幕間

ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル

     †


「大学に行ったってロクなことないわよ」

 紅茶を二つ持って、志穂さんは部屋に戻ってきた。そして開口一番に言ったのが、それだった。

 志穂さんの部屋は、数年前と何も変わっていない。変わっていたのは、机に置かれた本の種類ぐらい。『イギリス文学史』と題された分厚い本が平置きになっていた。

 彼女はそんな雑多な机の上に紅茶を置き、そのうちの一杯を僕にくれた。湯飲みに入った紅茶は熱かった。仕方なく僕はカップを戻した。

「ねえ、君はどうして大学になんて行きたいわけ?」

「大学に行ったほうが、就職したときに給料もいいですし。両親も行けって行ってますし。なにより、志穂さんと一緒です」

「そんな理由で大学に行きたいわけね」

 志穂さんは紅茶を一口のみ、それから僕の隣に腰を下ろした。ユニオンジャックの枕が置かれた志穂さんのベッド。僕と彼女の二人で、そこに座った。

 志穂さんは深いため息をついてから壁を凝視した。そこには木目調の壁紙の上にポスターが貼られていた。そっぽを向いた二丁のリボルバー拳銃、銃把グリップにまとわりつくバラの花。それは、とあるロックバンドのロゴマークだった。

「シェイクスピアを学んで何の役に立つの? オーウェルを読んで何になる? イェイツを暗唱してお金が稼げるわけ? できないわ。仮にできても、それはほんの一握りよ。ほんの、一握り。そしてその一握の砂の中の数粒のきらめきだけが真の美を描くことが出来るの。……わたしはその一握りじゃなかった。なぜなら、どうすればそれらが役立つのか知らなかったから。知らないまま、ただ自分のエゴを満たしていただけだから。

 大学って、結局そういうところなのよ。そうやってエゴを満たして、自分の間違いを正しいと思いこもうとしているうちに時間が過ぎて、すべてが終わるのよ。結果として生まれるのは、感覚が鋭敏になりすぎて鈍麻した獣。そこに社会性は無いの。その獣はあらゆるものを感じすぎて、むしろ何も感じとれなくなる。そんな鋭敏になりすぎた獣は、もう誰にも必要とされない。気づいてはいけないことにも気づいて、必要以上に傷ついてしまうから……。かわいそうなほど繊細なのよ。

 だから君は大学に行かないほうがいいわ。私と違ってその”方法”が分かったら、受験を志すといいわ。さもないと、自殺が四年後に延びるだけだから」

(久高美咲『プレリュード』第二節より)


     †


 彼女から感想のメールが来たのは、翌日のことだった。しかしそれは感想というにはあまりに短く、しかしレポートと言うにはあまりに感情的だった。


     *


 件名:読了しました。


『海の中』読了しました。まさかわたしが本を読めるとは思いませんでした。こんな気持ちになったのは初めてです。どうして今までわたしは本が読めなかったのでしょう。喜びを感じたのは初めてかもしれません。

 よろしければ、また借りに行ってもよろしいでしょうか? 本を返すついでで結構ですので。久高さんのほかの小説を是非読んでみたいのです。


     *


 彼女のバックグラウンドを知っていれば、分からなくもない話だった。

 本を読んでいる途中で、吐き気を催す……。

 吐き気とは純粋な嫌悪感だ。拒絶反応とでも言うべきだろう。本能的な拒絶。個の中の純粋な、根元的な拒絶反応……。何者でもない自分に侵食する、外的な意味付けや即自存在といったもの。それら自己への侵食に対して、人は吐き気という『気持ち悪さ』で自身に警告する。そして自分を守るのだ。吐き気は、セカイとジブンとを釣り合わせるマイナス存在なのだ。

 本ではないが、かつて僕の友人に似たような『吐き気』を持つ者がいた。彼は哲学科に所属していて、僕よりも二歳年上だった。浪人と再受験を経験していたのだ。

 彼と出会った経緯は、もう思い出せない。だけど唯一彼と食事をともにしたことだけは覚えている。あれは大学二年のとき。学食で、昼過ぎのことだった。


     *


 昼休みが終わり三限の時間になり、学食も徐々に空き始めたころ。僕と彼――名前は確か池野と言った――は、偶然学食で出会った。僕は四限のゼミに出る前に、腹ごしらえついでに小説でも書いて時間をつぶそうと考えていた。そうしてふらりと学食に入ったとき、声をかけられた。

「おい、宮澤」

 呼ばれて振り返り、僕は彼に気づいた。

 大きなリュックサックを机において、池野は一人ラーメンを啜っていた。まずいと評判の醤油ラーメンだった。麺はボロボロで、スープは水で薄めたよう。チャーシューはゴムの味がするシロモノだ。

