#19:ずっと一緒にいられるから
『各地で最近、頻発しているカルト宗教によるおぞましい人食い事件について続報です。依然、各地で機動隊による鎮圧は続いていますが、“彼ら”の勢いは日ごとに増すばかりで、その規模も拡大傾向にあります。すでに幾つかの自治体が占拠されるなどの深刻な事態にまで発展するケースが出ており、警察による対応の限界に来ていると判断した小笠原知事は、某県公安委員会と協議した上、すでに長谷部首相への自衛隊による治安出動を要請しているとのことです。これを受け、長谷部首相は直ちに……』
初めて会ったのは、入学式の朝、桜の舞い散る並木道だった。
あたしは中学の頃からの付き合いで、朝子と二人で交差点前の道を歩いていた。
同じクラスだといいねと、ありきたりな会話をしながら卸したての制服を二人で褒め合っていた。
信号待ちをしている間にやっぱり同じ中学だった直樹とも合流して、結局、三人で信号が変わるのを待つ。
不意に、視界の端に同じ制服を着た男子生徒がこちらに向かって歩いてくるのが見えたけど、その時は特に気にもしていなかった。
周りにあたし達と同じ新入生はたくさんいたし、特に珍しくもなかったしね。
そいつもあたし達の後ろに立って、同じように信号待ちを始める。
あたし達は三人で楽しくバカ騒ぎしながら、信号が変わるのをケラケラ笑って待っていた。
やがて信号が変わってあたし達は歩き出す。
そのまま何気なく歩いていて、ある時、交差点の中央まで差し掛かったとき、スーツ姿の二十代くらいの青年が、後ろから早歩きで追い越そうとして、擦れ違いざまに肩がぶつかった。
思わず前のめり転びそうになりながらも、なんとかバランスを取ったあたしは、びっくりして相手を見返したが、すでに遥か遠くまで歩き去っていた。
直樹が青年を追いかけようとしたが、あたしは直樹の制服の袖を掴んで、制止した。
せっかくの入学式に揉め事は避けたかった。
とにかく何事もなかったんだから、と気を取り直して歩き出そうとした時、カバンから覗いていたはずの手帳が消えていることにあたしは気付く。
たぶん、さっきぶつかった時に落としたんだろう。
あれを失くすのはまずい。
あたしは振り向いて地面に視線を落とす。
「ソアラー、早くしないと」
言葉とは裏腹にのんびりした調子の朝子の声がする中、二メートルほど後ろに焦げ茶色の手帳が落ちているのを見つけて、あたしは素早く駆け寄る。
ついでに信号にも視線を向けた。
だいじょうぶ。まだ点滅さえしていなかった。
けれどその時、手帳を拾おうとしゃがみ込んだあたしの耳に、どこか遠くからバイクの走る音が近づいてくるのがなんとなく聞こえた。
「ソアラ! 危ない!」
「え?」
その時、あたしの視界の隅で、余所見しながら交差点に突っ込んでくるバイクが見えたのは、ほんの十メートル先からだった。
猛スピードで突っ込んでくるバイクに、その時点では避けようがなかった。
バイクが悲鳴のような急ブレーキをかける音と誰かの叫び声が同時に聞こえたような気がした。
次の瞬間、あたしの身体は弾かれたような衝撃と共に軽々と吹き飛ばされた。
視界が一瞬、パチンという音がしたかのように白い閃光に包まれたような気がして、意識が身体から飛びそうな感覚を覚えた。
ああ、だめだ。あたしはバイクに轢かれたんだ。
その時はそう思った。
強烈な衝撃を受けて地面に投げ出された。
それだけは分かる。
きっと全身の骨が砕けて、内臓なんかぐちゃぐちゃで、皮膚は裂かれて大量の血が飛び散っているんだろう。
今は地面にぶつかった衝撃で背中と腰が痛いだけだけど、この後きっと死にたくなるくらいの激痛が徐々に全身を襲うんだ。
そう思っていた。
「ソアラ! ソアラ! だいじょうぶ!?」
遠くで朝子の声がする。内臓ドバグチョなのに、だいじょうぶなわけがない……。
しかし、いつまで経っても予定の痛みが襲ってこないことに気付く。
なんとなく胸の上がちょっと重いくらいだ。
きっとこれは映画とかで見た症状と同じだ。肺に血が溜まっているのだ。
そのうち口から血が溢れて、あたしは自分の血で溺れて死ぬのだ。
同時に激痛も襲ってくるだろう。
そうに決まっている。
(……)
もしかして痛みを感じる神経がやられているとか、脳がばーんってなってるとか?
いやいや、そんなレベルでやられてたら、こんなのん気なこと考えることだってできないんじゃ……。
だからきっと、もうじき、叫びたくなるくらいの痛みが……。
――……まだですかね?
どうせなら、このまま意識が消失して痛みを感じる前で死んでしまいたい。
けれど、いつまで経っても何も起こらなかった。
ただ、胸が重いだけ。
(どうしよう。いつまで経っても何もない。見たくないけど、ちょっとどうなってるか見てみる?)
自分の身体のグロすぎる有様なんて見たくなかったけど、とりあえず、いくら待っても何も起こらないので、じれったくなってきた。
そう思いながら、あたしは薄く目を開ける。
頭だ。
誰かの頭頂部が見える。
あたしは周囲に視線を向けてみた。
特にあたしの肉片や血が飛び散っている様子もなければ、千切れた手足が転がっている様子もない。
気がつけば周囲に人だかりが出来ていて、みんな、口々に「だいじょうぶか」と声を掛けていた。
あたしは、掠れる声で「だいじょうぶです」と誰にともなく答える。
――だって、身体くっついてるし……。
そして、もう一度視線を戻してみた。
頭だ。
やはり誰かの頭頂部が見える。
そして、だんだん状況が分かってきた。
今、あたしは地面に仰向けに倒れていて、あたしの上に見知らぬ少年が覆いかぶさっている。
ついでにいうと、あたしの胸に顔を埋めている。
なるほど。胸が重いと感じたのは、肺に血が溜まっているのではなく、こいつがあたしの胸に顔を乗せていたからなのだ。
よかった。
とりあえず、あたしの身体は轢かれたわけではなかったらしい。
――いや待て……よくない! なんでこいつがあたしに覆いかぶさって、か、顔を
む、胸に……。
「てめぇ! さっさとそこをどけよ!」
直樹があたしに覆いかぶさっていた少年の腕を掴んで、無理やり引っ剥がそうとする中、あたしと同じように一瞬、気を失っていたらしい少年が目を覚ます。
「う……うぅ……痛った……思いっきり顔を硬い何かにぶつけた……」
――おい、貴様、それはいったい何が言いたい!?
