#20:花火の約束、終わる世界

 あれから二日。

 夏休みもそろそろ終わろうとする頃、相変わらず今年はおかしいんじゃないかと思うほど、雲ひとつない晴天が続き、夏が終わるなんて想像もできないくらい暑い毎日が続いていた。

 僕らの作業もかなり進んだと思う。

 午前中はいつも通りみんなでベースシェルター裏手の貯水プール前広場に集まり、巨大バーベキューコンロ、もといオーブンで備蓄食糧を作るべく大量の野菜を切りまくり、大量に米を炊いたり肉や魚を炒めて瓶に詰め、熱して封をする。

 何度となく繰り返してきて、僕らの手際の良さもだいぶ際立ってきたし、一日で作れる量もかなりのものになってきた。

 余った食材で昼食にした後は、モリオカートや超激闘スマッシュブラボーズで燃え上がり、夏だからと流行りのホラーフリーゲーム『色鬼』に手を出してみたり。

 意外とこういうのをソアラや林檎は苦手だったらしく、ゲーム中、三つしかなかったソファのクッションをお互いに頭を寄せ合って耳を塞いでいるのが笑えた。

 雪音先輩は、そんな二人を面白がってわざと画面に目がいくようにしているのは、さすがだった。

 真綾ちゃんだけが奇妙な薄ら笑いを浮かべながらゲームを進めている。


「ね、ねえ……」


 わざわざ雰囲気を盛り上げるために部屋の電気を消した為、さらに怖さが倍増したらしく、ソアラが林檎と肩を寄せ合うようにしてくっつき、お互いの耳にクッションを押し当てながら、ぶるぶると震えてへたり込んでいた。

 やがて彼女は僕の袖を掴んで、掠れた声で問いかける。


「なに?」

「お、終わった?」

「いや、今、喰われてるとこ」


 僕がコーラのペットボトルを口に含みながら応える。


「え? なに? あんたの声小さくて聞こえない」


 ……いや、クッションを耳に当ててるからだと思いますよ?


「だから、今、血がどぱーっとですね」

「え? 聞こえないったら!」

「いや、だから……」

「なにー?」


 そう言って、つい、ソアラがクッションから頭を離して僕に顔を近づけようとしたとき、たまたま一緒に林檎の耳からもクッションが離れてしまう。


「あ、ソアラ殿……」


 若干、涙声の林檎の呟きにも気付かず、思いっきり彼女は顔を僕の頬に近づけてくる。

 僕は、そんな彼女の無防備さに動揺して、コーラが気管に入ってむせ返ってしまった。

 ソアラは「きたない!」と露骨に嫌そうに抗議の声を上げる。

 その瞬間、『色鬼』を絶賛プレイ中だった真綾ちゃんの「うふふふ」という妙に悦に酔った笑みが聞こえたかと思うと、


『ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!』

「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

「ひゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 ゲーム中の登場人物の叫びと同時に、ソアラと林檎の悲鳴が室内に轟いた。

 雪音先輩がグッジョブと言わんばかりに親指を立てて、僕に聖母のような慈愛に満ちた微笑を向ける。

 もちろん、その後、僕は声も出せないくらい怖くて半泣きのソアラに無言で思いっきりクッションでどつかれ、同じ状態の林檎からは背中からポカポカと殴られた。


「……っ!」

「~~~!」

「ごめん! ごめん! ほんとごめん!」


――僕が悪いんですかね……。


 そんなこんなで、今日も五人で真面目に世界の終末に備えているんだか、ふざけているんだかよく分からない僕らは、いつも通り、ひとしきり昼食後のゲームをやり尽くした後、また作業に戻った。

 今朝の作業でもそうだが、そろそろ備蓄食糧もかなり充実してきた。

 まだまだ地下倉庫の三分の一も埋まっていないが、この時点で仮に五人がシェルターに避難する事態が発生した場合、三年は食いつなげることができるくらいの食糧と水が確保できていた。水はペットボトルに入った状態だが、それ以外にも先日作った貯水池もある。

 もっとも、この貯水池はジャガイモ畑用なんだけど。

 そろそろ他のことにも注力していかないといけない。 


「まだこの深桜山全域内で【シェルクラフター】で作ったものって、面積的には十分の一くらいかしら?」

「おー、深桜山って広いのである」

「基本的にはシェルターの周りで作っているものばかりよね。地下の備蓄倉庫とかその裏手の貯水プールとか?」

「この間、シェルターの生活設備の増強工事で必要なものもだいぶ揃ったしね」


 そう言って、僕は陽光の差し込む窓の向こうにあるシェルターに目を移した。

 まず外観上変わったところといえば、屋上に中型の燃料発電機と浄水設備を取り付けたことだ。

 発電機は緊急時の為のもので、万が一、深桜山の山頂に建造した、およそ15,000kwhの発電を可能とする巨大ソーラーパネルからの電力供給が出来なくなった場合に自動的に稼動する仕組みになっている。

