短剣と素描

 目が覚めると、先輩が横で寝ていた。サイドテーブルには燃え尽きた吸い殻たち。焦げ落ちた煙草が灰皿のなかで水に揺れている。正確には水ではなく、ビールの残りカスだった。水に浸された葉たちは、ひどい臭いをしていた。

 僕の隣に寝そべるのは、生まれたままの姿をした久高先輩。仕事を終えてからそのまま飲み会に行き、またその足で僕に会いに来た。先輩の顔にはどことなく疲労の色があった。

 大あくびをしながら屈伸。それからタオルケットを剥いでベッドを這い出ると、先輩が寝返りを打った。

「なに、もう帰るの?」

「ええ、まあ。明日もバイトですし」

 頭が痛い。ビールを飲みつつひたすら情事に興じたせいだろうか。二日酔いが頭痛に現れていた。

「そう。……じゃあ、また今度ね」

「はい。また今度」

 ベッドの上でタオルケットにくるまり、先輩は手を小さく振った。それからその手はベッドサイドに突き出され、サイドテーブルのアイコスをつかんだ。目覚めの一服を求めようと。

 僕はそんな先輩を横目に部屋を出た。もう僕が憧れていた彼女はどこにもいない。今いるのは、現世への恨みを性欲として発散する女。ハイライトを吸うことを止め、周りを気にしてアイコスに乗り換えた女だった。


     *


 日曜のシフトは昼過ぎからだった。

 土曜日に二日酔いと徹夜の情事の疲れを殺すため、僕は丸一日死んだように寝ていた。そのおかげで日曜はえらく目がさえて、早朝から外へ出ずにはいられなかった。

 ベッドを出たのが、午前四時ごろだったと思う。起きてから歯を磨き、シャワーを浴び、テレビを点けて、まだ朝のショッピングしかやってないのを見て。それからタバコが切れていることに気づいた。

 正確には、タバコは切れていなかった。僕の部屋の本棚の上にはハイライト・メンソールがまだ一箱残っている。吸いかけで、十本ほど残っていた。そこにはほのかに香水と汗の臭いが残っていた。これはあのとき先輩がくれたものだ。僕はあれきり“これ”だけは吸わず、残していた。感傷と思い出に浸るための入り口として。吸う気にはなれなかったのだ。

 だから僕には、そのタバコは吸えなかった。なにより葉もしけっていただろうし。

 それゆえ僕は早朝から電車を乗り継いで外へ出て、途中コンビニでタバコとおにぎり、紅茶を買ってバイト先に向かった。


 バイトまで時間があったので、それまで公園で暇をつぶそうと思った。神田まで出てきてから、最寄り駅で降りて。バイト先と逆方向の出口へ。駅舎のむわっとした空間を出ると、五月のカラッとした陽気が待っていた。

 日曜日ということもあってか、オフィス街には人もまばらだった。しかし、そこここにスーツ姿の群が見える。彼らは暑さに押し負けて上着を脱ぎ、ネクタイを揺らしながら歩いていた。駅前の信号が青に切り替わったとき、一列に並ぶ戦列歩兵のような彼らが一斉にネクタイを振り子時計にして進み出す。僕はそんな彼らに逆らって進んだ。

 やがてオフィスビルを抜けると、緑が見え始めた。小さな公園だ。それはコンクリートジャングルにそびえるオアシスのようだった。だけどその内実は、しょせん人間に汚染されたものに過ぎなかったのだ。

 砂場と滑り台、それからブランコが二つ。柱時計が一つと、ベンチが何脚か。しかしそこには子供の影は一つもなく、いるのは数人のサラリーマンばかりだった。休日出勤だろうか。彼らは安息日だというのに、ネクタイを締めてベンチに腰を下ろし、タバコを吸うかコンビニ弁当を食べるかしていた。とてもじゃないが、もし僕が小学生であったとしたら、この空間に入っていこうとは思わないだろう。もっとも日曜の昼時といえど、こんなコンクリートジャングルに割ってはいる小学生がいるものだろうか。この公園の近くには、小学校の一つもない。存在自体が無意味とも思える空間だった。

 僕は木陰のベンチに腰をおろし、それから紅茶とおにぎりを食べた。エビマヨのおにぎりで、ハズレだったのか具が少なかった。

 それから僕はタバコを吸おうと、カバンの中からマッチとハイライト・メンソールを取りだそうとした。だけど、まわりにいるサラリーマンたちを見て、やめた。いまここでタバコを吸ったら、僕は彼らと同じ位置に伍すことになりそうだったからだ。

 だから僕はタバコを吸うのをやめ、代わりにメモ帳を手に取った。バイト用のメモ帳でもあり、創作のネタ帳でもあった。「あった」と過去形であるのは、むろん僕がここ数ヶ月文章を書けていないからだ。ただの一文字も。アイディアのメモでさえも。

 リハビリにでもなるかと思ったのだ。

 昨日、僕は先輩と再び体を交わした。でも、僕はそのことになんら喜びを感じなかった。先輩は僕のあこがれで、僕は先輩のような文章が書きたかった。そのはずなのに、僕はすっかり幻滅していた。もうあそこにはかつての先輩なんていなくて、社会の色に染め上げられた彼女がいるだけ。それを悟ったことで、僕はようやく気持ちの整理がつけられたような気がしたのだ。もう自分はあの人を目指す必要はない。あの人への恋慕は捨て去ってかまわない、というケジメ。そしてそれがリハビリになるものだと、そう思いたかった。

