猥雑な黄色

 メモ帳に書き付けられたエッセイを思い出しながら、僕は先輩の本を手に取っていた。大学の文芸サークルで刷った合同誌。それから彼女の出した個人誌が四冊。

 僕は吸い終わったタバコを灰皿レスポールに押しつけてから、その中の一冊を手に取った。タイトルは短く『海のなか』といった。

 その本には、僕も思い入れがある。これは先輩の二冊目の同人誌で、僕は売り子を手伝った。ついでに言うと、表紙のデザインに意見をしたりもしていた。

 その表紙は美しく、また醜かった。アクリルだか油絵の具をへたくそな手で塗ったくったような、そんな乱雑な青色。一面に塗りたくられたその青は、一貫性がなく、あちこちで歪みや厚みが生じて影ができていた。しかしそれはある意味で波紋のようにも見えた。打ち付ける波が織りなす、白い波紋。波の影、飛沫。

 そしてそのような乱雑な青の上には、猥雑な黄色が散らされていた。この黄色こそ、僕が提案したものだった。

 この本を作っていたとき、部室で僕と先輩は二人きりになった。そしてそのたき先輩は、ふとした拍子に表紙の話を持ち出したのだ。


     *


「あのね、宮澤くん。今度の同人誌でね、表紙を青と黄色にしようと思うの。で、そこに白くタイトルを入れようと思って」

 彼女は部室の中でタバコを吸っていた。まだこのときは学校側も喫煙に寛容で、完全分煙を謳いつつも、サークル棟だけは治外法権だった。

「それでね、青はかけたの。絵の具でね、バーって。でもね、黄色をどうすればいいのか分からないの」

「黄色って。いったいどういうテーマなんです?」

「おしっこ」

 そう言った彼女に、僕は開いた口がふさがらなかった。

「……えっと、つまりそれは、お小水……」

「違うわ。そんなきれいな言葉使わないで。おしっこ、しっこ、ションベン、聖水……。そういうものなの」

「だから黄色なんですか?」

「そう。栄養たっぷり。糖尿になっちゃいそう」

 そのときの先輩の無邪気な笑顔は、まるで小学生のようだった。うんこ、ちんこで笑うような小学生だ。

「それでね。どうしたら黄色をおしっこみたく散らせるかなって。あ、これはね、トイレでのおしっこじゃないの。田舎のね、海沿いの通り近くでするの。最初は草むらに隠れて。でもだんだん楽しくなってきてね。つぎは砂浜で。最後は海の中で」

「それで青色のうえに黄色ですか」

 僕はうなずいた。しかしすべてを納得できたわけではなかった。このころ先輩は何もかも発想が僕の上をいっていて、おもしろくて、美しくて、そして憧れだった。

「えーっと……じゃあ、こういうのはどうですか。むかし、中学の美術の時間にやったんですけど。網と使い古した歯ブラシを用意するんです。そして歯ブラシの毛先に絵の具をつけて、網にこすりつけるんです。すると網の下に絵の具の粒が散乱して、何か弾けたみたいになるんですよ。スプレーともまた違う、変な感じに」

「へぇー、なにそれ。うちの中学じゃやらなかったなぁ。ありがと、ちょっとやってみるね」


     *


 そうして完成したのが、この表紙だった。

 乱雑に塗られた青の上に、まき散らされた猥雑な黄色。おしっこ、しっこ、ションベン、ピス、ホーリー・シット。

 僕はその同人誌を手に取り、パラパラとめくった。僕はこの本が好きだ。自分が関わったからじゃない。先輩の書く文章が純粋に好きだった。きれいで、汚くて、真摯で、不真面目で……。

 ――もしかしたら、これが生きている本じゃないだろうか?

 ふと、僕はそう思った。でも即座に否定したくなった。なぜなら先輩は、もう死んでいるからだ。作家としての、物書きとしての久高美咲は死んでいるから。

 あの人が小説を書くことを止めた理由を、僕は知っている。情事の最中、あの人は自慢げに、自虐的に言った。


「自分の書いているものなんて、どうせ何にもならないのよ。自分を表現したって何にもならないの。だって世間が求めているのは、ありのままの私じゃないから……。だったらね、社会に忙殺されてでもお金を稼いでいるほうがいい。そうしたら、こうしてまた宮澤くんとデキるでしょ? 金曜の夜に、二人で新宿に」


 それから嬌声を上げた彼女を、僕は絞め殺したくなった。でも、僕に首締めなどという性的倒錯はなかった。むしろ僕は、他人を傷つけることにひどくナイーヴであると、そう自負していた。

 先輩は変わった。就職活動を始めてから、あの人はめっきり部室に来なくなった。そして今まで出し続けていた本も発行しなくなり、そしてついに文章を書くことも止めた。小説を燃やす儀式もまだ続けているか分からない。それどころか、フィクションを読み続けているかどうかも分からない。最近、あの人との会話にフィクションは登場しないから……。

 あの人と、あの人の小説は死んだ。

 でも……。

 ここにいる小説は――あのときの先輩は、まだここで生きている。枯れてなお種子が発芽するのを待つ植物のように。

 気がつくと、僕は志乃原翔子にメールしていた。

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