ハイライトは蒼く燃やして

機乃遙

第一部

新宿は豪雨

 その選択が正しかったのかどうか、そのときの僕には当然わからなかったし、わかろうともしなかった。むしろ心では否定し続けていたと思う。仮に未来からきた僕が「それで良かったんだ」と諭しにきたとしても、当時の僕は信じなかっただろう。

 しかし、それでいてあのときの僕は、「自分は正しいのだ」という根拠を探し回っていた。つまり僕がほしかったのは、正しさとか過ちとかじゃなくて、自己肯定観に過ぎなかったということなのだ。


     *


 新宿は豪雨だった。それも雨というにはあまりに激しすぎて、都内にいるにも関わらず水田の様子を見に行きたくなるほどの豪雨だった。

 肌寒い三月の、吐きたくなるような雨の日だった。

 その日は、大学の文芸サークルで追い出しコンパがあって、僕らは新宿で十一時過ぎぐらいまで飲んでいた。

 当時の僕は四年生で、つまり追い出される側だった。四年生は僕を含めて四人。女性は一人もおらず、華のない世代だと言われた。でもそんな華の無い世代にも、ちゃんと追い出してくれる後輩がいたのだから大したものだと思う。新宿東口の大衆向けチェーン居酒屋を予約して、ビールのまがい物を飲み放題にしてくれる後輩がいたのだから。

 実のところ僕は、あまりその空間に居心地の良さを感じていなかった。追い出しコンパとか、サークルの雰囲気というか。一年ぐらい前からそういう空気感に肌が合わなくなった。その原因の多くは、好きだった先輩が卒業したためだった。

 十時過ぎから始まった二次会は、新宿の居酒屋の一角で行われた。ボックス席に座り込むのは四人の卒業生と、もう四人の後輩たち。机上には誰かが頼んだエイヒレとなめろう、それから唐揚げがいくつか並んでいた。

 僕はそのどれもに手をつける気にもなれず、ただ生ぬるいビールを飲み続けていた。タバコを吸いたいところだったが、場の雰囲気はそれを許してくれなかった。灰皿にはアルコール性の吐息だけが降り注いでいた。

「でも、これで先輩たちも卒業ですもんね」

 そんなありきたりの言葉を口にして、レモンサワーを飲んだのは三年生の水城紗英だった。彼女はこのサークルでも、特段存在感のある人物でもなかった。ただ、読書好きの称号がほしいだけのファッションサブカル女というのが僕の評だった。同学年でも「オタサーの姫になりたかったのだろう」などと囁かれていた。むろん誰も表だって彼女には言わなかったけれど。

「まあ、職場は大学から近いから。学食でも食いに来るよ」

 そんな彼女に鼻を伸ばしたのは、四年の佐藤だった。彼はライトノベル作家になってアニメ化を果たし、印税で生活しながら声優と結婚するんだ! などと豪語していた。だが、それも昨年までの話だ。このときの彼はシステムエンジニアとしての就職を控えた、一人の俗人に過ぎなかった。

 このとき僕は、彼に対して優越感を抱いていた。またほかの同級生に対しても同じように感じていた。就職が決まって、大学を出て行って。もはや文章を書くことをやめて、どこかの有象無象に成り下がろうとしていた彼らとは違うと。僕はそう自分に言い聞かせ続けていた。

 だから僕は、彼らの輪に居心地の悪さを覚えていたのだろ思う。現実を見始めた、彼らの中に。


 二次会を抜け出す決心がついたのは、それからまもなくのことだた。チャンスさえあればいつでも抜け出すつもりだったけれど、僕はなかなかそのきっかけ﹅﹅﹅﹅を見極められずに立ち往生していた。

 きっかけは、雨足の比較的弱まった十一時ごろに訪れた。席の端で一言も発さず、生ぬるいビールをなめていた僕に、一本の電話がかかってきたのだ。発信者には、久高くだか先輩とあった。

 僕はその電話に出ると、三千円だけおいて席を立った。

「おい、宮澤!」と佐藤が声をかけたが、僕は無視して、傘を持って店を出た。


 店を出てから、僕は傘をさして電話に出た。夜十一時の新宿は、まだ眠っていなかった。歌舞伎町のネオンサインは煌々と輝き、客引きを諫めるアナウンスは雨音に負けじと鳴り続けていた。

