ハイライトを燃やして

     *


 わたしの父は、贔屓目に見なくてもすごい人なんです。田舎町の出身なんですけど、勉強もできて、スポーツも優秀で……。高校からは推薦で大学に入ったらしいです。校長からの太鼓判をもらって。

 それで、大学では法学部にいたらしいんですけど。経済に興味を持って、そのまま学生で起業とかもしていたらしいんです。いまでいう人たちの原型みたいな人だったんですよ、わたしのお父さんって。

 そうして父は何度も失敗と成功を繰り返して、いまでは財閥系企業の役員をやってるんですけど。もちろん父はその地位に誇りを持ってますし、それまでの実績に絶対の自信を持っています。わたしだって、自慢の父親だって思ってます。父のことが好きだし、誇りです。

 ……でも、そういう自信とか、成功って、いろんなものを美化してしまう。麻痺させてしまうと思うんです。失敗だとか、過ちだとか、そういったものを正当化してしまう材料になるって、わたし思うんです。

 父は厳しい人でした。もちろん優しい一面もありました。それこそこの別荘での休暇なんて、父の優しい面の一例ですよ。……でも、父は自分が正しいと思ったことは、基本的に譲らない人でした。だって、そうに決まってるじゃないですか。父は大学を出て、起業も経験して、今じゃ会社役員ですよ。父にはプライドがあって、わたしにはなかったんです。父は、自分がとったプロセスがすべて正しいと思っていました。

 父は、本の虫だったんです。父の実家に行ったとき、一度だけ父の部屋を見せてもらったことがあります。壁一面が本で、床も本。ちょうど宮澤さんの部屋みたいでした。いや、もっと蔵書があったかもしれません。父は、自分が本で得た知識に絶対の自信を持ってましたし、娘にもそうしようとしました。教養というか、教育というか。かつての自分があったから、いまの自分があるっていうか。そういうふうに考えていたんです。娘に、自分と同じ幼少期を辿ってほしいと思ったんでしょう。

 とにかく父は、そうした自分の成功体験がわたしにも通用すると思っていたんですよ。だから、父は幼いわたしにいっぱい本を読ませました。初めは楽しかったです。絵本だったり、読み聞かせだったり、ショートストーリィだったり……。その当時は、まだわたしもフィクションの世界に魅力を感じてました。

 でも、段々とそれがエスカレートしていったんです。

 小学校のとき、一人何冊本を借りましょうっていうの、ありませんでした? 本を読まない子に読ませようって、キャンペーン。

 ある日、わたしは父にそのことを話したんです。そうしたら父は、「絶対にクラスで一番本を読むんだ」と言ったんです。それが間違いでした。

 わたしは本を読むのが好きでした。でも、段々とイヤになっていきました。だって、好きだから読むんじゃなくて、父に言われたから読むようになったんですから。宿題が嫌いなのと一緒です。大学の勉強は、好きでやってること。でも、学校の宿題はやらされていることです。

 ……ええ、きっとわたしの吐き気の原因はここにあるんだと思います。誰かのためにしなくちゃ。大好きなお父さんのためにしなくちゃ……。そういう強迫観念みたいなものがあって、それがわたしに警告していたんだと思います。吐き気という形で。

 でも、わたしはお父さんが好きだから……。父が原因だって認めたくないから。だから……わたしは、探していたんです。生きている本を……。本当の意味だとか、価値だとか、物語だとかを殺された本じゃなくて。わたしは本当の意味で読みたいって、そう思わせてくれる本を……。


     *


 ひとしきり話し終えたあとの翔子は、ずいぶんと疲れているようだった。

 僕はそのようすに見覚えがった。池野だ。あいつが僕に吐き出したときも、こんな調子

だったのだ。

 僕はしばらくのあいだ黙っていたけど、とうとう翔子の言葉に返事をした。

「手段の目的化は、何においても発生する事物の陳腐化の最たるものだ。本来の目的は失われ、人は手段にのみ終始するようになる。そうして人は、苦労しているポーズを取るために、苦労するようになる……」

 翔子の告白を聞いて、初めて僕が口にした言葉がそれだった。

 そして僕は、その言葉を口にしてから、そのことを憎んだ。それが久高先輩の言葉だったからだ。僕は久高先輩の言葉を引用し、翔子を慰める自分を、ひどく汚らわしく思ったのだ。吐き気さえも覚えた。

「……それ、誰の言葉ですか……?」

「誰の言葉でもないよ」

 僕はそう言ったが、声が震えていたので、ウソだとバレていたと思う。

 翔子の顔は相変わらず赤らんでいた。それは暖炉の火に熱せられて火照っているのか。それともまだ酔いが残っているのか。そのどちらもなのか。

 そうして、またしばらくのあいだ僕も翔子も黙っていた。部屋には、ただぱちばちと音を立てる火だけがあった。言葉はなく、燃えさかる自然だけがあったのだ。

 僕は炎を見ていた。暖炉のなかで、薪を燃やす真っ赤な炎。それは僕らの吸い込む空気を燃やし、自らのエネルギーとしている。炎は、空気を食べて生きているのだ。

 そのとき僕が炎を見て思ったのは、あの日のことだった。久高先輩の最期の儀式。大量の本をタワーのように高く積み上げ、オイルをたっぷりかけて燃やした、あの日。夕暮れ時に燦然さんぜんと現れた命の灯……。

