ニライカナイ

     †


「水は生命のシンボルであり、再生の象徴なのよ」

 そう語る彼女の顔は、しかし水のことなんて微塵も考えていないようだった。喫煙所でペットボトルの紅茶を飲みながら、タバコを喫む彼女。彼女には、水とか生命とか、そんなものは何も関係ないように見えた。だから、そんな言葉が飛び出したとき、僕はひどく困惑した。

「どういうことです?」

「私がいま書いてる小説。そういう話にしようと思うの。後輩くんはどう思う?」

「どう思う、と言われましても……」

「そうね。たとえば君、海と言われてどんなものが思い浮かぶ? はい、連想ゲームスタート」

「ええ? そんな急に……。えーっと……。うみ、海……。塩水、海水、海水浴、夏、冬の日本海、リアス式海岸、母なる海、えーっと……」

「はい、タイムアップ」

 彼女はタバコを吸い、そして僕に笑いかけた。吸い終わったそれを灰皿にねじ伏せても、彼女は微笑を続けた。

「水、海。生命の源。循環。あるいは、それは羊水であったりとか。塩水、死海だとか。なんでも思い浮かぶわね。波、押したり引いたり。流されてどこかへ行ったり。それに、海は印欧語では女性名詞だったかしら。母なる海。女性の象徴。あるいは、海の向こう――そこには異世界があったりなかったり。ニライカナイ。なんでもあるわね。……ねえ、こういうの面白いと思わない?」

「おもしろい、ですか?」

「ええ。君だって、小説を書いてる人間の端くれでしょ? 何か思わないの? ここにあるもの。目の前に存在するもの。それが自分の頭の中で広く枝葉のように派生していって、無数の物語がうごめき出すのを」


     †


 水は再生の象徴である。先輩はそう僕に語った。僕はそのシンボリズムはわかったけれど、具体的にどういう意味なのかは分からなかった。何故なら僕は海から生命の原初が生まれたのを見たわけでもないし、海より生まれてきたわけでもない。母の羊水につかっていたかもしれないけれど、そんな記憶はどこにもない。強いてあげるなら、日々飲んでいる水に生を覚えるぐらいだろう。

 別荘地には、古めかしい井戸水があった。そこまで行かないと水がとれないのだ。水道がないから――というより、水道管が冬場になると凍結してしまうらしい――近くの雪解け水だったり、川のわき水なんかを井戸にしているというのだ。

 僕は生まれて初めて井戸を使った。青いプラ製のバケツを持って、ハンドルを上下に動かして。はじめは真っ赤な水が出た。落ち葉と鉄が溶けた、真っ赤な死んだ水。だけどポンプを動かしているうち、それは美しい清流へと変貌していった。

 ――再生だ。

 僕は直感した。先輩はこれが言いたかったのか? まさか。

 しばらく井戸と格闘し、バケツに水をため込んだら、また別荘に戻った。バケツに水を注いだのは、雑巾がけのためだった。


 バケツ一杯の水に雑巾を浸し、絞り、床を拭いて、ホコリを落として、また浸して、絞って……。そんな作業が二時間近く続いたと思う。時計を確認してないからよく分からないけれど、それぐらいぶっ続けで掃除ばかりをしていた。

 幸いだったのは、やはりここが軽井沢だったということだろう。やはり避暑地ということもあって、空気は冷たく、健やかで、いくら体を動かしても苦ということはなかった。東京なら一歩踏み出す度にじんわりとイヤな汗が吹き出るのだが、ここではその汗の一滴一滴さえもが心地よく思えた。

 掃除が一段落した別荘は、見違えるような美しさだった。ホコリをかぶっていた床は、雑巾掛けをする度に木目の美しさを取り戻し、草木の香りを広げ始めた。僕はそれが面白くて、何度も何度も雑巾をかけた。

 キッチン周りもまた興味深いものだった。カウンターバー付きのダイニングキッチンには、しかしカセットのガスコンロ。シンクこそ艶のある美しいものだったが、ほかはキャンプのような風情があった。

 寝室に入るのは一時ためらった。けれどそこが掃除していて一番面白いところだった。キングサイズのベッドが一つあり、そのわきに書斎のような棚が設けられていた。そして棚には、ホコリをかぶった写真立てがいくつも並んでいた。飾られていたのは、翔子とその家族の写真。カジュアルなポロシャツ姿の男性と、大きなひさしの付いた帽子をかぶった女性。そしてその二人に手を引かれていたのは、まだ小学生ぐらいの翔子だった。髪はまだ短かったものの、肌の白さと大きな黒い瞳には面影があった。幼い翔子は両親に手をひかれ、笑っていた。心からの笑み。そんな彼女には、きっとまだパニック障害じみた嘔吐感はなかったはずだ。

 僕は掃除が一通り終わると、写真をすべて倒して回った。それが掃除の仕上げだった。


 そうして終わった掃除のあと、僕らは鍋に火をかけ、湯を沸かした。カップヌードルが二つ。フォークを二人分だしてから、お湯を注いで三分待った。三分後、待っていたのは程良く湯気を放つ乾麺だった。

 僕らはスパゲティのように麺をフォークを巻き付かせてたべた。むかし、テレビCMでベルリンの壁の上に座ってカップヌードルを食べるというものがあった。僕はそんな心地がして、自然とフォークが進んでいた。

「体を動かしたあとだとおいしいですね。カップ麺がこんなにおいしいとは思いませんでした」

 そう言って、翔子は汗ばんだ顔をほころばせた。

「まったく、僕も疲れたよ。人手がいるのもわかるね。あとでシャワーでも浴びたほうがいいよ」

「そうします。でも、覗かないでくださいよ」

「しないよ。それより、コンロのカセットが切れそうだから、またあのスーパーまで行ってくるよ。そのあいだに入ってくるといいよ。ちなみに、何かほしいものとかある?」

「特にないですが。……あ、宮澤さんのほしいものを買ってきてくださいよ。なにか、ほしいものを」

「僕がほしいもの?」

 すると翔子は、麺をずずっとすってから、首を縦に振った。

「はい。宮澤さんの欲しいものです。たっぷり悩んできてください。そのあいだにシャワー浴びてくるので」

「わかったよ。でも、あとで何がほしかったとか文句を言わないでくれよ」

「大丈夫です」

 フォークで四角形のチャーシューを突き刺す。しかしまちがってエビがひっかかった。

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