「もしもし」

「ああ、宮澤くん。私だけど」

 ――私だけど。

 電話に出るとき、「私だ」とか「俺だ」とかそういう風に名乗る人は映画の中にしかいないと思っていた。でも、久高美咲という女は、現実でもそれを口にできる数少ない人間の一人だった。彼女なら映画の真似事のようなセリフでも、自然と格好がついてしまうのだ。

「どうしたんですか、急に」

「いや、ちょっとね。さっきまで会社の人と飲んでたんだけどさ。雨も止みそうだし、終電もあるからって抜け出したの。でも、なんだか飲み足りなくてね。宮澤くんさ、いまどこにいるの?」

「新宿ですけど」

「なんだ、じゃあ好都合。私いま西口で飲んでたの。もしよかったらこれから付き合わない? いい店知ってるのよ。少しなら私も出すから」

「いいですけど……」

「じゃあ、決まり。いまから東口行くから。そこで落ち合いましょう」

 彼女はそれだけ言うと、僕の返答も聞かずに通話を切ってしまった。もっとも、僕はすぐに東口へ向けて歩き出していたのだけど。


 東口で落ち合ったとき、先輩はスーツ姿だった。一年前――つまり去年の追いコンで見たとき――と比べて先輩の姿とは大きく変わっていた。彼女は黒のパンツスーツにスプリングコート、そして真っ赤な傘を差していた。傘の影からは黒めの茶髪が顔を覗かせている。酔っぱらいがビニール傘を擦りあわせながら闊歩していくなか、彼女の赤い傘はひどく目立った。まるで池の上に一輪咲いたバラのように。

「ひさしぶり」

 やってきた僕に、先輩はそういって微笑んだ。しかしその顔にはくまの痕と、血色に乏しい青白さがあった。衣服からは、ほのかにタバコとメンソールのにおいがした。

「おひさしぶりです。一年ぶりですかね」

「ちょうどそれぐらいね。さあ、行きましょう。私、会社の飲み会で嫌気がさしてるの。大瓶のビールばっか開けて、いやになるわ」

 赤い傘が揺れ出して、彼女の革靴が水しぶきをあげた。泥をかぶりながら、アスファルトを咬んで。

 僕は先輩のあとを追っていこうとしたのだけど、彼女はそれを許さず、僕に寄り添うようにして赤を添えた。


 僕らはビルの四階にあるバーに腰を落ち着けた。先輩がお気に入りという店だけあって、マスターとは顔なじみのようだった。マスターは気恥ずかしそうに顔を俯けながら、独り言のように挨拶を呟いていた。手元はグラスを握りしめたまま。

 店内には壮年のビジネスマンが一人。それから若い水商売風の格好をした女がいた。座席はカウンターとソファーの二種類があったが、ソファーはみな空いていた。だから僕と先輩はソファーに腰掛けた。店内には、一九六九年のウッドストック・フェスティバルが流れていた。


「イヤなのよ、ああいうシキタリみたいなの。飲み会にせよ、なんにせよ。ホンネにタテマエ。問題と方程式。盲従か迫害か……。でも、それにこうして愚痴を吐いている私自信もイヤになる。……ごめんね、会社の愚痴なんかに付き合わせちゃって」

 先輩は二人掛けのソファーに座り込み、僕の隣で水煙草シーシャを蒸かしていた。

  異国情緒あふれる丸みを帯びた塔から、管と水を通して煙を吸い、口と鼻の両方から吐き出す。そしてときおりサイドテーブルのウィスキー・ダブルに手をつける。シーシャには甘い果実系の着香がなされていて、先輩が息をもらすたびに柑橘系の甘酸っぱい香りが広がった。

 先ほどから先輩は、水煙草を吸っては呼吸をするようにして愚痴を漏らしていた。それが好ましくないことだと彼女自身わかっているというのに、それでも彼女は負の言葉を漏らし続けた。それはどこに書き留める必要もない、美しくもない、生の言葉だった。そして彼女自身にも書き留める意思はないのだろう。言葉はすぐにその場から失せていった。タバコという存在が、灰となって消えていくように。

