第二部

そういうカンケイ

 僕と翔子の関係が始まったのは、先輩の本がきっかけだった。

 『海の中』を読んで以来、翔子はすっかり久高先輩のファンになってしまった。自分のあこがれの人を共有できる、それは僕にとってうれしいことだった。先輩の本について語り合うことは、楽しくてたまらなかったのだ。昔みたいで、学生のときみたいで、先輩がいたときみたいで。

 でも、そこに久高先輩は

 僕と翔子は、あの日からたびたび会うようになった。バイト先で、近くの喫茶店で、公園で……。そうして本の貸し借りを重ねていくうち、彼女は僕のアパートを訪ねてくるようになった。といっても、不純な関係ではない。ただ本を借り、ただ語り合うだけ関係だ。そこに肉体的な繋がり合いはなかった。あるのは本を媒介とした精神の繋がりあいだけ。

 それに僕は、翔子とはカラダの関係になりたくなかった。もしそうなってしまえば、先輩との関係のように自分を悩ませることになると思ったから……。


 翔子は僕のアパートに来ては本棚を眺め、先輩の本を借りて、そして数日後に返しにやってくる。それが僕と彼女の関係で、二人のサイクルだった。

 彼女は生真面目で律儀だったから、僕がいくら「郵送でいい」とか、「こっちからうかがう」と言っても絶対に譲らなかった。翔子は僕の部屋に来て、本を眺めて、借りて、帰って行く。それが僕らのサイクル。それが僕らの距離感。そういう関係が始まった。

「お手を煩わせるわけにはいきません。わたしのほうから伺います」

 彼女はいつもそれの一点張りだ。いつも強情で、お人好しで、純真で、汚れなくて。ときおり僕はそんな彼女を愛おしく思う。それはとてもプラトニックで、言うなれば一冊の本にかける美への情愛みたいなものだった。

 そういうわけで、僕のアパートには女子大生が入り浸るという奇妙な構図が発生したのだ。女子大生が本を借りに来て、ついでに掃除や洗濯なんかもやってくれて。僕のもう一つの奇妙な女性関係は、こうして始まったのだ。

 翔子は一ヶ月足らずで久高先輩のすべての本を読み終えてしまったのだが、それでも僕の家を訪ねる習慣はなくならなかった。彼女は、先輩の本を何度も、何度も繰り返し読み続けた。かつて僕がそうしたように……。


    * 


 それは六月の末で、翔子は二周目後半に入るところだった。久高先輩の六冊の本、そのうち三冊を二回読んでいた。二周目終了まで、あと三冊というときだ。

 雨だった。とてつもない豪雨。先輩と会ったときの三月のような、ひどい雨だった。だけど夕立だったのか、その雨は夕方過ぎにはきれいさっぱり消えてしまった。それがちょうど、翔子が僕の家を訪ねてきたころだった。

 彼女は大学終わると、そのまま中野にある僕のアパートまでやってくる。合い鍵を渡してあるから、彼女は先に僕の家にいた。僕がバイト終わりで帰ってくるのがだいたい十時過ぎ。翔子は僕が帰ってくるまでに料理を作って待っている。いつの間にか彼女は通い妻みたいなものになっていた。


「本を貸していただいたお礼だと思ってください!」


 一週間ほど前、彼女は両手に大量の食材を持って、僕の家にやってきた。突然のことに僕は空いた口がふさがらなかった。それで夕食をごちそうするというのだから。僕は夢でも見ているのかと思った。

 僕はすぐに「申し訳ないから」と断ったのだが、しかし、彼女は言い出したら聞かない性格だ。「本のお礼だと思ってください!」と言って引かなかった。だから仕方なく僕のほうから引き下がった。それに食材がもったいなかったし。

 それから僕らは、ずっとそういう関係が続いている。

 彼女は久高先輩の本を借りにくる。返しにくる。そのついでに僕に料理を作り、二人でご飯を食べ、本について感想を言い合い――軽い読書会のようなものだ――そして帰って行く。それ以上の関係はない。彼女の家の門限は十二時だから、それまでには帰ってしまう。彼女は十九だが、いまでもしっかり親の言いつけは守っていた。それだけ律儀で、真面目で、箱入りのお嬢様だった。


 そういうわけで雨上がりの夜、バイトから帰ってきた僕を待っていたのは、翔子と彼女の手料理だった。今日は挽き肉でも買ってきたのか、麻婆豆腐だった。最近翔子は中華料理に凝っている。今日のも豆板醤と甜麺醤から作る本格派だった。

「あ、どうも。本返しにきました。それからご飯できてるので」

「ああ。申し訳ないね、本当に」

 僕はいつもそう口にしながら家に戻る。それがもはや習慣と化していた。数週間前までは考えられなかったことだ。

 きれいになった部屋には、鏡のように光の反射するテーブル。これもすべて翔子が掃除をしてくれた。そんなことまでしなくていいのにと僕は言ったのだが、「うちでは家事はすべてお手伝いさんがやってくれるので。むしろやりたいんです!」と言って聞かなかった。いったいどこから突っ込めばいいか分からず、結局彼女に任せた結果がこれだ。

 机上には、久高先輩の小説『プレリュード』。そしてギブソン・レスポールの形をした灰皿があった。しかし、僕は今まで翔子の前でタバコを吸ったことは無かった。何故か吸う気分になれないのだ。

「また読んだの、それ」

 僕は席に着いて、炊き立てのご飯と麻婆豆腐に箸をつけた。まだ麻婆からは湯気が立っていた。

「はい、読みました。でもこれ、とても残念ですよね。上巻だけで終わってるなんて。中下巻がないじゃないのはどうしてなんです? 買いそびれたんですか?」

「それはだね――」

 大皿の麻婆豆腐を茶碗にかけ、ミニ麻婆丼に。豆板醤の聞いた麻婆は、ピリッとした辛さがあった。

「それが最期の小説なんだよ。久高美咲の」

「これで久高さんは小説を買くことをやめたんですか?」

「らしいよ。僕が知る限り発行されている久高美咲の小説は、それで最後だ」

「どうして久高さんは小説をかくのをやめてしまったんですか?」

「それは――」

 僕は口をつぐんだ。

 久高先輩と僕の関係について、翔子には詳しく話していなかった。ただ同じサークルの先輩後輩であると、それしか話していなかった。いや、憧れているぐらいは話したかもしれない。でも、いま先輩と肉体関係にあるとか、彼女はもう書くことをやめてしまったとか、そういう話はしていない。だから彼女は気になるのだろう。久高美咲という女に何があったのか。どうして書くことをやめてしまったのか……。

「『前奏曲プレリュード』があるなら、間奏曲インテルメッツォとかもあるはずですよね」

「あったと思うよ。たぶんね」

 たぶん。

 もし久高先輩が最後の”儀式”をしていなければ、あったかもしれない。僕を呼び立てて行われた、最期の葬儀。あのとき先輩は僕に宣言した。、と。

 もしアレがなかったなら、最終楽章まで進んだかもしれない。でも、もう無理だ。あの人は文章を綴ることを完全に放棄したのだ。

「どうしてあそこで終えてしまったのでしょう。大学生編とかきっとあったはずですよね、この本」

「あったかもしれない。だけど、それも承知の上で書くのをやめたのかもしれない」

「と言いますと?」

「未完であることが、この小説にとって一番正しい姿なのかもしれない、ということさ」

「未完であることが正しい、ですか……」

 翔子は僕の言葉を復唱し、小首を傾げた。

 しかたない。それはとっさに口から出たデマカセなのだから。先輩がこの小説を未完のまま発表し、何故そのまま書くことをやめたのか。僕には分からない。

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