#22:生者と死者の回廊、その果てに

『きゃぁぁぁぁぁ!』


 深桜山を下る山道、風を切り裂くように全力疾走していた。

 下りの勢いそのままに麓の農道を走り抜けていた僕の耳に、突然、ポケットの中のスマホから悲鳴が轟いた。

 その瞬間、全身に凍てつくような悪寒が走り、マウンテンバイクを急停止させる。

 砂埃を舞い散らせながら、強引にタイヤをスリップさせて停まった。

 今のは真綾ちゃんの声だ。ということはソアラも近くにいるはず。

 二人に何かあったのか。


「真綾ちゃん! ソアラ!」

『……』


 応答はなかった。


「【ここな】!」


 僕は不安を打ち消すように思い切り【ここな】の名を呼んだ。

 彼女は、すぐに落ち着いた声でそれに答える。


『アプリは起動状態で位置は確認できています。ドローンを一機、向かわせました』

「そっちに行くから誘導して!」

『分かりました』


 僕は急いでボディバッグの中からプレイディストーションVRグラスの入った黒い小型のケースを取り出す。

 【VRG】と呼ばれるそれは、見た目はほとんど普通の眼鏡と変わらないが、実際にはゲーム機のプレイディストーション4で使うヘッドマウントディスプレイだ。

 ゲームの映像を四方八方、見回してプレイすることができる。

 まさに仮想空間を体験するための機械だが、他にも拡張現実ウェアラブルコンピュータとしての側面も持っていた。

 ネットに接続することが出来、レンズを通して見る視界の中に、様々な情報を表示させて活用することができる。

 僕は取り出した【VRG】を掛けると、すぐさまタブレットとペアリングした。

 ペアリングが完了したという表示が視界に映ると同時に、【ここな】によるソアラの自宅までの混乱を避けた最短ルートが表示される。

 他にも現在のみんなの位置が視界の端に方角として示された。

 かなり遠い位置から少しずつこちらに向かってくる林檎に対し、雪音先輩が急いで近づいていこうとしているのが分かる。

 対して、ソアラと真綾ちゃんが反対側でほとんど重なるように同じ方向に表示されているが、先ほどから動きがない。


『アガナくん、わたしもそっちに……』

「先輩はそのまま林檎と合流して。こっちは僕が行くから」

『分かったわ。気をつけてね』

「林檎、いける?」

『だいじょうぶなのだ……』


 僕はマウンテンバイクのペダルに再度足を掛け、再び全力で走り出した。


「ソアラ! 真綾ちゃん!」

『……』


 もう一度だけ呼びかけたが、やはり応答はなかった。


「……」


 胸の奥に暗い不安の影が降り立つのを感じつつ、僕は額の汗を振り払って力いっぱいペダルを漕ぐ。

 今はとにかく急ぐしかなかった。

 【ここな】がナビゲートで示すソアラと真綾ちゃんの自宅へと向かう先、町の空には幾つもの不気味な黒煙が上がり始めていた。




 アレが、ゆらゆらと頼りない足取りでゆっくりと近寄り、血塗れの顔をべったりとリビングの掃きだし窓に貼り付けた瞬間、口から吐き出される血と何かの蒸気がガラスを曇らせた。

 恐らく、ものすごい何かの高温に晒されたのだろう。

 皮膚が爛れて剥がれ落ち、熟れた果実のように赤い血に塗れた顔は、ほとんど頬の肉がこそげ落ちている。

 奥歯までが剥き出したのなったその顔は、なぜか笑ってみえた。

 まぶたがすべて切り取られ、露出した眼球は白く濁ったまま、どこを見ているか分からなかったが、今、それは自分たちを探しているのだとソアラの中の本能は必死に危険を発していた。

 アレが振り返る直前に、真綾の肩を掴んで窓から離れさせ、床を這ってソファの後ろに隠れた。

 しかし、アレが窓をバンバンと腐った両腕で叩き、その都度、血が飛び散る中、とうとう耳を引き裂くかのような音と共にガラスが砕け散った。

 その時、思わず真綾が恐怖に耐え切れずに叫んで、逃げ出そうと立ち上がってしまったのだ。

 ガラスを突き破ったアレは、勢い余ってリビングの床に突っ伏すような形で倒れこみ、割れたガラスの先端が腹部をえぐったが、まったく苦痛を感じている様子もなく、ぼんやりとした様子でそのまま床を舐めていた。

 敗れた腹部から、どろりとした腸や、ほぼ固形化しつつある血の塊が垂れ落ちる。

 そんな自分の臓物を見つけて、それはゆっくりとした動作で掴み取り、何を思ったか自分の臓器を貪り食った。


――狂ってる……。


 吐き気がするほどの狂気と醜悪な光景だ。

 とてもまともな人間の思考があるようには見えなかった。


「い、いやぁっ……」


 ソアラも真綾も、逃げなければいけないと分かっていたが、あまりにも異常でグロテスクな光景に、見たくないのに目をそらせない。

 逃げたいのに動けなかった。

 やがて、それはまるで操り人形の糸を引かれるかのような不自然な動きで、むくりと頭部だけを起き上がらせる。

 どこを見ているのか分からない白い目が、真綾とソアラを見据えた。

 笑ったように見える血と肉片がこびりついた口の奥で、昆虫のような不自然な動作でカタカタと歯を打ち合わせる音が聞こえた。


「グギギギギィィ……」


 ねっとりとした生臭い息を吐き出し、潰れた声帯から蝉の鳴き声に似た耳障りな奇声を響かせた。

 それは最初、砕け散った窓ガラスの破片の中をそのまま這うようにして入り込んだ。

 ガラスでさらに肉が裂かれていくが、そんなことはお構いなしだ。

 そしてゆっくりと立ち上がると、ほとんど千切れかけた左の足首を引きずるようにして、一歩一歩、一番近くにいる泣きながら硬直している真綾に近づいていく。

 その姿はまさに歩く死体だった。


「ゃ……や、やめ……来ない……で……」


 動けない中、やっとの思いでそれだけを口にするが、その死体は「ギギギィィィ」という歯軋りのような音を響かせながら、骨が肉から飛び出た腕を真綾に向かってかざす。

 やがて、その手がついに彼女の頬に触れようとした瞬間、突然、背後から死体の右肩に向かってリビングの椅子が叩きつけられる。

 強烈な打撃を受けたそれは、思わず真横にあった食器棚に突っ込んだ。

 棚のガラス戸が砕け、破片が飛び散る中、椅子を放り投げたソアラは、動けずに口元に手を当てたまま震えている真綾の手を取る。


「来て!」

「お、お姉ちゃん」


 真綾の手を引っ張って、反対側のドアからリビングを抜け出したソアラは、そのまま玄関から逃げ出そうとしたが、いつの間にか起き上がった死体が、こちらに向かって近づいてくるのが見えた。