「いいですよ。いくらだって聞きますよ。……僕も、いずれそうなると思いますから」

 サーキュレーターが攪拌する吐息を肴にして、僕はラフロイグのトワイスアップを飲んだ。

「あら、そうなの? 聞いたわよ、宮澤くんってばまだ就職先決まってないんでしょ?」

「決まってないというか。決めるつもりが無かったというか。……このままバイト先の書店でフリーターって感じになりそうです」

「生活していけそう? というかどうしてフリーターなの? ……って、あれか。夢を追いかけるって感じか」

「ええ、まあ。そんな感じで……。とはいえ、結果は出ないままですけどね」

 僕は決まりの悪い笑みをこぼした。

 このときの僕は、自己肯定に走ることで、自分の選択の正しさを求めようとしていた。思えば、先輩に話したときもそうだった。

 僕は就職を決めなかった。最後には内定を得ることも考えず、結局バイト先の書店に週六で入ることに決めた。店長は喜んでいたし、両親は怒っていた。僕はどうでも良かった。

 僕は作家になりたかったのだ。小説家になりたかった。世間が言う自己実現がどうだとか、ライフステージがどうだとか、そんなことはどうでもよかった。僕には恋仲に落ちる相手もいなければ、結婚して子供を産む未来を想像することもできなかったし。かといって、仕事に心血を注ぐ自分の姿も想像できなかった。僕にできるのは、今このときを過ごすこと。そして、二十七までに自殺を図ること。その二つだけだったのだ。

「いいじゃない。正直羨ましいわ。ときおりね、私も宮澤くんみたいに思い切りがよかったらって思うのよ。仕事を始めたら、それがメインの生活が続くの。生活のために仕事をしていたはずが、それは世間体を維持するための生活の一部と化し、やがて仕事をするための生活へと切り替わっていく……。手段の目的化は、何においても発生する事物の陳腐化の最たるものね。本来の目的は失われ、人は手段にのみ終始するようになるの。苦労しているポーズを取るために、苦労するようになるのよ。……って、何言ってるのかしら、私ってば」

「いいですよ、付き合いますよ」

「悪いわね、ホント。イヤな大人になったものだわ」

 言って、先輩はまた水煙草を吸った。甘い煙は、ラフロイグの泥炭ピート臭さに合った。

「私ばっか吸ってて悪いわね。そうだ、これあげるわ」

 先輩は上着のポケットから紙巻きの煙草を取り出した。ソフトケースに入った十本ほどの煙草。緑と白のパッケージのそれは、ハイライトのメンソールだった。

 実を言うと、僕はそのとき同じ煙草を持っていた。上着の内ポケットにハイライト・メンソール。だけど、僕はあえてそれを告げずに、先輩から受け取った。

「いただきます」

 そう言ってくわえると、先輩がオイルライターを出して火をつけてくれた。すぐにメンソールのすっとした匂いが鼻を抜けていった。

「そういえば、先輩はどうしてるんです。結局、小説書くのやめたんですか?」

「やめてはないわ。ただ、やる時間がないだけ」

「仕事、ですか」

「そう。いまの私ってば仕事人間ね。……まだあのとき――つまり一年半ぐらい前だけど――サークルの機関誌に短編を載せたときは、まだ書けていたのよ。あのときはまだ物事を見据える観察力が鋭敏で、イマジネーションがあって、それを書くだけの図々しさがあった。でも、いまはもうそれをするだけのバイタリティがないの。大人になったのよ、良い意味でも。悪い意味でも」

「今後、文章を書くつもりは?」

「あるわよ。でも、いつになるかしら。老後かな? ていっても、私たちの世代が老人になるころには、この国は残ってないでしょうけどね」

 彼女はそんなブラックジョークを口にすると、また煙をふかし、そしてまたケタケタと笑った。僕は先輩の吐息に合わせるようにしてハイライトを吸っていた。


 僕らはそれからしばらくサークルの思い出話を肴に、ウィスキーとタバコを嗜んだ。かるく二時間近くは話し込んでいたと思う。もちろん終電は逃していたので、これはカラオケかネット喫茶を捜すよりないと思った。

 でも先輩の考えは少し違った。彼女は僕の手を取ると、目を合わせて言った。

「ね、一本ちょうだい」

 目線が指摘していたのは、僕にくれたハイライト・メンソールだった。

「いいですけど、吸い過ぎですよ」

「いいのよ、もう。付き合って」

 すると先輩は僕に顔を向けたまま唇を尖らせて、口づけを待つように目を閉じた。ツンとした水々しい薄桃色。貝のように重ねられた肉壁の、その隙間。僕はそこへタバコを一本挿入した。そうしてタバコを口に咥えてから、彼女はそれを赤く染まった僕の煙草の先端モノに押し当てた。まもなく火がついて、煙がゆらりと立ち上った。

 紫煙がゆらめく。先輩はそれを肺へ取り込む。吐息。言葉に変わる。

「ねえ、宮澤くん。私、終電逃しちゃったんだけど」

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