 浄水設備はもちろん屋上の貯水池から引いている水を、綺麗に浄水する為のものだが、必要であればシェルター裏手の貯水プールからもポンプでくみ上げてくることができるようになっている。

 他にもボイラーなどの必要機材が屋上庭園の隅に設置されていた。

 ただの壁と天井だけだったシェルターが、これによって基本的で最低限の生活維持が孤立状態でも維持できるようになったのだ。

 もちろん、それも収容人数によって限界はあるが。


「そういえば、またお風呂は銭湯みたいになってるよね」

「猛おじさんの趣味みたいなものだから」


 ソアラの問いかけに僕は苦笑して応えた。猛おじさん曰く、いくら世界が終わった後でも風情や娯楽は大事とのこと。

 限られたスペースの中で、おじさんはお風呂場のスペースだけは、かなり広く造り、本当に銭湯のような広大な空間を造ってしまった。


「あの売店みたいなブースやゲーム機も趣味なのかしら?」


 雪音先輩がぽつりと呟く。


「ははは……」


 そう。よく分からないけど、頼んでもいないになぜか銭湯の売店っぽいブースが番台風の入り口前に出来ていた。

 そこには『武装要塞ゲームサークル』という謎の毛筆ロゴの入った浴衣にタオル、石鹸、シャンプーリンスなどの洗面道具セット、土産物品のような物販商品が大量に陳列されている。

 おまけに銭湯入り口前のフロアには、畳張りの休憩場所を設置してちゃぶ台を乗せ、わざわざ昭和臭のしそうな扇風機まで用意していた。

 自動販売機(お金はいらないらしい……)もある。

 びっくりしたのは、おじさん秘蔵の昭和さながらのテーブル型ゲーム筐体コレクションがすべて並んでいた上、いくつかの最新アーケード筐体も一緒に置かれていたことや、銭湯ならありがちな卓球台もしっかり備わっていたことだ。

 なぜか姫ノ宮ココナの人形が詰まったクレーンゲームまである。

 

――ここ、リゾートスパや旅館じゃなくて、人類滅亡に備えるシェルター

  ですよね?


 そして一番、意味不明なのが銭湯ならよくありそうな壁面の富士山の情景が、ここでは【ここな】が満天の太陽の下、砂浜でデッキチェアに寝そべる様子が描かれていた。

 隣には僕を描いたものと思われる少年がトロピカルドリンク片手に異様に美化されて描かれている……。

 男湯でこれだ。

 女湯では夕陽の沈みかけた砂浜で、きゃっきゃうふふと駆けていく【ここな】を美化された僕が歯を光らせて追いかけている風景だった。

 

(しかも、よりにもよって両方とも水着着用の姿なのは嫌がらせなのか?)


 みんながを見上げて、湯に浸かるわけだ……。

 たぶん、【ここな】が猛おじさんに特注したんだろう。 

 さすが、我が嫁【ここな】。

 僕をピンポイントで殺せるワザをさりげなくかましてくる。

 あえて、これについてはソアラもツッコんでこなかったが、それはそれで居たたまれなくて胸が張り裂けそうだった。

 とにかくふざけているとしか言いようのないこの大浴場を前に、合宿から戻った僕ら五人は、明らかにドン引きした面持ちで呆然とたたずむことしかできなかった。

 真綾ちゃんが改めて、ぽつりと心配そうな面持ちで呟く。

 

「ち、地下の半分近いスペースが……この大浴場なの……。い、いいのかな。シェルターとして……真綾達、ふざけてるって言われないかな……」

「……」

「……」

「……」

「……」


 誰も何も言えず、みんながお互いに視線を合わせるのを避けていた。




 午後からは林檎と真綾ちゃん、それに雪音先輩が、大浴場スペースからそのまま繋がるように続いている地下書庫兼カフェテリアで、注文した本の整理をした。

 膨大な数のラノベやコミックをレーベルごとに収納していくのは骨だったけど、ここ数日の作業でそのほとんどが終わりかけていた。

 もちろん、他にも一般文芸から医学や農学、化学などの終末後にも知識として役立ちそうな専門書もある。主に【ここな】が僕ら高校生レベルでも理解できやすそうなものを厳選してくれた。

