#21:砲撃の後、静寂を歩くモノたち
――人類の滅亡。
【ここな】は、そうはっきりと告げた。
僕は混乱する頭を掻き毟るように両手で髪を掴み、部屋の中を落ち着きなく歩き回った。
間違いなく何かの危機が迫っている。映像を見てもそれは明らかだ。
それだけは間違いない。
なのに、どうすべきか、すぐには分からなかった。
その間にも、大型テレビに映る航空映像では、今まさに自衛隊による砲撃と空爆が続き、町を破壊する爆炎と煙がそこかしこで広がっていた。
見覚えのあるマンションや雑居ビルが破壊され、倒壊しながら巨大な炎に飲み込まれていくのが見える。
画面の向こうで起こっている出来事だが、その度に現実のこちら側では不気味な地響きと共に、雷鳴のような轟音が鳴り響いていた。
まるで塹壕の中、砲撃に耐えている兵士の気分だった。
【ここな】はこれがまさに今現在、進行している人類滅亡の瞬間だと言っている。
原因はゼノウイルス? そういえば、ここしばらくニュースで流れていた新型インフルエンザのことで、ゼノウイルスの名を何度か見た気がする。
しかし、なぜそんなことを【ここな】は知っているんだろう?
他にも【第三種事象臨界特異点】?
明らかに【ここな】が何かの事情に精通しているのは確かだ。
僕の知らないところで、こいつは何かを知っていたことになる。
それに最近のこいつはおかしかった。
僕がこれまで知っていた【コーデックス】で得た人類滅亡に関する情報以上のソースを彼女は持っているのか?
考えれば考えるほど疑問が頭を埋め尽くし、もうワケが分からなかった。
そんな中、それでも僕は必死に頭を振って、思考を切り替えようとした。
(今、優先すべきことだけを考えるんだ……。他のことはいい。今、優先すべきこと……)
優先すべきことは……。
安全? そう、安全だ。みんなの安全が最優先だ。
安全を確保するには何が必要だ?
通信? それは確保できた。ソアラと、真綾ちゃんがアプリを起動させさえすればすぐだ。
じゃあ、あとは何だ?
何が必要だ?
考えろ、考えろ、考えるんだ……。
焦って額から汗が流れ出してきそうな中、僕は必死に考える。
――作戦を立てるにはまず情報が必要不可欠です。より多くの情報を得ることで、
より確度の高い効果的な作戦を立てることができます。
瞬間、集中する僕の脳裏にいつかの【ここな】の声が聞こえた気がしてはっとする。
そうだ! 情報だ!
逃げるにしても、今は情報が少しでも多く必要なんだ。
町の東側はもうほとんど戦争状態だ。
町の中はまだ安全なのか?
【感染者】って、具体的にどんな危険があるんだ?
僕らがその病気か何かにかかる危険は?
自衛隊は本当に僕らを守ってくれるのか?
あまりにも状況が分からなすぎる。
何か、何か情報を得る方法は……。
「【ここな】、テレビやラジオで今の状況について何か詳しい発表は?」
『ありません。すでにどのチャンネルも通信の途絶と共に、放送を休止しているようです。ですが現在【コーデックス】を使用して自衛隊の無線アクセスに割り込み、戦術データ・リンクに侵入を図っています。まもなく防壁を突破します』
――あなた、そんなこともできるんですか……。
自衛隊のネットワークにハッキングをかけるなんて恐ろしくも高度なことをやりつつ、片手間に僕の問い掛けに応える【ここな】に、一瞬呆然とする。
これだけ混乱し、動揺しきった僕との会話をこなしながらよくそんなことできるな、と非常時でありながら妙に感心してしまった。
普段はゲーム好きのただの残念なポンコツAIなのに、いざとなれば自衛隊の防衛ネットワークをハッキングって……。
やっぱりブラックボックスの塊であり、現代ではオーバーテクノロジーである
【クァンタムセオリー】のシステムの一部には変わりないということか。
そう思っていた矢先、僕は不意にあることを思い出した。
すぐにテレビの向こうの【ここな】に向き直る。
「ドローンだ!」
確かこの間、ゲームでの教訓からこういった事態に備えてドローンを用意していたはずだ。
混乱状態の町の中を緊急避難が必要になったとき、状況を詳しく把握するために用意したものだ。
「この間、ドローン注文したよね!?」
『はい。六機注文したものが届いています』
「長距離電波送信する為の電柱を、【シェルクラフター】で山頂に設置したはずだ! あれ使える?」
『送受信用のアンテナはすでに合宿中に設置済みです。使えるはずです』
「よし! えっと……どこだ。地下か! 取ってくる!」