 ――ああ、そうか。そういうことだったんだ。ようやく気づいた。

 本と火。

 生と死。

 食った者と、食われた者と。

 僕はようやく気づいた。そして気づいたときには、自然と体が動いていた。僕は立ち上がって、部屋の隅にまとめた荷物に向かっていた。

「どこに行くんですか、宮澤さん?」

 翔子が紅茶を飲み干し、言った。

「終わらせるんだ」

「終わらせるって……?」

「最期の儀式をするんだよ。決別だ。燃やすんだよ。葬儀をするんだ」

「葬儀って……誰のですか?」

「過去の」

 言って、僕はボストンバッグのファスナーを開けた。

 僕はこの旅行のために暇潰し用の本を何冊か持ってきていた。もっとも、その本はすべて久高先輩の本だったのだが。しかし、それはそういう運命だったのだ。僕がここに至ったのと同じように、先輩の本もそうなる運命だったのだ。

 鞄の中からとりだしたのは、そんな先輩の書いた本たち。そして、一箱のハイライト・メンソール。それは昨日スーパーで買ったものだった。

 僕はそれを持って、暖炉と相対した。翔子が不安の眼差しで僕を見ていた。

「それ、どうするんですか……?」

「燃やすんだ。ぜんぶ」

「燃やすって……いいんですか?」

「ああ。……そういえば、言ってなかったね。久高先輩は、一度読んだ本は滅多なことがない限り読み返さなかった。あの人は、読んだ本は燃やしたんだ。葬儀だと言ってね。それはあの人がその本を食べたということの証明であって、敬意の表れでもあった。……僕は、それをやりたいんだ。先輩の本を燃やしたい。……いいかな?」

 翔子は顔をうつむけた。無理もない、彼女にとって先輩の本とは、唯一安心して読むことのできる小説だったのだから。それが燃やされるということは、彼女から安息地を奪うことと同義なのだから。

 翔子はしばらく沈黙を続けた。そして沈黙の後、小さな答えを出した。ものすごく小さな、彼女らしからぬ会釈。首を小さく縦に振ったのだ。

「じゃあ、すまないけどそうさせてもらうよ。ぜんぶ、燃やす。一冊残らず」


 そうして僕は、先輩の本を一冊ずつ火の中にくべはじめた。一冊残らず、すべてだ。大学の同人誌に寄稿したものも、先輩の個人誌も。何もかも、すべて。

 紙という燃えやすいものを与えられ、暖炉の火はいっそう力を得たように見えた。本は、くべられるや否や上昇気流にあおられ、そのページを繰っていった。火は誰よりもはやく本を読んだ。走馬燈のよりもはやく、一瞬で。やがてページがすべてめくられたとき、本は炭となり、消滅した。一枚一枚のページはどす黒い炭屑にかわり、また炎に飲み込まれて消えていった。

 炎のなかでは、そうした一連の動きがしばらく続いていた。六冊分。先輩の本はいぶされ、焼かれ、そして天に昇っていった。

 最期の一冊は、先輩が最初に出した本、『U19 Girl』だった。文庫版のそれは、暖炉の中に投げ込まれるや、炎をまとってページを開き始めた。勢いを増した炎は、そのページに書かれたものすべてを飲み干してしまうようだった。その一ページ一ページにかけられた意味の重さや、深さも。タバコ何箱ぶんの価値かも、人生のうちの何時間ぶんの価値をも、すべてを飲み込んでしまうかのようで……。

 しかし、僕はそのなかに光を見たのだ。

 それは、先輩との最期の儀式の時のように。燃えさかる炎の中に、僕は生まれるものを見たのだ。一条の光。それは、水と同じ。再生だ。


 僕と翔子は、すべての本が燃え尽きるまで、じっと暖炉の火を見続けていた。そうして最期の一冊が燃え尽きたとき、僕は自然とある言葉を口にしていた。

「わかったよ、僕がやるべきことが」

「やるべきこと……ですか?」

 翔子が首を傾げた。

 僕は、手のひらに残されたモノを見ながら、言葉をつむぎつづけた。

「小説を書くんだ。僕は、先輩の小説を食べた。だから、今度は僕が書く番なんだ。君が読める小説。生きている小説を。僕が、書く番なんだよ。……だから、僕にはもうこれは必要ないんだ」

 手のひらにあるもの。

 握りしめられたのは、まだ封も開けていないハイライト・メンソール。僕はそれを力一杯に握りしめると、暖炉の中に投げ込んだ。まもなく、ラム酒の香りがじんわりと漂ってきた。

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