顔を掴んで殴ってやろうかと思いかけたとき、ふと気付いた。
もしかして、こいつがあたしを助けようとして庇ってくれた?
あたしと少年が倒れている足元を、まるで死神が通り過ぎたように黒々としたブレーキ痕が刻まれているのが見えた。
「あの……」
まがりなりにも命の恩人に対して、あたしはその時、少し遠慮がちに声を掛けた。
できれば、胸から顔をどかせてほしい。
今度こそしっかりと目を覚ましたそいつと、ほとんど鼻と鼻がぶつかるくらいの距離で目を合わせる。しばらく目を見開かせて沈黙していたそいつは、やがて、どういう状況なのか気付いたらしく、すぐさま顔を真っ赤に染めて、弾かれたように飛び退いて離れた。
「ご、ごめん……その、つい……」
ちょっと新鮮な反応だった。さっきは一瞬、少しだけムカついたけど、あたしの周りでこんな男はあんまり見なかったから、なんだかおかしかった。
何より命の恩人だ。
けれど彼の反応が面白くてなんとなく、あたしはくすりと笑う。
「ありがとう。君、助けてくれたんだね」
やっとどいてくれたので、なんとか上体を起こしたあたしは、自分の身体が本当に異常がないかを確認しながら、乱れた胸元とスカートの裾を直して少年に笑顔を向ける。
「い、いや……僕はその……た、ただ急いでいて、ぶつかっただけだから!」
照れているのか、謙遜しているのか、わけ分からない言い訳のようなことを言いながら、彼は地面に落ちていた自分のカバンを拾うと、慌ててその場を逃げるように立ち去った。
いったい、なんなんだか……。
あたしは呆気に取られながら、そんな彼のことを見送る。
周囲の人達は、あたしが起き上がるのを手伝ってくれて、朝子がカバンを拾ってくれた。
直樹の話によると、さっきの彼があたしを突き飛ばして、ぎりぎり轢かれずに済んだらしい。ただ、あまりに強烈なタックルだったせいで、あたしは少しの間、気を失っていたようだ。
その間にバイクはさっさと逃げ去って行ったらしい。
まあ、そのことだけがちょっとムカついたけど。
とりあえずあたしは無事で、朝子が半分泣きそうな顔であたしを抱き締めてくれた。あたしは少しだけまだショックで呆けていて、なんとなくさっきの彼のことが気になって、走り出した先を見つめていた。
それがあたしとこいつの初めての出会いだ。
きっと、こいつはそんなことがあったことさえ、もう憶えてはいないだろう。
あたしの手が、そっとアガナの頬にそっと触れた。
その感触、熱さが指先に伝わったとき、あたしの中で一気に弾けるような鼓動と共に、胸いっぱいに熱く込み上げてくる痛みにも似た感覚があった。
それは洪水のように荒々しく、あたしの意識を押し流し、必死に呼び止める理性を無視して抗いようもなくすべてを飲み込んでいった。
もう何もかもがどうでもよくなった。
あたしのこの感情が何なのか。なんと呼ぶべきなのかなど、どうでもいいような気がしてくる。
その不器用さも、優しさも、時々バカみたいに思えるような純粋さも、今はなんだかすべてが愛おしく感じる。
認めてしまおう。あたしはアガナが好きだ。
それがどんな意味の好きかはよく分からない。
時々、単純に出来の悪い弟に対する姉の気持ちに似ていると感じることもある。
でも、確かなことはあたしはアガナが好きだということ。
いつの間にか、他の鬱陶しいどの男よりも、あたしはアガナのことが気になって気になって仕方がないということにこの時になって気付いた。
いや、もしかしたらずっと前から。
ひたむきに。
ただ、とにかく今はただ……この胸の奥でせめぎ立てる鼓動が張り裂けそうに苦しい。
狂おしいほどに、
今はただアガナに、触れていたい……。
その時だった。
「ソアラ? おまえ、ソアラか?」
「なお……き……?」
驚いたあたしが振り返った先にいたのは、白いロングTシャツをすらりと着こなし、黒のすっきりしたボトムパンツを穿いた神城直樹だった。
180センチ近い長身で精悍な顔に、よく似合うキャップを深々と被り、真っ直ぐにアガナを侮蔑の目で睨みつけて立っている。
同時にあたしへの苛立ちもそこには、ありありと浮かび上がっていた。
あたしは、横目でアガナを覗き見る。
その時のアガナは、あたしがこれまで見たことがなかったほど凍りついた冷たい表情で直樹を見据えていた。
すべての感情を削ぎ落とした作り物の人間の顔だ。
そう。ノートの切れ端に人間の顔を乱雑に描いて貼り付けたような、あの顔に戻っていた。
「おまえ、こんなとこで何してるんだよ!?」
覗き見るだけのつもりが、いつの間にかそんなアガナの冷たい横顔に思わず見入っていたあたしに対して、直樹が苛立たしげに詰め寄る。
素早く思い切り力任せにあたしの手首を握り、引き上げた。
「い、痛っ!」
思わず手にしていたアイスクリームを地面に落とした。
アガナがすぐさま直樹に飛び掛るようにして掴みかかる。
「やめろ!」
「てめぇは関係ねーだろうが!」
掴みかかるアガナに思わず緩んだ直樹の手を振り払って、あたしは彼から距離を取る。その間に直樹はもうあたしよりもアガナに向き直っていた。
アガナよりも遥かに高い身長の直樹の硬い拳が、素早くアガナの左頬を捉えて殴りつけた。
ばきっという何かが折れるような音と共に、アガナは口から数滴の血を吐き出しながらその場に倒れこむ。
「アガナ!」
すぐさまあたしはアガナに駆け寄った。
唇の端が切れ、頬が少し青くなって腫れかけていた。