「くっ……」


 このまま進めば玄関に出る前に掴まってしまうだろう。

 ソアラはそのまま真綾の手を引いて少し戻り、二階へと続く階段を駆け上った。

 とにかく感染のリスクがある。

 掴まるのだけは、まず避けなければ。 

 

「!?」


 登り切った直後、階下に視線を落としたソアラは、真綾の肩越しに映る光景を見て、背筋がぞっとするのを感じた。

 自分たちを追って、のっそりとした動作で階段を上ろうとする先ほどの死体に続いて、なんともう一体が姿を現したのだ。

 同じように全身焼け爛れ、顔はほぼ潰れている。

 先ほどの化け物よりも、遥かに身体の損壊はひどく、とても直視していられない。

 その様子に戦慄を覚えるソアラは、思わず小さく悲鳴を漏らしかけた。

 それに気付いた真綾が、泣いて真っ赤に腫らした顔で背後を振り返ろうとする。

 しかし、それをすぐにソアラが止める。


「だめ!」


 鋭い声で制するソアラに、驚いてびくっと肩を震わせた真綾が、怯えた目を彼女に向ける。


「お、お姉ちゃん……」

「いいから! 後ろを見ないでそのままあたしについてきて!」


 有無を言わさず強引に真綾の手を引っ張って、自分の部屋に妹を先に入らせると、もう一度だけ背後を振り返ってから、すぐに入ってドアを閉じた。

 すかさず鍵を掛ける。

 真綾が部屋の真ん中で細い両腕を抱き締めるようにして立っているのを見ながら、ソアラはドアを背中で押さえるようにして立つ。


「……」


 そして、怯えて泣き出している真綾に向かって、静かにするようにと人差し指を口元に当てた。

 真綾はとにかく首をかくかくと揺らして頷くことしかできない。

 無理もない。

 すぐ外には、人間の身体を引き裂き、血を浴びて臓物を貪り食っていた化け物が歩き回っているのだ。

 ほんのわずかな物音でも、次の瞬間にはドアをぶち破って怪物が入り込んでくるのではないかという恐怖が、彼女たちの神経をすり減らしていく。


「……」

「……」


 【ここな】の説明を聞いていたし、ドローンの映像で人が食われるところもはっきり見たが、心のどこかでまだ信じられずにいた。

 ところが、それから数分と経たずに見たあれは、まさに死体が生き返って歩いている姿だった。

 その姿を思い出し、彼女はこれまで感じたことのなかった全身の毛が逆立つかのような嫌悪感を感じる。

 テレビや映画で見ることはあっても、目の前で本当に死体が歩いているおぞましさは筆舌に尽くしがたい。

 自然の摂理に反する邪悪な存在であり、すべての生物が感じるだろう背骨の芯から感じるこの感情は、まさに根源的恐怖そのものだった。

 今さらのように、心臓がドクドクと破裂しそうなくらいに激しく鼓動を刻んでいるのを感じる。

 なのに周囲は、不気味なくらいの沈黙がいつまでも重苦しく漂っていた。

 真綾とソアラの小刻みで微かな吸音だけが、わずかに聞こえる。

 それ以外に、まったく物音がしなくなっていた。

 あの死体が這うような音も、耳障りな奇声も響いてはこない。

 部屋に入る直前、二体のそれが階段を昇ろうとしていたはずだ。

 なぜ、今は何の物音もしてこないのか。

 じっと耳を澄まして様子を探る。

 けれど、やっぱり何も聞こえてこない。

 まるで、何もかも夢だったかのように、窓の外からは晴れ渡った空が清々しい陽の光を運んできて、時折、平和な鳥の鳴く声が聞こえた。

 世界はこんなにもいつもと変わらない。

 あれはやっぱり夢だったのか……。


「……」


 ソアラは、そっと身体の向きを変えてドアに耳を当ててみる。

 その時だった。


「ギギギィィィィグァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ」

「きゃっ!」


 三,四センチほどのドアの厚みを挟んで、蝉の奇声のような叫びが彼女の耳を引き盛んばかりに響いた。

 ソアラが聞き耳を立てていたすぐ反対側で、いつの間にか同じように顔をドアに貼り付けて、はこちらの様子を伺っていたのだ。思わずソアラは仰け反った。

 絶叫のような奇声をあげ、突き破ろうとするかのようにドアを激しく叩いた。

 あまりの恐怖に真綾が耐え切れずに両手で耳を塞いで叫ぶ。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

「真綾、机でドアを押さえるから手を貸して!」


 今にもぶち破られそうなドアを必死に押さえ、ソアラは後ろの真綾に声をかけたが、彼女はもはや、床にへたり込んで両手で頭を抱えるようにして泣きじゃくっている。


「真綾!」


 ほんの一瞬、鋭く言い放ったソアラの剣幕に、真綾がびくっとする。


「手伝って、お願い」

 

 不安そうにこちらを見上げる真綾に、もう一度言った。

 その間も、死体は狂ったようにドアを破ろうと奇声を上げながら叩き続けている。

 

「ぅ……う、うん。ご、ごめんね。お姉ちゃん、ま、真綾……」


 真綾は涙を拭うと、小刻みに震えたバランスの悪い足取りで立ち上がり、部屋の反対側に置かれた机の天板を細い両手で掴んだ。

 しかし、引き出しの詰まったかなりの重量がある机は、そう簡単には真綾の細腕では動かない。

 なんとか精一杯の力で引っ張っても、十センチそこそこしか動かなかった。

 それでも必死に机を引っ張り、わずかな隙間が反対側にできると、真綾はその隙間に入り込んで、今度は机を押した。

 壁を蹴るようにして机を押し出すと、今度はかなり動き、ドアを押さえているソアラにも届くくらいの距離まで進んだ。


「いいよ、そのまま押して。あたしも引っ張るから」


 肩をドアに押し付けた体勢で、手を伸ばして机を引っ張り、なんとか真綾と力を合わせて机で押さることができた。

 これでそう簡単にはドアを破って侵入することはできないだろう。

 そう思いつつも、一瞬もドアから視線をそらすことなく、ゆっくりと後ろへと後ずさり、彼女は真綾を強く抱き締めた。

 その間も、ドアは激しく叩きつけられ続けている。


(と、とりあえずドアは塞いだけど、これからどうする……?)


