幻影を追いかけて
気づけば七月を過ぎていた。僕は相変わらず感傷をタバコでごまかし、辛うじて生をつなぎとめていた。肉体的な死を近づけることで、精神と身体の傷を擦り合わせていた。
バイトに行く朝は、一本のタバコから始まる。たった一本のタバコだ。
一時期の僕は、一日一箱のハイライト・メンソールを消費していた。バイト代がなくなると思いつつも、過去への恋慕は押さえきれず、求めるように吸っていた。
でも、最近ではその量も減りつつある。暇を見つけてはタバコを吸い、ギブソン・レスポールの形をした灰皿にねじ込む。その一連の作業は、彼女の訪れとともに減りつつあった。志乃原翔子が僕の部屋を訪ねてきた、あの日から。
どうしてだろう。どうして僕は、彼女の前ではタバコを吸ってはいけないと思うのだろう。彼女がまだ未成年だから? 副流煙を気にしているのか? においを気にしているのか?
――ちがう。きっとその理由は、翔子に先輩との関係を後ろめたいからだ。
目覚めの一本は、水出しの紅茶とワンセット。十分ほどかけてゆっくり吸ってから、僕は着替えてバイトへ向かった。
たぶん今日も翔子はやってくる。なんとなく、そう思いながら。
†
タバコ臭い部屋を、純真無垢な少女はどう思ったのだろう。父親の書斎と同じにおいがする? 兄のことを思い出す? 縁側にたたずむ祖父の背を思い出す?
きっとそのどれもが正解で、不正解だろう。タバコの煙には一定の規律性はあるものの、吸い方は人それぞれで、決して一様ではない。だからそういった匂いだとか、仕草だとか、憧憬などといったものは、何かと完全に符合することはない。同じハイライト・メンソールでも、ある女性が吸えば美しく優雅で、しかしどこか幽玄な美を持つ。いっぽうで僕が吸えば、それは感傷と空漠を麻痺させるための気休めでしかない。
しかし、その一つ一つには、やはり誰かの記憶を喚起させるだけの力があるのだと思う。小説を読んだとき、自分とは性格がまるきり違う主人公に同情したりだとか、懐かしさを覚えたりするのと同じだ。誰しも一様ではないが、他者に何かを喚起するだけの力は有している。言葉にはそれだけの力がある。
彼女が僕の部屋を初めて訪れたときも、きっとそうだったのだろう。彼女は「おじゃまします」と断ってから狭苦しい玄関に入り、それから顔をしかめた。タバコのにおいについての初めての反応は、それだった。
しかし彼女はすぐに顔色を変えた。というのも、視界に本棚が飛び込んできたからだ。掃除はしたといえど――タバコに関しても消臭剤を使っているが――本棚だけはいつも雑多で散らかっていた。それが僕の部屋だ。作家名順だとか、五十音順だとか、そんなもの気にせず、あちこちに本が転がっている。ついには本棚を飛び出して、床に平積みになっているものもあった。
「すごいですね、本。ぜんぶ集められたんですか?」
「いちおう、書店員ですから。社員割引も効くんですよ」
「そうだったんですか。やっぱり本がお好きなんですか?」
「本が好きというか――」
僕は口ごもった。
というのも、自分の考えがわからなかったからだ。僕は本が好きで、小説家になろうとしたのか? どうして本を読み始めたのだ? どうして本を読み続けているのだ?
