ハイライト・ブルーのスカーフ

 思えば、僕はこの日を境に文章が書けなくなったのだ。憧れの人と身体を重ねた瞬間、すべてが崩壊し、僕は文章をかくという行為ができなくなった。僕は、先輩が書く小説が好きだったから。先輩が書く小説に憧れていたから。端的に言って僕は幻滅したのである。そういうわけで、僕は小説の書けない小説家志望のフリーターとなった。

 自分の夢は、サラリーマンになって家庭を持つことなどではない。二十七までに小説家になって、作品の一つでも出し、それが誰かに読まれるにせよ、そうでないにしろ、二十七のうちに自殺する。それが僕のライフプランで、そう思い立つと就職活動なんてどうでもよくなって。結局、フリーター兼作家志望という底辺に落ち着いた。それがこの僕だ。挙句いまはそこに小説の書けない小説家志望という烙印まで押されている。

 三月のあのとき以来、本当に僕は一文字も書けていない。時折リハビリがてらに何かを書こうという気持ちになるのだが、いざ筆を執ろうとすると、どうしようもない脱力感が襲い、僕を地の底へと引き込んでいった。

「お前は何も成し遂げられぬまま、自殺もかなわず、ただ地べたを這いつくばって、恐怖におびえて暮らすのだ」

 耳元で悪魔がそう囁くようだった。

 結局あの日以来、僕はアパートとバイト先、それからコンビニを往復するだけの生活が続いている。僕のバイト先は駅近くの書店だが、一日の約半分はここにいるような気がしていた。


 五月で、金曜だった。

 その日の昼、僕は眠い目を擦りながら、バイト先のある神田のほうまで向かった。ゴールデンウィーク明けの都内は、妙な暑苦しさと脱力感のなかにあった。

 中央総武線に乗ってから改札を出て、しばらくの散歩道。駅からほど近い新刊書店。僕はバックヤードから入り畳一条ほどしかない更衣室で着替えると、タイムカードを押してレジカウンターに着いた。ちょうど早番の高木さんが交代するところだった。

「おはようございます」

 なぜか知らないが、この国では昼間だろうとそういう風に挨拶する。そういうシキタリだ。こんにちはは許されない。久高先輩の嫌っている、そういうシキタリ。

「おはようございます、先輩」

 そう言って僕よりやや遅れて来たのは、二年後輩の佐々木だった。彼は小さくあくびを漏らしながら、隣のレジに立った。

「ああ、おはよう」と僕はレジを立ち上げながら言った。

 そういえば、昨日もこんな風に佐々木と言葉を交わした気がしていた。昨日も今日も、同じ会話と同じ行動を続けている気がする。輪廻の中で、僕は脱することができずにいる気がしていた。


 それから僕は閉店まで八時間勤務だったわけだけど、まったく時は光のように過ぎていった。

 雑誌を書っていく婦人にポイントカードの有無を聞いたり。ときおり棚に出て万引きに目を光らせたり――このあいだマンガの単行本がゴッソリ抜かれたことがあった――あとはガラの悪い中年に理由の無いクレームを付けられたりした。そのどれもが毎日同じ作業であるわけだから、時の流れが速く感じるのも当然のことだった。

 だから逆に言うと、普段なかなか目にしないものというのは、そこだけスローモーションのように感じられるのだ。そのような感覚は、日を経るごとに失われていくのだけど。今日は珍しくそれがあった。あれはそう、少年の時を思い出すような匂いだった。


「お願いします」

 静かなの囁きのような声音とともに、順番待ちもない夕方のレジカウンターに一冊の大型本が置かれた。

 それは作家の全集だった。分厚い単行本が一冊と、よく見ればその陰に洋書が一冊。サリンジャーの全集とキャッチャー・イン・ザ・ライの原書だった。

 こんな図書館においてあるような全集がウチの書店にあったなんて、僕自身この日まで知らなかった。だからこのときばかりはすべての時間がスローモーションに動いているように思えた。

 そしてその本を持ってきた彼女は、さらに僕の時間を止めて見せたのだ。

 真っ白いブラウスに黒のスカート。淡いハイライト・ブルーのスカーフを巻いた、どこかあどけなさの残る少女。見た目は十八ぐらいだった。髪は黒く、一点の曇りもないぐらい艶やかで、彼女が呼吸するたび生き物のようにさざ波を打った。瞳は吸い込まれそうなほど黒く、大きく。それを囲うまつげは長く上向きに反っていた。

 僕は彼女の人形のような美しさに引き込まれながらも、全集を手にとってバーコードを読みとった。仕事に脳を移そうとしていたのだが、しかし彼女の顔が気になって仕方なかった。その表情は好奇心に満ちた無垢のようでもあり、アンニュイな含みを持つようにも見えていたのだ。