すぐさまスマホを手にして部屋を飛び出す。
途中、ほんの一瞬だけみんなのホログラム映像の中、ソアラや真綾ちゃんの反応がないかと視線を向けたが、まだ光る様子はなかった。
「……」
それを見るや否や、すぐに踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りていく。
外に出ると、ビル内にいたときよりも激しく絶え間なく爆音が轟いていることに気付いた。
それにさっきよりも着実に近づいて来ているようだ。
僕は不安な気持ちを押し殺し、そのままシェルターの扉を開き、奥の地下貯蔵庫に通じる階段を目指した。
階段の横には台車で荷物を運ぶための
戻るときには、大きめの台車に巨大な六機分のダンボールを積み上げて一気にスロープを登った。
普段の運動不足がたたってか、ほとんど息が切れそうになりながら、必死に台車を押して走る。
『アガナ、準備ができたら連絡してください。こちらで六機分のドローンを操作します』
スピーカーにしたスマホから【ここな】の声が響いた。
「……はぁ、はぁ、わ、分かってる。今、広場に出て出すから」
そんな中、不意にフォン、という空気が震えるかのような電子音がスマホから響いた。
『アガナ、ソアラと真綾がアプリにアクセスしました』
「!?」
シェルター裏手のいつもの広場で、息を切らせながら乱暴にダンボールを引っぺがしていた僕は、つい動きが止まる。
「よしっ!」
ついほっとして大きく腕を突き上げる。
『全員との回線を開きます』
【ここな】がそう言ったのと同時に、スマホのスピーカーを通して音声通話が開かれた。
その瞬間、耳を塞ぎたくなるほどの爆音と共にあちこちから悲鳴が轟き出す。
恐らく、僕以外の全員が今、町にいるからだろう。
改めて町中の混乱と恐慌に満ちたパニック状態が伺える。
「みんな繋がった!?」
『お、お兄ちゃん……』
『アガナ君、わたしよ。こっちはまだだいじょうぶ。ソアラちゃんと真綾ちゃんは?』
『あたし達もだいじょうぶです……でもいったい何が……これ何の音なの? 町の東側からすごい音が……』
全員が不安と恐怖で怯えていて、林檎はすでに涙声になっているのが分かる。
――落ち着け……落ち着くんだ……。
僕自身、何が起きているのか正確には理解できておらず、動揺が解け切っていない中、自分にそう言い聞かせる。
みんなも怖がっているんだ。
ここで一緒になって不安がってるのはまずい。
何かの使命感のようなものに突き動かされて、必死に自分の感情を抑える。
けれど、どうしたって心臓の鼓動は狂ったように激しく鳴り響いていた。
――ちくしょう、落ち着けってば!
「みんな、無事でよかった」
『お、お兄ちゃん……あ、あたし……あたしどうしたら……』
『なんか外から悲鳴が聞こえてくるんだけど……いったい何が起きてるの!?』
『お姉ちゃん……お、お母さんとか……だいじょうぶかな……』
『……わ、わかんない……でもきっとだいじょうぶだよ』
やっぱり、みんなそれぞれ不安や恐怖でまともに喋れる状態じゃない。
どうしたらいいのか、何が起こっているのか分からず怖くて困惑している。
そんな中、僕は必死にダンボールを引っぺがしながら、できるだけ落ち着いてみんなに話しかけた。
まず何をすべきかのか。
時間がない。
最優先に話さなければいけないのは……。
「みんな落ち着いて! まず今、分かっていることだけ話すから!」
まるで自分に言い聞かせるようにして、僕は鋭い響きを持たせた声で言った。
すると、普段見せない僕の剣幕に驚いたのか、みんなが一瞬、水を打ったように沈黙したのを機会に、僕は【ここな】から聞いた【感染者】や、今、まさに自衛隊による掃討作戦が行われていることについて話す。
みんな、ただ静かに最後まで聞いてくれていたが、どうしても分かっていることが断片的過ぎた。
『よ、要するに、今のこの物凄い爆発音って砲撃音なの? 本当に自衛隊が町中で砲撃してるっていうの? なんでそんなことするのよ?』
「分からない……」
ソアラが信じられないとばかりに問いかけてくるが、僕だって今この時点では、はっきり分からないことが多すぎた。
みんなが再び沈黙する中、僕は【ここな】に向けて口を開く。
「【ここな】、全員にさっき、僕が見ていた映像を送信できる?」
『はい、可能です』
「やって」
【ここな】は僕が見ていた航空映像を【コーデックス】を通して全員のスマホにリアルタイムで送信した。