あたしはスカートのポケットからハンカチを取り出し、そっと血を拭おうとしたが、そんなあたしに直樹が再び後ろから掴みかかろうと迫った。
それに気付いたアガナは、無理やり身体を起こして再びあたしの手を掴もうとした直樹を払いつつ、そのままの勢いに任せて直樹に突っ込んでいく。
「やめろって言ってるだろ!」
「この野郎……」
不意を突かれた直樹は、捨て身で飛び掛るアガナに避けるのが一瞬遅れ、思い切り力のこもった一撃を顔面に受けた。一瞬、彼は後ずさるが、殴られた頬を二三度振るだけで再びアガナを睨みつけると、素早くアガナの懐に入り込み、左腕一本でアガナの首を締め上げるように掴む。
そのまま掴み上げ、苦しそうに抵抗するアガナに、空いた右腕で彼の顔面を殴りつけた。
ぴしゃっという水しぶきのような音と共に、あたりに血が飛び散る。
アガナの唇が裂け、鼻から血が吹き出た。
そのまま容赦なく何度も殴り続ける。
「直樹っ! やめてってば!」
あたしは力の限り叫んだが、直樹は止まらない。
同じ場所を何度も殴られたアガナの顔が血に染まり、今度こそ赤く腫れあがり、まぶたに大きな血豆を作るが、それでも頭に血が上った直樹は殴り続けた。
時々、思い切り膝蹴りを受けて、アガナの身体が枯れ枝のように折れる。
そのたびにアガナの口から血が吐き出された。
それでもおかまいなしに直樹はアガナの顔をサンドバッグのように殴り続ける。
もう怒りで完全に我を忘れていた。
「オラ! 舐めたことしてんじゃねーよ! このクズ野郎が! テロリストのガキが、普通に学校きてんじゃねーよ!」
ごすごすというイヤな音を響かせ、何度も何度もアガナを殴りつける。
抵抗しようとしたその手を振り払っては、また殴った。
そのたびに直樹の拳が血に染まり、アガナの顔がぱんぱんに腫れ上がって行く。
やがて襟首を掴んでいた左手を直樹が離した。
殴られ続けたアガナは、頭が朦朧としているかのように、その場でふらふらと立ち尽くし、今にも倒れそうだった。
「直樹! もうやめて!」
そんなアガナに渾身の力を込めた一撃を放とう直樹が身構えようとした時、あたしは後ろから直樹の腕を掴もうと飛び出した。
けれど、そんなあたしなど簡単に直樹は振り払ってしまう。
「きゃっ」
力任せに突き飛ばされたあたしは、思わず足首を捻ってその場に倒れた。
それを見たアガナは、突然、腫れたまぶたをかっと見開いたかと思うと、これまで見たこともなかったような怒りに歪んだ表情で、血まみれの口から絶叫を迸らせる。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!」
ほとんど腫れたまぶたで視界が塞がっていたのか。
彼の力任せの一撃は直樹の顔面にはかすりもせず、虚しく宙を貫いた。
大振りの一撃を簡単に避けた直樹は、そのまま隙だらけになったアガナの溝内を蹴り上げる。
その瞬間、細いアガナの身体が折れ曲がり、一瞬宙に浮いたかのような衝撃が彼を襲った。
「かはっ!」
口から大量の血を吐き出し、内臓をえぐるような痛みに必死に耐えている様子のアガナを、再び直樹の右腕が殴りつけた。
腫れたまぶたが裂け、弾けるように血潮が飛ぶ中、アガナは脳を揺らす衝撃に、ついに意識が飛びそうになる。
全身の力を失ったかのように、そのまま重力に従って地面に倒れた。
「アガナ!」
うつぶせになって倒れるアガナは、それでも必死に痛みに耐えて立ち上がろうとしていた。
そんな彼に、捻った足首を引きずりながら、あたしはなんとか傍まで近寄ろうとしたが、直樹がそれを阻んで、あたしを遠ざける。
「……」
あたしは本気で殺意のこもった目で直樹を睨みつける。
そんなあたしがさらに気に入らなかったのか、直樹の怒りに満ち満ちた瞳が、倒れているアガナを見下ろしたかと思うと、今度はまるでサッカーボールを蹴り上げるかのように倒れたアガナを何度も何度も蹴り付ける。
「ざけんな! てめぇなんかがソアラに近づくな! この人殺しのガキが! イカれた大量殺人鬼のガキがこいつと一緒にいるんじゃねーよ! おまえのせいで! おまえのせいで! ソアラまで変な噂が立ったらどーすんだよ! うせろ、このクズが! このクズが! このクズがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
もはや怒りではない。完全に狂ったような怒号を轟かせ、蹴りつづける直樹の目に正常な光はなかった。
死んでしまう!
このままではアガナが死んでしまう!
目の前でまるでボロ雑巾のように蹴られるたび、口から大量の血を吐き出し、アガナの顔が苦痛に歪む。
それを見て、あたしは怖くて思わず涙が溢れてきた。
このままでは。
何かしなければ、何かしなければアガナが本当に死んでしまう。
あたしは震えるその身で周囲を見渡した。
とっくに何が起こっているか分かっていても、周囲の誰も助けに入ろうとしない人々を尻目に、あたしは公園の脇に落ちていた太い枯れ枝見つけて手に取る。
少し短いが充分な太さと重さのあるそれを両手で掴み、直樹に向き直った。
「もうやめてよ……直樹。もうそれ以上、アガナを傷つけないで!」
「うっせぇ! オレはな! オレはおまえのために!」
「やめてって言ってるのよっ!」
蹴りつづける直樹に、あたしは思いっきり枝を振りかざして直樹に殴りかかった。
けれど、直樹はそれを軽々と避け、反射的にあたしに向かって拳を振りあげた。
――殴られる!
