盂蘭盆の匂い

     *


「まずおまえに謝らなくちゃいけないな、宮澤。突然いなくなったりして、本当にすまなかった」

「本当だよ。おまえ、どこに行ってたんだ? 大学はどうしたんだ?」

「先日、単位不足で退学処分になったよ」

 彼はケラケラ笑いながらそう言った。しかし、笑い事などではなかった。

「じゃあ、あのあと大学には――」

「行ってない。実はな、あのあと少し働いてみたんだ。親には大学に行っているとウソをついて、ずっとアルバイトをしていた。いろいろやったよ。コンビニ店員から、数取器をもって一日中で人を数えたりもした。倉庫で延々と大荷物を運び出す仕事もした。そうだ、出版社の編集部に行ったりもしたよ。だけど、どれも長続きしなかった。どれをやっても、結局自分には合ってないと思えたんだ。

 でも、そのおかげで金は貯まったんだ。俺はそれで旅に出ることにした。携帯電話やそのほか諸々を全部解約して。まさしく着の身着のままいったんだ。荷物は財布と着替え、歯ブラシセットだけだった。

 いろいろ行ったよ。インド、チベット、中国まで行ったし。ヨーロッパも行ったよ。このあいだまではドイツ経由でアムステルダムにいた。で、いまはイギリスにいる」

「そしてイギリスで自殺するのか。これから」

「ああ。できるだけ早く、決心が揺らがない内にね。でもな宮澤、俺はいまものすごく心が晴れ晴れしている。なあ、俺が大学を出る前、おまえと話をしただろう? ひどく抽象的な相談をしたはずだ」

「というより、愚痴に付き合わされた」

「ちがいない。でも、あのときおまえは、俺に最大のアドバイスをくれた。出力しろって。何か形にしろってさ」

「ああ、確かに言った。……遺書でも書いたのか?」

「それよりずっと良いものだ。実はチベットにいたとき、旅の途中でギターをもらったんだ。もう何十年も前のアコースティックギターだ。使わないからあげると言われてね。今も背中に背負ってるよ。それで、そのときにおまえの言葉を思い出したんだ。何か形にしろって。ひらめいたよ、俺は音楽を作ろうと思ったんだ。そしてさっき、曲ができた。

 イーストボーンの崖にいると言ったよな? 実はその崖の前には、広い芝生が広がってるんだ。俺はそこでギターを広げて、自然の語りかけるままに音楽をつづった。俺の知りうる限りのコードや、ペンタトニックで。適当にな。そうしたら、今まで聞いた中でもっとも美しい曲ができたんだ。俺は不思議に涙が出ていたし、通りすがりの親子が笑ってくれた。そうしたらな、もう俺の人生はここで終わってもいいような気がしたんだ。いままで悩んだことや、苦痛に抗おうとしていたこと、そのすべてがどうでもいいように思えたんだ。すべてが赦されたように思えた。俺はこの瞬間、この音を出力するために生きていたんだと思えたんだ。……だから、死のうと思う」

「そうか、わかった」

「引き留めないんだな」

「自殺を試みる者に言ってはいけない言葉は、『誰かが悲しむ』だとか、そういった死を引き留める言葉だ。死を求める者が望んでいるのは魂の充足であり、他者からの要求なんかじゃない。自己の要求だ。……僕も君の同類だ、それぐらい分かるよ。君も僕もいつか死ぬし、その運命は誰にだって変えられない。それぐらい、わかっている」

「そうだな。やっぱりおまえに電話してよかった。……ありがとう、宮澤」

「いいよ。それより、おまえの見つけたそのとやらを聞きたかったよ」

「残念。それは、おまえ自身が見つけるものだよ。実は俺が言いたかったアドバイスというのが、まさにそれなんだ。いいか宮澤、おまえは、おまえ自身でそれを見つけるんだ。自分が作り出すべき最高の音を。そうしたら、すべてがうまくいくようになる。……おまえの幸運を祈ってるよ。いつまでも、あの世でも」

「ああ、僕もだ」

 そのとき、池の向こう側に翔子の姿が見えた。二人分のカップを小脇に抱えて、大きく僕に手を振る彼女。その口はきっと僕の名を呼んでいたのだろうけど、僕の耳には届かなかった。

「じゃあな、宮澤。俺は好きだったよ、おまえのこと」

 直後、通話は一方的に切られた。


 しばらく僕は携帯電話を持ったまま、呆然と芝生の上に座り込んでいた。

 ――池野はもう死んだのだろうか。

 僕はふと、ロンドンとの時差を確認した。サマータイムを含めて八時間差。いまイングランドは早朝で、日が射し込んできたばかりというころだろう。おそらく池野のヤツは、日の出をみながらゆっくりと僕に電話したに違いない。

 しばらくのあいだ、彼のことを思いながら自然を見ていた。池の周囲に広がる遊歩道と、芝生。僕は青々と茂るその上に座り込み、彼の電話を受けていた。池野も同じく芝生の上にいると言っていた。そしてそこでギターを鳴らして、最高の音が出たから、もう死ぬのだと言った。

 もちろんその音が出たというだけが彼の死の要因ではないだろう。しかし、その決定打になったことは違いない。一つの音の響きは、一人の男の人生を終えさせるほどの魔力を持っていたのだ。

 風が吹いた。芝生を揺らし、僕の頬を撫でていく、一陣の風。僕はそれがまるでイングランドより吹き付けてきたように思えた。僕の頬を撫でたように、池野の頬も撫でていったのだと、そう感じられた。

 だけどその風はすぐに止んでしまった。それは池野が事切れたことを示すような、そんな静寂だった。

 しかし静寂は新たな訪れの予感でもある。息吹が止んだところで、翔子がコーヒー片手にやってきたのだ。

「お待たせしました。宮澤さん、ブラックでよかったですか? いちおうコーヒーとガムシロップはもらって来たんですけど」

「ありがとう。ブラックでいいよ」

 プラカップに注がれたアイスコーヒー。結露したカップを受け取って、僕は冷たい液体を飲んだ。ストローをくわえると、タバコを吸っているように思えた。

 また風が吹いた。

 どこからか盂蘭盆のにおいがした。


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