生きている本を探して

 昼過ぎからシフトに出た。あいにく今日は佐々木とは被らなかった。代わりに僕と一緒に一階のレジにを任されたのは、最近入った小島さんという女子大生。彼女は無愛想で、僕も彼女とどう接すればいいのかよくわかっていなかった。僕自身、かなり内向的な人間であったし。無口な彼女とは率先して業務以外のことを話そうとも思えなかった。

 それから二時間ほどレジ業務をしてから返本業務をこなし、売場の業務に入った。僕の担当はノベルスのコーナーだった。移動式のラックを持ってきて、本を陳列して。いつものルーチンワークだ。

 だが、その最中に気配のようなものを感じた。殺気というか、暖かさとでもいうような気配。振り返ると、案の定だった。さっき公園で再会した彼女、志乃原翔子がいたのだ。

「店員さん、ちょっといいですか?」

 彼女はそう言って、またあの笑みを僕に送った。

「なんでしょうか」

 僕は営業スマイルで返した。少しでも知り合いというような雰囲気は出さなかった。

「あの、本を探しているんですが」

「どんな本でしょうか」

「どんな、というか……。あの、店員さんのおすすめの小説とか、ありますか?」

「僕のおすすめですか?」

 こういうことを聞いてくる客は、ままいる。別に彼女が初めてというわけではなかった。ただ漠然と本を読みたいという意志はあるのだが、何が読みたいという趣向を持たない者がそう問うてくる。面倒な客と言えば、面倒な客だった。しかし仮にも文学研究会の名義を使っていた彼女がそんな質問をしてくるとは、なんとも意外だった。

 僕は陳列棚に目を落とし、ざっと端から目で追った。ちょうど彼女がいたのは海外文学のコーナーだった。

「でしたら、これとかいかがでしょうか」

 僕は一冊、一番下の列から本を取りだした。白いカバーの、新書版の文庫本。白水Uブックスの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、その村上春樹訳版だった。

「先日、サリンジャーの全集を買われて行きましたよね。でしたら、ほかの訳を読んでみるのはいかがでしょうか?」

 村上春樹訳のサリンジャー。僕は野崎訳派だったから、正直あまり気乗りしなかった。でも、彼女はきっと気に入るのではと思った。

 しかしその本を見た彼女の顔はアンニュイで、先ほどまでの笑みはどこかに失せていた。思わず僕は、表紙を下に向けてしまった。隠すように、恥じらうように。

「ごめんなさい。実はこのあいだ買ったサリンジャーの本は、実はそんなに好きじゃないんです。というよりもわたし、そういった一般的な小説が読めないんです。変なことを言っていると思われるでしょうけど……でも、読めないんです。」

「はぁ。では、どのようなものなら読めるのですか? 雑誌ですか? ノンフィクションですか?」

「本が……生きている本が読みたいんです」

「生きている?」

 僕は小首を傾げた。

「それは、生きている作家の本ということでしょうか? たしかにサリンジャーは亡くなっていますが――」

「いえ、そういうわけではなくて……」

 すると、彼女はもっと物憂げな表情になって、この上なく申し訳なさそうに縮こまった。面倒な頼みだと彼女自身わかっているようだった。わかっているからこそ、気まずく感じているようだ。

 それからしばらく沈黙があったのだが、それはベルの音でかき消された。そのベルは、レジの人間が応援のために先輩や社員を呼ぶときのベルだ。おそらく新人の彼女が応援を求めているのだろう。

 棚の影から顔を覗かせてみると、クレーマーが彼女に文句をつけている様子は目に飛び込んできた。小島さんは無口であったから、なおさらクレーマーの火に油を注いでいた。しかも社員は来そうにない。僕は志乃原さんを置いて応援に向かうか否か、すこしだけ考えた。

 そうしていると、何かが僕の手に触れたのである。それは、志乃原翔子の小さな白い手だった。彼女は僕の手に触れると、紙切れを一枚握らせた。

「わたしの連絡先です。急に変なこと聞いてすみませんでした。でも、もし何か……何か思い当たる小説を見つけたら……生きている本を見つけたら、そこへ連絡してください。いつでもいいです。わたし、待ってますから」

 彼女はそれだけ言うと、再び笑顔を取り戻し、深く一礼。また僕のもとを去っていった。

 それから僕は放心状態で、意識を取り戻した頃にはクレーマーも飽きて帰ってしまっていた。


     *


 それから閉店作業まで仕事は続いたのだけど、僕の意識はずっと彼女とともにあった。彼女――志乃原翔子とともに。

 彼女が渡してきた連絡先。それは、トラウザーのポケットのなかでひっそりと息を潜めていた。しかし確実にそこにあって、仕事中の僕を悩ませた。なぜか右太股にじんわりとした暖かさを感じることができた。

 閉店作業が終わり、一日の仕事が終わり。日曜の安穏から月曜のせわしなさに移り変わる街。それでも僕は、そんな社会の順番からはアウトサイダーだった。

 僕は例によって駅前の喫煙所でタバコを一本吸い、それから家に帰ることにした。佐々木のいない喫煙所は、死んだように静かだった。煙を吸う独り者の男たち。彼らは静かに紫煙を肺に取り込んでは、無言でその場を立ち去っていく。きっと死ぬときもこんな感じなのだろう。無言でフィルターの根元まで吸い込んで、燃え尽きたら静かに捨てられていく。その場にはもう誰も残されない。

 妙に感傷的な気分になっていた。

 僕はその気持ちを押し殺すみたいにタバコを灰皿へねじ込むと、一人帰路についた。ちょうど京浜東北線がブレーキ音を効かせているところだった。


     *


 ――生きている本が好きです。

 志乃原翔子は、そう言った。

 夜零時過ぎ。バイトから帰った僕は、雑多な部屋のなかでぼんやりと考え事をしていた。机の上には道中で買った半額の弁当と、スピリタスと麦の混ぜもの。そしてギブソン・レスポールの形をした灰皿に、ハイライト・メンソールが一箱。机にはうっすらとホコリが積もっていたけれど、僕は気にせず箸を進めた。

 まずいビール風飲料は、酔っぱらうためだけの飲み物だ。酔いが回ると、タバコがうまくなる。思考は鈍くなるが、気分は上々だ。僕はテレビを垂れ流しながら、口ずさむように聴き知らぬ歌を歌った。

 ――生きている本が好きです。

 生きている本とはなんだ?