町の東側の高速道路に、横一列に並んだ自衛隊の戦車の一群が、今まさに砲塔を新たな目標に向けて転回し、爆炎と咆哮を轟かせている瞬間が映っていた。
それと同時に再び、町に凄まじい爆風が吹き荒れる。
猛烈な熱と圧力に晒され、幾つもの家が炎にまかれて崩れる。
道路がえぐられ、車がまるで空っぽのダンボールのように吹き飛ばされたかと思うと、地面に叩き付けられて、粉々に砕け散った。
そのまま燃料タンクに引火したのだろう。
一瞬にして爆発炎上した。
空には天高く黒煙が舞い上がっていく。
もう町の東側半分は完全に火の海と化していた。
その真上を攻撃ヘリが飛び交い、あちこちに向かって炎の矢を放っては、新たな火柱を上げている。
その衝撃は、かなり離れた位置にいるはずのこの深桜山にまで届き、ビルの壁面ガラスが激しく震動していた。
『……ほ、本当なんだ……』
ほどなく、ソアラの沈んだ声がスピーカー越しに聞こえた。
そのショックは全員同じらしく、他のみんなも言葉もなく重い沈黙に支配されていた。
無理もない。
僕だって、この映像が今この瞬間の日本の、それも僕たちが住んでいる町で起こっている現実だなんて、到底受け入れられない。
これじゃまるで戦争だ。
僕らは今、まさに戦場のすぐ傍にいる。
怖くて当然だ。
しかし、ずっと混乱して怯えたままでいるわけにはいかない。
僕はすべてのダンボールからようやくドローンを出すと、すぐさまスマホに向かって叫んだ。
「【ここな】! こっちはOK!」
『分かりました。危険なので少し離れていてください』
【ここな】に言われるまま、僕はドローン六機から二、三歩離れたところまで下がる。
『何をしているの?』
雪音先輩が問い掛けてきた。
「今、ドローンを飛ばしてるんだ。これで町全体の様子が分かる。危険がないと分かったら、これでみんなをシェルターまで誘導するから!」
そう言った途端、六機のドローンの起動ランプがグリーンに点滅した。
すぐに全機が同時にローターを回転させ始める。
さすがに六機の巨大なローターが回転し出すと、凄まじい強風が僕を襲った。
うまく【ここな】の方で全機のコントロールが出来ているらしい。
まもなくドローンは安定した高度を保ち、一機が東に、残りの五機が町に向かって飛行していく。
そのうちの一機はさらに町を通り越して、林檎のいる千本桜村まで飛行していくことになる。
予定ではそこまで電波が届くように、違法ながら高出力アンテナを設置し、ドローン側の受信能力も高めている。
僕はそれを確認すると、広げたダンボールをほったらかしにして小走りに事務所ビルへと引き返した。
「【ここな】、映像は受信できてる?」
部屋に戻ってすぐにテレビに映っている【ここな】に問い掛けたが、実際には聞くまでもなかった。
《ココナコネクトサバイバー》でやったときと同じように、空中のホログラム映像は町の中心部から徐々に外側に向かって克明に描写し始めていた。
路上に出て我先にと怯えて逃げ出そうとする人々や、つい脇見運転をして玉突き事故を起こしている車まで、細かくリアルに描き出されている様子には驚く。
そしてそれ以上に、すでに町の混乱ぶりが深刻な域まで達していることに驚愕した。
ゆっくりとだが、ドローンがそれぞれ町全体を把握できる位置まで移動するのに合わせて、そうした映像は広がろうとしていた。
「みんな見えてる?」
『こっちはOKよ』
『あたしもだいじょうぶ』
『だ、だいじょうぶ……です』
『み、見えるのだ……かなり……町が混乱している……』
そうこうしているうちに、再び、ズダァン、という爆撃音と地響きが轟いた。
今度のはかなり近い。
みんなにも聞こえたらしい。ほとんど同時に全員が小さく悲鳴を上げた。
やっぱり近づいて来ている。
『ア、アガナ……』
スピーカーの向こうで、ソアラが不安そうな声で僕の名を呼ぶ。
そうだ。
ソアラを助けないと。
みんなを助けないと。
僕は焦る気持ちと必死に戦い、考える。
さっきからの様子を考えても、爆撃音はどんどん近づいてきている。
それだけは確かだ。
つまり、『敵』に対して攻撃の効果がないということだ。
そのうち戦車の射程よりも近づいたら、もはや攻撃できなくなるだろう。
そうなったら、今の封鎖ラインも崩れる。
【感染者】というのがどれだけ危険なのか分からないが、少なくとも、自衛隊が『敵』と認識しているそれが、町に侵入してくる。
その時、自衛隊はどんな行動に出る……?
