でも僕は蛆虫だ

 そのあと僕は翔子の言葉に甘えてシャワーを浴びた。それがだいたい七時頃だったろう。

 これまでずっと都会の喧噪のなかで生活していた僕にとって、軽井沢の環境は異質なものだった。さすがは避暑地と言うべきか。日が沈むや否や、ぐっと冷え込み始めたのだ。八月というのに、肌寒くさえ感じられたほどだ。だから自然とシャワーを浴びる時間は長くなったし、湯船に浸かりたいとも思った。

 それから寝間着に着替えると、僕はギターを直すために工具箱を取りに行った。

 素足にスニーカーを履いて、夜の庭へ。裸足だと、夜風が直に感じられる気がした。林の中を風が吹きすさぶたびに、その冷たさが靴の間を通って、僕の肌を愛撫していった。風は心地よい温度になっては、足をつかんで、どこかへ連れ去ってしまいそうだった。柔らかな土は僕に浮遊感を与え、風はさらうように吹いていく。僕はここにいない気がした。

 外はすっかり暗くなっていた。街灯もないから、なおのこと暗い。あるのは星明かりだけだ。人工の輝きは、別荘から漏れ出でるランタンの灯以外に存在しなかった。

 それでも、星明かりでじゅうぶん足もとは見えた。もっとも、さすがに物置の中を漁れるほどの光量はなかった。なので物置までつくと、僕はスマートフォンを懐中電灯代わりにして工具箱を探した。写真撮影用のフラッシュライト。それが強烈な光を放つや、星明かりは恥じらいながらどこかに消えてしまった。

 工具箱は真っ赤なケースだったので、すぐに見つかった。だけど、僕は星明かりを散らしてしまったことに一抹の罪悪感を覚えていた。


 工具箱片手に部屋に戻った。

 夜の軽井沢は冷たい風が吹き付けている。夏の暑さを消し飛ばす、肌寒い風。ソファーに座る翔子は、ランタンの小さな明かりの下、毛布にくるまって紅茶を飲んでいた。猫のようにまるまる彼女は、まるで冬のようだった。

「工具箱、見つかりましたか?」

「ああ。ギターは?」

 彼女はソファーに立てかけられたギターを手に取った。動かすたびに弦が振動し、ホロウボディが共振した。

 僕はギターを受け取ると、絨毯のうえにそれを広げた。工具箱も、錆び付いた取っ手を強引に開け放って、中の工具を広げた。とはいえ、必要なのはドライバーとラジオペンチだけだ。

 まずは弦を外す。古びた糸巻きペグをペンチで強引に回して、ナイロン弦をゆるめる。ペグから弦を外すと、ボールエンドから抜き取った。

 続いて弦のなくなった指板フィンガー・ボードを掃除する。昼間使っていた雑巾のあまりで丁寧に拭いていく。レモンオイルはないので、そこは妥協。でも掃除にはじゅうぶんだ。ボディのホコリも落として、十数年来の汚れを亡き者にしていった。

 これで大まかな手入れは整った。ほとんど修理しなくてもいい美品だったのは、まったく幸運だろう。あとはゆるんだペグをドライバーで固定して、弦を張り直すだけだった。

 そんな一連の蘇生作業を翔子は物珍しそうな目で見ていた。

「ギターって、そういう風にお手入れするんですね」

「ああ。まあ、いちおう楽器だしね。丁寧に扱わないと。トランペットやピアノだって、そこらへんに投げておくわけないだろう?」

「たしかに。どうです、弾けそうですか?」

「うん。あとは弦を張り直して、チューニングをするだけだね」

 六弦から。太いナイロン弦を張り直す。劣化していたが、まだ千切れそうにはない。三日ぐらいなら十分保ちそうだ。

 すべての弦を張り終えたら、スマートフォンで適当なアプリを落とした。ギター・チューナーぐらいなら、無料で手に入る。まったく山奥だが、電波が届いていて幸いだ。

 そうして錆び付いたペグを強引にペンチで回し、何とかチューニングは完了した。試しにCメジャーで押さえて見ると、ちゃんとその音がした。

「わあ、すごい。宮澤さん、せっかくですし何か弾いてくださいよ」

「何かって言われても、そうだなぁ……。僕は君のお父さんみたくフォークソングは弾けないよ。それに、長いこと弾いてないから、うまくできるかどうかもわからないし。カンタンな曲なら弾けると思うけど……」

