苔むした深呼吸
「あ、そこです。あそこに寄っていってください」
林のあいだを進む途中で、とつぜん翔子が声を上げた。彼女はフロントガラスの先を指さしていた。
その指の指し示す先には、スーパーマーケットが一件。古びた看板に「スーパーあらい」と剥がれかけた文字があった。黒いゴシック体は雨水と赤錆を吸いこみ、いまにも倒れそうだった。
「ここがこのさき最後のスーパーなんです。ここ以降は完全に山と別荘地しかなくて。食品とかはいつもここで買ってくんですよ」
「だからあんなボロボロでも、まだ営業していられるわけだ」
ウィンカーを出し、ハンドルを切る。対向車も後続車もない。だけどスーパーあらいの駐車場には、何台かの車が停められていた。
入り口近くに停めると、財布だけ持って車を出た。
店内は、看板と比べるとずいぶん綺麗だった。品ぞろえも普通のスーパーと遜色ない。きっと別荘地に行く連中が、ここで食料品はじめ日用品をしこたま買っていくのだろう。僕らもまたそうだったのだが。
水のペットボトルが二本。お茶が一本。それから豚細切れ肉を一パック。牛ミンチ一パック。カット済み野菜が一袋。パスタが一袋と、トマトの水煮缶一つ。オリーヴオイルにパルミジャーノレジャーノ。それから缶詰のアンチョビだとか、ヤングコーンだとか、鯖缶なんかも。はじからカートに突っ込んでいった。
「とりあえずキッチンは一通り動くはずなので。鍋もフライパンもありますし、調味料も一通りあったと思うので」
翔子はカートを押しながら言った。
僕はそのあとを追いかけながら、缶詰のコーナーを見つめていた。
「とりあえず、軽くミートソースパスタとかなら作れそうだね。炊飯器はあるの?」
「ないと思います。でも電子レンジならあるので、冷凍食品とかでチャチャッと終わらせてもいいかもですね。あんまり味気ないですけど。……あ、でも、まずは部屋の掃除をしなくちゃいけないので。きっとホコリとかすごいと思いますし」
「じゃあ、昼は出来合いのものかなんかがいいかな……。あ、湯沸かし器とかはある?」
「鍋ならありますけど」
「カップラーメンって食べたことある?」
と、僕は缶詰の棚の反対側、カップ麺のコーナーからカップヌードルを一つ手に取った。
「カップヌードルぐらい食べたことあります。バカにしないでください!」
「失敬、失敬。お嬢様は食べたこともないと思ったんだ」
「そんなことないですって。わたしだって、人並みの女の子ですよ」
言って、翔子は二人分のカップヌードルをカートに入れた。
*
そうして食料をしこたま買い込んでから、別荘地に入った。翔子が言っていたとおり、スーパー・あらいを抜けた先は完全な山道。周囲には林とペンションが広がるだけ。ときおり企業の研修施設や保養施設が見えてくるが、どれも使わなくなってから久しいように見えた。
そんな林のなかを十分ほど走った先に、志乃原家の別荘はあった。ログハウスのような木造住宅で、カナダの山奥にあっても見劣りしないような雰囲気があった。
道路を外れてから、車を別荘の前に停めた。ドアを開けて林のなかに出ると、澄んだ空気が待っていた。それは都会の空気とは明らかに違った。ビル群が換気扇から熱を吐き、吸いしている東京とは何もかも違う。苔むした大地が息を吸い、吐き。それをまた針葉樹林たちが吸い込み、吐き出し……。どこか湿っぽく、しかしさわやかだった。
「じゃあ、わたし管理人さんから鍵もらってきますね」
翔子が車から荷物を下ろしながら言った。
「わかった。じゃあ、僕は荷物を運んでおくよ」
「はい、お願いします」
キャリーケースを手放し、スニーカー履きの少女は原野へ。高くそびえる木々の上で小鳥のさえずりが響いている。彼女を歓迎するように。久しく現れた家主を出迎えるみたいに。
ボストンバッグとキャリーケース、それから先ほど買った食料を玄関前まで運んだところで、翔子が戻ってきた。手には大きなキーリング。しかしかけられた鍵は一本だけだった。
「いま開けますね!」
小走りでやってきて、そのまま息をあえがせながら鍵を開けた。
そうして期待とともに扉を開いたが、その先に待っていたのはあまり喜べない状況だった。
扉を開けた瞬間、鼻につくホコリのにおい。カビくささ。玄関より差し込む光が、空気中を漂う塵を照らし出した。雪のように白く、輝きながら舞い散るホコリたち。床にうっすらつもった汚れがその正体だった。
「なるほど、人手がほしい理由がわかった。これはまず掃除だな」
「そういうことです」翔子は心底うんざりした様子で、「雑巾とか、バケツとか持ってきましたので。それから裏口にホウキとチリトリとかもあったと思います。まずはお掃除から始めましょう。ご飯はそのあとで」
まさにそうするしかない状況だ。
僕はため息をついたが、そのせいでホコリを吸い込んでしまい、しばらくむせるはめになった。
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