 弁当の唐揚げをすべて食べ終え、赤飯のようにグチャグチャの白米を流し込むと、僕は漬け物を口に運びながら考えた。

「生きている本ってなんだよ」

 口にしてみるが、分からない。

 僕は「生きている作家の小説か」と問うた。しかし彼女はアンニュイな表情を浮かべ、申し訳なさそうに目線をそらすばかりだった。そういう意味の「生きている」ではないのだろう。

 では、額面通りに受け取ればいいのか?

 生きている本。つまり命を宿した、生命活動をする本。そいつが人のように動き回ったり、喋ったり、モノを食ったりするのだろうか。あるいは植物のようにそこへ定住し、受粉し、風か昆虫などに種子を預けて播種はしゅするのだろうか。

 そう考えていると、確かに小説とは一つの生命体のように思えてきた。そもそも生命体の定義とは如何なものか、正確なところは僕にもわからない。しかし、ある種小説というものも『遺伝子ミームを伝播させ増殖するもの』と捉えるならば、それは生き物であるようにも思える。たとえば僕がサリンジャーのミームを発芽したように。文字という名の昆虫が、その内奥に比せられた種子ミーム土壌ヒトに植え付け、やがて発芽するというのであれば……。

 そのとき、僕はふと本棚にあるJ・D・サリンジャーに目がいった。『ライ麦畑でつかまえて』は、野崎孝訳と村上春樹訳で四冊――野崎訳が書き込み用と読む用で二冊。村上訳が単行本と文庫で一冊ずつだ――それから原書がペーパーバックとライブラリ・エディションで合計六冊ある。かつて久高先輩が僕の家に来たとき、

「どうして同じ本が六冊もあるの?」

 と笑っていた。あの人は、基本的に一度読破した本は捨てることにしていたから、そんな僕が不思議に思えたのだろう。久高先輩は、読んだ本を片っ端から捨てる。だからあの人は本棚というものを持っていなかった。

 少なくとも一つ分かったのは、サリンジャーは志乃原翔子の言う『生きている本』ではないということだ。それは彼女にとってミームを植え付けるような本ではないということだろうか?

 僕は独りでにそう解釈を始めていた。僕の勝手な推測。彼女のことなんてどこかに忘れて、勝手気ままに自分の思い出に浸っていた。

 六冊のライ麦。笑っていた先輩。捨てられた本たち……。


     †


「これは葬儀なのよ」

 大人びた少女は、そうほほえみながらマッチを擦った。しかし一本目のマッチは風に煽られて、とたんに消えてしまった。

 僕と彼女は、大学裏のゴミ集積場にいた。部室棟がある六号館の裏で、ここにキャンパスじゅうのゴミクズが集められる。早朝、大きな青いトラックがやってきて、ひとまとめにされたゴミたちが乗せられ、出荷されていく。

 そんなゴミ集積場は、夕方になると墓場のような様相になる。部室棟では大学生のわめき散らしているけれど、裏まではさすがに響いてこない。ここにあるのは巨大なコンクリート塀と、ゴミ袋をおいておく薄汚れた広場。そしてトラックに通じる道だけ。近くに台車が置かれていたけれど、それももうそろそろ寿命というような雰囲気をしていた。

 彼女――久高美咲は、そんな夕暮れのゴミ集積場で葬儀を執り行おうとしていたのだ。いまこの瞬間、ついさっきまでの自分の葬儀だ。

 二本目のマッチにはきれいに火がついた。真っ赤な薬剤は燃えつき、炎は木へ燃え移る。彼女は口にくわえたタバコに火を近づけて、一服した。夕闇のなか、タバコの先端はテールランプのように残光を描いた。

「じゃあ、はじめましょう」

 言って、彼女はくわえタバコのままカバンを開いた。そこから取り出したのは一冊の本。そしてオイルライターの詰め替え用オイルだった。

 彼女はゴミのなくなったコンクリートの上にその本を置いた。丁寧に、死者を弔うように。それは岩波文庫のレザー・ストッキング・テイルズだった。

 それから彼女はしばらく目を閉じ、本に向き合った。死者に向き合った。それがだいたい五分ぐらい。彼女にとってはたったの五分。でも、見ていた僕には長い長い五分だった。

 ようやく目を開けた彼女は何か得心したような顔つきだった。

「じゃあね」

 一言。

 それが彼女が本に与えた言葉だった。

 オイルを本に浴びせかける。そして彼女は、吸い終わったタバコをその上に落とした。まもなく炎は、火種から油へと燃え移り、紙を燃やし始めた。風が吹くと、文庫本の燃えカスは煽られて、どこかに飛んでいってしまった。それはタンポポの綿毛のように。

 やがて燃え尽きたとき、彼女はもう一本のタバコに火をつけた。僕は彼女から火をもらい、同じ銘柄を吸った。

「付き合わせちゃって悪いわね」

「いえ、僕も暇だったんで。それより、先輩っていつもこんなことしてるんですか。読み終わった本を燃やすって」

「そうね、いつも。だいたいこんな感じ。私、こうやって本の命をもらっているの。食べているのよ」


     †

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