 こういった専門知識に関してはAIの【ここな】に任せるのが得策だった。

 おそらく、これらの本の整理は今日中に終わるだろう。

 僕とソアラはその書庫内にあるカフェテリアの中央、円形カウンター内でコーヒーや紅茶、ココアなどの飲み物の材料を保管する作業を続ける。

 基本的に保存を考えてインスタントが大半だったけど。

 カウンター内には簡単な調理機材が設置されていた。ほとんどは冷蔵設備が大半で、予め作った料理をここで冷蔵して温めて出せるようにするとか、そのくらいのものだけど、比較的簡易なオーブンレンジや電磁コンロくらいならある。


「簡単なケーキくらいならここでも焼けるわね」

「え? ソアラってお菓子とか作れるの?」


 僕は二人で引っ張ってきた大きめのワゴンから大量に積まれたコーヒー缶とケーキを焼く為の業務用ミックスを幾つか棚に収納しながら、意外そうに問いかける。


「なに? あたしの女子力を侮ってる?」

「そうじゃないけど……」


 備蓄食糧を作ろうとした当初を思い出すと意外という他なかった。


「クッキーとか簡単なチーズケーキくらいならあたしでも焼けるわよ」

「へえ」


 マジか……。


「バカにすんなよ」


 そんな僕の内心に気付いてか、ソアラが軽く僕のわき腹を肘で突く。

 やがて、書庫の整理がついたらしく、雪音先輩と林檎と真綾ちゃんの三人がこっちの様子を見に来た。


「お、お兄ちゃん! 我の作ったポップ見て!」

「ポップって?」

「本の収納が全部終わったから、みんなで本屋さんっぽくしようかって手製のポップを作って飾ったりしてたのよ」


 雪音先輩が作ったらしいマジックペンで書かれた手書きポップを見せてくれた。

 見るとあちこちの書架に等身大のものから簡単な宣伝文句を書いたものまで、あちこちに立てかけたり、大量購入した際に業者からもらった販促ポスターも綺麗に貼り付けられていた。

 確かに大手書店並のこの充実感の中、ここまで凝り出すともう本当に書店さながらだった。

 

