二十一番を一つ
カップ麺を食べ終えたところで、僕は別荘を出て、車に戻った。二人きりで別荘地にくるような関係といえども、僕と翔子はあくまでも友人だ。いや、友人という言葉だけでは表しえない関係だと思うが、しかし少なくとも恋人以上の関係ではない。だから彼女がシャワーを浴びるというなら、僕は気まずさを感じたし、彼女もまたそうだった。それなら、僕も車で外出しているほうがよっぽど気が楽だった。それに何より僕には一人になる時間が必要だった。
ペーパードライバーの僕だが、さすがに運転もこなれてきた。対向車も後続車もいないし、気楽な自動車旅だ。なにより軽井沢の風はさわやかで、エアコンの電源を入れずとも、窓さえ開ければ涼しげな風が流れ込んできた。
そういえば、かつてある小説のなかに「生物が求める原始的な快楽とは、速さを感じることだ」と述べたものがあった。曰く、鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、人が走るように。空間を切り、スピードを感じながら疾駆すること。風と一体になり、極限まで速さを感じること。それこそが生物の原初に根ざした悦楽であるのだ、と。
それを読んだ当時、僕は著者の意見には懐疑的だった。なぜなら僕は車も運転しなければ、運動ができるわけでもなかったから。小学生の時かけっこではいつもビリケツでイヤな思い出しかなかったし。水泳もロクな思い出が無く、自転車で走るのはあくまでも通学路だけだった。
だけど、いまなら著者の言いたかったことがなんとなく分かる気がする。
窓を全開にして風を感じる。それは、レンタカーのプリウスにだってできることだ。アクセルを思い切り踏みつけて、かっ飛ばす。窓から入り込む涼風。頬を撫で、髪をかきあげて、後部座席へと吹き付けていく。そのとき僕は緑を感じ、青々と茂る木々の匂いを覚えた。そしてそれが風と一つになることであり、速さを感じることであり、生命の活力を感じることなのだと悟ったのだ。なんとなく、それが自然に生きるものの力なのだと。
頬を撫でていく風に心地よさを感じながら、僕はとりあえずスーパーまでのワインディングロードを駆け抜けた。
かるいドライブののち到着したスーパー・あらいは、相変わらずの空きっぷりだった。車は三、四台ほど停まっていたが、果たして客の車やら、従業員の車やら。
ひとまず車を停めてから、僕は店内に入った。店内はエアコンがよく効いていて、うすら寒くさえあった。自動ドアが閉まると、そこに自然の風が入ってくることはなかった。
当然と言えば当然だが、店内は先ほど来たときと比べてもまったく代わり映えしない様子だった。しかし、それでもガス缶を探すのに十分近く要した。僕には方向音痴の才能があるのかもしれない。
そして問題はそれからのことだった。
翔子は、僕に「僕がほしいもの」を買ってくるように言った。しかし、それがわからないのだ。
菓子の一つでも買ってくればいいかと思った。だが、「おまえはスナック菓子がほしいのか?」と自問すれば、なかなかうなずけない自分がいた。かといって、もう一本ペットボトルのお茶を買っていくわけにもいかないし。食料品もずいぶんと買い込んでしまった。これ以上買えば、むしろ余って邪魔というものだ。
そういうわけで、僕はしばらくのあいだ狭苦しいスーパー・あらいの店内をガス缶片手に歩き回った。
自問を続けては否定し、それを更に否定したり。また自問を続けたり。そんな面倒な行脚の末、僕が足を止めたのは店内の片隅だった。レジスターのすぐ脇にある、ちょうど陰になった場所だ。そこはちょうどサービスカウンターの裏になっていたのだが、陰とはいえ存在感はあった。というのも、そこだけ棚の色合いが違ったからだ。白いアルミ製のラックではなく、そこだけ黒いシックな棚になっていた。
そこはアルコールのコーナーだった。並んでいるのは長野の地酒。日本酒からワイン、それからクラフトビールもある。僕が思わず目を落としたのはそこだった。なかでも気になったのは、地元原産という白ワインだった。
一度、そのコルク栓のボトルを手に取った。小脇にガス缶を抱えて、瓶を流し見た。緑色の瓶。白く透き通ったワイン。一五〇〇円と書かれた値札が寂しく踊っていた。
それがほしいと、一瞬思った。
でも、すぐにダメだと思った。どちらにせよこれは僕と翔子のあいだで使うことになる。しかし、翔子はまだ十九歳だ。大学二年生で、二十歳になるのはまだ先だと言っていた。律儀な彼女のことだ。いくら僕が無礼講だと言っても、未成年飲酒は認めないはずだ。それに、僕一人で飲むわけにもいかないだろう。
――でも。
僕はいつのまにかそのボトルを手に取っていた。理由は、なんとなく分かる気がした。その色合いが似ていたのだろう。ハイライト・メンソールのパッケージ、あの緑色に。
レジ係は腰の曲がった老婆で、バーコードを読みとるのにかなりの時間を要した。幸いだったのは、僕以外に客がいなかったことだろう。
老婆が商品を袋詰めしているあいだ、僕の視線は別のところにいっていた。老婆の頭上。レジ前のガムだとかライターの交換用オイルだとか、そういった棚の上。無色透明なプラスチックケースに並べられたのは、無数のタバコたちだった。銘柄はわかばからセブンスター、マルボロやキャスターまで。一通りのものはそろっていた。もちろん、ハイライト・メンソールも。
「お兄さん、買うのかい?」
と、老婆が腰を曲げたまま尋ねた。商品はもうレジ袋のなかだった。
「えーっと……それじゃあ……」
言葉が詰まった。
翔子は、僕のほしいものを買ってくるようにと言った。僕は、いまタバコが吸いたいのか? いや、そうではない。どこかで先輩を求めているのだ。志乃原翔子と宮澤悠。二人きりで山奥に閉じこもっている。そんな空間のなかでも、僕はかつての久高美咲の幻影を求めているのだ。
――いいのか、翔子の前だぞ。
彼女の前でタバコは吸わまいと誓っている。だけど、このときばかりは押さえがきかなかった。僕が本当にほしいものとは、久高美咲であり、その象徴であったのだから。
「じゃあ、二十一番を一つ」
「はいよ」
老婆は慣れた手つきで戸棚を開け、中からハイライト・メンソールを一箱取り出した。もう後戻りはできなかった。
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