 すぐには破ることはできないだろうが、あの様子ではいずれ突き破られる。

 そうなったら今度は逃げ出す場所がなかった。

 ソアラは自分の胸に顔を預け、震えている妹を守るように強く抱き締めながらも、必死に何かを探して周囲に視線を向けた。

 一応、背後には窓がある。

 いざとなれば、ここから外に出ることも出来なくもない。

 しかし、かなりの高さがあるし、ほとんど足場と言える場所はない。

 落ちたら足を捻挫くらいはしてしまうかもしれない。

 最悪、骨折だってありうる。

 そうなったら、今、ドアの向こうにいる化け物から逃げる術を失って生きたまま喰われるだろう。


「……」


 ソアラの脳裏に、ほんの数分前に見た向かいに住んでいた女性の無惨な姿が思い浮かぶ。

 あの自衛隊の隊員が、死体の群れに飲み込まれる直前、引き裂かれ、内臓をえぐり出されていた姿がそこに重なる。

 自分はともかく、妹をそんな目に合わせるわけにはいかない……。


――逃げられないのなら、ここで戦うしかない……。


 だがどうやって?

 殴る?

 ……いや、掴まれて噛まれるかもしれない……。噛まれたら最後だ。

 なら武器は?

 ざっと見回しても、さっきと同じような机備え付けの椅子くらいしか使えそうなものは見当たらなかった。

 机の中にカッターがあるが、そもそも短すぎるし、ガラスの破片があれほど突き刺さっても気にも留めていなかった様子を考えても、ほとんど意味はないだろう。 

 こんなことなら、金属バットか何かくらい部屋に置いておけばよかった。

 そんな後悔の念が彼女の思考を満たす。

 こうなったらもう、残っている椅子をぶつけるしかないだろう。

 しかし、二体も同時に相手はできない。

 ぶつけた隙をついて廊下に飛び出そうと思っても、あの二体を二人で同時に擦り抜けるのは無理だろう。


「……」


――もしかして、あたし、ここで死ぬのかな……。

 

 ほんの一瞬前まで考えもしなかった思考が、突然、脳裏をよぎった。

 死ぬかもしれないという確かな実感が、この時、人生で始めて彼女を襲う。

 そこにある絶対の死、避けられない死が自分の身にまさに迫ろうとしている。

 こんなにも昨日までと変わらないはずだったありふれた夏の朝、突然、わけもわからないうちに、化け物に喰われて死ぬというのか。

 あまりに理不尽過ぎた。

 妹の前で必死に堪えていた涙が、瞳の端にじんわりと溢れ出ようとしている。

 妹を抱き締める自分の手が震えてくるのを抑えることができない。

 今はもう叫びだしたくて仕方なかった。


――助けて! ……アガナ!


 その時だった。

 背後の窓から、激しく風に煽られて震動する音が聞こえたような気がして、彼女は一瞬、びくりと振り返る。

 そこにあったものを見て、彼女の目が見開いた。

 

「!」

 

 ドローンだった。

 カメラをこちらに向けたドローンが、すぐ外で何度となく旋回しながら、こちらに合図している。

 真綾も音に気付いて顔を窓の方に向けていた。

 その瞬間、ソアラははっとする。

 そう。忘れていた。先ほど化け物が入り込んできた時、隠れる為にスマホの音量を切っていたのだ。

 あまりに動揺していて、みんなと連絡が取れるのを忘れていた。


「お姉ちゃん」

「うん」


 ソアラはポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出し、スピーカーをオンにした。

 すると、すぐさま【ここな】の声が響く。


『ソアラ、真綾、無事でしたか』

「「【ここな】!」」


 普段は、時々、イラっとすることのあるこのポンコツAIの声を聞いて、こんなにもほっとするとは思わなかったソアラは、それでも真綾とほぼ同時に、その名を叫んでいた。


『今、あなた達のところにアガナが向かっています。もう少しで着きます。なんとか持ち堪えてください』


 そういう【ここな】の落ち着いた声に合わせて、それとは正反対に息を切らせたアガナの声が続いた。


『あ、あと少しでそっちに着くから! 二人とも、もう少しだけがんばって!』

「ア、アガナ……」

 

 思わずスマホを両手で持って、見えるはずのないディスプレイの向こうにいるだろうアガナに向かって顔を近づける。

 真綾の前だったので、ずっと気を張っていたが、いつの間にか涙声だったことに気付いた。

 なぜだろう。

 さっきまで怖くて怖くて仕方なかったのに、今もドアがぶち破られそうな状況で、どうしたらいいか分からず、不安でいっぱいだったはずなのに、アガナが自分たちを助けようと必死にこっちに向かってくれている、そう思っただけで、ソアラは泣き出したいくらい心の底からほっとするのを感じていた。

 いつもはとことん頼りないと思っていたアガナが、なぜか今は頼もしく感じる。

 アガナが来てくれると思っただけで、勇気に満たされる思いだった。

 しかし、その一方で不安もあった。

 もし、自分を助けようとしてアガナの身に何かあったら……。


「アガナ、でも、無理し……」

『だいじょうぶ! ……絶対助ける! はぁ、はぁ……絶対に行くから!』


(アガナ……)


 息切れしながらも確固とした決意で、まるで不安すべてを振り払おうとするかのように、力強く彼はそう言い切る。

 全力で走ってこっちに向かっている。こうしている間にも、周りは化け物だらけかもしれない。

 しかし、それでも必死で戦い、守ろうとしてくれている。

 数ヶ月前まで、彼はほとんど外の世界に出ようとせず、人との関係を持つことを拒んで、AIとだけ、ひっそりと暮らしていたはずだった。

 クラスメイトからは侮蔑の目で見られ、自分の親や親族にまで裏切られ、スクラップ置き場にゴミのように捨てられてきた彼は、誰もいなくなった終末の世界でも、ただ孤独に生きようとしていた。

 そんな彼が今、安全だったはずのシェルターを飛び出し、自分の命を危険に晒してまで、必死になって自分や真綾を守ろうとしている。

 そう思うと、ソアラは胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。

 そんな場合じゃないと思いながらも、つい顔が赤くなる。

 

「……ば、ばか……息切らして言わないでよ……」


 知らず知らずのうちに、瞳が熱く潤み、雫が顎を滴った。

 自分でも泣いているのか笑っているのか、よく分からず、とにかく溢れ出る涙を抑えるように、彼女はスマホを胸に抱き締めていた。

 しかし、そんな中、


バキ!


