第5話
エレクス街にはオフィス街という面の他に少し川寄りに北西へと向かえば様々な建築物が立ち並ぶ自由立地街になる。そもそもラストルバリトには国という枠組みはあるが、それは内陸での中で大河に囲まれた部分を指すだけであり、政治的に支配をしているわけではない。つまり管理者がいないことになる。一般的な考えでは政府から土地を買ったり借りたりするものだが、ここにはそのような取り決めが無いため当然早い者勝ちになるわけだ。
とはいえ土地を増やしすぎて空き地を増やすといわば「無駄とやりすぎ」という理由で周辺住民から制裁を食らう。その辺りの裁量は弁えないといけない。
そして都市の西部は一帯が建造物の実験場と化しており、日夜最先端の建造物が建ってはどこかの古い建造物が解体されるという建築家達の遊び場となっているわけだ。そこの住民の証言によると昼寝してたらいつの間にか家が無くなっていた、などという嘘か本当かわからないようなたとえ話まである。つまり住むのは危険という不文律があるのであまりここには人はいないはずなのだが……。
その自由立地街の入口には数年前に古い建物と入れ替えられるように、ある巨大な建造物が建った。それは数多の鉄筋で支えられた四角い塔で壁はなく、しかし高さは平均的なビルの倍。ところどころ足場はあるが見た目としては巨大な檻にも見えた。中身はスカスカで建造途中のビルか? と思わなくもないが、その実態は電話塔の建設モデルとして建てられたものだ。実験のためか階層ごとに意匠が違い、不整合な姿を現している。
正式に採用された塔は電話線のジャンクションとして幾本もの電話線が張り巡らされる見栄えとして実に恐ろしいものになるのだが……。ここには線が張られた様子はなく、代わりにいずれ壊される予定の書いた張り紙が張られている。
その塔の前に人垣が出来ていた。集団は塔の上を指差して銘々に意見を述べていて雑然としている。彼らが指差す先には何があるのか? それは人だ。塔の半ばより上の階層、その外周の足場に人がいて何かを叫んでいた。仕立ての良かったはずのスーツはボロボロで銃弾がかすったような跡があり、整えた髪はポマードが固まってガビガビになり、チョビ髭はちぎれ散り散りになっている。つまりその人は――
「ジャンブル銀行の支店長じゃねえか……」
何やってんのあいつと首を傾げた。
「高いところから街を一望するとは……いい趣味ですねぇ」
「そういうのじゃないと思うんだが……」
見当違いな事を抜かすマイアラークはどこ吹く風で呑気なことを言いカメラを構える。さすがに叫んでいるような人間がそんな悠長な事をしているだろうか? よくよく耳を傾けてみると、聞こえるのはこの国の人間に対する罵詈雑言であり、恨みであり、憎悪であった。足場をどんどん踏み鳴らしその後には続けてこう言う。
「いいか! 貴様らが野蛮にも私の銀行を襲撃したから今生きるすべを失ったのだ! 貴様らは私をこのように追い立てた事を恥ずかしいと思わないのか! 普通に生活してただけの人間を絶望の淵に追いやって楽しいのか! いいかこの糞ども、私は貴様らに死んで復讐してやることにした! 私が死ぬことで貴様らへの罪悪感というナイフを突き立ててやるのだ!」
などとさんざん喚き散らして話が最初に戻るらしい。
「さっきからあの状態らしくって、ずっとループしてるってわけ」
「構ってちゃんかよぉ……」
「死ぬならさっさと死ねばいいのですのにねぇ」
マイアラークがドライすぎて全く同情してない。サラーナは呆れでため息が漏れるばかりで、ジャックは口元が引きつっていた。とはいえ銀行については明らかに支店長の自業自得であり、何の感情も抱けないわけだが。一般的なバリト市民からすればどうでもいい他人事すぎて死ぬなら勝手に死ねばというスタンスはマイアラークと変わらない。では何故野次馬してるかと言えば彼がこんな事をする理由を真面目に解析していたりする。つまり興味本位だった。
恐らくは同情を引いて便宜を引き出したい、あるいは良心の呵責に訴えて責めたいという思いが綯い交ぜになっているのだろう。しかし市民はおよそドライすぎて全く成果が上がってないのは笑うところなのか。ジャックはソレを見て「えぇ、これオレが取材すんの? マジで?」と愚痴っている。
