非通知発信

 そうして着いた雲場池は、確かに美しい公園だった。青々と茂る木々からは、夏らしい蝉の声。それが鏡のような水面に反射して、世界中に響きわたっていた。

 公園の近くには外国人墓地や、美術館なども立ち並んでいた。しかし僕らはそのどれにも目を向けず、池近くの木陰に腰を下ろしていた。レジャーシートも何も持ってきていなかったから、適当な芝生の上に。ちょうど池を一望できる位置だった。

 僕の隣で体育座りする翔子。彼女は木陰の下、一枚の写真を手に池の様子を見ていた。その写真というは、昨日僕が寝室で倒して回ったなかの一枚だった。翔子が写真立て抜き取ってきたのだろう。

 写真には、家族三人の仲むつまじい様子が写されていた。カメラに向かってピースサインする幼い翔子。その肩を支えるのは、彼女の母親。そして大慌てでフレームインしていたのが父親だった。タイマー撮影で撮ったのだろう。父親の焦りっぷりがよく切り取られた一枚だった。息をあえがせるように大きく口を開けて、今にも動き出しそうな躍動感ある手足。それを笑う母と、レンズしか見えていない翔子。

「これ、ここで撮ったんですよ。十年以上前、ここで」

 そう言って、翔子は僕にも写真を見せてくれた。

 たしかに。見れば左下には、二〇〇三年の八月と十五日あった。いまから十四年前のこと。翔子は当時五歳。僕は八歳。まだ両手で年の数えられるころだった。

「この場所で、みんなで撮ったんです。デジカメとか使えばよかったのに、お父さんってばフィルムカメラにこだわって。だからタイマーがうまくできなくって。……だからこんな風になってるんです。五歳のころの記憶なんてほとんどないんですけど、このときのことだけはハッキリ覚えてるんです。ここに来たってことは、ちゃんと」

「いい思い出だったから、覚えてたんだろうね」

 僕がそう言うと、翔子は大きくうなずいた。

「はい。だからここに来たかったんです。思い出を、思い出したくって……。すみません、なにからなにまで付き合わせてしまって」

 そのとき、翔子はまたあの目をした。

 過去への憧憬。失われた何かを求め、遠い空を仰ぎ見るような。空を通じ、時空の彼方、消え去った時を探すような目。僕が久高先輩にしているようなまなざしを。

「……すみません。せっかく遊びにきたのに、なんかしんみりさせちゃって。わたし、飲み物でも買ってきますね。宮澤さん、何かほしいものありますか?」

「いや、いいよ、別に。そんな気使わなくても」

「そんなこと言わないでください。運転手を引き受けてくださった、せめてものお礼です。コーヒーでいいですか?」

「ああ……じゃあ、コーヒーで」

「はい、わかりました」

 そう口にしたとき、翔子は再び微笑みを取り戻していた。

 しかし、僕はこのとき気づいたのだ。彼女の微笑み。書店で初めて会ったとき、公園で再会したとき、そしていま。彼女が見せる笑みというのは、かりそめのモノに過ぎないと。それは仮面であり、裏には先ほどのような目が隠れていると。僕は気づいてしまった。


 翔子は公園近くの喫茶店までコーヒーを買い行った。そのあいだ僕は、一人木陰の下でくつろぐよりなかった。

 夏休みということもあってか、家族連れがやけに目立った。若い夫婦が幼い子供を連れ、池を囲む遊歩道を歩いている。ベビーカーを押す父親と、日傘を差す母親。ポロシャツ姿の父親は、ときおり水分補給にスポーツドリンクを飲みつつ、我が子に語りかけていた。

 僕は読心術が使えるわけでもないし、特段聴覚がいいわけでもない。だからその親子が何を話しているかはわからなかった。しかし彼らの話す物語は、十四年前に翔子たち家族が口にしたものと同じなのだろうと、僕はそう思った。

 過去への憧憬。

 これがそうなのだろう。頭のなかに付いて離れないもの。僕が先輩のことを思うように――

 と、そのときだった。尻のポケットで携帯が震えたのだ。長いバイブレーションはメールではなく、通話だった。

 はじめ僕は、それが久高先輩からの通話だと思った。あの人が僕をからかおうとしているのだと思った。というよりも、そうあって欲しいと願う自分がいた。しかし、その願いに反して発信者は先輩ではなかった。

 ポケットから取り出し、画面に目を落とす。そこにあったのは「非通知」という表示だった。非通知発信なんて、滅多にあるものではない。僕は一時、それに応じるべきか否か迷った。十五秒ほど迷ったと思う。結果として僕は応じたのだけど、出たあとになって応じて良かったと神に感謝することになった。

「もしもし。どちらさまですか?」

「……宮澤悠の携帯で合ってるか……?」

 男の声だった。それも低く、しゃがれて、凍えるように震えた声だった。いまにも事切れてしまいそうなぐらい細く、揺れていた。

「そうですが……。どちらさまでしょうか?」

「国際電話なんだ。手短に済ませたい。俺のことがわかるか、宮澤?」

「……まさか、おまえ……?」

「もしかして覚えていてくれたか? 俺だよ、池野だ。大学のときに一緒だった」

 ――池野。

 僕はしっかりと覚えている。池野。哲学科の友人。僕にパニック障害であると告白した、あの男だ。

「懐かしいな。どうして急に?」

「君にどうしても話したいことがあったんだ、宮澤。俺の話を聞いてくれたのは、おまえだけだったからな」

「おまえの話って……。なんのことだ? 池野、おまえは今どこにいるんだ? ずいぶん声が震えているが――」

「イギリスだ」彼は、僕の言葉を遮るように言った。「正確には、イーストボーン。あとでネットで調べてみるといい。そこに巨大な白亜チョークの崖がある。いま、俺はそこにいる」

「どうしてそんなところに?」

「死ぬためさ」

「なんだって?」

 僕は聞こえていたのに、わざと聞き返した。

「自殺するんだよ、これから。それをおまえに言いたかったんだ」

「どうして僕なんかに……」

「おまえだけが真剣に俺の話を聞いてくれたからさ。おまえだけが、俺を救おうとしてくれたからだ。だから、俺は謝りたいと思った。それから、お礼代わりに助言をしたいと思った。だからこうして、おまえに遺言代わりに電話をしている。ああ、だが安心してくれ。遺書はほかに用意してあるから、おまえのとこに警察がやってきて、面倒くさい取り調べなんかをすることはない。恩人に迷惑をかけるわけにはいかないからな。安心してくれ。俺は、俺のなかに留まったまま死ぬよ」

「池野、おまえは――」

「やめてくれ。それ以上の言葉は言うな。ただおまえは、俺の言葉を聞いていてくれ。いいな?」

 僕は黙ってそれに応じた。

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