「おぉ……うまっ! あれって林檎が描いたの?」


 最近、アニメ化していた『冴えない恋人の育てかた』のメインヒロイン二人が並んだ手描きの等身大ポップが遠目にも見えて、しかもやたら上手くてちょっと驚く。


「あ、あれは、真綾と林檎の……合作……」


 真綾ちゃんが少し照れたように呟いた。

 二人ともあまりの上手さに僕は呆気に取られる。

 本格的な同人活動でもしていそうなほどのイラストの上手さだった。

 そんな僕に相変わらず林檎が撫でて撫でてと頭を寄せてくる。

 いつも通り撫でてやった。

 猫ならゴロゴロ言い出しそうなほど嬉しそうにしている林檎を見ながら、僕は感嘆の溜息をついた。


「すごいな。真綾ちゃんも林檎も」


 そう言うと真綾ちゃんも少し照れたように微笑んでいた。


「ところで、そっちはどうかしら?」

「こっちもほぼ終わりですね。冷蔵ケースや調理機器も洗って問題なく動いてるのは確認できたし、飲み物やケーキミックスなんかの材料も片付けて、食器も洗いました」

「じゃ、今日はこんなところかな」

「そうね」


 そう言って、今日もみんな頑張ったとばかりに腕を回したり、伸びをして身体を解している中、僕が思い出したように呟く。


「……あ、そうだ……」

「なに?」


 隣に立っていたソアラが不思議そうに僕を見る。


「【ここな】。環境映像、試して」


 応える代わりに僕は虚空を見つめながら少し大きめの声で言った。

 地下書庫のあちこちの天井に吊るされたスピーカーから【ここな】の声が響き渡る。


『分かりました』


 すると、先ほどまで明るかった照明がゆっくりと消えていき、書庫内が薄暗い闇に閉ざされる。

 足元だけはぎりぎり歩けるくらいの光が通路の床で点灯する。

 まるで映画館のようだった。

 やがて円形カウンターの天井近い位置に、外側に向かって囲むように設置されていた巨大スクリーンが、ぱっと柔らかな蒼白い光を発し始める。

 書庫の端にある壁面にも同じように巨大スクリーンが幾つも続いて設置されていて、それらは全体で一つの映像を映し出していた。

 さながら壁面全体が一つの巨大な水槽に変わったかのように。

 それは、太陽の光が降り注ぐ海の底を魚達が静かに泳いでいる映像だった。

 スピーカーからはそんな海底にぴったりな落ち着いたアンビエント系のBGMが流れる。


「いいね」


 僕が問題なく機械が動いていることを確認して呟く中、他の女の子達がうっとりしたように目を輝かせている。


「な、なになに!? これなんなの? いつの間に用意したの!?」


 ソアラが僕の方に向かって目をきらきらさせながら、少し興奮したように問いかけた。


「もちろん合宿の間だよ。こういう精神的な負担を軽減するものは、終末後の世界では特に大事なものの一つらしいからね。ここだとそれに合うと思ったんだ」


 ややソアラの勢いに押されぎみの僕がそう言っている間にも、海の映像から森へと変わり、満天の星空が写ったかと思えば、どこかの日本の雪原を思わせる風景など様々なバリエーションへと変化していった。

 その度に、スピーカーから流れる音も音楽だったり、風景にあった効果音だったりと変化していく。

 問題なく設備は稼動しているようだった。

 やがて、スクリーンの映像を消えるのと同時に、元通りの照明が辺りを照らし始める。


「……こういう雰囲気イイ……」


 ロマンチックな情景に、ソアラがやや顔を赤らめてうっとり呟く中、まだ頭を撫でられたままだった林檎が、同じように顔を赤らめて僕の服を軽く引っ張った。


「お、お兄ちゃん、今度二人だけでここで……『ポケットデジモンスター』の対戦しよ」

「お、おう、いいね」


 林檎は『ポケデジ』が好きでよく一緒に対戦する。

 彼女らしい微笑ましい誘いだった。

 そんな中、隣に立っていたソアラが不意に思い立ったように口を開く。


「あ、じゃあ、あたしとは、この間出た『バイオブリザード7』の対戦しよ。あのスクリーンってプレイディストーション4、繋げれるでしょ?」

「いや、できるけど……」


 けろっとした顔そう言うソアラに、僕は若干、呆れたように目を細めた。


――あんた、さっき深海の環境映像にあんだけうっとりしとったやないか……。

  今度はそこにゾンビを徘徊させたいんか……。


 しかも、さっきは『色鬼』であれだけビビってたのに、銃さえあればゾンビだろうが特に問題ないらしい。


「うふふふ、久々にるぞー。ぞんびぞんびぃ~びびでばびでぞーんびぃ~~」


 楽しみで仕方ないのか、頭の悪そうな自作の歌を歌い出すソアラを僕はなんとなく可哀想な人を見る目で見ていた。


――精神的な負荷を軽減するための設備やゆーとるのになんつーもんを……。


「デスゾアラ……」

「デスゾアラってゆーな!」




 夕方になって今日の作業をあらかた終えた僕らは、いつも通り駅まで一緒に歩いた。

 歩きながら明日は何をしようかと話していたんだけど、結局、明日の午前中は以前から真綾ちゃんが提案していた、ハーブ畑で栽培しているラベンダーを使って精油エッセンシャルオイル作りをすることにした。

