カノーネの恋人

小柄宗

序章

 知っているか?

 夜には、二種類あるんだそうだ。

 まず一つ。眩い光が暗闇を隅に追いやって、その人工的な照明のなかで人々が繰り広げるもの。雑多な人間の求めるままに酒色が享楽をもたらして鬱積と欲望のはけ口となり、ざわめきが混然として喧噪を生み出す。秩序の昼と対を成す、混沌としての眠らない夜だ。

 そして、もう一つ。

 冷然とした月明かりだけが地表を照らし、重厚な静けさはどんな音量をも無音の彼方に消し去って寂莫へと帰せしめる。漆黒と静寂が協奏曲を奏でる、本来的な意味での夜。

 人類は闇を完全に消失させることはできなかったが、それを利用して日向では決してできない行為に手を染める者もいる。暗い夜を必要としている人種も、未だに世界には存在するんだとさ——。



「ねえ。その話、もういいわ。つまらないし」

 うんざりした女性の声が、男の語りを遮った。

『そうか。昔、俺が読んだ本にこんな語りだしで始まるものがあってな。聞かせてやろうかと思ったんだが』

「私がそういうの苦手だと知っているでしょう。早く仕事に戻ってよ」

 男の声が苦笑の名残とともに消え去ると、女性は視線を下方に向けて沈黙する。

 女性がいるのは、歓楽街の賑わいからも遠く離れた倉庫であった。その一角、貨物輸送用の大型箱荷コンテナが高く積まれた頂上に、彼女は座しているのだった。その場所には、倉庫の照明も届かず、身を潜めるには絶好の暗がりである。

 床や壁で反射した光が彼女の顔から闇を払い、近くで見ればかろうじて分かるほどの淡さで、その容貌を黒い背景と区別していた。



 年の頃は二十を過ぎてすぐといったところ。光加減によっては緑にも見える濡れ羽色の髪を後ろで結び、背中へ長く垂らしている。顔立ちは美貌と称しても誇張ではない。ただ、可愛いや綺麗といった表現は似合わず、精悍とでも形容すべき強さを持っていた。古代に信仰された戦の女神を思わせる、猛々しい美しさだ。

 女性は微動もすることなく、頭髪と同色の黒瞳に眼下の光景を映している。倉庫には、彼女の存在を知る由もない十数名の男達が不穏な気配を漂わせて動いていた。彼らが深夜にこの人目を憚るような場所にいるのは、それだけ人前では不都合な行為の表れだろうか。



 不意に女性は顔を上げた。頭部に直接埋めこまれた通信端末に呼び出しが来たのだった。回線を開いて応答すると、声は女性の脳内でのみ音声化される。先ほどの男の声が言った。

『ヒメル、警察から通信があった。警察官の配備が完了したそうだ。あとは、お前が仕掛けるのを待っているだけだそうだぜ』

 ヒメルと呼ばれた女性は頷いた。返答は通信でせず、相手が近くにいるかのように小声で話しかける。

「そう。分かったわ。それで、敵はあそこにいるので全員なの?」

 抑えた声量であり周囲には誰もいないのに、間を置かずに返信が届いた。

『俺の索敵では、あの十二人以外に人影はないな。ま、注意を怠らないことだ。これから先はお前の仕事だからな』

 およそ誠実さとは縁遠い忠告でも、ヒメルは気を害した様子はない。それが常の如く平然としていた。

「ゲアハルト、あなたも休んでばかりじゃいられないでしょう。今回の仕事は面倒だって、あなたの口から聞いたと思うけど」



 ヒメルに名を呼ばれた通信相手、ゲアハルトの口調に渋さが加わる。

『この依頼は、デダラス刑事からの警察関連のものだからな。内容は単純そのもの。この倉庫で覚醒剤密売を行う犯罪者を一斉摘発する。その先陣を切るのはお前、それだけだ。だが、面倒なのは、この仕事の目的が密売者の逮捕だということだ』

 仲介人を通してこの仕事を依頼してきたのは、ヒメル達も顔馴染みのデダラス刑事だった。ヒメルとゲアハルトは彼を窓口として、警察だけで犯罪者を制圧するのが困難な事件に際し、警察の要請を受けて幾度か助勢をしたことがある。

『いいか、絶対に一人も殺すなよ。そういう依頼だし、デダラスの奴からも念を押されているからな。奴の小言は聞き飽きた』

了解ヤー。せいぜい優しくしてあげるわよ」

 ヒメルは事もなげに言う。十人以上の敵を目の当たりにして、それでも二人は相手の身を心配する余裕があるのだ。それが過信でないことは、彼女の沈着ぶりが暗に示している。



『動きがあったな、そろそろ頃合いだろう』

 ヒメルが身を前に乗り出すと、売り手と買い手の代表者同士が握手を交わしているところであった。どうやら取引は円滑に成立したらしい。

 背中に担いだものを一度だけ揺すり、ヒメルは淡々とした声を舌に乗せる。

「さ、始めるよ。心の準備は?」

『平穏な夜のなら、できてるさ』

 不敵に笑って、ヒメルはその身を宙に踊らせた。

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