セックスに哲学を説く
中野から新宿へは、中央線でたった三駅だ。アパートから駅までの徒歩を含めても、たかだか十五分とかからなかった。
家を出たとき、まだ夜空には月が浮かんでいた。しかし新宿駅東口に着いたころには、空は徐々によどみ始めていた。黄金色の三日月は暗雲に隠され、熱せられた地表には冷たい雨粒が落ち始めていた。帰宅を急ぐ酔っぱらいたちは、本降りになる前にと急ぎ足で駅構内へ向かっていく。僕はその人並みに逆らって進んだ。
東口の交番前に先輩はいた。一目見て、すぐにわかった。彼女は赤い折りたたみ傘を差して、闇の中に一輪のバラを添えていたから。
「ひさしぶりね」
傘の先端くいっと上げ、先輩は僕を見上げた。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いいですよ。明日も遅番ですし」
「悪いわね、付き合わせちゃって」
「だから、いいですって。僕も好きで付き合ってるだけですから」
前にも同じような会話をした記憶。それが不鮮明ながら現実に折り重なり、層状になってのしかかる。現実へ浸食するようにして、ぼやけた既視感が覆いかぶさってくる。
僕はとたんに吐き気を覚えた。
「じゃ、行こっか」
先輩がそう言ったとき、彼女の白い手は僕の指をつかんだ。そしてお互いの指同士は
突き放された手を、先輩はもう一度つなごうなどとはしなかった。代わりに僕のTシャツの裾を引っ張るなんて、そんな中学生じみたことをしてきた。僕は、まだそれになら耐えることができた。
*
頭上で荒れ狂う女を、いったいどういった目で見ればよかったのだろう。
例のごとく東口を出てから、先輩は僕をホテル街へ誘った。代金をクレジットカードで支払うと、あとは一瞬だった。二階の部屋まで上がると、僕はすぐに彼女に押し倒されたのだ。シャワーも何もなしだった。
スーツを着崩しながら荒れ狂う女。かつて存在した久高美咲は、もうそこにはいない。彼女が口にし、綴った美しい言葉たちはもうどこに求めようもない。いま先輩が発しているのは、ただ淫靡なささやきだけ。呼吸とも嗚咽とも、はたまた喘ぎとも取れるような、大胆不敵な息継ぎの音だけ。ただ音として発せられる感情の猛り。そこに文明の足音はなかった。あるのは獣の臭いと劣情の色めきだけだった。
僕は肉欲に溺れることもなく、ただ快楽を享受していた。
「ねえ、宮澤くんっ……! そっちからも動いてよ……! ねえ……っ!」
腰が浮く。先輩の臀部に引きつられて、快楽に体が反応する。でも、僕は自分から動こうとはしなかった。
僕はずっと冷静だった。先輩が口づけを求めてきても、僕はただそれに応じるだけだった。押し当てられた薄桃色の唇。口紅が僕の頬に傷跡を残す。先輩は舌先でそれを舐めとってから、僕の唇へ舌をぶつけてきた。口紅の溶けた唾液と共に、先輩の舌が押し込まれた。
僕は応じた。でも、ぶつぶつとした舌先の感触だとか、音を立てて泡立つ唾液だとか、そんなものは何も意味を成していなかった。
僕は思わず唇を離した。首を横へ振って、先輩から顔を背けた。
「いやだった?」
「……いえ。ただ……。どうして、急に呼び出したんですか」
「理由は必要?」
言って、先輩は僕の顔にもう一度口づけしようとする。だけど僕はそれも断った。顔を背けて、唇をかたく結んだ。
すると先輩もさすがに懲りたのだろうか。重いため息をついてから、体を離した。密着していた蜜壷は、ぬめりけだけを残してシーツに潜り込んだ。
「理由はいらないでしょ。私たちの関係は、なんだと思う?」
「都合のいいセックス・フレンド」
「そうかもしれない。でも――」