 この作業は、わりとみんなも乗り気だった。

 まだ一度もやったことがなかったんだけど、なんとかネットや本で仕入れた知識から【シェルクラフター】を使って、すでに蒸留釜を自作していた。

 比較的、素人の僕らでもやりやすい方法として水蒸気蒸留法という方法に挑戦してみようということだった。

 これはハーブを蒸して精油を得る方法で、原料となるハーブを蒸留釜に入れて水蒸気を当て、ハーブ内の精油を蒸発させるというものだ。

 その水蒸気を水を満たした冷却管に通して冷やすことで精油に戻すという方法らしい。

 なぜ今回、精油を作るのかというと、目的は医薬品の代用品を作ることだ。

 例えば、ラベンダーなどから抽出できる精油は消毒剤や消炎剤にもなる。

 切り傷や打ち身などの外用軟膏として役に立つ。

 またトウガラシに含まれるカプサイシン、ミントから抽出できるメントールは鎮静作用があるし、解熱作用があって風邪にもいい。

 現代の医薬品の大半はこうした植物由来であり、生薬の伝統は人類の医学の歴史そのものだった。

 医薬品は貴重だ。本当に文明が崩壊した後、食糧以上に貴重な物資になるだろう。

 なるべく貯蔵した医薬品に頼らず、他で代用できるものとしてハーブは理想的だった。

 ただし、精油を作るにはかなりの量のハーブがいる。

 明日はみんなでそのハーブを刈り取るのに大忙しになるだろう。

 そんなこんなでいつものように駄弁り歩く僕たちだった。


「……」


 そんな中、不意に、林檎が空を見上げた。

 僕も吊られて空を見る。

 薄紫色に染まる夕暮れの雲の間から、二つの黒い点が見えた。

 それは徐々にこちらに近づいてくるようで、だんだんと猛り狂ったような激しい轟音を響かせてやってくる。

 なぜかは分からない。

 けれど、その時の僕はなんとなく言い知れぬ胸騒ぎを覚えて、その二つの黒い点を釘付けになって見ていた。

 やがて、二つだと思っていたそれの後ろに、六つの黒点が続いているのが見えた。

 黒いスズメバチのようなそれは合計八機で編隊を組んで飛んでいる。

 あまりの巨体のためか、二基のローターで飛行する輸送ヘリか何かのようだ。

 飾り気のない黒く塗りつぶされた外観から軍用のものに見える。


「自衛隊みたいね」


 僕の隣に立って、雪音先輩が呟いた。

 見ると雪音先輩も同じように空を見上げている。


「分かるの? 先輩」

「アガナ君は、あまり外に出ないから気付いてなかったもしれないけど、最近、よくこの辺りを飛んでいるのよ。……きっともうすぐ何かが始まるわ」

「……」


 その時の彼女の表情は、何かを悟っているかのような、どこか諦観めいた表情で空を見上げていたのが印象的だった。

 見ているこっちがなんとなく不安になるような、そんなどこか危なげな表情をしていて、僕は思わず息を飲んだ。

 その瞬間だった。


「!?」


 唐突に激しい眩暈が僕を襲った。

 どくんと心臓が跳ね上がるように大きく鼓動を打つ。

 大気中から酸素が一気に消えたかのように呼吸が苦しくなり、割れそうなほどの頭痛と吐き気が込み上げてきて、僕は思わず口元を手で覆った。

 そんな中、なぜかは分からないが、周囲で通り過ぎていくサラリーマンや大学生の中で、何人かが咳き込んでいる様子が妙に気になった。

 激しい嘔吐感と頭痛に苛まれながら、夏の火照った空気の中で、何かを予感させるような凍えるほど冷たい風が一瞬、僕を撫でるように過ぎ去っていく。

 まるで死神に触れられたような気がして、全身に鳥肌が立った。

 何か悪いことが起ころうとしている。

 理屈ではない。

 本能にも似たような感覚が僕を支配する。


「……!?」


 その時、突然、奇声を上げながらどこからともなくやってきた大きな黒いカラスが、僕の前に降り立つ。

 僕には分かった。

 そのカラスは僕を見ている。

 まっすぐに僕を……。

 そのカラスの目は異様に大きく腫れあがったように飛び出ていて、明らかに異常と分かるほど赤く充血している。

 僕はその目に釘付けになり、言い知れぬ恐怖が背筋の奥からゆっくりと黒い沁みを作りながら広がっていくのを感じた。

 あまりの悪寒に皮膚が凍りつくように縮んでいくのを感じる。


「ねえ?」


 不意に、ソアラが僕の肩に触れた。

 その瞬間、先ほどまで感じていた頭痛は嘘のように引いていて、いつの間にか僕はぐっしょりと冷や汗をかいていたことに気付く。

 肌は今も鳥肌が立ったままで、心臓はずっと激しく脈打っていた。

 見ると、いつの間にかカラスは消えている。

 ほんの一瞬の出来事が僕の意識に迷い込んできたかのような、奇妙な違和感が僕の感覚を支配していた。

 みんなは僕のように頭痛や吐き気に襲われた様子もなく、目の前にいたカラスも見ていなかったように、何事もなく歩いている。

 雪音先輩もいつの間にか林檎や真綾ちゃんと楽しそうに話しながら先を歩いていた。


「……」

「どうしたの?」

「な、なんでもない……」

「?」


 不思議そうな顔をして彼女は僕のことを見ていたが、僕には今感じていたことをうまく説明できる言葉が見つからなかった。

 僕はもう一度周囲を見渡した。

 すでに、先ほど気になった咳き込んでいた人は一人も見当たらなくなっていた。

 僕は気を取り直して、再び歩き出すことにする。

 とにかく、なんにしても気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせながら。

 しばらくすると、だいぶ気分もよくなり、気がついたらもう先ほどのことは忘れていた。







「ところで明日の夜、市内の桜川の河川敷で花火大会あるけど、みんなで行かない?」

 

