シュプリッツェン
そのあと僕らは、公園近くの喫茶店で軽い昼食をとった。昨日の今日でまた昼もパスタというのもいけ好かなかったので、ランチはオムライスになった。
それから午後は、雲場池周辺の美術館や観光地を散策した。と言っても、僕はほとんど翔子に手を引かれるような形だったと思う。
「ほら、あそこです。あそこ。むかし父に連れてもらったんです」
翔子は、何かにつけて場所を指でさしては、僕に語ってくれた。父が連れていってくれたとか、むかし来たことがあるとか、そういう話を。僕にそう話すのが楽しくてたまらないようだった。自分のかつての思い出を僕に暴露するのが、好きで仕方ないようだった。
それは当然のことだと思う。人は、自分の好きなものを他人に押しつけるのが好きだ。僕も同じことを翔子にやった。久高先輩の本を押しつけ、それが生きている本なのだと謳った。結果的にそれは良かったのだが、しかしそれは僕の自己満足に過ぎなかったと思う。
そうして四時過ぎには、翔子も僕もヘトヘトになっていた。まだ日は高かったが、僕らは別荘に戻って休憩しようという話になった。
雲場池から別荘地までは、大した距離ではない。車で向かえば数十分というところだ。しかしそのわずかなあいだでも、翔子は眠りに落ちていた。それだけ彼女は童心に返り、遊び疲れていたのだと思う。実際、僕も眠気と戦うのに必死であったし。
しかし不思議に思った。友人が一人死んだというのに、僕は喪に服そうとも思わず、女性との関係を楽しんでいる。どうして悲しまずにいられるのだろう。死とは、悲しみではないのか。それとも、僕の涙は涸れ井戸だったのか。
助手席でうつらうつらしていた翔子も、さすがに別荘の近くまでくれば目を覚ました。それでもまぶたはトロンとして、今にも倒れてしまいそうだった。
そうして案の定ではあるが、翔子は別荘に戻るなり、そのままソファーに突っ伏してしまった。うつ伏せのまま、足をバタつかせて。古い言葉でいうなら、バタンキューというのが似合う光景だった。
「ちょっと、お昼寝させてください」
ソファーの上でゴロンと寝返りを打ち、翔子は言った。
いっぽうで僕は日陰にやっておいたペットボトルをとりにいった。どうしようもなく喉が乾いていたし、眠気覚ましに冷えた水はちょうどよかった。
「寝てもいいけど。そのまえに、今日の夕飯に何か食べたいものとかある?」
「ああ、それならわたしが作りますので、起こしてくれれば――」
「いいよ。今日くらい僕がぜんぶ作るよ。一日遊んで疲れただろう? それに、いつも料理を作りに来てくれるお礼だ」
「でも……」
「いいだろ、たまには僕だって料理がしたいんだ」
水を一杯飲み干してから、今度は冷蔵庫の中を確認。昨日の買い出しの残りは、まだたっぷりあった。トマトの水煮缶やら、アンチョビの缶詰だとか、アサリのパックもある。パスタもあるし、これはボンゴレ・ロッソなんかを作ってもいいだろう。ちょうど白ワインもあることだし。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「寝るならベッドに行ったほうがいいよ」
「大丈夫ですよ。昨日だって、宮澤さんソファーで寝てたじゃないですか。わたし、起きたらベッドにいて、すごいびっくりしたんですよ。それでせめてもの償いにと思って朝食を作ったりして……」
「だったらこれでおあいこだね。……お父さんの写真を見がてら、寝室に行ったらどう?」
僕がそう言ったとき、翔子の顔に微妙な反応があった。父というフレーズに条件反射的に反応したように思えた。
翔子は一瞬、口をモゴモゴと動かした。それは喉の奥から出かかった言葉を、唇でせき止めて咀嚼しているようだった。その言葉は発するべきか、否か。仮に発するとして、そのままでいいのか。それを考えているようだった。
しかしそうやって咀嚼された言葉は、やがて飲み込まれていった。
「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えて。ちょっと寝ますね」
黒髪を振り乱し、彼女は寝室へ。
