空が鳴っている

 九日の朝、僕と翔子は東京駅で合流した。新幹線乗り換え口の手前、八重洲方面の改札は、平日だというのに人であふれてていた。この駅には、日本中のすべてが集結する。忙しくない日など存在しないようだ。

 僕はリアルマッコイズのボストンバッグを肩にかけていた。中には着替えと財布、それから暇つぶしの本を少々。三日分の着替えといえど、それなりの量にはなっていた。

 翔子の荷物もそうだ。彼女は僕よりも早く駅についていたのだが、その手にはキャリーケースが一台握られていた。機内持ち込みができる比較的小さめものだが、それでも僕のバッグよりはるかに大きかった。

「おはようございます、宮澤さん」

 僕を見かけるなり、彼女は大きく手を振った。

 僕はそれに応えて彼女のもとへ。白い七分袖のワンピースに、ハイライト・ブルーのスカーフ。さらに今日は麦藁帽子もかぶっていた。駅構内では無用の長物だが、軽井沢では必須の品なのだろう。

「もう切符は買った? 自由席?」

 僕は電光掲示板の案内表示を見ながら問うた。最近の新幹線は、全席指定なんてものもある。

「はい、自由席です。この次の列車で行きましょう。そうしたらちょうどレンタカーの時間になると思いますし」

 掲示板曰く、次の列車は三十分後。八時五十四分発、北陸新幹線あさま号長野行きだった。これに乗れば、軽井沢につくのはだいたい十時過ぎだろう。たしかにレンタカーを予約したのは十一時からだったから、たしかにちょうどいい時間だろう。

「じゃあ、それで行こう。荷物は大丈夫? それに今更だけど、僕と二人で旅行なんてよかったのか?」

「サークルの先輩たちと行くよりは、ずっと楽しみですよ」

 翔子はそう言って笑った。その笑みには裏表がないように思えて、僕は少しだけ自分が情けなく思えた。なぜなら僕の脳裏には先輩の姿があって、また翔子とそういうカンケイになる様が浮かんていたからだ。

 僕は自分がひどく汚らわしい存在に思えた。


     *


 東京駅から片道約一時間半。新幹線は軽井沢駅に到着した。平日朝ではあったものの、駅前近くのアウトレットモールには活気があった。

 しかし僕らは大荷物を背負い、アウトレットは無視してレンタカーを借りに行った。買い物をするにしても、ボストンバッグにキャリーケース引きずって行くのは億劫だったし。

 レンタルしたのは、トヨタのプリウスだった。オートマティック・トランスミッション。車体はくすんだ白色。インテリアはウンザリするほどつまらない仕様で、車内は芳香剤が効き過ぎて頭がクラクラするほど。そんな心底退屈な大衆車だ。ひとたび車列の中に混じってしまえば、どれが何だかわからなくなってしまうような、そんな有象無象の一台。

 しかし、車なんて走ればどうだっていい。誰もレンタカーに個性だとか、愛着なんてものは求めていない。それは一夜限りのカンケイと同じだからだ。それに穴があればいいように、タイヤが回って言うことを聞けばそれでいい。

 運転はおよそ一年ぶりだった。駅を出てすぐ、店舗の駐車場から出るときは、さすがに僕も気が動転した。ブレーキを踏んで、ドライブに入れて、アクセルペダルを踏んで。ウィンカーは何メートル手前から? 車線変更は何秒前から?

 そういうわけで、運転し始めて三十分ほどは気が気じゃなかった。けれどしばらく続けていると、経験が徐々によみがえってきて、なんとなくだが余裕が生まれてくるようになった。それに僕らの走る道はドが付くほどの田舎道であったから、それも余裕を生んだ一因だと思う。対向車も後続車もロクにいなかったから。


 駅前を過ぎて、住宅街を抜けて。別荘地に向かう道は、林のなかへ続いていた。対面交通の二車線路。右側には木々が生い茂り、左手には屋根の高い家々が並ぶ。僕らはそれを見やりながら、目的の別荘へ車を進ませた。道路には他の車もいなければ、信号機も横断歩道もなかった。ただ緑に包まれた舗装路が永遠と続くようだった。

 翔子は助手席で黙り込んでいた。僕が運転にしどろもどろしていたから、邪魔して悪いと思っているのだろう。だけど段々と慣れてきた僕にとっては、むしろ痛い沈黙だった。

 やがて沈黙に耐えかねて、ラジオのスイッチを入れた。電波はFM長野に受信。なにやら地方局のアナウンサーがラジオショッピングを案内している。バラの匂いのするサプリがどうとか。甲高い声の営業トークは、耳から鼻に抜けていくようだ。

 しばらくそれを聴きながら走っていると、家すらも見えなくなってきた。あるのは木立だけ。背の高い針葉樹ばかりが並んでいる。木々はお互いに背比べをするようにして寄せ集まり、天高くを目指していた。

「こっちで合ってるよね」

 僕はカーナビに目を落としながら問うた。

「はい。前に父に連れていってもらったときは、たしかこの先で――」

 ディスク読みとり口の上。カーナビのディスプレイに触れて、翔子は地図の縮尺を操作する。目的地に設定された別荘地は、たしかにこの先へ続いていた。ナビもそうだと言っている。

「大丈夫です。このまままっすぐですよ」

「そうか。ならいいんだが。ラジオ、このままでいい?」

「はい、構いませんよ。わたし、ラジオってあまり聴かないので。むしろ新鮮です」

「そうか、ならいいんだけど」

 そう言って、僕はまた口をつぐんだ。

 僕と翔子。二人きりの車内には、ラジオだけが響いた。

 ラジオショッピングのコーナーが終わり、次の番組に入った。CMが明けると、ジングルとともにDJがあいさつ。彼女は、オープニングトークに自分の娘の話を始めた。小学校四年生で、いまは夏休みらしい。そんな娘さんは、今年クラス替えがあったという。それで仲のいい友達とは別れてしまった。でも、クラスは違っても、仲の良さに変わりはない。むしろいっそう深まったという。今日も一緒にプールに遊びにいったとか……。DJの母親らしい穏やかな語り口は、自然と微笑ましい情景を脳裏に浮かばせた。

 そして曲紹介。リスナーからのリクエストは、東京事変の『空が鳴っている』だった。

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