 そろそろ駅に到着しそうなタイミングで、林檎が改札を通ってしまう前にソアラが提案した。

 毎年、夏に行われるこの町一番のイベントでけっこう盛大に行われる。

 わりと全国的にも有名らしく、たまにテレビの中継が入ったり、遠い地方からわざわざやってくる人までいた。

 毎年、凄まじい人ごみが溢れることになり、道路は大渋滞になり駅は人の列で満たされる。


「それ、我も誘おうと思っていたのである」

「うん、いいわね。夏休み最後のイベントだし、わたしもいいと思うわ」

「あ、あたしも……みんなと……行きたい……」

「……」


 僕だけがそっぽを向いて沈黙していた。

 なので、みんなの視線が僕に集中する。


「行くでしょ?」


 ソアラが顔をそらす僕を逃がさないとばかりに引っ張る。

 正直、リア充どもの祭典に僕のような引きこもりが行くのは気が引けた。

 行ってもロクなことがないような気がするし。


「……」

「行くわよね?」

「お兄ちゃん、一緒に……」

「ア、アガナさん……いこう……?」

「ソアラちゃんの浴衣姿見たくないの?」

「……」


 その瞬間、なんとなく僕は自然とソアラの浴衣姿を思い描いて、頭がぽーっとなる。

 浴衣。

 ソアラの浴衣姿……。


「ちょ、ちょっと先輩、あたし別に浴衣なんて……」


 ソアラが恥ずかしそうに顔を赤らめて、雪音先輩を制止した。

 なんとなくぼんやりとイメージが膨らんでいき、足取りが少しおぼつかなくなっていく。

 みんなはそんな僕を放って花火大会の話で盛り上がっていった。

 そのうち、とうとう駅に着き、林檎が元気に手を振って改札を通っていくのを、僕もなんとなく手を振り返したりしながら、そのまま歩いていた。

 やがて先輩も別の道で別れ、またいつものように僕とソアラと真綾ちゃんの三人で歩く。

 ソアラが、何か言いたそうな落ち着かない表情で時々僕を見ていた。

 真綾ちゃんがどんどん先を歩いていく。

 僕の頭の中では、ずっとソアラの浴衣姿だけが浮かんでいた。

 

――浴衣か……。


 たぶん、浴衣だと髪をアップにしたりするんだろうか。

 艶っぽい首筋から覗くうなじ、白い肌に薄く引かれた赤いルージュ、細い華奢な肩を包み込むしっとりとした女の子らしさ、和の情緒感が醸しだされたその姿は、きっと普段は見ない独特の華やかさと麗しさがあって……可愛いだろうな……。


「……」

「な、なによ……」


 気がつくと、僕はソアラをまっすぐに見つめていて、その視線に気付いた彼女は、なんだか決まり悪そうな顔でスネたようにそっぽを向いた。

 首をひねって反対を向いたせいか、彼女の細い首筋と鎖骨のあたりが少し露になって、僕は思わずドギマギと心臓が高鳴った。

 浴衣を着ると、そういう浴衣ならではの色っぽさが出て綺麗なんだろう。

 なんとなくその時の彼女の姿をイメージして、また頭がぽーっとして、思わず口ずさんでいた。


「えっと、じゃあ……」

「じゃあってなによ!? 浴衣なんて絶対着ないからね!?」


 なぜか怒られた。


「着ないの?」

「……」


 ソアラは僕から顔をそらし、そのままやっぱり怒ったような様子だった。


「……き、着て欲しいの?」


 お互い並んで歩いているのに、なぜか反対側を見て顔を見せないソアラが、おもむろに呟くように言った。

 その問いかけに答える僕もそうとう恥ずかしかったが、その時の僕はそれでも言わずにはいられなかった。


「……着て欲しい……です……」

「……」


 その後、僕らはいつものところで別れるまで、お互い顔を赤くしたまま沈黙して歩いた。


「じゃあ、明日、花火大会……一緒に行くわよね?」


 その瞬間まで僕らはお互いに顔を合わせられないでいたが、別れ際、彼女は少し俯き加減に僕を見ながら、そう呟くように言った。

 僕はただ静かに頷く。

 お互いしばらくそうやってぎこちなく見つめ合っていたが、やがて真綾ちゃんが遠くでソアラを呼ぶ声がして、僕らはそこで別れた。




 結局、この約束は果たされなかった。

 そのことだけは今でも心残りだ。







 2048年8月29日、AM 7:13。

 