僕はその後ろ姿を目で追いながら、夕食の支度に入った。
まずアサリをパックから出して、流水でよく洗った。水道から流れる水は、はたして信濃川の水なのだろうか? ともかく下処理を済ませると、キッチンペーパーの上へ置いておいた。
いっぽう鍋にはたっぷりの水。火にかけ、沸騰させておく。
かたやソース。昨日のタマネギとニンニクの余りを荒微塵に切っておく。フライパンにオリーヴオイルをかけ、熱したら、そこへ刻んだニンニクを投入。オリーヴオイルとにんにくは、共に炒めるといっそう食欲を誘う香りを放つ。
そうして香りの出たニンニクとオイルの中へみじん切りにしたタマネギを投入。軽く塩胡椒し、色がつき始めるまでじっくりと炒めていく。
今度は鍋の様子を見ながら、アサリの用意をする。水気の取れた貝ををフライパンの中へ。軽くささっと炒め合わせると、ようやく白ワインの登場である。僕は火の加減を見つつ、匙を使ってゆっくりとワインを注いだ。まるでそれはバースプーンのよう。それから匙に残ったワインは、スープを舐めとるようにいただいた。これぐらいは飲んでやらないとワインに失礼というものだ。
フライパンにはフタを与えよう。しばらくすると、アサリたちは熱に押し負けて大口を開け始める。フライパンの中は、蒸れて熱気でムンムン。アルコールがはじけ、香りが華やぐ。
さて、今度はそこへトマトの水煮缶とペーストを投入する。塩コショウ、ワインというシンプルな味付けに、真っ赤なソースを吐き出す。世界は真紅に染まり、一瞬でトマトの酸味がかった香りがすべてを支配した。
そうしてトマトを煮詰めている間に、パスタを茹で始める。鍋の中へねじったパスタの束を。僕が手を離した瞬間、パスタは鍋の中で花開いた。
これで料理はほぼ完成と言っていい。茹でられたパスタ。煮詰められたソースとアサリたち。アルデンテのパスタは、少々の茹で汁ととともにフライパンの中へ。トマトソースをあえるようにパスタに馴染ませれば、あとは盛りつけだけだ。
食器棚から年代物の深皿を二つ取り出した。花模様の縁取りの成された陶器は、ふだん僕が使っている安物とは、比べ物にならない。
皿へそこへトングを使ってねじるように盛りつけ。最後にバジルを散らして、オリーブオイルをまいてあげれば完成だ。
料理ができあがったころには、もう日が沈んでいた。レースカーテン越しに見えていた赤い光は、太陽が眠りへつく直前に見せた最期の光だった。
まぶしいほどの赤い光が終われば、その先は暗闇が待ち受けている。熱は陰に隠れてしまい、別荘地はひっそりと静まりかえった。闇の中の軽井沢は、涼しさを通り越して寒くさえあった。
だからだろうか。僕はひとしきりできあがったボンゴレロッソを眺めてから、ワインボトルを手に取ったのだ。
ダイニングテーブルに二人分のパスタを配膳してから、僕はワインボトル片手に冷蔵庫へ。中にあるものを確認した。使えそうなものは――レモンが半切れと、ウィルキンソンのソーダが一本あった。
もう一度キッチンに戻ると、グラスを二脚用意した。そうして二つのグラスにワインを少しずつ注ぎ、それをソーダで割ってかるくステア。あとは包丁でレモンをスライスし、浮かべてやった。スプリッツァーだ。夏らしい寒さは、僕にカクテルを作るよう命じたのだろう。
そうして夕食のボンゴレロッソにスプリッツァーができたところで、翔子が起きてきた。奥の寝室から不規則な足音。暗闇のなか、一歩一歩足場を確認するような音だった。
「おはようございます……すみません、思ったより寝てしまって……」
「いいよ。それより夕飯ができた」
眠い目をこすり、なんとか視界を開かせる翔子。ダイニングテーブルを見たところで、彼女の顔には表情が戻った。
「わぁ、すごい。これ、宮澤さんが作ったんですか?」
「まあ。一人暮らしが長ければ、これぐらいできるようになるよ」
僕は蛇口で手を洗いながら答えた。タオルで手を拭いて、ダイニングへ戻る。
「さあ、食べよう。なにもかも、冷めないうちにさ」
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