哲学特講Ⅲ

 池野のことは、僕もよく覚えている。やつは哲学科生で学科こそ僕とは違ったが、それでも僕らは同学年で、友人だった。そして彼は、僕にパニック障害だと告白した。彼はその告白について、「誰かにこの思いを吐きたかったのだ」と語っていた。

 当時僕はその告白をどう受け止めればいいか分からず、ただ気にしない素振りをしていた。

 だが、僕らの話というのは、ただそれだけではなかった。つづきがあるのだ。


 僕と池野が出会った経緯は、もう思い出せない。ただ僕らが毎週一緒に出ていた授業だけは思い出せる。哲学特講Ⅲだ。

 それは木曜の五限にある授業で、教室は地下の大教室だった。しかし出席も試験もやらないうえ、採点はレポートのみという放任主義な講義のため、大教室が大教室の役割を果たすことはあまりなかった。見せかけの履修者の代わりに、空気ばかりが出席する講義だったのだ。年に二回ほど大教室が意味を持つ日もあったが、それは学期末のレポート題目発表の日のことだ。それ以外は、百人以上収容可能な講義室に、片手で数えられるほどの学生しか出席していなかった。

 僕らは、そんな授業を最前列で受ける奇特な人間だった。実を言うと、僕は池野にその授業へ誘われたのだ。

「おもしろいから、来てみろよ」

 そう言われて、僕は履修もしていない授業を最前列で受けるようになった。実際、その教授の話はおもしろかったし、僕の小説のなかで活かされていた。だから、池野は僕にとって良き友人の一人であったのだ。

 そうしてそのというのは、哲学特講Ⅲがあった放課後に起きたのだ。


 それは夏の盛りのことだった。七月、学期末の授業。しかしレポートの題目発表はもう終わっていて、相変わらず教室は閑古鳥が鳴いていた。

 僕らは例によって最前列の席に陣取り、ノートをとりながら教授と談笑を続けていた。もはや学期末になると、それは講義というより井戸端会議の様相をていしていた。池野は特に熱心な学生であったから、彼の質問をベースに教授が話を進めるというような、そんな講義を展開しているぐらいだった。

 そうしてそんな授業を終えたあと、僕らはエレベーターに乗り込み、講義棟の屋上まで向かった。目的は、屋上にある喫煙所だった。

 講義棟の屋上に喫煙所があることは、あまり学生のうちでは知られていなかった。そもそも屋上まであがるのも面倒くさいし、講師陣とばったり出くわす可能性もあるからだ。もっとも教授の多くは自身の研究室で一服するので、ほとんどの場合もぬけの殻であったのだが。

 ゆえに衆人環視を嫌うパニック障害の池野にとっても、人見知りの僕にとっても、講義棟屋上の喫煙所というのは、非常に都合が良かったのだ。

 その日の夕方、真夏の屋上は夕日に赤く燃やされ、しかし夜の息吹に囲まれつつあった。周囲の建物より頭一つ抜けた講義棟屋上は、否応なしに気分を大きくさせてくれた。

「なあ、宮澤。ひとついいか?」

 池野はそう言ったところで、胸ポケットからガラムを一本取り出した。オイルライターで火をつけると、どこか盂蘭盆うらぼんのような懐かしいにおいが広がった。

「なんだ、急に」

「いや……。ちょっとした相談があるんだ。おまえにしかできない相談だ。……なあ、俺はこれからどうすればいいと思う?」

「どうすればって。ずいぶん漠然とした相談だな」

「ああ、言葉足らずなのは申し訳ないと思っている。でも、全体を述べるにはこうとしか言い表せないんだ。つまり、それは俺の進路というか、この先どうすればいいというか――」

「院進か就職かとか、そういう話か?」

「そういう話でもある」

 池野は煙を吐き出した。うっすらと髭の伸びた口元から、淡い紫煙が立ち上った。しかしそれはまもなくビル風に連れ去られ、どこかに消えてしまった。

「仮に就職を目指すとしよう。しかし、おまえは分かっているだろうが、俺は障害を持っている。おまえはそれを羨んでいたな? 障害があるから優遇される。障害者雇用があるじゃないかと。でも、だからどうしたというのだ。健常者より枠は狭いし、条件も厳しい。曰く、躁鬱で笑顔が作れないという理由だけで、この世は社会からの迫害をせまるらしい。人前では常に、どんなに辛いことがあっても、それを顔に出さないことが是とされるらしいんだ。それだけじゃない。俺は自分でも不可知のうちに感じていた精神的苦痛が、こうして肉体に悪影響を及ぼしている。しかし往々にして社会というのは、それは自分の危機管理能力の至らなさが原因であると云うらしい。だから、障害者雇用を強いられるというのだ。……理屈はわかるよ。でも、おまえはこれに頷けるか? 責任を押し付けるのは誰にだってできるさ。でも、押し付けられた側は何もできない。いかに理不尽でも、黙るしかできないんだよ。どう思う、お前は」

「……さあな。僕は作家になりたいんだ。仕事に就こうなんて、考えてない。世捨て人になりたいんだ」

「でもおまえは、仮にも書店員として働いているだろう? だがな、俺には何もないんだよ、宮澤」

「じゃあ、院に進めばいい。おまえは熱心じゃないか。ゆくゆくは教授にだって――」

「それはダメだ。親が反対しているんだ。わかるだろ? 俺はすでに浪人も中退も経験しているんだ。親父は院進なんて絶対にさせんと言いやがったよ」

 池野はまた煙を吸った。

 しかし、彼はすぐにせき込んでしまった。ヘヴィスモーカーである彼がむせる姿など、目撃したのは後にも先にもこのときだけだった。

 彼は一通り吸ったものを吐き出してから、まぶたに浮かんだ涙を拭った。それは純粋な苦痛からの涙。体が示した、正しい拒絶反応だった。

「すまんな。きっと俺は、ただ口にしたかっただけなんだ。俺が思っていたこと。殻の内に秘めていた鬱憤であったり、なにか黒いモノを……。それらを誰かに語り聞かせることで、少しでも気分が軽くなると思ったんだ。おまえに相談したかったなんて、本当は言い訳だ。すまんな、付き合わせて」

「かまわないよ。吐きたければ、吐けばいい。吐けるのならな。……それより、君の言ったことは正しいよ、池野。自分のうちに秘めているものは、一度なにかしら形あるものとして出力するべきだ。それは話し言葉であっても良いし、なにか作品としてでもいい。音楽でも、小説でも」

「おまえはそうやって小説を書いているのか、宮澤?」

「半分正解かな。世の中への視線だったり、僕が思う、あるいは僕が捉えた世界を外界へ出力している。それがたまたま文章という形態をとっただけのことさ」

「そうか。出力、するね」

 言って、池野はもう一度タバコを吸った。もう彼はむせなかった。

「やってみるよ。なにか出力してみる」

「ああ。試してみてよ」

 それがその日、僕らの最期の会話だった。それから僕らはタバコを吸い終え、お互いに駅に向かって歩き出した。彼は実家方面の地下鉄駅へ。僕は下宿先へ。お互いに別れの挨拶などなかった。ただ背中を向き合わせるだけだった。

 そしてその日以降、池野が哲学特講Ⅲに現れることはなかった。

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