 突然、その時はきた。

 机に押さえつけられたドアの上半分のうち、一部が破け、穴が空いた。

 木片がソアラと真綾の前に転がり落ちる。

 それを見て顔を上げた二人は、凍りついたように戦慄する。


「……ひっ」


 真綾が悲鳴を上げそうになるのをソアラの手が必死に押さえた。

 しかし、そんなソアラもまた、叫び出したい衝動に襲われる。

 まるで元々そこにあったかのように、魂のない作り物のような顔が、砕けた穴から突き出され、いつの間にか静かにじっとこちらを見据えていた。

 どこか苦痛に歪む直前のような表情をしたまま、その作り物のオブジェのような顔は、固まっていた。

 こちらをじっと白く濁った死人の瞳から目が離せない。

 剥き出しになった黄色い歯からは、赤い血肉が垂れ落ち、べっとりと床を汚していた。




 こんなことなら、クロスバイクかロードレーサーでも用意しておけばよかった。

 いや、もう原付スクーターがいい。

 僕はそんなことを思いながらペダルを漕ぐ。

 【ここな】が【VRG】に表示させている残り距離を気にしながら、少しでもゼロに近づけるように、そしてスピードが落ちることのないように漕ぎ続けていた。

 恐らく、【ここな】なりに最短ルートを出してくれているんだろうけど、それでも僕のひ弱な体力は悲鳴を上げ続けている。

 なんとか農道を駆け抜け、ようやく着いた町の中はもはや阿鼻叫喚という他なかった。

 あちこちで誰かの悲鳴が聞こえて、道路には乗り捨てられた車やバイクが放置されている。

 道路脇の花壇に突っ込んで、白煙を上げたままのものや、車同士で衝突して事故を起こしたものまであった。

 所々で、軽傷ではないと分かるほどの大量の血が垂れ落ちているのを見かける。

 間違いなく大事故だ。

 にもかかわらず、周囲のどこにも救急やパトカーを待っている運転手の姿は、おろか、野次馬が人だかりを作る様子もない。

 徹底して破壊の跡があり、そこに人間の血の跡があちことにべったりと残されているのに、人間の姿だけがそこにないのだ。

 何より僕を不安にさせたのは、時々、悲鳴のする方に視線を向けると、真っ赤な血が滴った割られた窓を見つけたり、突然、路地の端から飛び掛ってくる人間がいることだ。

 彼らは何度か僕に掴みかかり、自転車から振るい落とそうとした。

 しかし、ぎりぎりそれを避けてここまで来た。


『ドローンの映像からの判断ですが、【感染者】と確定している個体について、三次元マップに新たに表示し直しました。すでにいくつかの個体は町の中に入り込んでいるようです。移動中、極力【感染者】との接触は避けてください』


 【VRG】で見る情報も、いつの間にかアップデートされていて、そこにいくらかの赤い色で表現されたキャラが浮かんでいる。

 まるで合宿でやった《ココナコネクトサバイバー》そのものだった。

 当然だが、僕の向かう先にも赤い色のキャラが二体いて、僕はそこを目指して真っ直ぐに突き進み続けていた。

 

『アガナくん、林檎ちゃんと合流したわ』

『今、雪音殿と会えたのだ……』

「よかった」


 今のところ、一番いい連絡だ。


『これから二人でまずシェルターに向かうわ。林檎ちゃんを送ったら、そのあとそっちに行くから』

「いや、二人ともシェルターで待ってて。もう【感染者】が町に入り込み始めてる」

『でも……』

「絶対に来ちゃだめだ」

『……分かったわ。でも無理はしないで』


 少しだけ強く言い放つ僕に、先輩は躊躇していたが、やがて根負けしたように言った。

 そうしているうち、ついに家のすぐ近くまで辿りついたが、直前になって家の前で倒れている人の姿を遠目に見つけた。


「!?」


 一瞬、心臓が刃物で突き刺されるような感覚を味わった。

 疲労の極地にありながらも、僕はその瞬間、再び激しくペダルを漕ぐ。

 やがて恐ろしいほどの血溜まりの中、沈むようにして倒れている女性は、ソアラでも真綾ちゃんでもないことに気付く。

 腹部を何か強い力で引き裂かれたような跡と、いくらかの臓器が無造作に抜き出され、路上に放り出されている。


「うっ、うぐぅぅぅ……く、くそっ、なんなんだよ……」


 凄惨な光景に思わず吐き気を感じながら、なんとか口を押さえて耐えようとする。

 しかし、僕の胃はそこまで強靭ではなかった。


「う、うげぇぇぇぇ、かはっ……はぁ、はぁ、はぁ、くそっ! こんなことしてる場合……じゃないのに……」


 自分自身の意思とは裏腹に、胃の内容物は食道をあっさり通り抜け、口から一気に吐き出された。

 通りの塀に手を突いて、なんとか身体を支えるものの、膝を折って地面に向かって何度となく吐く。

 朝から何も食べておらず、胃の中は空っぽだったが、それでも胃液だけの吐瀉物は止め処なく流れ続けた。

 いやになるほどの体力の無さ、精神力の弱さにうんざりしながらも、僕はやがて吐き気が収まるのを待って立ち上がる。

 少しフラつきながら、再び人間だったものの残骸へと視線を向けた。

 一度吐いたことで、かえって少し冷静さを取り戻しつつあった僕は、その血を浴びた何かが、真っ直ぐにソアラの自宅に向かって歩いていく足跡を見つける。

 それはリビングの掃きだし窓を突き破り、ずっと血の跡が室内の奥へと続いていた。

 僕は自転車をそっと塀に立てかけると、ボディバッグの中から短めのバールを手に取った。

 ずしりと重いそれを両手で持ち、ゆっくりと静かな足取りで周囲の様子を伺いながら割れた窓の前まで進んでいく。

 その間も、住宅街のあちこちで悲鳴は続いていた。

 時々、逃げ出そうとする誰かが、家の前の死体に気付いて短い叫びをあげるが、もはや彼らもいちいち驚いている余裕はないらしく、かまわずそのまま逃げていく。

 不意に、【VRG】にメッセージが短く表示された。


《上を見てください》


「……」


 見ると、二階の窓の付近を【ここな】が操るドローンが浮遊していた。

 こちらにカメラを向けている。

 

《この窓がある部屋に二人はいます。まだ無事ですが、部屋の前に二体の【感染者】が迫っています》


 僕は応える代わりに頷いて見せた。

 ゆっくりと血の滴っているガラス片に気をつけながら、僕は土足のまま室内に入った。

 なるべく音を立てないように注意しているが、どうしてもガラスの欠片などで足元が、じゃりじゃりと音を立ててしてしまう。

 しかし、幸い、僕の移動する音よりも、二階からどんどんと何かを叩き続けている音や、人間のものとは思えない声帯が潰れたような奇声のせいか、僕の足音は、ほとんど掻き消されていた。