あたしは思わず目を閉じて身をすくませた。
けれど次の瞬間、骨が砕け散るような嫌な音が響き渡ったかと思うと、あたしの目の前でアガナが代わりに直樹の拳を受け、倒れこもうとしていた。
「アガナ!」
あたしは枝を放り投げ、倒れこもうとするアガナを後ろからそっと受け止める。
そのまま二人して地面に倒れ込んだ。
あたしの胸元で血まみれのアガナの顔がほとんど意識をなくしたような朦朧とした表情で虚空を見つめている。
思わず勢いであたしを殴りそうになった直樹は、一瞬、ひやりしたような青い顔を見せたが、その後、冷静さを取り戻そうとするかのように呼吸を整えようとする。
それ以上は手を上げようとせず、荒い息をつきながら、あたし達を憎悪のこもった目で見下ろしていた。
あたしはそのまま力なく倒れているアガナを庇うようにして強く抱き締め、なるべく直樹から遠ざけようと身をよじった。
涙も乾かないうちに、今は誰より本気で殺してやりたいほど憎いこの男を強く見上げる。
これ以上、アガナを傷つけたら……あたしは……あたしは……。
そんなあたしの必死にアガナを守ろうとする様子、そしてこれまで一度もなかったほど強く憎悪を込めて睨みつける様子に、彼はどこか悲痛な面持ちを見せた。
「わけわかんねーよ。なんでおまえはコイツの味方すんだ? コイツはなー。このゴミ野郎はなー、アフリカやヨーロッパで何百人も殺したテロリストの……」
「そんなのアガナに関係ないっ! アガナが何をしたっていうの!? あんたにこいつの何が分かんのよ!」
本気で理解できないとばかりに言う直樹の言葉を遮り、あたしはいつの間にか涙でぐしゃぐしゃになった顔でなりふりかまわず叫ぶ。
公園中で何事かと驚いたようにこちらを見たまま、一方で面白おかしそうに見て見ぬフリをする人達がいる中、大声で泣き叫ぶあたしの声が虚しくこだました。
なぜ、何もしていないこいつが人から軽蔑されたり、憎まれたり、意味もなく傷つけられなければいけないのか。
なぜ、何もしていないこいつが人からゴミのように扱われて、独り孤独にスクラップ工場に捨てられなければいけないのか。
こいつが何かしたのか。
まるで、これまでのアガナの心の叫びのようだ。
何度叫んでも、周りの誰にも届かなかったアガナの叫びだ。
誰もがアガナをゴミのように捨てた。
あの机の引き出しにゴミ箱のように放り込まれたプリントのように、存在そのものをゴミのように捨てて忘れてしまおうとしている。
どうしてそれが当たり前とばかりに誰もが無関心なのか。
言葉にできない悲しさが、寂しさが、あたしの胸を締め付ける。
涙が止まらない。
もうやめてよ! やめてあげてよ!
「……」
あたしの怒りに満ちた瞳が、真っ直ぐに直樹を捉える。
――これ以上傷つけたら許さない!
直樹は理解できずにそんなあたしの瞳を受けて、ただうろたえていた。
「オ、オレはなー! おまえに……」
直樹が再び忌々しそうに何かを言おうとしたその時だった。
「もう充分じゃないかな」
突然、あたし達の後ろから聞き覚えのある声がした。
直樹が何事かとあたしの後ろを見るのに合わせて、あたしも振り返る。
「杉下さん!?」
いつの間にか、そしてどうしてあたし達の居場所が分かったのか、そこには先ほど会った杉下さんが立っていた。
「あんた誰だよ」
「このコ達の知り合いだよ。君こそ誰かな。これ以上、乱暴する気ならこちらにも考えがあるよ」
「……」
直樹は舌打ちして杉下さんを鋭く見据えていたが、杉下さんは平然とそれを受け止めていた。やがて、直樹の方が無言で背を向ける。
そのまま立ち去ろうとして一瞬、立ち止まり、振り返ってあたしを見返したが、あたしは無視するかのように視線を外した。
すると彼は再び苦々しい表情をして背を向けると、今度はそのまま走り去って行った。
そんな直樹の様子を見て取ってから、杉下さんはあたしが抱き締めて倒れているアガナに膝をついて近寄る。
最初、アガナの具合を確かめるように真剣な面持ちで見下ろしていた杉下さんは、次の瞬間、にやりと笑った。
「いやー、羨ましいな。ギャルの胸に顔をうずもらせるなんて。まあ、彼の場合は正確には後頭部だけど。羨ましいなー。僕も高校時代に経験しときたかったよ」
「なっ!?」
にやにやとイヤらしく笑う杉下さんに、地面に二人して倒れ込み、後ろからアガナを抱き締めたままのあたしは、思わず顔が赤面する。
「ち、違います! あたしはアガナを庇っていただけで! あと、ギャルじゃないですから!」
「あー、うん。そうだよね~。うん、そうだよね~。いや、いいなー。胸の感触とか良さそうでいいなー」
「こ、この……」
(このエロオヤジ……!)