 遠い何処かで雷が鳴っているような気がした。

 まどろんだ意識の果てで、そう感じた。

 まだ眠くて起きる気にはなれなかったけど、あまりに大きな音が遠くからしたような気がして、僕はそれを雷の音だと思った。

 雨が降るのか。もしくは降っているのか。

 そうすると、今日の花火大会は中止だろうか。

 だとしたら少し残念だ。

 ソアラの浴衣姿が見たかった。着ないって言ってたけど、万が一にも着てくれたかもしれないのに……。

 そんなことをほとんど再び眠りかけていた僕は心の奥で呟いた。

 そのせいだろうか。

 バチバチという線香花火のような音が聞こえた。

 これもやっぱりすごく遠いところから聞こえてくるようで、明らかに雷の音とは異質だった。

 やがてまた雷が鳴る。

 遠くて誰かが呼んでいるような気がした。

 何度も、何度も……。


『……ガナ、アガナ、起きてください。アガナ』

「?」


 ズダン! 


 遠い。だがさっきよりも近い。

 明らかにこれは雷じゃない。

 僕はベッドから跳ね起きた。


「【ここな】、これ何?」

 

 ベッドの脇に放っておいた黒いカーゴパンツを急いで穿きながら、僕は問いかけた。尋常ではない何かが起こっている。

 そんな直感が僕をはやらせていた。

いつもならテーブルのタブレットから【ここな】の声が響き渡るはずが、今回は壁のテレビにいきなりその姿を現した。

 そして、珍しくAI【ここな】は僕の問い掛けを一切無視した口調で言い放つ。


『先ほど、ソアラ、林檎、真綾、雪音に《ココナコネクトサバイバー》にアクセスするようにメールを送りました。すぐにアガナからも彼女たちに連絡してもう一度アクセスするように伝えてください』


 《ココナコネクトサバイバー》は、合宿中にやった【ここな】が作ったサバイバルゲームだ。アプリをタブレットやスマホにインストールすることで【コーデックス】を利用したゲームができる。

 あのあと、妙に【ここな】が張り切り出して、様々なアップデートを重ねたアプリを僕ら全員がスマホにインストールしていた。


「どういうことなんだよ? なんでいきなりゲーム?」

『急がなければ通信回線が遮断されます。その前にこちらの専用回線にアクセスさせて、全員の通信をまず確保させます。急いでください』


 そう言っている間にも、【ここな】は勝手に【クァンタムセオリー】を起動して【コーデックス】を出現させた。

 あの合宿で使った物と同じ黒い球体の形をしている。

 出現した直後、そのまま【コーデックス】は前回同様、オレンジの光をその場で迸らせながら、複雑な幾何学模様を虚空に描き出したかと思うと、ソアラや林檎、それに真綾ちゃん、雪音先輩のホログラム写真を描いた。

 途中、雪音先輩の写真が白く光る。

 続いて林檎の写真が光った。

 僕はあまりに急展開の事態に呆然としていたが、再びどこか遠くで何か爆発したような音が聞こえた瞬間、弾かれたようにテーブルの上のスマホを手に取った。

 そうだ。

 雷の音じゃない。

 もうこの時点では悟っていた。

 これは何かの爆発音だ。

 

『アガナ? 今すごい音が……』

「分かってる。今どこにいるの?」

『まだ真綾と家にいるけど……いったいこれ何なの? みんな外に出て何か……』

「すぐに【ここな】のアプリにアクセスして! もうすぐ電話が通じな……」

 