町の東側に展開している自衛隊は、それより東の住民を避難させるなりしてから攻撃しているのだろうか。
――この段階に到達した時点で、もはや封じ込めは不可能となり、自衛隊は現在、
事態の進行を遅らせるための最終処置を実行していると思われます。
最終処置とはどんな行動を意味するのか……。
「……」
『アガナ……』
「やっぱり、なんとかして逃げよう」
このまま、それぞれが家にいるのはやはり危険だ。
なんとかして全員をシェルターに誘導すべきだ。
この瞬間、僕の中で決断が固まる。
『で、でもア、アガナさん……に、逃げるって、何から逃げるの……?』
「たぶん、その【感染者】……だと思う」
僕は少し自信なく応えた。
今は確信を持って言えることはほとんどない。
なぜ自衛隊が、恐らく生身の人間である【感染者】を攻撃しているのか分からない。
そもそも、そんなことが許されるのかさえも。
でも、一ついえるのは、これだけ近い距離で砲撃が続いているのだ。
いつ流れ弾が飛んでくるかも分からない。
そして、自衛隊が『敵』として認識しているそれは、僕らにとっても危険なはずだ。
逃げるべきだ。
それも爆撃音が聞こえなくなる前に。
「そうね。わたしもすぐに逃げるべきだと思う」
そんな中、ずっと押し黙っていた雪音先輩が口を開いた。
「い、家にいた方が……よくないですか? 外は……危険なんじゃ……」
「ううん、たぶん、ここにいるのが一番危険だと思う。【ここな】ちゃん、分かるなら教えて。ゼノウイルス感染者ってどういう存在なの?」
雪音先輩が真綾ちゃんの問い掛けを制し、今まで聞いたことのないほど冷たい口調で【ここな】に問いかけた。
僕はごくりと息を飲んだ。
そうだ。
目下の脅威がいったいどういう存在なのか、僕はまだ知らない。
【ここな】はそれをすべて知っているのか?
知っているとして、それはなぜなんだ?
やがて【ここな】があっさりとした口調で告げる。
『先ほど、現在展開中の東部方面隊第十五師団の戦術データ・リンクに侵入して、極秘ファイルの一部を入手しました』
雪音先輩にそう言うや否や、答えの代わりのように、テレビ画面に【OGATA470108】と名前の記されたフォルダが浮かび上がったかと思うと、その中から幾つかの写真ファイルが出現した。
「……」
僕が沈黙してそれを見ている間、全員も同じように見ていた。
そこに映し出されたものを前に、みんなが息を飲むのが分かった。
それらはどれも、どこかの外国の風景のようだった。
強い日差しの中、錆びた鉄柵に囲まれた広い敷地内で、白いペンキが剥がれて腐食の進んだ木造の工場か何かの建物が写っている。
そしてその前には、うず高く積まれた死体の山が広がっていた。
薄紫に変色し黒い斑点の浮き出た皮膚は破れ、そこから腐った内臓や筋肉が赤黒い血でぬめった状態で、どろりと飛び出している。
グロテスクという他ないほど腐敗の進んだ死体が数百と積み上げられていたのだ。
『うっ……』
『こ、【ここな】殿、これは何かの映画のセットか何かなのか?』
『……ま、まさか……これが【感染者】?』
皆それぞれ吐き気が込み上げてきそうな気持ち悪さに苛まれながら、真綾ちゃんが小さく呟くように言った。
『そうです。自衛隊による爆撃は続いていますが、今もこちらに向かって進攻中の
物体は、その写真に写っているものと同じです』
【ここな】はあっさりと応えた。
「どう見たって死体じゃない!」
画像を見て気が動転したのか、ソアラの悲鳴のような叫びがスピーカーから届く。
無理もない。この積み上げられたものを見れば、誰だって死体の山にしか見えないだろう。
こんなものが今、この町を目指して“歩いている”とでもいうのか?
