スターゲイジング

 別荘に戻ったとき、翔子はソファーに座って本を読んでいた。シャワーを浴びてきた彼女は、服も部屋着に代わっていた。白いTシャツに、濃紺のキュロットパンツ。髪は乾いていたが、しかしわずかに湿気と石鹸の匂いを放っていた。そしてもちろん、彼女が読んでいたのは久高先輩の小説だった。

「あ、おかえりなさい。なにかいいものはありましたか?」

「まあ。ガス缶と、あとこれ」

 僕がレジ袋から取り出したのは、白ぶどうのワイン。鮮やかな若草色をしたボトルだった。

「お酒、ですか? 飲んでも構いませんが、わたしは飲みませんよ」

「わかってる。僕は無理やり後輩に飲ませるような面倒くさい先輩じゃないよ。まあでも、ワインなら料理酒としても使えるだろう? パスタを作るなら、なおさら。魚なんかに使えば、きっといい味になるはずだよ」

「たしかに、それもそうですね。あっ、それなら近くに公園があって、そこで釣りができるんですよ。釣り竿があればの話ですけど」

「じゃあ、それは明日だな」

 僕はそういうと、買ってきたワインを日陰のほうにやった。ちょうど冷めた空気が天然のワインクーラーになっていた。


 それからは、穏やかに夕方が過ぎていった。

 翔子はキッチンでハーブティーを淹れ、それを飲みながら読書を。いっぽう僕は彼女を邪魔することなく、別荘とその周辺の散策に興じていた。

 子供の頃、友達の家を歩き回るのは楽しかった。見てはいけないと言われると、なおさら。自分の家にはない珍しいものを見つけると、宝物でも見つけたような気分になった。きっと、それに近い感覚だろう。

 ログハウスのような別荘は、木の温もりによって相対的な生の充足が感じられた。庭には苔むした大地と、生い茂る木々。踏みしめるたびにキシキシと音をたてる湿った土壌。柔らかな土は、東京のアスファルトとは明らかに違った。生命とは、柔軟であること。それを自ら体現しているようだった。

 散策の途中で僕は、裏庭の倉庫を見つけた。といっても、倉庫と言うよりは物置小屋に近かった。金属製の物置は、百人も乗れないような大きさだった。中にはホウキだとか、モップだとか。あとは壊れかけたオモチャだとかが詰め込まれていた。きっと、かつて翔子がここで遊んでいたモノだろう。縄跳びや、フラフープ。劣化し色の剥げた水鉄砲なんかもあった。

 しかし、そんな中でひときわ僕の目を惹くものがあった。それはギターだった。

 ひょうたんのような大きめのホロウボディ。傷はあったが、そこまで酷い損傷でもない。弦はナイロンのものが辛うじて張ってあった。が、糸巻きペグはずいぶんとゆるく留められていて、かなり張力に余裕があるように見えた。ためしに六弦をはじいてみたが、ブウゥゥーン……という調子外れな音が響くばかりだった。調律なんてあったものではない。それは、楽器としての要件を満たしていないように思われた。しかし、十分快復しうるようにも見えた。

 物置から引っ張り出して見ると、それは相当な珍品であると分かった。クラシック・ギターのようなペグ。しかし金属製で、ボルト同士の幅も少し広い。現代の規格ではなく、完全に当時の独自規格なのだろう。ブリッジも一般的なクラシック・ギターのようには見えず、むしろフォーク・ギターのようにも見えた。しかし張ってあるのはナイロン弦だ。まったく何になりたいのか、何をしたいのか、何もはっきりしない品だった。