誤解だとあたしが何度言っても、杉下さんはうんうん頷くだけで、にやけた顔を正そうともしない。
そのやたらイヤらしい物言いが、あたしの羞恥心を煽る。
ちょっと一瞬だけアガナを放り出して一発殴ってやろうか。
そう思いかける中、唐突に杉下さんは「ちょっとごめんね」と言いながら、あたしが後ろから抱き締めていたアガナをひょいと軽々と両手で抱き上げた。
「ソアラちゃんは自分で起きれそうかな」
「あ……はい」
呆気に取られているあたしを尻目に、アガナをお姫様だっこした杉下さんは、あたしにそう声をかけた。
今頃になって砂だらけになってしまったブラウスを悲しく思いながら、あたしはそれを払い落として起き上がる。
仕方がないとはいえ、髪もぐしゃぐしゃだし、スカートもシワだらけになったのはやっぱり痛い。
けれど、そんなことを気にしている場合ではない。
今はボロボロになったアガナを手当てしないと。
「すぐ公園の脇に車を停めてあるんだ。よければ知り合いの病院に運ぶけど、とりあえずアガナくんのカバンを拾ってあげてもらえるかな」
「はい! お願いします!」
あたしはぺこりと頭を下げてお願いすると、すぐにアガナのカバンを拾って杉下さんのあとに付いていった。
杉下さんが言った通り、公園の入り口近くの道路脇に青い車が一台駐車しているのを見つける。
彼は器用に後部座席を抱き上げた手で開けると、そっとアガナを中で寝かせた。
あたしは反対側のドアから身を乗り出してアガナの頭を支えるように受け止めると、そのまま一緒に後部座席に座り、アガナの晴れ上がった頭を支えるようにして膝の上に乗せる。
そしてハンカチを取り出して、まだ乾いていない血をハンカチでそっと拭った。
その様子を見て、また杉下さんが「いいなー」と軽い笑顔で言うのが聞こえたが、もうあたしはそれを無視していた。
杉下さんが運転席に座って、ゆっくりと車を発進させるのを見て、あたしは改めてアガナの顔をじっと見つめる。
痛々しすぎるほどに晴れ上がったその顔は、両目のまぶたが切れた状態にもかかわらず、まだパンパンに膨らんでいて、うまく目を開けられずにいた。
「アガナ? だいじょうぶ?」
「……あ、う、うん……」
どこか意識も朦朧としていて、反応も薄い。
「だいじょうぶ。もうすぐ病院で手当してもらえるから」
「……」
彼はゆっくりとわずかに頷くだけで、どこまでも弱々しく答えることしかできない。
そんなアガナの顔を見ていると、思わずまた涙が込み上げてくるが、それをぎりぎりのところで堪え、何か別のことを考えようと自分に言い聞かせた。
不意に、杉下さんのことが気にかかる。
「あの、杉下さん。どうしてあたし達のいるところが分かったんですか?」
すると杉下さんは真っ直ぐに前を見て運転しながら、何気なく応える。
「たまたま駅に方に用事があったんでね。そしたら女の子が何か広場の方で叫んでいるのが聞こえて、気になって見てみたら君たちだったんで驚いたよ。助けに入るのが遅くてごめんね。」
そうか。
あれだけ叫んでも周りは誰も助けてくれないと思っていたけど、やっぱり杉下さんのような人もいるのだ。ここに来て、お礼も言っていなかったことに気付き、あたしは慌てて、杉下さんに改めて向き直る。
「いえ、ありがとうございます。さっきは本当に助かりました」
「いや、いいんだ。君たちは大事な存在なんだから」
「?」
一瞬、何か意味深げに呟く杉下さんをあたしは不思議に思って見返した。
前を向いて運転する杉下さんの顔を見ることはできなかったけど、ルームミラー越しに彼の顔をほんのわずかに見ることはできた。
同じだ。
さっきドラッグストアで見たあの時の沈痛な表情が、一瞬、映った彼の口元に浮かんでいるような気がした。
あたしは彼に改めて問いかけようとしたが、その時になってちょうど杉下さんのドラッグストアからそう遠くない場所にある小さな診療所に到着する。
目を覚ましたとき、僕は診察台の上に寝かされていた。
顔中が火傷でも負ったかのように熱く、皮膚の表層がひりひりと痛む。なのに、どこかその痛みに鈍い自分がいた。
あちこちに擦り傷ができているらしい。
でも、それ以上に今は激しい頭痛に苛まれている。
当然かもしれない。
ずいぶんアイツに殴られた。
今は誰かが手当てしてくれたらしく、額や頬をぐるぐる巻きに包帯が巻かれていた。腹部には所々、湿布が貼られ、やはり包帯が巻かれていた。
まるでミイラにでもなった気分だ。
ゆっくりと起き上がる途中で、内臓がバラバラにされそうな痛みが全身に走る。
思わず呻きそうになったが、それでもなんとか起き上がることができた。
「……」
思い出した。
ほとんど殴られて意識が遠のきそうになりながら、あいつに飛び込んでいった。
文字通り僕はサンドバッグにされていて、そんな中、あいつはソアラの前で叫んでいた気がする。
――このクズ野郎が! テロリストのガキが普通に学校きてんじゃねーよ!
ソアラに聞かれただろう。
一番知られたくない人に、一番知られたくないことを聞かれてしまった。
彼女は僕に聞いてくるだろう。
どういうことだ、と。
そしたらもう隠せない。
ウソもつけない。
僕が何百人もの罪もない人を殺したテロリストの息子だと知ったら、彼女はどう思うだろう。
軽蔑するだろうか。
怖がるだろうか。
嫌悪の表情で僕を見るだろうか。
二度と僕と会話もしてくれなくなるかもしれない。
あの笑顔ももう向けてくれなくなるだろう。
『あたしがあんたのことを見るじゃない』
『あたしも日乃宮くんのことアガナって呼ぶから。おあいこでしょ?』
『ねえ、アガナ。今日は楽しかったわよね……』
『ありがと。手、繋いでくれる?』
いつだって彼女は僕を真っ直ぐに見てくれた。
僕がどんなに情けないヤツでも、かまわずに僕に向き合ってくれて、時々バカなことを言っては殴られたりもしたけど……でも、普通に、ごく当たり前に笑いかけてくれた。
どこにでもいるただの普通の友達として、僕に接してくれた。
「う、くっ、くぅぅ……」
内臓が軋んで嗚咽さえも痛い。でも、かまわず僕は泣いた。
もう友達じゃなくなる。
こんな僕のことを知られてしまったら、彼女はもう僕を嫌ってしまうだろう。
それ以上に怖がって離れていく。
そしたら林檎や真綾ちゃんも知ることになって、同じように離れていくだろう。
久しく得られることのなかったあの陽だまりのような眼差し、胸を満たしていく暖かな気持ちが失われ、恐怖と嫌悪、侮蔑に満ちた瞳が僕を映し出し、永遠に拒絶してしまうようになる。
僕の親戚と同じように。
僕はまた独りだ。
孤独という牢獄の中で、冷たい沈黙に押し潰されそうな日々をたった独りで生きていく。
時々、雪音先輩が様子を見に来るだけの日々に戻るだろう。
「……」
背中に冷たい刃を差し込まれ、凍えた血が心臓に流れ込んでくるかのような感覚が僕を襲った。胸が張り裂けそうだった。
なのに、止め処なく流れて落ちる涙はものすごく熱い。
今は顔中痛くて、涙が頬を伝って包帯に沁み込むたびにズキズキと痛んだ。
でも、そんなことどうでもよかった。
もうどうでもいい。どうにでもなってしまえばいい。
涙は包帯から顎へと伝い、ズボンの膝の上に垂れ堕ちていく。
わずかに血の混じった涙が、ズボンの膝の上に黒い沁みを広げていくのを僕は眺めながら、いつまでも子供のように泣きじゃくっていた。
またこの漆黒の闇の中に戻る。
たった独り。
――嫌だ! もう独りはゴメンだ! 独りになりたくない! 独りは嫌だ!