 やがてリビングを抜けて、階段を見つける。

 階段を一段一段、慎重に昇る。

 この向こうだ。

 この向こうに……何かがいる。


「……はぁ、はぁ……」


 【ここな】は部屋のドアの向こうといったが、廊下側はドローンの視界から外れる。

 どこで【感染者】と遭遇するか分からなかった。

 僕はバールを強く握り締め、神経を最大限に研ぎ澄ませながら、一歩ずつ慎重に進んだ。

 そうしていくうちに、二階からどんどんと叩く音と奇声がする以外にも、その奇声が二種類することに気がついた。

 何より、血で濡れた何かを擦り付けていくかのような跡が、床や壁に大量に残っていた。

 間違いない。二体とも二階の突き当たりの廊下にいる。

 階段を昇りきった僕は、突き当たりを曲がった先の奥に、いよいよその気配を感じていた。


《アガナ、絶対に【感染者】に噛まれないようにしながら、必ず頭部を破壊してください》 


 【VRG】の視界に、【ここな】のメッセージが表示される。

 簡単に言ってくれるよ……と心の奥で毒づく。

 呼吸を整えつつ、角からほんの一瞬、身を乗り出して様子を窺った。

 二体の姿を初めてその目で見る。

 実際に見ると、映像で見るより遥かにおぞましい姿に息を呑んだ。

 恐らく、先ほどの砲撃を受けた火の海の中を来たのだろう。

 全身裸で皮膚が焼け爛れ、まるでビニールの皮膚がたわんでいるかのようにズルズルに剥けて引きずっている。

 剥き出しの筋肉は赤黒くぬらぬらとしていて、何より先ほどから空気中に充満する腐臭で息が苦しい。

 身長約170弱くらいの二体の焼けた腐乱死体が、部屋のドアを叩き続けていた。

 どちらもこちらには気付いていない。

  

――よし、今ならいける! やるんだ!


「……」


 しかし、そう自分に言い聞かせながらも、いざ、この硬いバールであの死体の頭を叩き潰すことを想像すると、急に怖くなった。

 あの中に、人間の脳があるのだ。

 硬い頭蓋の奥に柔らかい神経の塊である脳がある。

 それを今からこのバールで叩き割り、肉片や血が飛び散る中、奥にある柔らかい組織を破壊する。

 

――本当にできるのか……僕に。


 卵を割って、中の黄身をかき混ぜるのとはワケが違う。 

 バールを強く握り締め、冷たい汗が頬を伝う中、ほんの一瞬、僕は躊躇した。

 その時だ。

 突然、廊下の向こうでバキ!という何かが砕け散る音と共に、奥の部屋から二人の悲鳴が轟いた。


「な!?」


 ドアが完全に突き破られたのかと思った。

 一瞬、自分が迷ったせいで、ソアラや真綾ちゃんのいる部屋に怪物が入り込んでしまったのだ、と。 

 僕の脳裏に、さっきの路上の死体が目に浮かぶ。

 虚構に閉ざされた瞳を天空に向け、血の池の中を漂うソアラと真綾ちゃんの姿を見た。


「……」


 その瞬間、僕の中で先ほどまでの混乱した思考や恐怖心は、一切消し飛んでいた。

 思考の中の波と呼べるすべてが消えて、静かに済んだ水面を漂うかのような、しかし、その静寂のあとに、確実な何かが迫ろうとしている予感がった。

 どこか、ある意味で思考が澄み渡り、ただひとつの意思だけが僕を支配する。


――殺してやる……。


 これまで感じたこともなかったような、怒り以上の冷たく澄んだ金属のような感情が、全身を光よりも速く駆け抜け、ほとんど衝動的に身体が動いていた。

 人間らしい思考が消え、どこか動物や昆虫のようであり、機械のようでもありながら、はっきりと自分の中にただ一つの感情だけは感じることができた。

 その感情には、絶対零度の冷たさと、すべてを焼き尽くす熱さが同時に存在している。

 金属の冷たい意思と、マグマのような熱い力だ。




 これは……殺意だ。




 骨の奥からじわりとマグマが押し寄せてくるような静かで絶対の力を感じた。

 それを足先に向けて、思い切り床を蹴り付けた。

 その瞬間、周囲の時間が止まったかのような錯覚を覚える。

 視界が極端に狭められ、その中心にあるものしか見えなかった。


――速く、一秒でも早く、こいつを殺す!


「うああああああああああああああああああああああああああっ!」


 ほとんど自分の身のことなんて考えていなかった。

 ただ、殺せ、という僕の中の声しか聞こえなかった。

 身体ごと飛び込み、部屋に入ろうとしていた手前の一体に向けて、全体重と力を一点に集中させた一撃を放つ。

 ほぼブレることなく狙った頭の側面にバールの先が深々と突き刺さった。

 突き抜ける直前、手の奥にさくっという意外なほど、あっさりとした、ほとんど抵抗のない感触が伝わり、僕はそのまま勢いを殺すことなく思い切り体当たりした。

 もう一体はすでに部屋に入っていたらしく、僕の体当たりをぎりぎりで掠めていく中、バールで突き刺した一体は軽々と僕ごと虚空に投げ出され、弾き飛ばされる。


「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 【感染者】の上に覆いかぶさるようにして、そのまま床に倒れこみ、僕は無我夢中で素早く力任せにバールを引き抜くと、そのまま馬乗りになって、迷うことなく頭部めがけて力の限り振り下ろした。

 まるでスイカを叩き割るような、ぐちゃっという音と感触が伝わってくる。

 その不快感は、まるで手を通して僕の神経に沁み込んでみ、半ば狂乱した僕を蝕んでいく。

 しかし、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。


「この! この! このぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 死人の冷たく赤黒い血を浴びながら、二度、三度バールで頭部を叩き潰し、割れた頭部から跳ね上がる薄いピンクの肉片を受けて、完全にそれを『殺した』ことを僕は悟った。

 しかし、それで休んでいる暇はない。

 すぐさま後ろを振り返る。


(もう一体! すぐにやつを殺す!)


 僕の中の獣のような殺意がそう叫ぶ。

 振り返った先、果たして、それはそこにいた。

 一旦、部屋に入ろうとしたそれは、すぐ後ろでバールを何度も振り下ろす音に反応して、僕の方に向かってきていた。

 ゆっくりとした動きで、こちらにフラフラと近づいてくるそれは、怒りなのか、悲しみなんか、それとも苦しみなのか、どちらとも付かない表情で、人間とは思えないほど醜く歪んでいた。

 よく見ると、唇が引きちぎられ、頬が爛れたそれは、ほとんど顔の筋肉を失っていて、表情らしい表情を作ることさえできないはずだったが、その時の僕にはそう見えた。

 そんな【感染者】は白く濁った瞳で僕を見る。

 まるで蝉の鳴き声に似た奇声を上げながら、腐った腕を突き出し、一歩一歩、近づいてきた。


「アガナ! アガナなの!?」


 後ろでソアラの声がした。

 【感染者】が離れたドアから二人が姿を見せる。


――ソアラ……無事なのか。


「真綾ちゃんを連れてすぐに逃げるんだ! シェルターまで走れ!」


 ほっとしたのもつかの間、涙で濡れた顔をそのままに、心配そうにこちらを見ているソアラに向かって、僕は力の限り叫んだ。 


「で、でも、アガナ!」

「【ここな】! ドローンで安全なルートを使ってソアラたちを誘導しろ!」


 ほとんど絶叫にも近いソアラの声を無視して、僕は【ここな】に向かって怒鳴るようにして言い放った。


『分かりました』


 もはや【VRG】にメッセージを表示させる必要もなく、【ここな】はスマホから声を響かせた。


「アガナ!」

「お姉ちゃん行かなきゃ!」

「いやだ! 離して! アガナ!」

 

