。
しかし何で酔ふのだ? 酒でも、詩でも、道徳でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく酔ひたまへ。
もしどうかいふことで王宮の階段の上や、堀端の青草の上や、君の室の陰惨な孤独の中で、既に君の酔ひが覚めかゝるか、覚めきるかして目が覚めるやうなことがあつたら、風にでも、波にでも、星にでも、鳥にでも、時計にでも、すべての飛び行くものにでも、すべての唸くものにでも、すべての廻転するものにでも、すべての歌ふものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみたまへ。風も、波も、星も、鳥も、時計も君に答へるだらう。「今は酔ふべき時です! 『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絶え間なくお酔ひなさい! 酒でも、詩でも、道徳でも、何でもおすきなもので。
「酔へ!」シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire : 1821-1876)
†
僕らの軽井沢旅行は、こうして炎とともに幕を閉じた。炎は旅を終える儀式でもあり、また僕らにとっては一つの転換点を告げるものでもあった。
儀式を終えた翌朝、僕らは早々に別荘を掃除し出発すると、昼過ぎには東京に戻ってきた。お互いに東京駅で別れるときにも、僕らは必要以上の言葉を交わさなかった。
僕には、やることがハッキリと見えていたからだ。
旅行から帰った午後、僕は家に帰るなり儀式の総仕上げをした。つまり、ハイライトを燃やしたのだ。
今年の三月。豪雨の新宿で、先輩が僕にくれた一箱のタバコ。それはあの人が見せた最後の久高美咲であり、僕にとっての別れるべき女でもあった。
本棚の上。神棚のように飾られた、吸いかけのハイライト・メンソール。僕はそれを持って、アパートの屋上まで行った。
中野にある僕のアパートは、三階建てのボロ屋だ。屋上もいちおうあるのだけど、普段は入ることはできない。仮に入れたとしても、あるのは苔むしたコンクリートと、錆びかけた貯水器だけだ。誰も来ようなんて思わない。
だけど、この日の僕は違った。どうにかして、誰もいない夕暮れのコンクリートの上でハイライトを燃やしたいと思ったのだ。
屋上に続くドアは、錆びきってその機能を失っていた。鍵はかかっていたはずなのだが、もうそれも意味をなしていない。一発蹴りを加えれば、すぐに扉は開かれた。
そうして目に飛び込んできたのは、ビル陰に沈んでいく真っ赤な夕日。あの日――あのときと同じ光だった。赤い炎だ。
僕はその光を見ながら、コンクリートの地面にタバコを置いた。残された数本のハイライト・メンソール。僕はその内の一本を口にくわえると、残りにはライター用のオイルをたっぷりかけてやった。
だけど僕はマッチ派だ。オイルライターなんて持っていない。だから僕はマッチを擦り、半年前のタバコに火を点けた。乾燥しきった葉には、もはやラムやメンソールの着香など存在しなかった。あるのは渋みとエグみだけ。そこにあるのは、苦みと炎だけなのだ。
一センチも吸わなかったと思う。というより、もう僕には吸えなかったのだ。
「……さようなら、先輩」
僕は今まで隠し続けていた言葉を口にし、そしてタバコを吐き出した。文字通り、紙巻きをそのまま吐いたのだ。
火のついたタバコは僕の口から飛び出し、コンクリートに滴るオイルに着地。そこから瞬く間に炎は燃え広がった。波打つ炎はハイライトを飲み込み、そして燃やし尽くした。
そこには、苦みしかなかった。ラム酒やメンソールのにおいなんてなかった。
だけど僕には、それを噛みしめるしかなかったのだ。それを食べるしかなかった。それが、僕にとっての儀式なのだから。
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