やがて、さらに混乱している僕らに追い討ちをかけるように、ドローンが東側の陸上自衛隊戦車中隊がいる地点へと到達し、ホログラム映像に映し出される。
『アガナ。先ほど飛ばしたドローンが、町の東約五キロにいる戦車中隊の真上に到達しました』
「映像をみんなに回して」
『分かりました。現在の第15師団戦車中隊の映像です』
次の瞬間、それがホログラムではなく実写映像としてみんなの前に映し出される。
先ほどの航空映像で見たものよりも低い高度から望むドローンのカメラには、それらの姿がはっきりと映っていた。
――なんなんだ……これ……。なんなんだよ、これ……。
『……なに……これ……?』
そこに映し出された映像を見た瞬間、呆然としたソアラの小さく震える声がした。
ソアラ以外、誰一人口を開くことができなかったが、全員がその時、目の前で映っているモノが信じられなかった。
背筋が凍ったような気がした。
全員が、まるで死神かそれとも悪霊か何かに心臓を鷲づかみにされたような感覚を味わったに違いない。
実際、その表現は当たらずとも遠からずだったのかもしれない。
明らかに自然の摂理に反したそれは、存在そのものが邪悪という他なかった。
恐らく今、僕らが感じている恐怖感、吐き気がするほど冷たい嫌悪感は、人間だけが感じるものではないはずだ。
すべての命ある生物が根源的に持っている恐怖をそのまま具現化したような存在だった。
死体が歩いている……。
それも何千何万と……。
「……」
脊髄が飛び出ている。
恐らく何か強い衝撃で胴体から引っ張り出されたのだろう。
ありえないくらいに首が長いと思っていたそれは、脊髄そのものが首から飛び出ていた。しかし、それでもふらふらと何事もなくそれは歩いていた。
そうかと思えば、腹部がえぐられて腸やその他の臓器をだらしなく垂れさせながら歩いているものもいる。
ほぼ頭蓋骨が吹き飛んで脳がむき出しになったものまでいた。
上半身のみで地面を這って進んでいるものもいる。
おぞましいのは、その上半身のみから引きづり出された臓物を他が貪り喰っている。にもかかわらず、それは気にもとめずに地面を這っていた。
それらは皆、目が白く濁っていて、どこを見ているのかも分からなかった。
何千何万と道を埋め尽くすほどの黒々としたそれの群れが、真っ直ぐに戦車部隊に向かって行進し続け、今まさに飲み込もうとしている。
もはや近すぎて射程外なのだろう。
攻撃ヘリも味方を誤射しかねない為、援護もできない状況だった。
何人かの隊員が逃げ出そうと外に出ている。
明らかに彼らは恐慌状態にあった。手にした銃で、ほとんどデタラメだが、必死に撃って抵抗している。
何体かがそれで倒れたが、後から後から死人の群れは溢れていき、やがてその中に飲まれようとしていた……。
彼らを囲む何百という死人たちが、腐って爛れた腕を伸ばし、完全に飲み込もうとする直前、僕たちは見た。
彼らが生きたまま死人たちに引き裂かれ、内臓をえぐられ、そして顔を食い尽くされていく様を。
鮮血が勢いよく吹き出る中、彼は消えた。
「……」
もはや戦車中隊は機能していなかった。
代わりに攻撃ヘリの編隊が、爆撃を停止して死人の群れに向かっていくらかの銃撃を加えているが、数が多すぎてほとんど無意味に見えた。
いや、そもそも死人に銃撃すること自体が無意味なのかもしれない。
全員が沈黙してその様子を見ている中、不意に雪音先輩が重々しく口を開く。
『もう一度聞くけど【ここな】ちゃん、この【感染者】の具体的な危険性は何なの?』
――喰われるってことじゃないの……。
とはさすがに誰も言えなかった。
その問い掛けに、相変わらず【ここな】は事務的に応える。
しかし、その内容は彼女の無感情な物言いとは裏腹に衝撃的だった。
『防衛省に送られた厚生労働省からの極秘ファイルをデータ・リンクから発見しました。内閣危機管理対策室に関するセクションにあてたものです。少なくとも三年前から世界保健機関WHOの警告文書と共に保存されていたようです』
『三年前からコレを知っていたの!?』
驚いた林檎が、つい途中で問い返した。
【ここな】は、あくまで冷静に説明を続ける。
『――そうです』
どういうことなんだ?
なぜ、知っていて、一般には何の警告も発せられなかったんだ?