「仕方ないでしょ。面倒だけどうるさいし、どうせなら紙面埋めるのに役立ってもらったほうがいいじゃない。こういうとこ得意でしょあなた?」
「登れってことか。ちなみに内部の階段は?」
「ものの見事に解体されて上には行けないわね」
「用意周到というべきか不退転というべきか、むしろそこまでやるのを賞賛するべきか。わっかんねぇなあこれ」
「そこまでやって死ぬ覚悟まで出来るなら、わざわざ自殺なんて選ばずになんでも出来そうな気はしますけどねえ」
「その辺を聞いてこいってことよ、じゃ、私は行くから」
「え? どこに?」
「決まってるでしょ、食事よ。お腹ペコペコだもの」
じゃーねーとサラーナは用件だけ放り投げてさっさと去っていった。
「……大概あいつも自由だよなぁ」
「先輩には言われたくないと思いますよ」
「お前にもな」
「私は極めて普通のバリト市民ですから」
「普通の定義ってなんだろうな……」
しかしどうするか、と思考を塔に向ける。塔は檻のようになっているがそれは上半分だけであり、下半分は鉄骨が建っているだけで足をかける部分がない。つまり電話塔には登れる場所が存在しなかった。
「横の建物の屋根から飛び移るしか無いか?」
「得意技じゃないですか、今日も元気にホップ・ステップ・ダウンですよ!」
「落とすな縁起でもない! ……しゃぁねえ、行くか」
周囲を見渡してから彼は塔の近くに建っている家屋に視線を向ける。その屋根は支店長が存在する足場と同じぐらいの高さに有り、あそこまで行くことが出来れば飛び移ることも可能だろう。そう考えたジャックは実行するに当り、家屋の壁についた後、何の気なしに屈伸を始めた。それをマイが何故? と問う間も無く、ダンと土煙が飛びそうなほどの勢いの伸縮を見せ、壁面に飛び移ったのだ!
「え、そうやって登るの!? 中から行った方が楽じゃないですか!」
「屋根が返しになってるから窓からじゃ勢いが足らん!」
だからってそうダイナミックな登り方をする必要があるのだろうか? ジャックも割りと直球気味な傾向があるようで勢いそのままに壁にある窓際のフチなどの出っ張りを利用して駆け上がっていく。これは猿と言われても仕方ない。
野次馬達も奇行にジャックがやって来たことに気づいた。それで気づくのもどうなの、と思いたいがまた彼が何かやらかしてくれるだろうという期待と、本人直撃インタビューによるスクープを楽しみにしている感情が混ざり合って地上は熱気に包まれていく。
そして屋根付近でえびぞりのように跳んだ後、端を掴み腕の力だけで身体を回転させ上へ飛び移った。サーカスでもこんなショーは見られないだろうミラクルである。
さて、屋根へと到達したなら次は電話塔へ飛び移りだ。とはいえ先の垂直移動をこなした後ではたかだが1メートルと少しばかり離れた足場へ飛び移るくらいなんてことはない。勿論地上から十数メートルほどの高さがあるので落ちれば命はないのだが、彼ならカンタンに見えるのも仕方ない。そして市民もそれに慣れてしまっている。
期待通りに目的地点に到達したジャックを見た支店長は、あり得ないという感想を顔で作った。一般常識で考えてもこんな事をするやつはいない。
「こんにちはジャンブル銀行支店長、ベンサム新聞社です。少し取材させてもらってもよろしいでしょうか?」
「な、なななななな! 何を考えているのだ貴様は! あのような方法で登ってくるなど命知らずにもほどがあるだろう!」
「今から死のうとしてる人に命の価値などを問われる気はないですがねぇ……それはともかく、あなたも何か主張したいことがあるのでしょう? あぁいや、もうここで盛大に叫び倒してるんでしたっけ。下の反応はあなたにとってはあまり芳しくないようですが、それはどのようにお考えで?」
「ぬぬぅ、そうとも。こうして吾輩が自殺することで、貴様らの行いがどれほど罪深く一人の人間を貶めたか教えてやろうというのに、奴らからはまるで憐憫も同情も感じていない! ……って貴様はあの時銀行にいた記者ではないか!?」
「今頃かよ! というか記者という認識はあったのね」