「えっと……二点で五八四〇円になります。ポイントカードはお持ちですか?」

「いえ。あの、クレジットカードでお願いします」

「かしこまりました」

 言って、僕はクレジットカードの読み取り機を差し出した。

 彼女はそこへカードを差し込み、番号を入力する。

「すみません、あと領収書もお願いできますか?」

「かしこまりました。お宛名様と但し書きはいかがいたしましょうか?」

「えっと……」

 すると彼女は考え込むようにして、顎に人差し指を当てた。白い肌に白い指があたり、小さな陰ができていた。

「書籍代でお願いします。それから、宛名は天川女子大学文学研究会で」

「かしこまりました」

 言われるがまま筆を執った僕は、なぜか指がふるえていた。天という字は人がはみ出し、夫になりかけていた。

 それから彼女は領収書を受け取ると、「どうもありがとうございました」と丁寧な挨拶とともに店を出て行った。

 そのときは、すべてがスローモーションに見えたし、止まってさえ見えた。三十分前に現れた「本誌を購読してるってことは、別冊も予約するに決まってるだろ。察しろよアホ!」とまったく意味不明なイチャモンをつけてきた老人のことなぞ、どこかに吹き飛んでいた。


 それから十時前に閉店作業に入り、店を出たのがだいたい二十分過ぎだった。

 そのまま駅に直行して帰ってもいいのだが、僕は佐々木と日がかぶると、いつも二人で駅前の喫煙所に立ち寄る。お互い喫煙者だということがわかると、妙な親近感というか、連帯感が生じるものだ。佐々木は僕と違って、いわゆる典型的大学生なのだが、それでも喫煙者よしみもあって仲は悪くなかった。

「先輩、いつもハイライトっすよね」

 佐々木はそう良いながら、ジッポでマルメンライトに火を点ける。

 対する僕は、いつものようにハイライト・メンソールだった。ポケットからマッチを取り出すと、口にくわえたハイライトに火を点ける。マッチを使うのも僕にとってはいつものことだった。

「ああ、まあ。初めのころはいろいろ吸ってたけど。マルボロとか、JPSとか。あと奇をてらってダンヒルとかチェも吸ってたっけ」

「じゃあ結構タバコ屋とか行ってたんすね。なんか、ハイライトに落ち着いた理由とかあるんすか?」

「いや、まあ……」

 僕は煙を肺に取り込みながら、その答えを考えた。

 佐々木といるといつも思うのは、こいつは人に話したいことを話させるのが上手いということだ。人間は、往々にして自分の身の上話をしたがる。男であれば武勇伝であるとか。女であれば自分の着衣であるとか。彼はそういう話の流れを引き出すのがうまいのだ。だから僕は、ときおり流されつつも、彼の言葉巧みさに思わず膝を打ったりする。彼に営業職などやらせれば天職だろう。

 が、僕に対してそれは通用しない。なぜなら僕にとっては、自分の身の上話ほどしたくないものは無いからだ。とくにハイライトの話は。

「まあ、なんていうか知り合いが吸ってたんだ。それで吸い始めた。そしたらうまかったんだ」

「もしかしてコレですか?」

 佐々木は小指を立てて見せた。

「違うよ。そういう関係じゃない。どっちかって言うと、なんだろう……。先輩と後輩というか、師弟というか、先生と生徒というか……。とにかく、恋愛関係じゃないんだ。タバコなんて八割は伊達だろう? あこがれだよ、けっきょく」

「うーん。そういうことにしときます」

 佐々木は不適な笑みを浮かべた。いかにも納得してないという様子だった。

「あっ、そういえば先輩! 今日の夕方ごろ来た子、めっちゃかわいくなかったですか?」

「夕方って?」

 僕はあえてとぼけた。彼の言う人物が誰かは、僕にもよくわかっていた。佐々木にも時がスローモーションに見えたのだろう。

「ほら、天川女子大の文学研究会って」

「ああ、あの子」

「そうっすよ。天川女子大って、チョーお嬢様学校じゃないですか。こないだ合コンに天川の子がいたんすけど、親が大企業の重役とかでしたよ。顔は微妙でしたけど、むっちゃ育ちの良さそうなおしとやかな感じで。……いやあ、あの子みたいな子があのとき来てたらなぁ……」

 まくし立てるように言う佐々木は、もはや妄想の世界にトリップしていた。

 僕はそれに対して笑うことか、煙を吸うことでしか返せなかった。

 ハイライトとマルボロの副流煙が虚空で混じり合い、煙のマーブル模様を描いた。僕は夜空にそれが消える様を見ながら、煙を吸った。

「あ、そういえば先輩って明日非番っすよね?」

「そうだけど」

「これからちょっと飲み行きませんか? このへんに、うまいおでん屋があって」

「五月におでんかよ」

「それが美味しいんですって。行きましょうよ」

「そうだなぁ……」

 ――じゃあ、一杯だけ。

 僕は自分の財布事情を思いながら、そう口にしようとした。しかし、次の瞬間には口をつぐんでいた。

 携帯が鳴っていたのだ。ジーンズのポケットの中で、ブルブルと脈動していた。LINEの無料通話が僕を呼びだしていた。

 この時間に呼び出すのは、一人しかいない。僕は電話を取る前に、佐々木に詫びた。

「すまん、ちょっと急用が入った」

 通話に応じる。

 発信者は、久高先輩だった。

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