サージェント・ペパーズ・ ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
『プレリュード』は、先輩の書いた小説の中では珍しい長編作品だった。先輩のほかの作品といえば、多くは短編集か連作集。長くても中編と言ったところだった。
そんな作品について、先輩がこう語っていた。
「書けなくなるのよ。長いとね、その旅の途中で疲れてしまうの。だから、短いものを重ねることで長くしているのよ。それは大衆音楽みたいなもので、言わばコンセプトアルバムなの。『サージェント・ペパーズ・ ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』。あるいは、『ロック・オペラ・トミー』、もしくは『ジギー・スターダスト』のように。本当の意味での長編も、きっとそういう重ね合わせなんでしょうね。私には書けそうにないけど」
だから先輩が長編を書き始めたとき、僕は意外に思っていた。それは確かに短編を重ねたような作品ではあったが、しかし巨大な構造をしていたからだ。そこにはかつての先輩では考えられない、巨大なうねりがあったから。
『プレリュード』はその名の通り前編にすぎない。一人の少年と、その幼なじみのお姉さんの話。高校生の少年は、大学生の彼女に話を聞く。文学部生で、ちょうど帰省中だった彼女。その女性――名前は志穂とだけ語られる――に少年は大学について尋ねる。しかし志穂は虚ろな目をしたまま、大学になんて進学するんじゃないと突っぱねるのだ。少年はかつての優しい彼女が失われたような気がしてたまらなくなる。進路の選択を迫られた少年は、両親の言葉と志穂の忠告とのあいだで懊悩煩悶し、ついにはノイローゼを起こす。そして第一章が終わる……。
僕はこの志穂という女性が久高先輩であるように思っていた。あの日、最期の儀式を執り行ったときの先輩だと、僕はそう考えていた。
この小説が発行されたのは、ちょうど最期の儀式より二、三ヶ月ほど前のことだ。あのころの先輩は、表にこそ出さなかったものの、ひどい精神衰弱のなかにあったと思う。志穂とは、そんな先輩の一側面だったと思う。大学に進み、文章をぼつぼつと書いていた先輩。そんな久高美咲という存在を否定するために生み出された一人格。最期の儀式を執り行うために、文章を書くことを辞めるためだけに創造された、批判ための人格……。僕はそのように捉えている。
だからここで終わったということは、先輩はそれに対する反論が見つからなかったのだろう。文章を書き続けるということ、その理由が見つからなかった。その批判に対する反論が思いつかなかった。そうしてとうとう彼女は、志穂という存在に飲み込まれたのだ……と、僕は思う。
それから翔子は、十一時前に家を出ていった。一緒に食事をとって、小説の話をして、また一冊先輩の本を借りていって。
翔子を見送りに駅まで行ってから、僕はアパートに戻った。冷蔵庫にはタッパーに詰められた麻婆豆腐と、「ちゃんと食べてください」という彼女の書き置きがあった。
僕はそれを冷蔵庫の奥にやると、麦茶のボトルを引っ張り出し、一杯だけ注いだ。そうして一気に飲み干したところで、ジーンズのポケットがふるえだした。正確にはポケットに突っ込んだ携帯だ。
僕は一瞬、翔子が忘れ物でもしたのだろうかと思った。しかし、それは意外な人物からだった。
一件のメッセージ通知。それは、久高先輩からだった。
〈いまから会えない? 新宿、東口で。〉
先輩からの着信は、十一時十五分ごろのこと。新宿行きの列車はまだあったけれど、呼び出しにしてはいつもより遅めだった。
先輩からの呼び出しは、およそ二週間ぶりのことだった。二週間前の金曜日、僕は先輩と体を重ねた。そのときも精神的、肉体的な充足は何もなかった。空気に身を愛撫されているような、そんな感覚だった。先輩がどう思っていたか知らないけれど。
しかし一つ確かなことはある。
それは、僕が志乃原翔子との関係を持ってからというものの、先輩との関係が希薄になりはじめたということだ。二週間前に会ってから、僕はずっと先輩と会っていない。それはちょうど翔子が初めて僕の部屋にきたころと符号する。奇妙な一致だが、それは紛れもない事実だった。翔子と関わる度、先輩が遠くに行くような気がした。先輩の本を介して翔子と話しているというのに。
先輩は確かにそこにいるのに、どこにもいないような気がしていた。
僕はこう返信した。
〈いいですけど。もう遅いですよ。〉
返事はすぐに返ってきた。
〈いいわよ。電車はあるでしょ? ホテル代なら私が出すわ。いいから早く来て。〉
それが先輩の答え。
僕はその言葉に妙な罪悪感を覚えた。
小説の中にいる先輩。もう失われた存在。それはもはや、僕と翔子のあいだにしか存在し得ない美なのだ。久高美咲のなかには、もう僕らが求める久高美咲は存在しない。それを知覚すると、僕はひどく冷めた気持ちになった。
〈いいですよ。行きます。〉
そう返信したとき、僕は何を思ったか本棚から一冊の本を取りだしていた。それは先ほど翔子が返しにきた本、『プレリュード』。
僕はそれを鞄に入れると、家を飛び出した。
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