完全にデイバーの手先だと思われていたように感じたが違ったようだ。あるいは後から思い直したのだろうか。
「そもそも、何故このような事をしようとしたのでしょうか?」
「何故!? 何故だと!? 貴様らのせいでジャンブル銀行は最早経営が成り立たなくなったからではないか! そのうえ私はこうして野を流離う事になってしまったのだぞ!? 貴様らには情けというものがないのか!」
叫び倒す彼の慟哭は恨みつらみと混じり合って大層強いものになっていた。仕立てが良かったはずのスーツはあちらこちらがかの事件で銃弾によってちぎれ飛び、逃走してからホームレス同然の生活で見るも無残な姿になっている。
「情けも何も、あれはあなたが宝石店に対してやったことが一線を超えたから報復された。それだけの話しでしょう。そして既にケジメも付けられて今、あなたに対して何かを思う人はいませんよ。……それとも、憐れみの目で見られたかったのか?」
同情して手を差し伸べてほしかったのか、その延長が今の行為に繋がっているのか。
「……お前さんはこの国についてあまり知らなそうだから言わせてもらうが、不用意に他人に干渉しないのが流儀だ。自ら歩きだして行動しない人間に差し伸べる手などない」
もはや取り繕うほどの敬語もいらないと判断したのか喋りがぞんざいになる。インタビューしてみたものの彼の行動原理は驚くほど浅く子供のわがままレベルでしかなかった。そんなものに付き合う人間はいない。だが、ジャックもここに来て長くはあるが完全にラストルバリトに染まったわけではない。なので、もう少しだけ話をしてみようと思った。彼も過去に思う事があったが故に。
「歩き出せ、だと? ふざけるなよ、吾輩にはあれしかなかったのだ! ジャンブル銀行の過酷な階級闘争に勝ち、吾輩を見下し続けてきた愚かなゴミどもを見返すために! それをこんな僻地に飛ばされ今や何もかもなくなってしまった! それでどうしろというのだ!」
「そんなにそのステータスは大事だったのか?」
「そうとも! だからこそ吾輩は地位を得るための基盤としてノーストン宝石店を庇護してやる必要があった! 奴らが恩を感じてバックにつけば少なくとも金銭面で困ることはあるまい! だというのに奴らは3割という吾輩の温情を無碍にしたのだ! それだけ払えば吾輩自らが動き手回しをすることで中抜きを阻止してやろうと!」
「言ってることが無茶苦茶だな。自分本位すぎるってことをわかってないのか」
全く彼は周りが見えていなかった。バリト市民は個人主義が極まった人間だが横暴は自分の首を絞める事を知っている。彼はそれを知らなかった。だから報復にあってしまった、ここではただそれだけだ。
「他に方法がないではないか! 吾輩が上り詰めるには――」
「いやさ、言わせてもらうけど、どうでもいいだろ。そんなの」
「な、なに?」
ジャックの目は本当にそんなものに価値があるのか、と問うている。
「目標を持つのは結構、地位を得るのもいいだろう。しかしだ、そんなものに固執して振り回されて、得たものでやる事が他人を見下すため、ってバカバカしいにもほどがある。その行為は、本当に得たものに見合った価値があるものなのか?」
「そ、それは……」
「いちいち他人の目なんて気にして生きてたら苦しいだけだ。見てみろよ、下の奴らを。下賤だなんだと蔑む奴らは、あんなに自由に生きてるじゃないか。そしてお前さんも一般的には犯罪と呼ばれる行為をしたからって、彼らがお前さんを見て犯罪者だと、嗤う事があったか?」
ケジメをつけたら、報復側の目的さえ達成してしまえば水に流す、それがここの流儀である。その前にきちんと話し合う事ができればもっといいのが前提ではあるが。この国は無法で、決着を当事者同士でつけるために後を引くことがない。
「だからここは、厳しいけど生きやすい場所なんだ。かつてはオレも、ウェイトルセルで法務執行官をやっていた」
「……貴様があの慈悲もない極刑人だったと?」
「そうだ。あっちじゃ少なくともエリートとして、法を授かるものとして犯罪者に裁きを下す。まぁ、オレはそんなものに悦を感じたことも、誇ったこともないが。それでもミスをして何もかもを失ったことがある」