 だから僕は、こいつに惚れたのかもしれない。路頭に迷う男の象徴のような、調子外れの、的外れの、音楽を奏でることもできないギター。

 もしかしたら僕は、こいつに同情していたのやもしれない。


 ギターを持って屋内に戻ると、もう日は沈み始めようとしていた。さすがは山奥、日の入りは遅く、沈みは早かった。

 翔子は、読書は一段落したのだろう。キッチンで鍋に火をかけているところだった。

「あれ、どうしたんですかそれ」

「裏の物置で見つけてきた。これ、このウチのものだよね?」

「はい。むかし父が弾いていたものだと思います。こんなところにあったんですね……。宮澤さん、ギター弾けるんですか?」

「初心者に毛が生えた程度には。まあ、こいつは少し修理が必要だろうけど……。料理、手伝うよ。パスタだろう?」

「はい。じゃあ、こっちのお野菜を切ってもらえますか?」

「まかせろ」

 僕はそういうと、ギターをソファーに立てかけてから、まず手を洗うことにした。


     *


 タマネギを荒微塵に刻むところから始まった調理は、続いてオリーヴ・オイルを熱し、挽き肉を炒めるところに入った。あめ色になったタマネギに、程良く焦げ付いた牛豚の合い挽き肉。塩と胡椒を散らして味を調えると、そこへワインを軽く注ぐ。ガスが勢いよく火を焚きつけると、熱せられたワインの香りと肉の相性が、キッチンを包んだ。

 今度はそこへスープストックが少々と、トマトの水煮缶。水気がなくなるまで炒める。トマトの赤は深さを増し、粘性が増していった。

 最後にパスタの上にかければ、ミートソース・スパゲティの完成。お好みでパルミジャーノをどうぞ。


     *


 夕飯が出来たのは、だいたい夕方の八時ごろだった。一時間おきに鐘を鳴らす置き時計がリン・ゴーンとノスタルジックな音色を奏でたころだった。

 僕らはキッチンカウンターを挟んで、立ったままパスタを食べた。ダイニングテーブルまで行ってもよかったのだが、それ以上に腹が減っていたのだ。

 肉感のあるミートソース。タマネギの甘さがコクを生む。どろどろになるまで煮詰められたトマトソースは、それらうまみを凝縮し、またパスタと絡み合っていた。

「そういえばあれ、どうするんですか?」

 半分ほどパスタを食べ終えたところで、翔子が言った。彼女の目線は、例のギターを指していた。ソファーに寂しく立てかけられた、古ぼけたギター。

「ああ。直せるんじゃないかと思ってさ。あれ、親父さんのだって?」

「たぶんですけど。寝室に写真立てがあったと思うんですけど、ギター抱えた父の写真とかありませんでした?」

 僕は掃除のときのことを思い出してみる。

 寝室の写真立て。僕は妙な決まりの悪さを覚えて、みんな倒してしまった。だから詳しくは見ていなかった。

「むかしは、よく家族三人でここに来たんです。父と、母と、わたしの三人で。父はもともと地方出身者だったので、娘には自然とふれあう機会を与えたかったらしいんです」

「それで別荘を買ったわけ?」

「ええ。それで夜になると、みんなで暖炉の火を囲んだりしました。父はギターを弾いて、わたしはそれに合わせて歌って……。楽しかった、という記憶はあります。小学生のころなので、もうだいぶ記憶もおぼろげですけどね。母が紅茶を淹れてくれて、それをゆっくり飲みながら、父が歌っていました。古いイギリスの民謡とか、いろいろ。いわゆるフォークソングですね。スカボロー・フェアとか、そういうのです。……まあ、もう遠い昔の話ですけどね」

 そのつぶやく翔子の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。

 失われた何かを求める瞳。どこかに消えてしまった憧憬を求めて、はるか遠い過去を見据える。そんな瞳だった。まるで僕が先輩を求めるときのような。星を見上げるスターゲイジングような。

 しばらく呆然としていた翔子だったが、すぐに我に返り、またパスタに手をつけ始めた。

「すいません、ちょっとぼーっとしちゃって。シャワー、いつでも使って良いですから。それと、ギター直すなら物置に工具箱もあったはずなので」

 まくし立てるように喋る彼女は、それまでの呆然としていた志乃原翔子をかき消すようだった。親への敬愛をかき消すような。少女時代をかき消すような。


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