心の中で何度となく叫んだ。
けれど、そんな叫びはきっと虚しいだけだ。
誰にも聞こえはしない。
「アガナ?」
不意にドアが開いた。
僕は驚いてびくりとその方向に視線を向ける。
まだ眠っているかもしれないと思ったんだろう。
ソアラは少し小声で僕の名を呼んだ。
どうせなら、寝たフリでもしていればよかったと往生際の悪い僕は一瞬そう思った。
けれど、診察台の上で腰掛ける僕はそのまま入ってきたソアラと目が合う。
包帯だらけでも、僕の嗚咽が一瞬聞こえたのだろう。
「どうしたのよ? 何泣いてんのよ?」
ソアラが少し心配したように僕を見ながら小走りに駆け寄った。
「痛むの?」
診察台に座る僕の包帯塗れの顔を覗きこむように、彼女は少し腰を折って僕の顔に自分の顔を近づけた。
包帯に覆われていて、今の僕の表情はよく分からないだろう。
それだけが唯一救いだった。
「……い、いや、だいじょうぶだよ。もうそんなに痛くない」
嘘だった。死ぬほど痛かった。
いつだって。
「杉下さんが偶然通りがかって知り合いの診察所の人のところに運んでくれたの。頭や腹部に特に異常はないから、顔の打撲と裂傷以外は特に心配ないって」
「……」
僕は彼女と目合わせられず、俯いてただ頷いていた。
「……」
そんな僕をじっと見据えながら、やがてソアラは僕の隣に腰掛けた。
まるで死刑宣告を待つ囚人の気分だった。
じきに彼女は僕に問いかけてくるだろう。
おまえは何者なのだ、と。
僕はじっと待ち続けた。
薄暗い診察室で、冷たい沈黙にじっと堪え、恐怖に耐え続けた。
いつの間にか膝の上で僕は拳を握り締めていて、その手は小刻みに震えていた。
なんとか彼女に気付かれないように震えを抑えようとしたが、できなかった。
そのまま押し黙り続けることしか僕にはできない。
「……」
「……」
けれど、意外にもソアラは僕に何も問いかけてこなかった。
彼女も僕と同じように少し俯いて前を向いたまま、ただじっと黙り込んでいる。
不意に、僕の震える右手に彼女の手が重なった。
温かい彼女の手が、そっと僕の手を柔らかく包み込む。
その手の暖かさが僕の凍えて震える胸にじんわりと沁み込んでくるのを感じて、僕は再び目の奥が熱くなるのを感じた。
けれどそれを必死に耐えた。
耐えて……彼女の手を強く握り返した。
そして、その時、僕の中で覚悟が決まったような気がする。
「……ソ、ソアラに言ってなかった事が……あるんだ」
情けないことに、僕の声は子供のように怯えた嗚咽交じりで聞きづらいことこの上なかった。けれど、僕は勇気を振り絞って横に座る彼女に向き直り、まっすぐにその目を見て話す。
「いいよ、そんなこと……」
ソアラはそんな僕から目を逸らし、できるだけ明るい調子で言った。
「聞いて……欲しいんだ。ずっと怖くて言えなかった。言ったら君を……みんなを失いそうで……でも今は知って欲しい。嘘を付きたくないから」
彼女の肩がびくっと震えた。
気のせいか彼女の目は赤く充血していた。まるで泣き出す直前のようだった。
それを僕に見せないようにずっと前だけを向いて、横顔を僕に見せていた。
「ぼ……僕は……僕の父さんは……リヴィジョン・ハイランダー。僕は、アフリカで、たくさんの人を殺したテロストって言われている人間の……子供なんだ……」
僕は彼女に、僕の知っている父についてすべてを話した。
五歳からほとんど会ったことがなく、母親と二人で暮らしていたが、僕が九歳になった頃に母は病死した。
その頃、父は汚職警官としてすでに逮捕されていて、その後、僕は親戚中を転々としながら暮らしていた。
どういうわけか数年で出所した父は、いつの頃か行方不明になったと聞いた。
そして三年前、公安警察がやってくる。
父が外国で何かの怪しい組織の工作員となって活動しているという話だった。
その話を養父母が聞いた直後、僕はまた別の養父母の元に預けられることになる。
そして一年前……。
世界的なニュースとして飛び交った西アフリカK国西部での残虐非道な大量殺戮。
ヨーロッパでの爆破テロ。
大勢の罪もない人々が殺された。
その容疑者として名前が挙がったのは……僕の父だった。
リヴィジョン・ハイランダー、本名は
そのニュースを聞くや否や、今度こそ僕を引き取ろうとする親族はいなくなった。
そして僕は、誰もいない山の上の廃墟に捨てられることになる。
すべてを話した。
ソアラは黙って最後まで聞いていた。
僕の手を握ったまま。
話し終えた後、僕の涙はいつの間にか止まっていた。
驚くほどあっさりと頬を濡らしていた涙は乾ききっていて、ヒリヒリとした痛みまで止んでいた。
胸の奥にあった心臓は死んでしまったかのように静かだ。
きっと、僕にはもう何もかもなくなってしまったからだろう。
何一つ残らず消えてしまった。
そう思った。
「……」
けれど、真っ暗になったかのような静けさの中、ソアラはぽつりと呟いた。
「知ってたよ」
「!?」
その瞬間、僕は驚いて瞳を見開き、彼女を見つめる。
そんな僕に、彼女は変わることのない柔らかな笑みで僕を受け止めた。
「は?」
「だから、知ってたってば」
僕はこれ以上ないくらい間の抜けた顔で彼女を見ていただろう。
そんな僕の顔がおかしいのか、彼女はまた笑う。
なんだ、そんなことかと言わんばかりに彼女はつまらなそうに言った。
「え……ええぇぇぇぇぇぇっ!?」
僕は壮絶に仰け反る。
どういうことだ!? 知ってた? いや、そりゃいつだって知られてしまう可能性はあったわけで、だから僕はいつもびくびくしていたんだけど、とっくに知っていた?