それはかつて自分が生み出した汚点であった。あまりに恥ずかしく、悔しく、無為に失ってしまったものがある。固執していただけにどうやって生きていけばいいのかわからなかった。未だそれはくすぶって自虐的に思い出話にするにはまだしばらく時間がかかりそうなものだ。
「その職につく目的を考えたことはない。ただ逃げるために就いたものではあったが、そこで生きるためには地位が必要だった。当然登るために培ってきた努力にも矜持はあったし、専念し続けたからソレ以外の生き方を知らなかった。それはお前さんも多分変わらんのだろうな。だがな、所変われば品変わるってやつで、この国じゃそんな名前も地位もただのハリボテだった。今でこそオレの突撃インタビューが下の奴らを喜ばせて期待されてるが、仮にオレが失敗したところで気にはしないだろう。そしてオレも期待に応える義務はない」
それは落胆や失望といったことにあまり頓着してないということである。失敗に寛容でマイナスがなく、無法であることが許容の幅を広げ、ソレも良し、あれも有りと広い心を持つようになった。
「だからよ、お前さんもちったぁ好きに生きてみたらどうだ。何にも縛られない人生というものは意外と楽なものだぜ? 何、ここで死ぬという選択を出来たお前さんだ。なら死ぬよりカンタンなことならなんだってできるだろぅ?」
その言葉に、「は、はっ……ははは」と底から響く、しかし気の張らない笑いが返ってきた。
「吾輩は視野狭窄だとでも?」
「おうとも。誰かを見返したいなら同じ手段に限る必要はない、一度やって駄目なら違う手段を取ればいい。何より、誇りってのは自分にどう正しくあれたかで強くなる。そんなの、他人は関係ないだろ」
かつては法務執行官だった。今は記者だ。格を比べるとたしかに前のほうが大きいのかもしれない。しかし前の自分には今と比べるとただ生きていただけだった。楽しんで、スリルを感じて、肉を食らってベッドに飛び込む今のほうがよっぽど自分に誇りを持てる生き方をしているだろう。だってそれが楽しいのだから、そうなるともはや格などというものはどうでも良くなってしまうというものだ。
「自分で歩けという割には、貴様はお人好しだな」
「ラストルバリト流で言えば、流儀を知らないお前さんは市民としては赤子なんだとよ。だからたまに構う奴も出てくるさ、オレもそうやって構われた口だからな」
「そう、なのか」
「そうとも。学んだことは返したくなるのも人の性だ。それに、死ぬって事はこれからも生まれ続ける選択を放棄するってことだ。人によってはその選択を悪手ととる奴もいるだろうよ」
「ふん、だが生き続けても私のようなものを雇う物好きがいるものかね」
「それはお前さんの努力次第だろう。この街は高度な技術革命の真っ只中で今も未開拓事業が多いくらいだ。電話が、鉄筋の町並みがかつていた故郷にあったか? 新しいものが出てくるってことはニーズが生まれるってこともであるんだぜ? ソレに加えてお前さんのスタート地点はゼロじゃない。少なくとも、今まで培ってきた知識は無駄にはならない。銀行員としてのお手並み、拝見させてもらいたいところだ……ところで、オレは取材をしに来たはずなんだが」
とうとう吹っ切れたのか、腹の底からガハハハと支店長、いや元支店長は笑い始めた。
「個人主義を標榜する貴様らが他人を説得するなど全くもってバカバカしい! 屁理屈好きとはよく言ったものよ、隙あらば持論を語るのが貴様らの専売特許か。だぁが、ふん、そういう吾輩も誰かに助けてもらいたかったのだろうな……俯瞰してみれば図々しいにも程があるではないか」
尽きるまで笑い、落ち着いて前を見ればこの街の光景のなんと凄まじいことか。高層のビルが増えだし、人々は活気に満ち溢れている。それはここに来る前の自身の故郷と比べるまでもない。法を権力が蹂躙し、悪意と暴威が振るわれる閉鎖的で息苦しい国だった。先進国であるラストルバリトと比べれば隣国は恐ろしいほど中世的で単一の価値観しか認められない国だと、今彼はようやくここで知ることができた。