 Cメジャーをかき鳴らす。それからEメジャー、Fメジャー、Fマイナーへ。

 僕はしばらくのあいだレディオヘッドを弾き続けた。でも翔子はその歌を知らなかったし、僕も弾き語りできるほどの腕前はなかった。


     †


 あなたが まだここにいたとき、

 ぼくは、あなたを見ることすらできなかった。

 あなたは 詩聖のようで、

 ぼくは、言の葉に燃やされていた。


 あなたは 翼のようだった、

 この醜い世界のなかで。

 ぼくは、あなたの特別でありたかった、

 クソったれな特別に。


 でもぼくはクソ野郎なんだ、

 どうしようもないクソなんだ。

 どうしてここにいるんだ、

 あなたはここにいちゃいけないのに。


     †


 しばらく僕はギターを弾いていた。レディオヘッドの曲を繰り返し、何度も。今の僕にはそれしか弾けなかったから。

 もちろんほかの曲も暗譜していたはずだ。たとえばザ・スミスの『ガールフレンド・イン・ア・コーマ』ぐらいなら弾けたと思う。けれど、いざGメジャーから始めようとしたら、右手は止まってしまったのだ。それは僕の無意識が「彼女は昏睡状態コーマである」ということを認めないようだった。だから僕は、自分がクソ野郎だと弾き続けるしかなかった。

 しばらく弾いていると、僕はある吐息に気づいた。翔子の寝息だった。ソファーに横たわり、本を読みながら僕のヘタクソなギターを聴いているうちに寝てしまっていたのだ。

 よく「本当に良い音楽というものは人をリラックスさせ、寝させてしまう」というが、しかし僕のギターにそれほどの効果はなかったろう。翔子は純粋に疲れていたのだと思う。東京から軽井沢に来て、半日かけて掃除して……。むしろ華奢な彼女によくそれだけの体力があったというものだ。

 僕は彼女を起こさないよう静かにギターをおろすと、彼女膝と肩に手を回して抱き抱えた。一瞬、翔子は寝返りを打つように首をもたげた。しかし意識は完全に夢の中で、僕のことなど気にしていないようだった。彼女は夢の中、静かな吐息を漏らすだけだ。

 それから僕は彼女を抱き抱えたまま、寝室に運び込んだ。キングサイズのベッドは、かつて翔子の両親の愛の巣だったのだろう。それから家族の憩いの場になり、いまでは彼女のものになった。

 翔子をベッドに寝かせると、その上から毛布をかけてやった。軽井沢の夜は冷える。彼女には、まだこの夜の世界から身を守る盾が必要だ。僕や先輩と違って、まだ磨耗していないのだから。


 翔子をベッドに寝かしてから、僕はリビングに戻った。僕は初めからソファーで寝るつもりだったし、彼女が先に寝たのは好都合だった。お人好しでまじめで、律儀な彼女のことだ。もし僕が「ソファーで寝るから、君はベッドで寝ろ」などと言い出したら、「いいえ、わたしがソファーで寝ます。もとはといえば、わたしが宮澤さんを付き合わせたんですから」とか何とか言っていたはずだ。

 ――翔子は純粋すぎる。

 まじめ過ぎるし、お人好しが過ぎる。彼女がそれを自認しているかは、わからない。だけど、いずれそんなまじめさが彼女を滅ぼすのは、何となく察しがついた。純粋であることは、同時にナイーヴで傷つきやすいことでもある。鈍感でないことは、それだけ傷を受けるということだ。彼女の本が読めないことも、きっとそういうことなのだろう。

 僕はソファーに腰掛けると、体を横にした。そのまま眠ろうと思ったのだ。

 壁掛け時計が奏でる秒刻みの音楽60BPMに耳を傾けながら、しばらくのあいだ目をつむった。しかしそうしているうち、その音楽がひどく耳障りなものに思えてきた。まるで刻一刻と過ぎていく時を僕に囁いているようで。

 僕はたまらなくなって、イヤホンを耳にさした。そうしてレディオヘッドを聴きながら、眠りにつくことにした。

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