インフルエンザの一種としかこれまで説明されてこなかったはずだ。
聞けば聞くほど、疑問が溢れてきてキリがない。
『――それによるとゼノウイルスに感染した人間は、潜伏期間が遅くとも二日、発症後二十四時間以内にエボラ出血熱によく似た症状により死亡します。致死率は現在までのところ百パーセント。その後、最短七分、最長十三時間以内に例外なく【転化】という現象が確認されています』
【ここな】の説明が続く中、雪音先輩も同じくらい冷徹な声で口を開く。
『なんなの? その【転化】というのは?』
『今、ご覧頂いた物体が、まさにその【転化】という現象そのものです。生化学的には完全に死亡した状態で、脳幹のみが僅かに活動しています。その原因は分かっていませんが、人格や言語機能を司る前頭葉側頭葉などは完全に死滅している為、もはや元の人間性は消失しており、原始的な本能のみで活動しているものと思われます』
「原始的な本能って?」
今度は僕が問い返した。だけど、聞いてすぐに後悔する。
【ここな】は、今まさに映像に映し出された光景をその手でかざし、これ以上ないはっきりした答えを示す。
『食欲です』
「……」
『【転化】した物体は、動くモノと音に反応し、生物であれば必ず捕食しようとします。脳の運動能力を制限する機能が破壊されている為、比較的、肉体の損傷度が低い場合、常識を超えた速度と力で獲物を襲い、捕らえることができます。しかし、そもそも体組織が死滅しているにもかかわらず、なぜ活動できるのかも含め、やはり不明な部分が多くあります』
『つまり、ひたすら生きているものを襲って喰う死体の化け物ってことなの?』
怯えた調子のソアラが聞き返した。
『そうです』
『冗談でしょ……』
ソアラが露骨に呆れた調子で呟いたが、雪音先輩はある意味でもっと現実的だった。
『それよりそのウイルスの感染経路は分かっているの? 空気感染や飛沫感染だったらわたし達も危ないかもしれない』
『現在までのところ、空気感染その他のほとんど接触による感染は報告されていません。原因や仕組みは分かっていませんが、唯一【感染者】に捕食された人間のみが感染しています』
『つまり噛まれた場合、感染の危険があるわけね?』
雪音先輩は念を押すようにして問い返した。
『あくまで現在分かっている範囲ではそうです。相手はウイルスです。変異する可能性は常にあります』
僕らはしばらく黙り込んだ。
理解するのに時間が必要だった。いや、結局、時間なんていくらあっても理解できなかったかもしれない。
そもそも不明な部分が多い。
常識的にいって自然界ではありえないことが起こっているのだ。
それがこの自衛隊の戦術データ・リンク内で見つかった防衛省の極秘ファイルの答えなら、あとは事実を優先させて考えるしかないだろう。
そして事実はとにかく単純だ。僕らはそれをしっかり見た。
人間を襲う化け物がここに迫っている。
それがすべてじゃないか……。
僕は一度だけ長い時間をかけて深呼吸した。
そして再び、ドローンの映像に目を向ける。
頭の中でごっちゃになった疑問を、今だけほとんどすべて消そうと努力する。
できる限り感情も抑える。少なくとも声に出してはだめだ。
みんなだって動揺している。
落ち着け……。何度となく自分に言い聞かせてきた言葉を心の中で繰り返した。
そして一つのことに集中することにする。
もう一度、町を映し出すホログラム映像に視線を向けた。
「……よし、とにかく正体は分からなくても、今、何が『敵』かは分かった。その敵がこっちに向かっていることも。相手に見つかったらすごい速さで追いかけてきて、とんでもない怪力で掴まるっていうことも」
『噛まれたらこっちも感染して間違いなく死ぬってこともね……』
ソアラが付け加えるが、その先は考えたくなかった。
「そうだ。だから連中がまだここに来ていないうちに脱出して、シェルターに避難しよう。幸い歩みは遅い。距離から考えてあと一時間……まず林檎はどう? たぶん、電車は停まってるはずだから、一番いいのは自転車でこっちまで来ることだけど」
停電した上、電話も通じない。
町の混乱状態は最悪だった。
路上は車があちこちで事故を起こして大渋滞になっているし、パニックを起こした人々が我先にと逃げ惑う姿で、すでに溢れていた。
そこかしこで消防や救急のサイレンが聞こえている。
意外なことだが、これほど田舎の閑静な住宅地であっても、一度に人間が家の外に出ると、これだけ道が人でいっぱいになるのかと呆れてしまうくらいだった。
そんな中、林檎がおずおずとした様子で応える。