知っていたのに、彼女は今まで僕と普通に接していたというのか?
「ちょっと、そんなに騒ぐとキズが開くってば」
ソアラは少し心配そうに言った。
けれど僕はそんな場合ではなかった。
意味が分からない。
さっきまで死んでいたかのようだった心臓が、いつの間にか混乱のあまり早鐘のようになり続けていた。
「し、知ってたって……いつからなわけ?」
彼女は面倒くさそうに眉を寄せながら、ずいぶん昔のことを思い出そうとするかのように虚空を見つめる。
「えぇ? いつだっけ……。けっこう前だったと思う。それがどうかした?」
なんでもないことのように、面倒くさそうにいつもの様子でソアラは言う。
いや、普通どうかしますよね?
ていうか、あなたがまずどうかしてますよね?
「こ、怖くないわけ?」
「なんで?」
「大量殺人鬼の子供ですけど?」
自分で言ってて心が痛い。
そういう僕に対して、今度こそソアラは呆れたように笑った。
「ないわー。あんたが怖いとかまずないわー。あんたって弱そうだし。本気でケンカしたら、あたしでも勝てそうだもん」
それは僕を人として信じている以前に、完全にナメてますよね?
そんな中、唐突にソアラは再び僕に向き直って静かに言った。
「それにあんたが人を傷つけるなんてありえないよ」
「……」
そう言うと、どういうつもりか、不意に彼女はそっと僕の首に腕を回して身体を寄せた。
彼女の細い身体の温かみが僕に伝わり、甘いフルーツに似た香りが僕の鼻腔をくすぐった。
あの時と同じだ。合宿の最初の夜に、ビキニ姿の彼女から香った匂いと同じ。
あの時と同じ眼差しが今も僕を見ている。
違ったのは、あの時よりもずっと近くに彼女を感じるということ。
溶け出しそうなほど熱い想いで胸がつまりそうだった。
そんな中、柔らかな二つの弾力ある感触を胸に感じて、僕の体温が一気に上がっていく。
心臓がもう爆発寸前だった。
そんな僕を知ってか知らずか、彼女はその薄い唇を僕の耳元に近づけ、そっと囁く。
「アガナのお父さんがどんな人でも、あんたはあんただよ。関係ない」
「……」
再び僕の目に涙が溜まる。
「アガナ、あたしのせいで直樹にひどく殴られちゃったね。ごめんね……」
今度は彼女が嗚咽交じりに泣きそうになって囁く。
「君のせいじゃないよ」
「……」
僕の首に回す彼女の両腕が、ぎゅっと強く僕を抱き締めた。
そのたびに、彼女の胸が僕に押し付けられて、とにかく頭の中はパニック寸前だったわけだけど。
心とは裏腹に身体が反応してくるのを持て余しながら、僕は心の奥で泣いていた。
慟哭していた。
「あたしね。あんたに会えてよかったよ。世界が終わることなんか関係ない。ただあんたに会えてよかった。ううん、もういっそ世界なんて終わってしまえばいいって思った……。終わればもうずっと……」
その時だった。
「アガナくん、そろそろ起きたかしら? ……わお!」
「ん? どうかした? アガナくん、君にお客さ……うらやまけしからん……」
「……」
「……」
30代前半ごろの白衣を着た眼鏡の綺麗な女性が、唐突にドアを開けた。
その横でコーヒーカップを持った杉下さんがプルプルと震えているのが見える。
僕もソアラも唐突すぎてそのままの体勢で凍りついたように固まっていて、お互い、耳まで真っ赤になって何も言えずにいた。
女性は僕らをそのまま面白おかしそうに眺めて、なぜか杉下さんは半分泣いている。
そして……。
「お、お、お兄ちゃん……お兄ちゃんの……変態!」
「あら、アガナくん、こんな所でソアラちゃんと何をしようとしていたのかしら。うふふふ」
「お姉ちゃん……はしたない……」
『ソアラ、アガナのケガに障ります。即刻、離れないと抹殺します』
いつの間にか、二人の大人の隙間から顔を覗かせた林檎と雪音先輩、それに真綾ちゃんがそれぞれショックを受けていたり、興味深そうに見ていたり……。
【ここな】が映ったタブレットを真綾ちゃんが持ってくれていて、モニター上の無表情な【ここな】が、分かりやすいほどに血管が浮き出た演出で表情を表している。
さっきまでの沈黙が嘘のように、賑やかでバカみたいに騒がしくなった。
もうないと思っていた僕らのいつものバカ騒ぎが、そこにあった。
僕とソアラはそのまま固まり続けるしかなかった。
固まり続けて……そしてなんだか可笑しくてケラケラと笑った。
みんなは僕のケガが大したことないと分かると、不思議と一緒になってゲラゲラ笑う。もうバカみたいに何もかも可笑しくて笑った。
夏の青空。
ちょっと失敗した備蓄食糧が爆発して、みんなで飛び散ったチーズをかぶった後のように。
また作ろう。今度はうまくいくなんて言いながら。
いつもの、僕らのゲームサークルだ……。
その後、僕は林檎や真綾ちゃんにも自分のことを話した。
意外なことに二人とも特に気にしていない様子だった。
林檎に至っては、そんなことよりお兄ちゃん、ソアラ殿と何をしようとしていたのと、他のことが気になっていたようだし、真綾ちゃんはアガナさんはガチホモだと思ってたのに残念ですという別の意味でショックな感想を受ける。
この誤解が解けて本当によかったと心から思う。