 僕は書きかけのページを開き、シャツの胸ポケットから万年筆を取り出すと、その先端をページの中腹に押し当てた。

 それまでは、先輩に関する素描スケッチが書き残されていた。


     †


 緩くウェーブのかかった茶髪は、滝のようにワイシャツへ向けて下っていた。一歩進むごとにその毛髪は輝きの表情を変え、一瞬一瞬で最高の笑顔を向けてきた……。あの髪。僕はそれを思い出す度に泣きそうになる。その髪はバッサリと切られ、チリトリに集められて捨てられたのだから。

 彼女は、「どう、この髪型?」とほほえみながら、ワイシャツの胸ポケットからタバコを取った。

 僕は応える代わりにマッチを一本擦って、彼女に差し出した。彼女は短くなった髪を手で書き上げて、耳を出すようにしてからタバコを火に近づけた。

 僕は一瞬、その炎を自分の胸元に戻そうかと迷った。なぜならその炎が彼女の髪を焦がしてしまわないか、とても心配になったから。

 二〇一五年、四月九日。


     †


 その先に僕は何かを付け足そうとした。

 二年前、先輩が髪を切ってきたときに書いた素描。今となっては、僕は髪を切った先輩も悪くないと思っている。もっとも見てくれに関してのみであるけれど。

 僕は続きを書こうと思った。

 いまのこと、昨日のこと。

 昨日、僕はセミロングまで髪の伸びた先輩と会い、そして交わった。彼女の髪はいまでは暗めに染められ、ほとんど黒と言ってもいいような色合いになっていた。その髪に、僕は何を思ったのか。まだあのときの切り落とされた髪を思い出して泣きたくなるのか? いや、もうそんなことはない。それどころか、これを書いたときさえ髪を思って泣きたくなったのか怪しいところだ。

 書きたいことは、いくらでもあったはずだ。書けることはいくらでもあったはずなのだ。でも、僕の筆はいっこうに動こうとしなかった。

 しばらくペンを動かそうと踏ん張ったのだけれど、それは便秘のようで頑として動かず。結局、僕は筆をおろし、視線を上に上げた。

 目の前にははす向かいのベンチと、植木。ベンチに座るサラリーマン。ノートパソコンを開き、携帯電話を片手に何かを喋っている。

 すると、その視界に誰かが割って入った。

 彼女が現れたとき、僕は思わずペンを落としてしまった。

 黒く長い髪。白のブラウスと、黒いスカート。首にはハイライト・ブルーのスカーフを巻いた彼女。この日差しの下、一人場違いな雪のような白い肌をした少女。このあいだサリンジャーを買っていった天川女子大の少女だった。

「こんにちは」

 太陽の下、彼女は弾けるような笑顔で言った。

 僕は何も答えられず、黙って彼女の目を見つめていた。

「あれ、もしかして人違いでしたか? あの、先日の書店員さんですよね?」

「えっと……」僕は何とか言葉を振り絞った。「そうですが……。あなたは、このあいだの……?」

「はい、先日はお世話になりました」

 深々とお辞儀をする彼女。

 このあいだもそうだったが、バイトごときにこれだけ感謝を示す人を僕は初めて見た。世の中は、時給九〇〇円そこらのアルバイトに必要以上のサービスを求めるくせに。彼女は、ただレジを売って領収書を書いただけの僕にお辞儀し、あまつさえ礼の言葉まで述べた。ふつうの客なら「遅いんだよ」などと罵りに言葉があってもいいところをだ。

「何をされてたんですか?」

 と、彼女は自然に僕の隣に腰掛けた。

 彼女が座った瞬間、タバコと汗の臭いだけがしていた公園が、とたんに花園のようなかおりに変わった気がした。

「別に、何ってわけでも……」

「書き物ですか?」

 と、彼女はベンチの下に落ちた僕のペンを拾い上げた。万年筆。安物で、書ければいいレベルのシロモノ。万年筆で書いていたらカッコいいって、そう思っていたら、いつのまにかクセになっていた。

 その万年筆を受け取ったとき、少しだけ彼女の指先が僕の指に触れた。白く、細く、触れたら壊れてしまいそうな指。ピアニストのような指だった。

 一瞬、僕はその指と自分の指を絡め合わせたい衝動に駆られた。だけどすぐに理性が効いて、指は止まった。代わりに口が動き出した。

「まあ、そんなところです。素描っていうか、なんていうか。文章を書こうとしていて」

「小説ですか?」

 彼女は小首を傾げた。

 そういえば彼女は、天川女子大の文学研究会だと言っていた。気になるのだろうか。

「まあ、ゆくゆくは小説を書きたいとは思ってますけど」

「そうなんですか……。あ、名乗ってませんでしたね、わたし」

 突然、彼女はそう言って立ち上がった。スカートを揺らして、僕の前に立った。

「わたし、志乃原しのはら翔子と言います」

「志乃原さん、ですか」

 僕は、別に立たなくてもよかったのに。彼女のあまりの礼儀正しさに少しだけ引け目を感じたのだろうか。自分もわざわざ立ち上がって、彼女に相対した。

「宮澤です。宮澤はるか。よかったら、またウチの本屋に来てくださいね」

 僕がそう言うと、彼女は優しく微笑みかけた。

 それから僕は、逃げ帰るように公園を出た。バイトがあるからと言い残し、彼女を避けるようにして。

 彼女に興味はあった。けれど、彼女に真正面から向かえるほど自分が純真でないように思えていた。

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