『じ、自転車で行けば三十分もかからないと思う……で、でもお兄ちゃん……家族はどうしよう……?』
僕は一瞬、言葉につまった。
先ほどからずっと泣きそうだった林檎の声は、すでに完全に嗚咽混じりだった。
さっきらずっと恐ろしい映像を見続けている。
きっと精神的にも限界が近い。
こんな状況だ。
林檎と同じようにみんなも、傍にいない家族のことが心配だった。
「林檎は今、一人なの?」
『う、うん。お父さんとお母さんは出かけてる……』
他のみんなも同じ様子だった。
情けないが、みんなにどう言うべきか、僕には言葉が見つからなかった。
始めから家族のいない僕と、当たり前に家族と過ごしてきたみんなにとって、突然降りかかったこの災厄を前に不安の次元が違っていた。
みんなには掛け替えのない人が当たり前にいるのだ。
連絡もつかず、どこでどうしているかも分からない今、どれだけの不安に晒されているだろう。
僕には想像もできない苦しさがあるはずだ。
今、家族を見捨てて自分達だけで逃げようなんて、とても僕には言えなかった。
そんな中、意外な存在が口を開く。
【ここな】だ。
『今はまず、あなた達の安全を優先させてください。冷たいようですが、連絡がつかない以上、今できることはありません。残り一時間もないのです。出来うる最大限のことをするべきです』
みんなはすぐには返事ができなかった。
やはり家族を想えば心配で、自分だけ避難することに躊躇してしまう。
当たり前だろう。
だが【ここな】に続いて、あくまで先ほどから冷静さを貫いていた雪音先輩が口を開く。
『そうね。わたしも家族が心配だけど、連絡できない以上、今は考えても仕方ないわ。無事だと信じて、わたし達だけでもなんとか避難しましょう』
林檎やソアラは、そこで重々しく頷くが、やはり心配で仕方ないらしい。
納得してはいても、どうしても迷いがあった。
ただ一人、真綾ちゃんだけが、泣きながらもう少しだけママが帰ってくるかもしれないから待ちたいと言う。
ソアラと真綾ちゃんのお母さんは、早くに親戚の家に用事があって出かけたらしい。
砲撃が響き渡る前の話だという。
「ま、真綾ちゃん……」
『アガナ、あたしが真綾と話すから……』
「う、うん……」
何が正しいのかを論理で理解できても、感情がそれを納得しないことはたくさんある。今、僕はそれを思い知らされていた。
僕らはこれまでその時に備えてきたつもりだった。
けれど、いざ、その瞬間が来たとき、何かを捨ててでも命を優先させなければいけないとき、その決断は、その勇気は何を準備すればできるというのか。
正しさを語れば語るほど、僕は自分が嫌いになりそうだった。
だけど、いくら自分を嫌いになろうと、僕の本心は彼女たちに助かって欲しかった。それだけは確かだ。
ほんの少しの間、二人の通話が途切れ、代わりスピーカーの向こうで真綾ちゃんがソアラに向かって何かを罵るように叫んでいるのが小さく聞こえた。
重苦しい沈黙とやり場のない感情がその場の空気を張り詰めさせていく。
その間、押し黙った林檎の嗚咽が聞こえてくる。
僕はそんな林檎にかけてやれる言葉が見つからず、自分の情けなさに、つくづくうんざりした。
数分後、真綾ちゃんは完全に口を閉ざしてしまう。
代わりにソアラが憔悴しきった声で小さく呟くように「今から二人でここを出る」とだけ言った。
僕は内心でみんなの決断に少しほっとしながら、そんな自分に吐き気がするほどの嫌悪感を覚える。
しかし、今はそれを忘れて、みんなを助けることだけ考えようと無理に気持ちを切り替えた。
そして、みんなの迷いを振り払おうと、必死に大きな声で告げる。
「林檎はまず今すぐ自転車に乗ってこっちに来るんだ。あと一時間って言っても、実際は何が起こるか分からないし、町の中はすごい混乱状態だからとにかく気をつけて走って。みんなもだ」
僕のその言葉に【ここな】がさらに付け加える。
『絶対にスマホのアプリをオンにしたまま持っていてください。常に通信を確保することは何をおいても重要です。町の状況がリアルタイムで分かる上、現在のあなた達の位置もそれで分かるようになっています』
全員が沈黙して頷いた。話はそこまでだった。
ここから先は一刻を争う。
それぞれが動き始めた。
僕もすぐさまスマホをポケットに突っ込み、タブレット一つをボディバッグに放り込んで部屋を出る準備を急いで進めた。
そんな僕をテレビの奥にいる【ここな】が、初めて見せる咎める様な表情で見ている。
『何をしているのですか? アガナ』
「みんなを迎えに行く」
『何を言って……』
「【ここな】はここでみんなをサポートしてくれ。危険が迫ったらすぐに連絡してよ」