どうやらここの個人主義は排他的になるのではなく、内面に向けた自身のあり方を肯定する故に、他人のあり方も認められる、そんな場所らしい。それならどのように生きたとしても構わなければ、最終的に自身が腕を振り上げて堂々といられるのであれば普遍的な高みなどいらないのだ。
「……いいだろう。ならば、吾輩も他人の視線など目もくれずに走ってやろうではないか」
「おう、それでいいんじゃねえか? ところで、今の話美談として記事にしていいかい?」
「貴様は徹頭徹尾それか。まぁ良い、好きにせい」
「おう、好きにするとも」
「ふん……さて、さしあたってはここからどうやって降りるかだが」
「わざわざ帰路を破壊するなんざバイタリティありすぎだろ。それで降りれないとか世話ないな」
「やかましい! 元々吾輩は不退転の覚悟で望んだつもりだったのだ、それ、を――っ!?」
「げっ」
元支店長が吠えジャックに向けて身体を向けて足踏みをした時、足元がミシリと音をした後盛大な破裂音と共に――砕けた。
「うぉああぁぁぁぁ!?」
「支店長!!」
足元を散々踏みしだいたせいか、接続部品が摩耗していて外れたのだろう。長いこと整備もされてなかった場所だ。そうなってしまうのは必然だった。まるで落とし穴の口でも開くように足場が滑り落ち、元支店長も落下を始める。最早このまま落ちてしまえば命が無いのは確実だ。ようやっとまともに生きようと改心したというのに、この仕打か、あるいは今までの罰か。神が我が行いを許さなかったのかと諦めの境地に陥りそうだった。
しかし危ぶむなかれ。ここには彼がいる、世紀のスーパーゴシップマン、ジャック・レイリーが!
「何落ちてんだこら!」
落ちそうになったコンマ秒の瞬間に、ジャックはほぼ同時というべき予測と速度で飛び出していた。それは野次馬が騒ぎ立てるよりもなお速く、落下へと入りそうな元支店長を担ぎ上げる。が、
同時に、二人揃って真っ逆さまに落下を始めた。
「ぬぅおぉぉぉぉぉおぉ!?」
「まだだぁぁぁぁ!!」
腰元につけていたフック付きのワイヤーを振り投げつけ、塔の鉄柵へと伸ばす。それはサラーナに言われて用意したかつて自分が使っていたロープ、その強化版だ。ダンドルト特製の合成繊維で編まれたそれは非常にしなやかで頑強であり、大いに彼の趣味がにじみ出ている時代にそぐわないほどの名品であった。
見事鉄柵へと引っかかったそれは落下の勢いを持って弧を描き始め、速度を横方向に変換し塔へ叩きつける勢いでスイングされる。
「ぬえりゃ!」
それを足裏で叩きつけるようにして勢いを殺し、なんとか止まることが出来た。
野次馬達もほうっと息を吐き安堵している。いかな他人を気にしない彼らでも目の前で死なれるのは寝覚めが悪くなるのか、あるいは主義によらない本能的な反応か。
とにもかくにも落下は防ぎ、その高さは先の足場から地上までのおよそ半分といったくらいの位置か。これぐらいであればジャックなら降りても多少痛む程度で済むのではないか、という距離である。しかし担ぎ上げた支店長はそうもいかず、あまりのショックにか過呼吸になりかけていた。
「ひっ、ひっ、ひぇあぁ……たたたたたたた助かったぁぁあ」
「落ちる覚悟までしてたんだからびびってんじゃねえよ」
「やり直そうと考えた瞬間にこれではしょうがないではないか……!」
「つっても、これからどうするかねえ」
登るには元支店長が危険すぎ、降りるにはロープの長さが足りなかった。ならば他の方法は……そう考えるジャックの目にあるものが映る。ふっと笑ったジャックはおちゃらけたようにこう言った。
「そう、そうだ。何、今の今まで落ちようと考えていたんだ。ならこのくらいの高さから落ちたって多少の問題じゃないだろ」
「いやいやいやいや、貴様は何を言っているのだ!?」
「というわけでそーら、行って来い!」
「ほぎゃああああああああああああああああああああああああ!!」
そして彼は再び地面への流星となった。まさかわざわざ一度危険を冒してまで助けた相手を落とすなど、果たして誰が考えようか。いかにこの高さまで減ったとしても確実に骨折くらいは免れまい。死ぬ、絶対死ぬと元支店長は恐怖からぎゅっと目をつぶって衝撃に耐えようとした。だがジャックとて何も考えずに落とすような考えなしではない。