雪音先輩は、前から知っていたし、相変わらずだった。
そしてソアラは……。
「言ったでしょ。あんたが誰でも、あんたはあんただよ」
そう言って、あの日と同じように、少し悪戯っぽく無邪気な笑みで笑っていた。
一騒動あった後、あたしはなんとか無事登校した。
職員室で先生に事情を説明してから、とりあえずケガはないことをしきりに話してなんとか入学式に参加できることになった。
一応、親には連絡されてしまい、入学式の後に念のため迎えに来るということだったが、あたしはそれを丁重に断った。
桜の花びらがあたしの頬をかすめて飛んでいくのを感じながら、少し溜息混じりに職員室を出る。
退屈な先生達の話を聞きながら、あたしは受験票にあった番号を基に自分のクラスを探し教室に入った。
偶然にも朝子や直樹とも同じクラスになって、これからもよろしくなんてことを言い合いながら席を探す。
みんなどこか緊張した面持ちだった。
けれどその一方で楽しそう。
あたしは黒板に書かれた座席表を確認し、自分の名前をそこで見つける。
黒板の前から位置を確かめようと視線を向けた先で、あたしはほんの一瞬、息を飲んだ。
今朝、あたしを押し倒した少年をそこで見つけたのだ。
すでに女の子達は隣通しで仲良く自己紹介し合いながら楽しそうに笑い会っていたり、男の子はまだ少し打ち解け難そうにしながらも、なんとなく軽い会話を交わしている中、彼だけは机に突っ伏して隠れるように席に座っていた。
顔が見えなかったけれど、あたしには分かった。
彼だ。
ちょうど、あたしの席のすぐ右隣に彼がいる。
奇妙に胸の奥がざわめいた。
まるで、静謐な夏の朝の間だけ陽を受けて咲く朝顔のように。
あたしの心が花開くような感覚を覚えた。
あたしは真っ直ぐ机に突っ伏した彼を見つめたまま、そっと近づき、自分の席にカバンを置いて座る。そして右隣の彼を注意深く観察した。
髪は少し長いかな。
伸ばしているっていうよりも、ただ切らずに放置しているような感じだ。
制服はあたしや他のみんなと同じように卸したてだけど、どこかだらしなさを感じる。
あんまり身だしなみに気を遣うタイプではなさそうだ。
でも、ちゃんとすればそこそこ見れそうなタイプではある。
名前はなんていうんだろう?
黒板の席順を書いた表で横目で見て、名前を確認した。
あたしの右隣の席に書かれていた名前は……。
「日乃宮……アガナくん?」
名前を読まれた声が聞こえたのか、少しぴくっと肩が震えるのが見て取れた。
「君、日乃宮アガナくん?」
「……」
そっと顔を近づけて声をかけてみると、彼は露骨に拒絶するかのように顔を反対側に向けた。寝ているフリをしているようだけど、明らかにほっといてくれと言わんばかりの態度……。あたしは少し動揺した。
こんな態度を取られたのは初めてだった。
なんという心の壁……。
ちょっとお礼を言いたかっただけなのに。
そんな中、どこからともなく、入学式や一学期の始業式でお馴染みの「このクラスで一番可愛いコって誰だと思う?」なんて会話が遠くから聞こえてきた。
少しイラっとする。
男のこういう会話が嫌いだ。
しかしそんな中、あたしはふと何かを思いついて、くすりと笑う。
「ねえ、日乃宮くん!」
あたしは小声でありながら、はっきりと耳元で強く囁いた。
あんまりにあたしが根気よくというか、むしろしつこく声をかけるので、とうとう彼が頭を起こしてこちらに顔を向けた。
その瞬間、あたしに気付いた彼が驚いたように目を見開き、口をあんぐりと開けるのが可笑しくて、あたしは笑う。
「始めまして。あたしは西園ソアラ。君、朝、助けてくれた人だよね?」
「あ……えっと……ぼ、僕は……」
「ボクは?」
露骨に挙動不審な物言いだった。
あたしは少し悪戯っぽい笑みを浮かべて彼の言葉をなぞる。
彼は少し困ったようにあちこちに目を泳がせながら、必死に言葉を紡ごうとしていた。
「ぼ、僕は……ひ、日乃宮……アガナ……です」
あたしはつい吹き出しそうになった。
けれどそれを必死に我慢する。
ちょっと変わっているけど、嫌いじゃない。
「あたしは西園ソアラ。よろしくね」
知ってるよ、とは言わず、あたしは彼に合わせて改めて自己紹介した。
彼はハトが歩くみたいに頭全体を振るわせて頷く。
「今朝、助けてくれてありがとう。やっとちゃんとお礼が言えたよ。君、すぐ走っていっちゃうし」
「……」
何も言わずに顔を赤くして沈黙している彼を見て、あたしは、なんとなく、胸の奥がきゅっと締め付けられるような奇妙な感覚を覚えた。
それがなんなのか。どういう気持ちなのかよく分からなかったし、その時はあまり深く考えたりもしなかった。
それよりなぜか、急に彼に対して悪戯をしてやりたくなった。
別に彼に恨みがあったわけでもないんだけど。
さっきの企みを実行してやりたくなった。
あたしはおもむろに彼に向き直る。
少し悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。
「ねえ。キミはこのクラスで、どの女のコが一番可愛いと思う?」
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