傷跡は印

 右手の人差し指と、中指のあいだ。ちょうど第二間接のあたり。そこには火種が残した火傷痕があり、赤黒く腫れていた。いくら水で洗い流そうとも、どんなに石鹸をこすりつけようとも、それは落ちなかった。先輩に払いのけられたタバコは、僕に爪痕だけ残して、どこかに消えてしまったのだ。

 洗面台で指を冷やしていると、鏡に映る自分の顔が目に飛び込んできた。ひどい表情だった。それは、痛みを感じている者の顔ではなかった。まるで植物だ。無味乾燥のなかに立たされ、呆然としている雑草のようだった。

 右のまぶたは、閉じたままピクリとも動かなかった。筋肉は運動を停止し、視界が開けることを拒絶している。脱力感が右まぶただけに現れているみたいだった。

「……僕はこんなとこで何をしているんだ」

 独り言つ。

 自分は何をしている。

 断ってもいいのに、先輩との行為をダラダラと続けて。あまつさえそれを嫌悪しているというのに。それにも関わらず、この関係が心地いいと思っている自分がいた。

 それはきっと、志乃原翔子と同じ。過去への憧憬によるものだ。

 久高美咲という作家がいた証拠を求めて。あるいは久高美咲が消滅した原因を求めて。僕は言い訳を探すために情事に耽っている。

 あるいは文章が書けなくなったこと。就職活動を止め、作家になることを志し、しかしなんら結果を残せていない自分への言い訳。自分という失敗の言い訳を、先輩に求めようとしている。だから心地いいのだ。先輩とカラダを重ねるたび、僕は自分を正当化できるから。

 ――そんなのわかってる。これが間違っていることぐらい。

 わかってるけど、やめられないのだ。

 先輩は小説を書くことを止めた。あの人はどこかに消えてしまった。だからそれにつられて、宮澤悠も自然と消滅したのだ。ウェルテルにつられて自殺するように。僕は、そういうように思おうとしている。ずっとこのままの痛気持ちいいこの状態が続けばいいと思っている。ずっとそうしていればいいと思ってる。もうこのまま先輩の膣内で何も感じなければいいと思ってる。脳髄がホルマリンのなかで浮かぶように……。

 そんな僕を、本物の傷みが現実へと呼び戻した。人差し指と中指のあいだ。根性焼き。赤く腫れ上がった罰の印。

 僕はその傷痕に触れることで、自分がこの世界に生きているのだと再確認した。自分がまだ現実に存在して、痛みと傷にあふれた世界に生きていることを確認した。

 シャワールームの向こうでは、先輩がテレビをつける音が聞こえた。二十四時間営業の自動ポルノ販売機、それが先輩に娯楽的性行為を売っている。

 僕は、今日ばかりはバスタブで眠ろうと思った。


     *


 思えば僕がタバコを吸い始めた理由は、カッコつけや仕事のストレスがすべてではなかった。僕がタバコを始めた理由。それは感傷からだ。


     †


「ねえ、答えて。ユキは――〈311〉はどうしていなくなったの? どこにいったの?」

 わたしはメスゴリラに聞いた。だけどあいつは壁に寄りかかって、タバコを吸うきりだった。わたしの言葉なんて知らんぷり。天井を仰ぎ見て、ふぅって煙を吐く。

「なあ、〈112〉。この世の中には、知らなきゃいいことだってあるんだよ」

「そりゃそうだけど。でも、わたしはユキのルームメイトだった。ユキがどこにいったか、知る権利はあるはず」

「ユキ、ね」

 メスゴリラは、またタバコを吸った。

 こいつはわたしたちのことを番号でしか呼ばない。だって、わたしたちに本当の名前なんてないから。あるのは管理番号と、記憶の片隅にある名前らしきもの。あるいは、自分たちで決めた真似っこの名前だけ。

 でもそれは、ただのマネでしかない。両親が悩んで悩んで悩み抜いて、こういう風に育ってほしいって、その子の一生を考えてつけた名前とは違う。自分たちが好き勝手につけただけだ。だからメスゴリラは、わたしたちを番号で呼ぶ。こいつは管理者側だから。わたしたちに愛着だとか、そういうものは感じていないから。ユキは、メスゴリラにとっては〈311〉でしかない。

「……あいつは自殺したんだ」

 しばらくタバコを吸ってから、ようやく答えた。

「ウソ。ユキはそんなことする子じゃない。もっとこう、臆病で、健気で、とても自殺する勇気なんてない子だった」

「でもやったんだよ、くそったれが。雇い主の女主人に手を引かれて、バルコニーから投身自殺だ。そのあと二人が飛び込んだ湖から全裸の〈311〉と雇い主の死体が引き上げられた。死んだんだ。あるいは、雇い主に殺された」

「殺されたって……。ねえ、あの子は雇われて幸せだったの?」

「知るか。少なくとも、あんな水を吸ってブクブクになって死体をみれば、幸せだったとは思えないよ」

「じゃあ、辛くて自殺したわけ?」

「知ったことか。……だが一つハッキリしてるのは、〈311〉の遺体は雇い主と手を繋いだ状態で上がってきたっていうことだ。どうして死んだかなんて、今じゃあいつらにしかわからんよ」

「じゃあ、どうして死んだと思う?」

 わたしは、この質問をしたら怒られると思った。

 ユキがどこかへ行っちゃったのは、実は薄々感づいていたんだ。でも、どうして死んだのかはわからなかった。わたしはそれをハッキリさせたかった。そうしないと、わたしが前へ進めない気がしたから。

 でも、メスゴリラのやつはそういうプライヴェートな話をするの嫌いだ。こいつはそういう根っからの軍人気質。命令は絶対。だからは怒ると思った、でも、違った。

「そうだな。幸せだったにしろ、辛かったにせよ、きっとなにか穴が空いたんだと思う。埋め合わせの出来ない穴……。感傷だ。心の傷は、どうやっても治癒できないまま残り続けるんだ。だからその場合、感覚を鈍麻させて、傷がそもそも存在しないように思いこむしかない。あるいは、身を傷つけることで精神と肉体の平均化を図るしかない。たとえばタバコを吸うのだってそんなもんだ。タバコは、心に注射針を刺すようなものさ。……そして、そういうものの最悪の例が、自殺だ。精神が傷ついたら、肉体も同じように傷つけなくちゃいけない。そうすることで生きていられるんだ。……少なくとも、死ぬまではな」

(久高美咲『U-19 Girl.』)


     †

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