僕は部屋の隅に置いてあった釘抜き《バール》を一本手に取った。
やや古びていて黒ずんだそれは、充分な長さと重さ、そして強度を持っていて、僕の手にずしりとした存在感を感じさせた。
これもあの日、合宿の直後に物置から引っ張り出してきたものだ。
実際に役に立つかどうかは分からない。でも、これ一本くらいなら邪魔にはならないだろう。
『アガナ、外には出ないでください』
一瞬、バールを手にした僕の目の前に、あのグロテスクな化け物のおぞましい腐った顔が目に浮かんだ。
自衛隊の隊員が成す術なく、身体中を引き裂かれていく姿がそれに重なる。
「……」
だが、僕は迷わなかった。
「もう決めたんだ。絶対に行く」
ソアラやみんなが外にいる。
何があっても助けなければ。
『馬鹿なことを言わないでください』
「……」
『……』
【ここな】は、じっと僕を責めるような目で見ていたが、僕は一切無視してデスクの黒いノートPC型の機械から、すべてのケーブルを乱雑に引っこ抜き始めた。
これだけはまずシェルター内に移さなければいけない。
僕は【ここな】が何を言おうと聞かないつもりで、急ぎながら黙々と作業した。
やがてすべてのケーブルを外し終えた時点で、【ここな】は溜息をつくような様子をでぽつりと口を開く。
『アガナ。【クァンタムセオリー】をシェルターに移したら、必ず電源を繋いでください。あなた達へのサポートができなくなります』
「分かってる」
五分後、僕は深桜山全域スキャンの時に使ったマウンテンバイクで、町に向かって疾走していた。
その頃にはすでに砲撃は止んでいて、漆黒の闇が降り立ったかのような静けさが辺りを包んでいたことに気付く。
そうだ。
この瞬間、全世界が沈黙していた。
『お母さんへ。真綾と二人で深桜山の安全なところに避難します。電話が繋がるようになったら連絡ください。こっちからも電話します。ソアラ』
リビングのテーブルの上に、ほとんど走り書きで書いたメモを祈るような気持ちで添えた。
そしてソアラは、アプリが起動状態になったのを確認してから、ポケットにスマホを放り込むと、必要最低限のものだけを入れたカバンを手にする。
リビングの窓には、ずっと黙り込んでソアラに背を向けたまま佇む真綾がいた。
まだ母親が帰ってくるのを期待しているのだろう。
彼女はあっさりと母親を待つことを諦めたソアラに対して、怒っていた。
「真綾、もう行こう」
ソアラは、そっと真綾に声を掛けた。
しかし、彼女は返事も返さない。
先ほどまで、ほとんど怒鳴るくらいの勢いで言い争いをした。
こんなのは初めてだったかもしれない。
無理やり彼女を言いくるめたが、まだ真綾は納得していなかった。
せめてもの抵抗とばかりに、真綾はソアラに対して拒絶の姿勢を示している。
彼女と真綾は、これまでほとんどケンカらしいケンカをしたことがなかった。
それだけに、真綾の冷たい背中と無視は、彼女の心を深く傷つける。
「真綾、あんたの気持ちは分かるけど……」
そう言って、真綾にそっと後ろから寄り添おうとしたとき、不意にソアラは気付いた。
真綾の細い肩が小刻みに震えていることに。
泣いているのだろうか。
そう思って、彼女にさらに近づこうとした時、ソアラは見た。
「お、お姉ちゃん……あ、あれ……向かいの藤田さん……かな……」
「……」
最初それは、黒っぽい犬か何かだと思った。
犬が道に落ちた残飯を漁って地面に顔を近づけている。
そう思った。
しかし、よく見るとそれは犬ではなかった。
人間ですらなかった。
裸で、全身の肌が麻黒く変色していて黒い血に塗れている。
ほとんど筋肉という筋肉が削り落とされ、骨がむき出しになり、背中に大穴が開いて脊椎が剥き出しになっていた。
ぴちゃぴちゃという音を響かせている頭部は髪はなくなっていて、ところどころ傷だらけだ。
なにより何か巨大な刃物で切り裂かれたような傷がぱっくりと開いていて、そこからピンク色の物体が覗いている。
それは今、地面に倒れた死体に顔をうずもらせ、赤い新鮮な血と肉をえぐり出して獣のように貪り喰っていた。
「うっ……」
残酷で吐き気がする光景を前に、思わず真綾が口を押さえて呻いた瞬間、窓のすぐ外の路上にいたそれは、ぴくりと動きを止めた。
「っ!?」
ほとんど反射的に、ソアラは真綾の肩を強く掴んで、窓から離れさせる。
不意に、えぐり出された内臓が血塗れになって地面に放り出される中、それはゆっくりと危なげなバランスを保って立ち上がり、やがて次の瞬間、静かに振り返った。
その時……。
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