「そーっれっ!張って!」
「よいっしょーーー!!」
「ぶべっ、ぶぇ!げふっ!」
地上には安全策が築かれていた。斜めに傾斜が付けられた大布が一斉にマイアラークと野次馬たちの手によって広げられ、即席のトランポリンが作られる。傾斜によって衝撃が別ベクトルに流されることで布にかかる力を下げ、そこに落下した元支店長を横方向に弾き飛ばした。おかげでゴロゴロと地面を大回転していったが、何、落ちて怪我するよりかは詮無いことである。
「ききききき貴様ぁぁぁぁ!? 急に落とすやつがあるかぁぁ!」
「安全だったからいいじゃねぇかー」
起き上がり、未だロープでぶら下がっているジャックに文句を言うも適当な返事が返ってくる。彼にとってはそうかもしれないが、一般人たる元支店長にとってはこれでも随分大袈裟なことだ。危険の基準が違いすぎる。
「やはり貴様は好かん! 今後吾輩が取材される立場に返り咲いたとしても断固として断ってやる!」
「おーおー、そりゃせいぜい頑張るこった。応援してるぜ」
「ぬぐぐぐぐぐぐぐ!」
挑発しつつジャックも降りてきた。ただし彼は鉄筋の凹凸や穴を見事に利用してスルスルと降りてくる。やはり彼は猿なのかもしれないと思わせるかのようなスムーズさであった。
「助かったぜマイ。布を持ってきて正解だったな」
「元々これ先輩の緊急時用だったんですけど、まさか必要すらないとは思いませんでした」
「なぁになぁに。それで一人助かったんだからいいじゃねえか」
「先輩もお人好しなのは同じなんじゃないですか?」
「これじゃバリト市民は名乗れ無いってか?」
冗談めかして聞くと、マイアラークはニコリと笑顔を作り、
「いいえ、結構なお手並みでした。やはり後味悪いよりかは気分良く終わったほうがいいですよね」
「それもまた自分のためにってやつだな。個人主義もものは言いようだわ」
誰かを助けるのは他人のためでなく自分のため。そういう考えもまた有りだ。
「吾輩はボロボロだがな!」
「初めからそうだったじゃねえか。きっとこれからもっとボロボロになるような事が待ち構えているぜ」
「ふん! そうなってたまるか! 今に貴様の度肝を抜かせるような事をしてやるからな! 待っておれよ!」
「ああ。その時は取材させてもらいますんで、どうぞよろしく」
「させんといっとろうがタコが!」
鼻息荒く大仰に元支店長は立ち去っていった。そういや結局名前聞いてねぇや、と思ったが後の祭りである。立ち去る彼の姿に最早絶望の影はない。これから苦難をすすることになろうともどうにかして生き抜いていけるだろう。
「さぁ、私達も帰りましょうか。これから忙しくなりますよ!」
「そうだな。見出しは何にするべきか……」
「ジャックの大サーカスなんてどうでしょう?」
「何一つ伝えたいこと伝えてないじゃないか! もっといいのがあるって!」
「うーん、それじゃあ……――」
それから数日後のことだ。世はかくも平和で尊く、時々ビルが爆発してるような事もあるが極めて日常的な風景なので誰も気にしてなかった。せいぜい報道各社が蠢く程度である。休日をはさみ出勤したジャックも普段の大立ち回りと比べると地道に仕事を積み重ねている。彼は英雄ではなく記者であるからして、いつもそうそう切った張ったを繰り返してるわけではない。毎日のルーチンこそが本来の日常というものだ。
「さて、それじゃあ新入社員を紹介しよう」
と、ベンベック・ベンサム社長が切り出した。彼が特に決まった時期を持たずに新人を増やすのは唐突であるが、いつものことでもある。なので誰も驚く事無く、顔だけ傾けながら聞いている。
「それじゃあ、入ってきたまえ」
ゆっくりと開かれる扉。そして入ってきた人物を見て、ジャックとマイアラークは瞠目した。
「な、なんだとぉ?」
「わぁ、これは予想外」
そう言う相手とは果たして誰のことであろう。整えたちょび髭をいじりながら男は自己紹介を始めた。
「ダドリー・ゴードンである。本日を持ってスナップ・ベンサム新聞社で働くことになった。よろしく頼む」
誰ぞ、と思うだろう。その名前を聞いたのは初めてだ。しかし外見ですぐわかる、その人物とは。