 もう一度、彼女は僕を呼びかけたが、もはや僕は何も応えなかった。

 まっすぐに目の前の化け物に視線を合わせている。

 代わりに真綾ちゃんがソアラを呼びかけ、その手を引っ張って、無理やり階段へと連れ出そうとしていた。

 ソアラは最後まで泣き声混じりに僕を呼び続けていたが、ついに決死の覚悟で引っ張る真綾ちゃんに無理やり引きずられて行った。

 遠くでソアラが僕の名を叫ぶようにして呼んでいるのが聞こえたが、やがてそれも聞こえなくなる。


「……」

 

 再び静寂がその廊下を支配した。

 千切れた肉が張り付き、血塗れになったバールを、やはり血で汚れた右手に持ち、僕はゆっくりと立ち上がる。

 その時になって気がついた。

 妙に自分の心臓が落ち着いている。

 頭の奥が冴え渡っていて、緊張感はあるのに、どこか無駄に張り詰めた力が消えている。 

 ああ、そういえばまだ午前中だったのかと、【感染者】の後ろから差し込んでくる陽光を見ながら、心の中で場違いな呟きを漏らした。

 もう朝からずいぶん長い間、飲まず食わずで走り続けてきた気がする。

 のどかなスズメの鳴く声が、どこか遠くの悲鳴と共に聞こえていた。

 明らかに異常な事態であるはずが、なぜか奇妙に穏やかで澄んだ空気が辺りを包んでいるような気がして、僕はその時になって悟った。


――そうか。こうして何気なく世界は終わっていくんだ……。


 人が死ぬことも、文明が消えることも、世界にとってはただ、いつもの自然の営みの一部に過ぎないんだ。

 目の前にいるこの醜悪な化け物も、もしかしたら自然が何気なく生み出したモノなのかもしれない。


――だとしたら……。


 その時、ついに【感染者】が僕に向かって掴みかかってきた。


「ガガガガガギィィィィィイイイイイイイイ!」

 

 反射的に腐った腕をバールで振り払おうとする。

 しかし、狭い廊下では突く場合と違って動きに制限があった。

 勢いの足りなかったそのバールを【感染者】が掴む。

 僕は掴まれたバールの端を両側で持って【感染者】と正面から対峙したが、それは明らかに戦略的ミスだったと悟ることになる。


「くっ」


 腕力勝負で勝てるはずがなかった。

 焼き爛れた身体でその力は信じられないほど強大だったのだ。


――脳の運動能力を制限する機能が破壊されている為、比較的、肉体の損傷度が

  低い場合、常識を超えた速度と力で獲物を襲い、捕らえることができます。


 【ここな】の言葉が脳裏をよぎる。

 これだけ筋肉がむき出しになって爛れた状態でも、ここまで力が出せるのか。

 押し潰すようにバールを掴んだ【感染者】は、僕に向かって圧力をかけてくる。

 あまりの力の差に、ついに僕の肩膝が落ちたが、それでもぎりぎりバランスを保った。

 今、崩れたらそのまま潰されて喰われる。


(きっつ……こんなことなら筋トレとかしておけば……)


 そんな後悔がよぎった時、不意に押し潰そうとしていた【感染者】が、突然、持ち上げるようにしてバールを僕ごと引き上げた。

 

「グガァァァァァァァァァァァァァァァァァ」


 一気に、【感染者】の生臭い息が僕の鼻先に吐き出される。

 突き出された顎をぎりぎり顔を逸らして避けた。

 明らかに喰おうとしている。

 そうかと思えば、バールごと持ち上げた僕を思い切り横に振り払い、壁に向かって叩きつけた。


「かはっ!」


 横腹に受けた衝撃が容赦なく内臓を伝い、一瞬、息が出来なくなる。

 【感染者】はそのまま、足が浮いた状態の僕の首に、バールをあてがうようにして壁に押さえつけようとする。 

 このままでは首を潰される。

 しかし、それよりも、ほとんど抵抗できなくなった僕の腹部か胸に喰らい付こうとしているのが分かった。

 狭い空間の中、膝を持ち上げて足で感染者の腹を押し、【感染者】の顔がそれ以上、僕に近づかないように押さえつける。

 僕の足が邪魔で、顔をそれ以上伸ばすことのできない【感染者】が、忌々しそうに鋭い歯を打ち鳴らし、カチカチという音がした。

 狭い廊下で、僕と【感染者】はそれぞれ壁を背にお互いを押さえつけ合っていた。

 しかし、状況は僕の方が不利だった。

 抵抗はしていたが、圧倒的な力でバールが僕の首を圧迫している。

 酸欠状態が続いて、だんだんと意識が遠くなっていく気がした。

 このままではやがて力が抜けて、意識を失い、間違いなく喰われるだろう。


「くっ、ぐぅぅぅうああああああああああああああああ!」


――いやだ。死にたくない!


 ほとんど無意識に、ものすごい怪力で押さえつけてくる【感染者】の間で、必死になって足をさらに持ち上げ、その足を引き伸ばそうとする。

 反対側の壁を背に上半身を支え、力の限り引き伸ばした足で、感染者の胸元を踏みつけた。

 ほとんど突っ張り棒のような体勢だ。


(……ま、まずい……目が……目がかすむ)


 そんな状態の中、ついに目の前がぼやけ、暗くなり始めた。

 急激に力が抜けていくかのように、全身の感覚が麻痺していくのを感じる。

 生きているのか、それとも死んでいるのか。

 僕とこいつを違えている唯一の地平が曖昧になっていく。

 PCの電源を切るように、プシュン、と電気が切れる音と共に一瞬の閃光が脳裏を駆け巡り、やがて何もかもが終わろうとしている。

 そしてついに闇が静かに世界を覆った。

 終わるんだ。世界なにもかもが……。







――ソアラ……。







 どこまでも続く、長く暗い回廊の果て。

 なぜかその時、僕はソアラの姿を見た。

 今この瞬間、降り立った闇と同じ漆黒の夜、二人で手を繋いだあの時のソアラの笑顔だ。


――ありがと。手、繋いでくれる?