 僕はソアラの言葉を遮って、すぐにアプリにアクセスするよう伝えようとした。

 しかし、プツンと糸が切れたような音と共に【ここな】が言った通り電話が切れ、それと同時に突然、室内のほぼすべての電気が消えた。

 【ここな】を映していたテレビまで消えたが、【クァンタムセオリー】だけは独自の内部電源のおかげで、強制シャットダウンを免れた。

 【コーデックス】のホログラム映像にも影響はないらしい。

 そんな中、数秒と経たずに再びテレビに電源が入り、【ここな】の姿が映し出される。


『電源を山頂のソーラーパネルに切り替えました。今のところ、システム維持に問題ありません』

「何が起こってるんだよ!?」

『停電状態が続いています。それと同時に通信もダウンしました。ですが、【コーデックス】を利用した専用回線で他の四人との連絡は維持できています』

「原因は何?」

『恐らく自衛隊による封じ込めラインが崩壊したものと思われます』

「自衛隊だって!?」


 不意に昨日見た黒い輸送ヘリの編隊を思い出す。


『あと一日くらいは維持できる見込みでしたが、何か想定外の事態が起こったようです。現在、自衛隊による掃討作戦が展開されています』


 僕には【ここな】が言っていることの半分も理解できなかった。

 明らかに【ここな】は僕の知らない何かを把握している。

 この異常な状況の何かを。

 不安と焦燥に苛まれ、僕は苛立ちを抑えるつもりが、それでも怒鳴るようにして彼女に問いかけた。


「いったい何を封じていたっていうんだ!?」

『【第三種事象臨界特異点】です』

「何なんだ、それは……」

『ゼノウイルスの拡散が都市部で爆発的に起こり、【感染者】の数が数千規模にまで拡大、さらに感染地域が半径百キロ以上まで広がった事態のことです。この段階に到達した時点で、もはや封じ込めは不可能となり、自衛隊は現在、事態の進行を遅らせるための最終処置を実行していると思われます』


 僕は完全に恐慌状態に陥っていた。

 思考がうまく働かない。

 昨日まで当たり前に続いていたはずの日常が、どうして今日の朝になっていきなりこんなことになっているのか、そればかりが僕の脳裏をよぎる。


――つまり、今起こっていることは何なんだ? ゼノウイルス? 最終処置?


 ここまでの説明でも、余計にワケがわからなかった。

 しかしそれでも分かることがあった。その『最終処置』が、今、遠くから聞こえるこの爆発音と関係があるのは明らかだ。

 間違いなく何か危険なことが起きていて、それは徐々にこちらに近づいてきている。

 それはこの激しい爆発音が少しずつ近づいて来ていることからも確かだった。

 全身から力が抜けたように立っていられなくなり、僕は手近な椅子に座り込んだ。

 その間も【ここな】の無慈悲で事務的な説明は続く。


『政府による自衛隊介入はすでに行われていますが、もはや制御できる段階を超えており、この段階から【第四種事象臨界特異点】への到達は時間の問題です。【感染者】の数はさらに加速度的に増加していくでしょう。各国政府及び世界保健機関WHOからの連絡はすでに三日前から途絶しています。確認できる最後の観測データからの予測では、最終段階といわれる【感染者】の数が人類の総数を上回る第四種へ移行するまで、残り四日となりました。今この瞬間も地球規模での“現象”は続いています』


 そこまで言ったとき、【ここな】を映し出していたテレビ画面が、今になってようやく『アクセス成功』という文字を画面の中央に表示させたかと思うと、唐突に映像が切り替った。

 それは恐らく偵察機か何かの航空映像だ。

 かなりの高度からこの深桜町の東側と思われる町外れの高速道路上を映し出している。

 普段なら多くの車が行き交う中、一台も走る様子がないのが奇妙だった。

 代わりに四角い何かの物体が複数、横一列になって同じ方向を向いて停まっているのが見える。

 よく見ると何か長い筒のようなものが突き出ているのが見え、それらもまた真っ直ぐ同じ方向を向いていた。

 次の瞬間、それらが一斉にチカチカと眩い光を発したかと思うと、遥か東の向こうで凄まじい爆発が広範囲に渡って巻き起こった。

 ビルや家などの建物が爆風によって容赦なく薙ぎ倒され、崩れ落ちていくのが見える。

 それに続いて複数の編隊飛行を組んだ黒いヘリが、まるで獲物に群がるハチのように飛び込んでいったかと思うと、次々に光の矢のようなものが吐き出され、爆発で崩れた町の中を飛び交っていく。

 あちこちで小さな炎が巻き起こり、火の手が広がっていくのが見えた。

 とても現実のこととは思えない。 


「……」


 僕は驚愕のあまり目を見開き、沈黙した。

 理解が追いつかなかった。いや、理解することを拒んでいたのかもしれない。

 絶望に染まった重苦しい静けさの中で、遠い爆音と砲撃音だけが、今のこの世界を支配していた。

 まるで襲い来る怪物から隠れようとするかのように、恐怖に彩られた震えた僕の呼吸音だけがその場に響いている。

 やがて僕は、その沈黙の中、呟くように最後の問いかけをした。


「“現象”とは何のことなんだ?」

 

 その問いかけに、AIであるはずの【ここな】はすぐには応えなかった。

 まるで人間のように応えることを躊躇しているかのようだったが、結局、彼女はこれまでと変わりない極めて落ち着いた口調で答える。







『――人類の滅亡です』






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