「というわけで、君たちもよく知っているだろう彼を雇うことにした。金融には強そうだからね」
そう、彼はジャンブル銀行の元支店長、その人である。彼はジャックの姿を見るに近づいて話しかけてきた。
「まさかこのような形で貴様の度肝を抜く事になってしまうとはな」
「いやぁ驚いたぜ、なかなかのサプライズだ」
どうだい、面白かったろう? と社長がにこやかに語りかけてくる。なんでも、社長が休日に街を練り歩いていた時にパートの如くせっせと働いていたダドリーを見つけたのだと言う。その時の彼は金銭の扱いに長けているという培ったスキルを生かしてあちこちで経理業務を行い走り回っていたそうだ。ジャックの言葉に従い地道に、脇目もふらず、醜態を晒す事を厭わず出来ることを全力でやっていたらしい。
再び誇りを持って立ち上がるために、泥に塗れる覚悟をしたダドリーは輝いていたそうだ。
当然ながら情報通である社長は彼のことを知っている。自社で扱った記事なのだから覚えていて当然だ。丁度いい、良いこと考えた! とばかりに社長は意気揚々とスカウトを始め、結果こうなったということである。
「しかし、一歩ずつ歩むはずがこのようなスキップをしてしまうとは。吾輩としては情けないような助けられてしまったような感じがしていささか居心地が悪いのだが……」
スナップ・ベンサム新聞社は報道の中でも一目置かれる企業であるからして、その人気は高く面接を希望するものが後を絶たない。だが雇われるのは大体社長の直接的なスカウトが多く面接をくぐり抜ける人間はなかなかに稀だ。
「そう思うなら別に辞めたっていいんだぜ? だがお前さんはここに来ることを自分で選んだのだろ? だったら決めたことは最後まで貫き通すだけだ。そうじゃないか?」
「……それもそうだな。ではこれからよろしく頼むよ、ジャック・レイリー殿? それとも先輩と呼んだほうがいいかね?」
「肌寒くなるからやめてくれない? 鶏に乗り移られちまうよ」
「そうです! 先輩と呼ぶのは私の専売特許ですので! 使う時は覚悟するように!」
覚悟ってなんだよと思わなくもないが、自分より年上の人間にそのように呼ばれるのは嫌だ。そうジャックが返すとそれもそうだ、とダドリーがカラカラ笑う。
「とりあえずダドリー君の教育は金融担当のマーロン君に一任しよう。まずはラストルバリトの流儀をしっかり身に染み込ませないとね」
「了解しました社長」
そう言ってのそりと立ち上がったのは筋骨逞しいボディビルダーみたいな男だった。新聞社にいるような見た目の男ではない角刈りマッスルに、ダドリーは恐怖を感じた。
「おい……まさかこの筋肉に教えを請うのかね?」
「うむ、彼ならその全てを筋肉によって伝えてくれるだろう」
「任せてくれたまえダドリー氏。この私の躍動する筋肉があなたを高みへと押し上げるだろう」
「それは首を絞められて死ねという暗喩かね!?」
意味がわからんぞぉぉぉぉ! そう叫びながらダドリーは首根っこを掴まれてズルズルと引きづられていった。入社初日にこれとは、彼の明日はどこだろうか。
「まるで嵐のようだな……」
「うぅむ、筋肉で一体何が伝わるのでしょう。その勇姿を写真にでも収めればわかるのでしょうか」
「生粋のバリト市民にはいらないでしょ」
お願いだからやめてくれ、と懇願した。少女があのような筋肉汚染をされてしまうのは断固として阻止したい所存である。
「ふふ、先輩の頼みならお受けしましょう。……あ、そうでした。先輩の目標聞くのをすっかり忘れてました」
「ん、今頃それ言う? 忘れてくれてたと思ってたのに」
「あら、ひどいですねえ。覚えてたなら言ってくれても良かったのに。ここのとこ編集とか多くて後回しにしてましたから」
それでは、改めて聞いていいですか? と尋ねるとジャックは逃げることはできなさそうだと判断したのか仕方ないと言いつつ答えてくれた。
「オレの目標、それは」
――オレにとって悔やむべきある出来事が起こった理由を知ること。それを知るために、オレはここにいる。
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