3210
先輩と落ち合うのは、決まって新宿駅東口だった。三月のあの日以来、ずっとそうだった。まるでそれはシキタリのように決まりきっていた。
あの日以来、僕は何度か久高先輩と会い、そのたびに体を重ねていた。だけど、会うたび気づいていた。僕はもう先輩と会うことに嫌悪感を抱いていると。
先輩後輩、小説家見習い同士などという繋がりは、一時の交わりだけで完全に失せてしまった。そこにプラトニックなものは何もない。先輩はストレスのはけ口として僕との性交を望み、そして僕は有りもしない先輩の残滓を求めて彼女とまぐわい続けていた。気持ちよくもないのに、心地よくもないのに。あるとき僕は乱暴に腰を振ったりもした。きっと心のどこかで文章が書けなくなったことを彼女のせいにしている、そんな醜い自分がいたのだと思う。
中央線に乗って、新宿で降りる。東口のアルタ方面。そこで先輩は待っていた。赤い傘はさしてなかったけれど、スーツなのは変わりなかった。黒いパンツスーツに香水の匂い。彼女は僕を見つけると、胸元のあたりで小さく手を振った。
「遅いわ、宮澤くん。早く行くわよ。たまってるんだから」
「……はい」
僕は小さく言葉を返し、手を引かれるがまま先輩について行った。
東口から歌舞伎町を通り過ぎ、雑踏を見下ろすゴジラの下、人混みの中をかき分けて進んだ。生ぬるい風を浴びながら、僕は汗に濡れた先輩の手を握りしめていた。握手でもするみたいに。崖から落ちた人をすくい上げるときみたいに。
僕らはバーにも居酒屋にも目もくれず、むろん居酒屋のキャッチにも耳を貸さず。ただ前へと進み続けた。そしてホストクラブが乱立する通りを抜けて、ようやく足を止めた。そこには、下品な電飾の施された二十一世紀のゴシック建築があった。
先輩は僕をそこへ連れ込むと、フロントで宿泊を申し出た。
僕らに割り当てられたのは、三階の奥の部屋だった。エレベーターで三階にあがってから、東へ少しだけ向かう。部屋に着く途中で、コンドームの自動販売機があった。先輩はそこで一箱買うか否か迷いつつ、結局カバンの中と相談して、今日は控えることにした。
部屋番号は321。縁起がいいのか悪いのかわからないけれど、僕にとってはあまり気分のよい数字では無かった。それはまるで、部屋の扉を開けると中でゼロが待っているように思えたからだ。ゼロが――虚無の概念がそこに待っている気がしたのだ。
俗世に疲れ果てた男女が夜の新宿で宿を取ったとしたら、やることはもう一つだ。
先輩はまずスーツを脱いでベッドに投げ捨てると、シャワーを浴びに行った。いっぽうで僕は冷蔵庫から缶ビールを一つ引っ張り出した。
部屋の中は怪しげな光が散乱していた。薄桃色の大きな丸いベッド。そこを起点としてすべてが構成されている。正面にはポルノを売り続けるテレビ。右にシャワーと冷蔵庫。左にイス二脚とサイドテーブル。窓はあったけれど、カーテンを閉めることが前提とされたデザインだった。
缶ビール片手にベッドに腰掛けると、リモコンを取り上げてテレビの電源を点けた。点くや否や、すぐに女性の嬌声が聞こえてきた。女子高生風の学生服を来た少女が小太りの男に体をなで回されている。少女は口でこそ「いや」と言っているが、しかし男の手を払いのけようとはしなかった。黒い髪を振り乱しながら、彼女は見せかけの拒絶を繰り返す。男はそんな彼女の乳房をまさぐり、首筋を舐めた。赤いリボンをほどいて、さらにワイシャツを第三ボタンまで外して。するとすぐに青と白のストライプ模様の下着が露わになった。そこにキャミソールなんてものは無かった。
彼女は見せかけの拒絶を続ける。男は乳房への侵入を続ける。隆起した乳首を人差し指と中指で挟み、手の中で転がし始めた。嬌声。見せかけの拒絶。
ビールを一口飲むと、僕はそれがまずいビールだと思った。まるで他人の精液を飲まされた気分がした。それこそ、画面の向こうの男のスペルマを。
「ねえ、宮澤くん」
と、バスルームから声が聞こえて、先輩が飛び出してきた。濡れた髪はそのまま、首から上だけを部屋に出していた
「一緒に浴びようよ」
「どうしてですか」
まずいビールのせいか、僕の言葉には心なしか否定のニュアンスが加わったように思えた。
「あらあら、今日は反抗的だね。先輩の言うことが聞けないわけ?」
「いえ……。ただ、先輩がそういうのをお気に召すかどうかと思いまして」
「そういうのって? ソープとか? 洗いっこだとか、濡れた肌だとか」
僕は口をつぐんだ。カバンからハイライトを取り出し、一本吸いたいところだったけれど、ぐっと押しこらえた。
そしてこたえの代わりに、僕は重い腰を上げてバスルームへ向かった。まずいビールはテレビ台の上においておくことにした。
タバコを吸えたのは、情事が一段落してからだった。もっとも先輩との行為において段落をつけることは難しいのだが、それはさておく。
僕らはまずバスタブの中でお互いの体を愛撫しあい、それから何度も体を重ねた。ボディソープが潤滑剤の役割を果たしていたので、彼女に分け入ることは造作もなかった。