隣にいる少女は、きっとそれが気になって仕方ないのだろう。なにせ彼女は、本を読むことが出来ないのだから……。
(宮澤悠 メモ 2017/06/02)
†
季節は次々と死んでいった。春は終わり、初夏が死に、いまは夏だ。しかし書店内に夏らしさはなくて、あるのはクーラーの効いた空間と、ジメジメしたバックヤードだけ。気の狂ったような暑さを感じたいなら、地下のゴミ捨て場に行くといい。もっとも僕は勘弁願いたいのだけど。
今日は佐々木と一緒で、開店から夕方までの勤務だった。閉店作業はない。ちょうど五時過ぎで遅番と交代する。実に平凡で、何もない日だった。面倒な客はいたけれど、ありきたりで、凡庸で、典型的なクレーマーだった。自分を神か何かと錯覚している残念な人間だ。自分を神と思わなければ、店員の前では神でいなければ、社会生活をしていくことのできない。心に余裕のない者たち。
遅番と交代すると、僕と佐々木は例によって駅前の喫煙所に向かった。駅は徐々に帰宅するサラリーマンで混み始めていた。喫煙所もまたそうだった。
煙たい空間に肩身の狭さを感じながら、二人で一服した。佐々木の吸っていた銘柄は、いつしかアメリカン・スピリットに変わっていた。
佐々木は重いため息をつくようにして煙を吐いた。
「どうした。面倒な客でもいたのか?」
僕はふと尋ねてみた。
が、彼は首を横に振って返した。
「違いますよ。試験期間なんすよ。俺、単位やばくって」
「授業には出てたのか?」
「えーっと、まちまちっすかね。あっ、でも聞いてくださいよ宮澤さん! 代返頼んでたヤツ、途中から裏切りやがったんですよ。俺、それで単位やばくって。追加で課題やらなくちゃいけないんすよ」
「追加で課題を出してもらえるだけいいさ。見放すような教授もいる」
「まあ、そうっすけど……。先輩は学生だったときはどうだったんです?」
「まちまちだな」
僕がそう言うと、佐々木は一人クスクスと笑った。そりゃそうですよね、マジメに勉強する大学生なんていませんよね! とでも言わんばかりに。
だけど僕は、彼のその態度には少し辟易としていた。また、自分にも。僕も学生時代、興味のない授業はサボってばかりだった。いっぽうで履修もしてない哲学科の授業などに潜っては、いつの間にか教授に顔を覚えられたりなどしていたのだが……。しかし、それは自分の興味や関心にまじめなのであって、学問に対してはまじめでなかったように思える。
そんな自分を省みると、ふと翔子のことを思い出すのだ。
時計に目を落とすと、五時半ごろだった。翔子はいつも授業終わり、夕方ごろに僕の部屋を尋ねてくる。彼女がそれ以前の時間にきたことはない。そして十一時ごろにはしっかりと帰って行く。快楽と惰眠に溺れて、その日ばかりの生活をすることはない。律儀で、まじめで、どこまでも純粋で。そんな彼女のことを思い出すと、自分や佐々木の言動が卑小なものに思えてくるのだ。
そうしていると、噂の彼女から電話がかかってきた。佐々木に一言断ってから、僕は通話に応じた。
「もしもし、僕だけど」
――僕だけど。
僕は、いつから久高美咲の幻影を追っているんだ?
「あ、宮澤さん。こんばんは、志乃原です。これからお家にうかがおうと思っているんですけど、よろしいですか?」
「いいよ。僕もちょうど帰るところだから。本は読み終わった?」
「はい。これで三周目突入ですね」
「あきないね、まったく」
「わたしには、これしか読めませんから」
「……そうだね、すまなかった」
「いいんですよ。それより、ほかにちょっと相談したいこともあるので。道草食わないでまっすぐ帰ってきてくださいよ」
「わかってる。じゃあ、あとで」
通話を切る。通話時間の表示の下をフリックし、ホーム画面へ。スマホはズボンのポケットに戻した。
画面から目を移すと、そこにはしたり顔の佐々木がいた。
「もしかして先輩、これっすか?」
と、小指を立てる佐々木。
僕は首を横に振った。
「違う。ただの友達だ」
「友達? いやいや、怪しいっすねぇ。ってか先輩、もしいい子がいたら紹介してくださよ。俺、最近彼女と別れちゃって……」
「佐々木、その話は今月で百回ぐらい聞いたよ。じゃあ、僕は帰るから。おまえはちゃんとレポート書くんだぞ」
ハイライト・メンソールを灰皿に押しつけて、僕は駅へ急いだ。
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