  

 僕のすべてを許し、慈しんでくれた彼女の微笑みが、じっとこちらに向けられていた。

 僕は彼女の手に、ぎこちなくその手を重ねようとする。

 けれど、僕の手はあっさりと彼女の手を虚しく擦り抜けた。

 まるで幻のように闇に溶け込んで消えようとしている。

 そんな中、不意に闇の中、いつものアイツが姿を現した。


――悪いな、アガナ。俺もおまえも、いつかは何かを失う。そうやって変わって

  いくもんさ。いつだってな……。


 そう言って、そいつはニヤリとした笑みを含み、軽い調子でそう言った。

 十年間、憎み続けてきたその存在が、変わらない嘲笑を浮かべている。

 どんなに戦っても、どれだけ抵抗しようとも、ただひたすら理不尽を押し付けてきたそいつが、今、目の前で蔑むように笑っていた。

 おまえがこれまでやってきたことなんて、何かも無意味なんだ、と。


――ふざけるな……。


 その瞬間、僕の心の奥で、これまでとは違った別の熱い感情が、じわりと込み上げてきた。

 それは、ここよりもずっとずっと深い闇の奥、僕が覚えている記憶の彼方よりも遥かに遠い過去、僕が僕である前の生命の根幹から溢れてくる原始的な感情だった。

 それには冷静さなどどこにもない。

 意思と呼べるものすらない。

 それはただ、純粋な生命としてのエネルギーだ。

 理不尽な自然に対しての怒り……。 


――ふざけるな、おまえなんかに……。

 

 やがてそれは、まさに噴火する火山のように膨大なエネルギーを吐き出した。

 暗闇の中、爆発する力に任せて僕は吼える。

 吼えて、叫んで、怒って、そして絶叫した。

 かつて独りきりだったどうにもならない世界のすべてに向かって。

 何もかも理不尽な世界のすべてに向かって全力で怒りをぶつけた。

 その瞬間、ぱしっと電気が弾けるような音がしたような気がして、脳の奥が痺れるような感覚を覚える。




――おまえなんかに……奪われてたまるかっ




「こぉぉぉぉぉぉのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 一度、完全に接続が切れたはずの世界と、再びリンクする。

 閉じていた目が見開き、世界がスパークした。

 それと同時に今まさに僕を喰らい尽くそうとしていた【感染者】の顔が近づこうとしていたことに気付く。

 瞬間、再び【感染者】の胸を踏みつけていた足で力いっぱい押さえつけた。


「くたばれぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええええええ!」

「グァヴァッ」


 次の瞬間、僕は思い切り渾身の力でヤツの頭を蹴り潰した。

 熟れたトマトを潰したような感触が足裏に広がる。

 さらにもう一度思い切り頭部を蹴り付ける。

 壁に叩きつけた靴底の下からピンクのブヨブヨとした肉が飛び出し、眼球が零れ落ちる。

 それでも容赦なく蹴り続けた。

 何度も、何度も、何度も……。


「くたばれ! くたばれ! くたばれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


 柔らかかった感触が、徐々にぬかるんでいき、僕の首に押さえつけられていたバールが離れていくのを感じながらも、それでも何度も蹴り続ける。

 やがて、肉の感触が消え、硬い壁に足先が当たるのを感じても僕は続けた。

 けれどどこかの時点で不意に力が抜ける。

 一気に床に落ちて、全身が硬い床に叩きつけられた。

 消えかけていた意識が、その衝撃で今度こそ飛びそうになるが、それ以上に、喉の奥に込み上げてくる吐き気が、そんな生易しい休息など許してはくれなかった。

 

「がはぁっ、げほっ、ごほっ……う、ぐぅぅ……」


 ようやく解放された喉奥の気道に、慌てて空気が入り込む苦しさと、逆に胃から込み上げる凄まじい吐き気が同時に僕を襲う。

 しばらくまともに呼吸することもできず、僕は床に倒れ込んだまま悶え苦しむように身体を丸めてのた打ち回った。

 いくらかは実際に吐いたかもしれない。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 なんとか最大の苦しみを通り抜け、呼吸だけはまともにできるようになってきたが、それでもまだまだ酸素が足りずに荒い息を繰り返す。

 心臓は変わらずバクバクと激しく鼓動を刻んでいて、今さらのように僕の意識を朦朧とさせる。

 それでも少しずつ落ち着きを取り戻し始めた僕は、ゆっくりと身体の上体だけ起こし、傍らの壁に背を預けた。


「……」


 視線の先に、ほとんど僕と同じ姿勢で壁に背をつけて倒れている死体があった。

 首から上が破裂したように無くなっていて、両腕両足がだらしなく投げ出されていた。

 すぐ上の白い壁には、まさにトマトを投げつけたような血の跡が、僕の靴跡を象って張り付いている。

 いくらかの肉片と眼球の一部が一緒にこびり付いていた。

 僕はぼんやりとした目でそれを見つめている。

 心地よい夏の朝の風を受けて、白いカーテンが緩やかに靡いている。

 きっとこんな風に頭が千切れた死体が転がっていなくて、あたり一面、血や脳髄が飛び散ってさえいなければ、ソアラの家は住みやすくていい家だっただろう。

 なんとなく、自分にはほとんど記憶にない“普通”の家を想像してみたが、やがて不毛だと気付いて、そんな自分に皮肉めいた笑みを浮かべる。

 腐った死体が二体も転がっている家はすでに普通の家と呼べるわけがなかった。

 そして、この数分間の間に生きているのか死んでいるのか、今だによく分からないの脳髄を迷いなく破壊して血を浴びた自分も、とっくに普通の人間ではなくなっているのかもしれない。

 ソアラや真綾ちゃんが、あれに食われる瞬間を想像したとき、自分の中で殺すことに対する躊躇や戸惑いは完全に消えていた。

 むしろ、殺したいという『欲望』さえ感じていた。


「……」


 まだ、右手の中に頭蓋を貫く生々しい感触が残っている。

 その瞬間の感情も。

 あれは何だったのか……。

 僕はもう一度だけ死体に目をやった。

 なんとなく、失われた首から上に自分の顔が乗っているような想像をする。

 すぐに後悔した。

 そんな中、かなり呼吸が落ち着いてくると、やがていつの間にか自分が掛けていたはずの【VRG】が外れていたことに気付く。

 化け物と向き合っている間に外れたのだろう。

 周囲を見渡すと、少し離れた位置でレンズ部分が割れてフレームが曲がったそれを見つけた。

 あの状態ではもう使えないだろう。

 仕方なく、僕はゆっくりと起き上がり、転がっていたバールを拾いなおして階段へと向かった。

 もう行かなくては。

 階段を降りようとしたとき、わずかに左の横腹が軋み、つい右手で押さえた。

 さっき壁に叩きつけられたときに、何かあったかもしれない。

 しかし、動けないわけではない。

 とにかく、今はここを離れよう。

 周囲の状況を注意深く観察しながら、僕はゆっくりと階段を降り、入ってきたときと同じようにリビングの割れた掃き出し窓から出ようとうする。


『【ここな】、【VRG】が壊れた。ソアラや真綾ちゃんは……』


 他に【感染者】の姿が見当たらないのを確認してから、ポケットに入ったスマホに直接話しかけた。その瞬間、ポケットの中のスマホから、【ここな】の代わりにソアラの声が響き渡る。


