エリザベス・マイ・ディア
席に着いたとき、翔子はパスタと一緒に並べられたスプリッツァーを訝しげな目で見ていた。無理もない、彼女は未成年だし。とても律儀で、まじめな少女だったから。
「あの、これ……お酒ですか?」
僕がフォークを手に取ろうとしたとき、翔子は言った。
「ああ。ワインをソーダで割った、かなり弱いやつだよ。今日は無礼講だ。もちろん無理に飲まなくてもいいよ。ちょうどいいから二人分作っただけでさ。冷蔵庫に紅茶は残ってるし、残すなら僕が飲むよ」
「はあ……。大丈夫です、わかってます。宮澤さんがそういう人ではないってことぐらいは」
そういう人。
おそらく、文学研究会のコンパではそういう先輩がいたのだろう。未成年にも酒を強引に飲ませる手合が。僕の知りうる限り、そういう面相臭い先輩というのは、往々にして酒癖の悪い男だと相場が決まっている。きっと、それの女版が女子大にもいたのだろう。翔子はかつてそれに遭遇したに違いない。あげく、彼女は本を読むと吐き気を催すという体質だ。飲み会の席で、それがイジられなかったということはないだろう。アルコールにイヤな思い出があろうことは、容易に察しがついた。
彼女はしばらくのあいだグラスを見つめ、それから窓のほうに視線を移した。窓辺にはまだレースカーテンだけが引かれていて、暗闇のあいだに木立を見ることができた。
すると翔子はおもむろに立ち上がって、カーテンを引きに行った。まもなく木立は完全に隠されて、この家はシュレーディンガーの箱になった。
「あの、宮澤さん。ちょっと今日寒くないですか?」
「まあ、確かに夜は冷えるな。とくに今日は一段と」
「火、つけてもいいですか? 食べる前に」
そのとき彼女が指さしていたのは、ソファーの前の暖炉だった。かつて彼女が両親と囲んでギターを弾き、紅茶を飲んでいた、あの暖炉だ。
僕がタバコを吸うためにマッチを常備していたのは、ある意味好都合だったかもしれない。僕らはそのあとすぐに物置から古新聞紙と薪をとってきて、暖炉に火をつけた。初めは燃えやすい新聞紙から、徐々に薪へ。翔子は何度かここに来ているからか、点火には手慣れていた。点火にはとくに手こずることもなく、暖炉の火はものの数分で着火した。
暖炉からは、ぱちぱちと燃えさかる炎。いま別荘の明かりは、その炎だけだった。炎があるのだから、電気を灯すのがもったいない気がして。僕も翔子も電源に触れなかった。ただ暖かな火の光をたよりにして、食事を始めた。
「いいですね、なんだか。こういうの。むかしみたいで、とても懐かしい気がして」
席についた翔子は、そう言いながらフォークに手を伸ばした。ワインとアサリの煮汁の染み出したソース。トマトのからんだパスタ。それを巻き付けて、翔子は小さな口で頬張った。それから、彼女は流れるような動作でスプリッツァーを手に取った。自然に、あるがままに。彼女がアルコールを喉へ流し込んだことを、僕も気づかなかったぐらいだ。
「今日は無礼講ですから」
コトン、とグラスの置く音。もう半分ぐらい飲み干していた。
しかし翔子の目は酔っぱらった定まらない瞳でも、自信過剰の瞳でもなかった。その目は、あのセンチメンタルな瞳だった。過去への憧憬を求めて、失われたものを探す、あの瞳だ。
「そうだな。今日は無礼講だ」
僕も応じるようにスプリッツァーを飲んだ。それは夏らしいカクテルなのだけれど、このときばかりは盃に注がれた御神酒か何かのようにも思えた。
翔子は悪いと言ったけれど、洗い物は僕が担当した。彼女はひどく酔っていたし、皿を割りそうだったから。
「疲れているんだから、ソファーで休んでいるといいよ」
僕はそう言い聞かせると、普段は強情な彼女も、今日はすんなり言うことを聞いてくれた。多少は酔いが効いていたのだろう。
しかし翔子はあまりアルコールに強くないようだ。スプリッツァーは極めて弱いカクテルだ。一般的なスーパーで買える缶チューハイと同じぐらいか、それよりも低いぐらいだろう。にも関わらず、彼女の白い肌は赤らんで、肩は静かに揺れていた。ソファーの上で暖炉に向かい、体育座りする翔子は、まるで少女時代に回帰したようにさえ見えた。
洗い物を一通り終えてから、僕も暖炉にあたることにした。僕はソファーには座らず、絨毯の上であぐらをかいた。ちょうど僕の目線は、翔子の腰あたりになった。
体育座りでいる翔子は、ずっと黙り込んでいた。ただ彼女の頭のなかでは音楽が流れているようだ。父親が弾いていたギターだろうか。それがスカボロー・フェアなのか、エリザベス・マイ・ディアなのかはわからないけれど。ともかく揺れる彼女の肩は、音楽に乗せられているように思えた。ゆったりとリズムを刻むように見えたのだ。
「なにか飲むかい? コーヒーとか、紅茶とか?」
翔子は小さく首を縦に振った。肩を揺らしたまま、音楽に身を任せたまま。ぱちぱちとドラムビートを刻む薪にあわせて。
「あったかいコーヒー、あったらお願いします。砂糖とミルクたっぷりで」
「わかった。なかったら紅茶だけど、それでもいい?」
「お砂糖とミルクたっぷりなら」
「了解した」
よいしょ、と僕はジジくさいかけ声とともに立ち上がり、再びキッチンに向かった。まるでこの数分のあいだに一回りも二回りも年をとったような気分だった。でもきっとそれは僕が年老いたのではなくて、翔子が若返ったのだと思う。だから僕は相対的に老いたと感じたのだ。
小学生の自分に憧憬を求める彼女と、大学生の先輩に求める僕と。そのより所の差が、相対的な年齢差を生んでいたのだ。
インスタントコーヒーはあいにく買っていなかった。ティーパックなら持ち合わせがあったので、仕方なくそれで我慢してもらうことになった。砂糖たっぷりのミルクティー。もはやホットミルクの紅茶風味と言ったほうが言いような代物だった。
でも、翔子はそれで満足していた。赤らんだ顔のまま、体育座りのままで、彼女は静かに紅茶を飲んだ。その瞳は、相変わらず過去への憧憬に満ち満ちていた。
僕は残りのワインを飲みながら、床にあぐらをかいていた。明日には帰るのだから、ワインは消費しておきたかったのだ。
僕らはしばらくのあいだ暖炉が奏でる変調子のリズムに耳を傾けていた。翔子は相変わらず音楽に肩を揺らし、そしてときおりマグカップの紅茶に口をつけた。
「……ねえ、宮澤さん。聞いてくれますか」
「どうした、突然」
「いえ……。宮澤さん、今日は無礼講だって言いましたよね。わたし、ちょっぴり酔っぱらっちゃってるみたいで。その勢いって言ったら、なんですけど。聞いてくれますか?」
「なにを?」
「わたしの話……わたしの告白……わたしの吐き気の話……。お父さんの話です」
僕はワインを飲んだ。翔子はこれ以上飲まないだろうし、ラッパ飲みだった。
「いいよ。話してごらん」
「はい。……わたしの吐き気の理由、実は一つだけ心あたりがあるんです。でも、わたしはずっとそれを否定していた。なぜならそれは……その正体は、わたしの父だからなんです。わたしは父が好きです。でも、嫌いです。父が、わたしをこうしたんです」
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