「一緒に食わないか。席、空いてるから」

 そう言って、彼は目の前の席を指さした。

 僕はそこまで池野と親しかったわけではない。けれど、そのときばかりは共に食事することにした。ほかに席が空いてなかったからだ。

 仕方なく僕は彼の用意した席に鞄を置き、食事を買いに行った。僕が頼むのはいつもA定食。チキンステーキ定食だった。まずい学生食堂でも、これだけは変わりないうまさだった。

 僕がA定食を持って席に戻ってくると、すでに池野はラーメンを食べ終えていた。残っていたのは薄味のスープのみ。彼は僕が食べる間、そのスープをレンゲですくい、名残惜しむように飲み続けた。そのあいだ僕らに会話は無かった。


「パニック障害って知ってるか」

 僕が定食のサラダに手をつけたとき、彼は急に口を開いた。

「なんだ、急に」

「このあいだ、医者に行ったんだ。精神科だよ。宮澤、おまえ精神科がどんなところか知ってるか?」

「さあ。行ったことないから分からないよ。知り合いからは行ったほうがいいと言われたけどね」

「じゃあ、一度行ってみるべきだ。なかなか面白いところだよ、あそこは。待合室から診察室までいろんな匂いがするんだ。ほら、デパートの一階みたいに。すごいぞ、まるで匂いのデパートだよ。心を落ち着かせるアロマが幾重にも炊かれていて、むしろ俺の心を焚きつけてくるぐらいだ。なかなか面白かったよ」

「それで、どうしたんだ。そこで診断されたのか。その――」

「パニック障害とね」

 彼はそう言って、ラーメンの汁を啜った。

「実は昔から自覚症状はあったんだよ。たとえばこれだよ」と、彼は机上のラーメンを指さした。「俺は、飯が食えないんだ。外食が出来ないんだよ。衆人環視のなかで、ご飯が食えないんだ。吐き気を覚えるんだよ。食事という行為を誰かの視線のなかにあることが、すごく気持ち悪いんだ」

「でも、いまラーメン食ってただろ」

「それはリハビリの成果さ。学食では食えるようになった。でも、ファミレスや定食屋はダメだ。落ち着かないんだ。怖いんだ。気持ち悪いんだ。吐き気がするんだ……」

 レンゲでスープをすくい、それを名残惜しむように口へ運ぶ。僕にはその一連の動作がゆっくりとしているのが、名残惜しさではなく吐き気によるものだと分かった。彼は吐き気ゆえに、ゆったりとしかスープを飲めないのだ。衆人環視が彼に吐き気を与えている。それがパニック障害だった。

「なんで俺にそんな話を?」

 うつむき加減にスープを見る彼に、僕は問いかけた。

「吐きたかったんだよ」

「吐きたかった?」

「ああ。誰かに、この思いを吐き散らしたかったのさ」


     *


 食事と本は違うかもしれない。けれど、その吐き気という感覚については似通ったものだと思う。根源的な拒絶。体が、本来出来うるそれを本能的に嫌っている。池野のパニック障害もそうだった。それは彼の”ケガレ”とかそう言う思想だったり、家庭環境によるものだったと思う。

 志乃原翔子もそうなのだろう。

 彼女の読書体験について、かつて過去に何があったかは分からない。だけど何かトラウマになるような原体験があったに違いない。それが彼女に吐き気を呼び起こしている……。

 では、生きている本とは?

 どうして久高先輩の本を読むことができたのだ?

 それが僕の疑問になった。

 僕のあこがれていた久高先輩。僕は彼女の書く文章には何かあると信じていた。それが何かは分からないけれど。少なくとも僕が先輩にあこがれたことには、何かしらの原因があると感じていた。

 志乃原翔子――彼女の体験は、それを紐解く糸口になるかもしれない。ひいては、僕が文章を書けなくなった原因を探ることにも……。

 僕は本棚にある久高先輩の本を見ながら、メールの返信を打った。


     *


 件名:Re:読了しました。


 読了できたようで、こちらとしてもうれしい限りです。久高美咲の本は、まだ五冊ほど残っております。こちらも希望があればお貸しします。


     *


 それからすぐに返信が来た。


     *


 件名:Re:Re:読了しました。


 ありがとうございます。

 それから、久高さんについてインターネットで調べてみたのですが、何の情報も出てきません。よろしければ、久高さんのことも教えてくれませんか?

 はやくほかの本も読んでみたいです。よろしければ、今度お宅に直接伺ってもよろしいでしょうか? 久高さんのほかの本をもっと見てみたいんです。

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