自己憐憫の自傷行為

 翌日、店長にスケジュールを相談してみたところ、八月九日からの三日間なら構わないと言われた。その代わりに休みのあとは九連勤を宣告されたが、まあ、代償としては軽いほうだろう。

 八月の九日は水曜日。それから三日間だから、帰ってくるのは十一日の夕方になる。二泊三日の軽井沢旅行。僕にとっては突然舞い込んできた話だ。

 しかしそれは僕だけでなく、彼女にとってもそうだった。

 彼女――久高美咲にとっても。


 八月の第一週。その夜、金曜日の勤めを終えた僕は、例によって駅前の喫煙所にいた。佐々木は大学の試験があるというので休みだった。そのため、僕は一人寂しくタバコを喫んでいた。

 喫煙に関して、僕はいくつかのルールを持っている。

 第一に、『良心的喫煙者であれ』だ。これは要するに喫煙所や喫煙席、自宅以外では吸わない。ポイ捨てはしないということだ。喫煙可能な喫茶店でも、近くに子供が座っていれば吸わないようにしている。それが第一の決まり。

 第二に、喫煙中にスマートフォンには触れない。これはおかしなルールだと佐々木にも言われた。僕自身おかしなルールだと思う。だけど、自分ルールというのは、不思議と一度染み着くと抜けないものなのだ。なぜスマホに触れてはならないのか。はじめはきっと格好付けたいだけだったと思う。タバコを吸うときは物憂げに空を見上げるか、コーヒーを飲むか、ペンを走らせるかしていたかったのだ。スマートフォンに触れるのは、そういった美学に反すると思ったのだろう。我ながらバカな理由だ。しかし、それでも僕はこの決まりを守り続けている。


 もっとも例外はある。着信があれば、喫煙を一時中断してから応答する。とくにその発信主が久高先輩だったりすれば、なおさらだ。

 僕は吸いかけのハイライト・メンソールを灰皿にねじ込むと、喫煙所を出て、電話に出た。

「もしもし。先輩、呼び出しですか?」

「ご名答。ねえ、来週の金曜は空いてるかしら?」

 ――来週の金曜。

 スケジュール帳を確認せずともわかった。その日は、軽井沢から帰ってくる日だ。夜からならつき合えなくもないが、翌日は朝から仕事である。

 僕は返答に困り、しばらくのあいだ黙り込んでいた。

「どうしたの、宮澤くん。具合でも悪いの?」

「いえ、そういうわけではなく……。すいません、その日は忙しいです」

「バイト?」

「いや、バイトではないんですけど」

「じゃあ何?」

「いや……個人的な事情です」

「ふぅん。ああ、なるほど、わかった。そういうことか。それ、あれでしょ。このあいだの『お友達』でしょ」

 その台詞回し。俗っぽい言い方。先輩のそれは小悪魔的というよりも、人をあざ笑うような感じがした。いや、より正確に言うならば、そのしゃべり方は、反応を待つためのリストカットのように思えた。自傷行為で人の気が惹けるとばかり思っている、哀れな女に見えた。

 僕が黙っていると、先輩は反応を求めてなおも言葉を紡いだ。

「さぞかしいい子なのね、その子は。どう、ABCのどこまでいったの? って、この言い方はまるでオジサンみたいね」

 僕は応えない。

 黙り込む。

「……ねえ、宮澤くん。私ってやっぱり面倒な女だった? それとも都合のいいセックスフレンドだった? あるいは、面倒くさい先輩? ねえ、宮澤くん。年上とのキスは嫌いになった? 前みたいにシガーキスでもする? 私はアイコスだけど、たまになら――」

 先輩はさらに続ける。

 でも僕は黙っていた。

 黙ろうとした。でも、タガがはずれた。

「……やめてください」

「なに? 聞こえないわ」

「もう、やめてください。もうやめてほしいんです。先輩はそんな人じゃなかった。あなたは……もっとずっと、なんていうか、すごい人だったんだ」

「何言ってるの。わたしなんて、ロクでもないクズよ。セックスとタバコと、アルコールしかない。俗人よ」

 ――違う。あなたはそうじゃなかった。あなたがクズなら、僕はいったい何だって言うんだ!

 叫ぼうとしたけど、声にならずに嗚咽だけが響いた。

 帰宅ラッシュが行き交う駅前交差点。スーツの男たちが川の流れを作る中、僕はこぶとなってそこにとどまった。今にも血管を圧迫、爆発させそうな血瘤となって。

 でも、爆発はしなかった。

 僕は一方的に通話を切り、その場に静かに立ち尽くした。ただタバコが吸いたいとだけ思った。

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