『アガナ!? 無事なの?』

「うん、なんとか無事。そっちは……」


 そう言って、窓から外に出た直後、何かが思い切りぶつかるようにして抱きついてきた。

 柔らかくて温かくて、どこか懐かしい甘い香りが僕の鼻腔をくすぐる。

 両腕の中にすっぽり収まるくらいに細いその肢体は、小刻みに震えていた。

 驚いた僕だったけど、白いキャミソールから覗く白い華奢な肩にぎこちないながら、そっと手を回す。

 彼女はそれに応えるように、血で汚れているのを気にも留めずに僕を強く抱き締めていた。

 すべらかな生まれつき茶色の髪に隠れた顔は、僕の胸に強く押し当てていて、まるでダムが決壊するように、涙が溢れてくるのを隠している。

 言葉を発する余裕なんてないかのように、時折嗚咽まじりの呼吸を繰り返し、押し黙っていた。

 その間、僕の胸の下あたりに感じる二つの柔らかい感触のせいで、再び急激に心拍数が上がっていくのを感じた。

 少し視線を落とすと、キャミソールの隙間から白い双丘の谷間が覗いていて、今は僕に押し当てて潰れているのが見えて目が点になる。

 そんな彼女の柔らかく細い身も、なぜか少し体温が高くなっているような気がした。


(まずいまずいまずいまずい……。そんなにくっつかれると、いろいろまずいことが彼女にバレる……! それだけは絶対に避けないと)


「先にシェルターに行っててって言ったのに……」


 僕はできるだけ、冷静さを装って、泣き続けているだろう彼女に、そっと優しく囁いた。


「あひ、かっへはこほひっへんほほ! あはひはあんはほほ……」

「……」


 あくまで泣き顔を見せたくないらしく、顔をうずもらせたまま何かを叫んでいたせいで、何を言っているか分からなかった。

 それに息がこそばゆい……。


「いや、ごめん。何いってるかわかんない……」


 そう言った瞬間、がばっと顔をあげた彼女は、目を赤くして、端に涙を溜めた状態で僕を睨みつけると、半ば怒鳴るようにして言う。


「あたしはあんたを置いていったりなんかしないって言ったの」

「そ、そか。ごめん……」

「……」


 何に対して謝ったのか自分でもよく分からなかったけど、とりあえずそう言う。

 すると、急に彼女は思い出したように顔を赤くして、すぐさま僕から離れた。

 機嫌悪そうに腕を組んで、そっぽを向いている。

 そんな彼女の態度がよく分からなくて、僕はとりあえず外の塀へと向かった。

 不意に、彼女が少し恥ずかしそうに僕の背に向かって口を開く。


「ありがと。助けに来てくれて」


 僕は塀の外に出る直前、外の様子を窺おうとゆっくりと身を隠しながら慎重に動いた。

 そして、彼女の方を振り返らずに何気なく言う。


「ほら、あの時言っただろ」

「え?」

「二人で公園でアイスクリーム食べたときだよ」

「……」

「何が起こっても絶対に守るからって」

「そ、それは……そうだけど……」

「だいじょうぶそうだね。もう行こう。いいかげん、時間がないし」


 そう言って振り返った時、そっぽを向いていたはずのソアラが、僕をじっと見つめていた。

 泣き腫らしたせいか、頬はさっきよりもずいぶん赤く染まっていて、目はどこか熱にうかされたようにぼんやりとしていた。

 胸の鼓動を抑えるように、彼女は両手を胸元に押し当てている。


「どうし……」

「……」


 次の瞬間、一瞬にして彼女の唇が僕のそれに重ねられていた。

 熱くて柔らかいマシュマロに包まれるような感触が、僕の脳を溶かしていく。

 頭の奥で何かの火花が飛び散るのを見た気がした。

 彼女の細い柔らかな両手が、僕の頬と胸元に当てられ、まるで魂ごと一つになろうとするかのように、ぴったりとお互いの肌を重ね合わせる。

 柔らかくシャンプーの匂いのする髪が僕の頬をくすぐり、いくら重ね合わせても足りないとばかりに、貪欲に温もりが、肌の感触が、唇が、お互いを求め続ける。

 気がついたとき、彼女の少し熱い吐息が僕の首元をくすぐっていた。


「……」

「……」


 僕の首に腕を回し、やっぱり少し恥ずかしそうにしながら、彼女は俯いている。


「ソ、ソアラ……?」

「……な、なに」

「そろそろ行こうか」

「そ、そうね……」


 そういって、彼女はそっと僕から離れた。

 まだ熱を残したように顔を赤くしていて、うまく僕と目を合わせられないようだった。

 僕だってけっこう今、恥ずかしいんですけどね……。


「と、ところで真綾ちゃんは?」

「そのことなんだけどね……」


 そう言った時、


「うふふふ、そろそろ出てきていいかしら?」


 誰もいないのを確認したはずの塀の影から、唐突に雪音先輩が現れた。


「お姉ちゃん、もういい? いいかげん行こうよ?」


 それに真綾ちゃんも……。

 いつからそこにいたんですか……。


 僕はすぐさまどういうことかと、ソアラに向き直る。


「……こ、このタイミングで戻ってくると思わなかったのよ……」

「このタイミング?」


 ソアラは顔を赤くしたまま、もじもじとしたように、両手を合わせたままこちらを見ようともしない。


「さっき、誰もいなかったはずなんだけど、ていうか、二人ともシェルター行かなかったの!?」


 完全に動揺しきった僕が、混乱しながらそう問い掛けた。

 そんな僕に雪音先輩は相変わらずの女神のような笑顔で応える。


「うふふふ、だいじょうぶ。林檎ちゃんはシェルターで待機してるわ。わたしだけ出てきて、ついさっき二人と合流したのよ。真綾ちゃんと二人で誰もいなかった隣のおうちにお邪魔して、使えそうなものをいろいろ探してたの。アガナ君を助けるためにね。だからわたし達、なんにも見てないのよ?」


 やたらと含みを持たせた言い方でそう言った。

 ソアラの方も完全に言葉を失って、恥ずかしそうに固まっている。

 僕まで赤面して何も言えずにいた。

 やがて、ぎこちない足取りで何事もなかったかのように塀の外に向かい、立てかけていたマウンテンバイクから、ボディバッグを掴み取る。

 とにかく、強引にでも話題を変えてみんなで急いで移動しようとした。

 だが、その時。

 唐突に、【ここな】の声がスマホのスピーカーから飛び出す。 







『アガナ。たった今、【感染者】達の本体グループが町に侵入しました。その数、

約15,000体。すでに住民の大半が襲われ、深桜山へと向かう道はすべて【感染者】達で溢れかえっています。そこも危険です。今すぐに逃げてください』






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