それが第一段落だろう。
第二段落はバスルームを出てすぐだった。夜風にでも当たろうとした僕を、先輩はベッドに押し倒した。すぐに二回戦が始まり、先輩の白い肢体が腰の上でうねり始めた。これが続けて二戦ぐらいあったように思う。
しかし、僕の男根は何ら快楽を感じ得なかった。というよりも、あらゆる感覚を享受し得なかった。たしかにそれは屹立し、先輩の体内に飲み込まれていったのだが、僕は何も感じなかったのだ。まるで感覚器が備わっていないとでも言わんばかりに。だから先輩が獣のような嗚咽をあげて快楽に狂う一方で、僕は非常に冷静だった。ただ先輩が一方的に腰を振るうだけだったのだ。
その感覚は、僕の筆と同じだと思う。
僕は、作家の夢を追うことを選び、真人間として型にはまった就職活動を行うことを辞めた。にも関わらず、ここ数ヶ月ほど――つまり先輩と体を交わして以来――まったく筆が動かない。ワープロの前に座り、キーボードのFとJに指をはわせても無駄。愛用のボールペンをノックし、メモ帳を取り出しても無駄。何もかも、僕はあらゆる書くという行為ができなくなっていた。その理由はよくわからないけれど、つまり、なにか得も言われぬ感情のようなモノが僕の筆からインクを吸い上げていくのだ。ゆえに書きたいとおもっても、書き出すことができなくなる。
このときのペニスもそうだった。屹立し、先輩に愛撫され、たしかにそこに存在しているのに。しかしそれは本来の悦楽を得ることができない。存在しているのに、本来の役目を果たせなくなっているのだ。絶頂の先には虚無が待ち受けるばかりだった。
だから情事を終えたあとも、僕は何も感じていなかった。ひどく落ち着き払って、先輩に背を向けてタバコを吸った。憧れていた久高先輩が僕の名を囁き、独りよがりなマスターベーションに耽っていることに、僕は何ら興奮を覚えなかったのだ。
時刻は午前二時だった。ベッドに寝そべった僕は、サイドテーブルの灰皿を引き寄せてからタバコを吸っていた。隣では先輩がバスローブ姿で座り込んでいた。
彼女もまた僕に背を向け、まずいビールを飲みながら、アイコスを蒸かしていた。前に僕にくれたハイライトのパッケージは、どこにも無かった。そう言えば先輩が紙巻きを辞めたのも、三月のあの日以来だった気がする。
「宮澤くん、ハイライト・メンソールだったっけ?」
吸い終わったアイコスをケースにしまって、先輩はベッドにうつ伏せになった。彼女の視線は僕の体を通し、メンソールの緑色のパッケージに向けられていた。
「今はこれに落ち着いてます。でも、前は色々吸ってましたよ。マルボロから、チェとかダンヒルみたいな珍しいのまで」
「へぇー」
先輩は下心ありげに笑って、僕の下半身に飛びついた。先ほどまでアイコスを握っていた手が、いまは僕のモノを握っていた。もちろん僕は何も感じなかった。
先輩はそのままタバコを吸うみたいに僕のモノをくわえた。だけどもやはり僕は何も感じなかった。屹立せど、それは盲のようにしてそこにいる。
「タバコって、みんな伊達というか、カッコツケで始めるものよね。少なくとも私はそうだった」
ちゅぽん、といやらしい水音。
「あとはストレスとかが原因ってよく聞きますけど」
「それもあるかな。……でもまあ、初めて吸ったときは常喫するとは思ってなかったよね。ほら、煙なんて美味しくないじゃん。だけど、カッコつけてそれを我慢していたら、不思議と美味しくなってくるのね。舌がバカになっただけかもしれないけれど。ずっと苦いスープを飲み続けていたら、その苦さが当然になっちゃったていうか。……ねえ、いまなら精液だって飲んであげるよ」
「いいですよ、そんな」
丹念に愛撫を続けから、舌先は頂上へ向かう。先輩はそれを、さぞおいしいアイスキャンディーのように舐め続けた。しばらくして僕は絶頂したが、やはりそこに快楽はなかった。ただ達したという知覚があるのみで、満たされるものは何一つ無かった。つまり僕は、燃やされるタバコの葉に過ぎなかったのだ。赤く燃え尽き、灰と化し、水に濡れて悪臭を発するそれでしかなかったのだ。
絶頂した僕をよそに、先輩はなおもオーラルセックスを続けた。そこにはかつてシーシャを吸い、僕に一箱のハイライトを渡してくれた彼女はいなかった。
――あのときは、まだ先輩の面影があったはずなのに。
僕は感じない性器を屹立させながら寝転がった。そしてタバコをくわえて、火を点けて、それから目を閉じた。
「ねえ、宮澤くん。もしかしてハイライト吸ってるのって、椎名林檎に憧れてたとか?」
「それ先輩の話でしょ。僕は違いますよ。おいしいから吸ってるんです」
「あら、そう」
水音。
僕は紫煙を吐き、それを吹き消す。
僕は先輩に憧れて吸い出したのだ。僕は先輩になりたかった。本当は、彼女のような文章が書きたかった。だけど、いまの僕にはただの一文字も記すこともできない。
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