「セックスによって本来の人間性を解放しているとか、生への回帰だとか、もっともらしい言葉を並べ立てたりしないでくださいね。あなたには、もうそれを語る資格はないんですよ」
気がつくと、僕もシーツの中に体を埋めていた。先輩に背を向けるようにして。
僕はサイドテーブルにかけたズボンに手を伸ばし、タバコとマッチを取り出した。寝転がったまま一本くわえて、シーツが燃えないように火をつけた。
「……そう。私には資格がないのね」
「少なくとも、僕にそれを説くだけの資格はないです」
「そう……。そうかもね。私、どうしてあなたを選んだと思う? なんで宮澤くんとシてると思う?」
「都合がよかったからでしょう」
「そうね。あなたなら、私の言うことをずっと聞いてくれると思った。ずっと付き合ってくれると思ったのかもしれない。……ねえ、女でしょ?」
「何がです?」
「いまこうして拗ねてる理由。私以外の女が理由でしょう?」
――違う。
脳裏に翔子の姿が浮かんだ。
その像は、やがて久高先輩の姿と重なった。体を重ね合わせ、僕の上で荒れ狂う女。目先の快楽しか見えなくて、刹那主義でも語るようにしてセックスに浸る女。やがてその顔は変形していき、久高美咲から志乃原翔子に変わった。乳房は小ぶりに、乳首はより明るみを帯びて。背丈も小さく、より華奢になって。肌はより白く、長い黒髪が僕のヘソを撫でる。
――やめろ。
志乃原翔子は、そんな女性じゃない。僕は彼女にそんなもの望んじゃいない。僕が彼女に望んでいたのは、むしろかつての先輩への憧憬だったのだ。
あふれ出た空想をもみ消し、僕はタバコを吸った。背中越しに先輩がアイコスを吸い始めていた。
「ねえ、答えてよ。女なんでしょう? 彼女は年上? それとも年下?」
「……年下です」
「へえ。宮澤くんって、年上好きだと思ってたのに。ちょっぴり残念」
「いまでも年上好きですよ」
「じゃあなに。その子はそんなによかったの?」
――よかった?
脳裏に再びよぎる翔子の幻影。先輩の顔に重なり、ぶれて、残像になる。志乃原翔子。先輩の憧憬へと続く、プラトニックな彼女との関係。それが汚れていく。
違う、違う……。
「……違います。彼女は、ただの友達です」
「ただの友達、か。複雑な男女関係ね。まあ、私たちも人のこと言えないけど」
「……先輩は、どうしてこんなこと続けてるんですか」
「余計な説教は聞きたくないんじゃなかった?」
「そうですけど……」
僕は言葉に詰まって、口をふさぐようにタバコを吸った。ハイライト・メンソール。あのときの先輩と同じ銘柄。もう先輩の吸っていないタバコ。
おもむろにベッドから起きあがり、灰皿にハイライトをねじ伏せた。そして代わりにもう一本、箱の底を叩いて呼び寄せた。口にくわえて、マッチを擦って、火をつけて、煙を吸う。
「先輩の小説、面白かったんですよ。すごく」
「いまさらお世辞?」
「お世辞じゃないですよ。先輩の本、好きでした。僕は先輩の書く文章が好きだった」
「そう、ありがとう。でも、もう続きを書くことはないわ」
「でしょうね」
言って、僕はくわえていたハイライトを口から離した。そしてフィルターのほうを逆さに持って、先輩に向けた。火種が当たって熱かったけれど、このときばかりは気にしてられなかった。
「吸ってください」
「だめよ。もうやめたのよ。タバコも、小説も」
「だけどアイコスは吸って、セックスに余計な哲学を説こうとしている」
「そうよ。イヤな女になったのよ」
「ええ、まったくです」
結局、先輩はハイライトを取らなかった。
僕は自分の口に戻すと、くわえタバコのままバスルームに向かった。あらゆるものを洗い流したかった。
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