#18:綾咲栞は胸の谷間が気になる(後編)
朝。
気がついた時、栞は膝を突かされた状態で、両腕を完全に二人の少年達によって取り押さえられていた。
もう一人が栞の腰に刺さっていたM9(92FS)を奪い取り、その銃口を彼女に向けている。
その反対側には恐らく食糧を詰め込んだと思われるスポーツバッグを二つ抱えた少年が、下卑笑いを浮かべて物欲しそうに栞を見ていた。
そんな彼らの中央に立つ少年は、静かに栞を見下ろしている。
小さな子供達は反対側に集めさせられ、皆怯えて震えていた。
それを見て、栞の眉間が怒りに歪む。
しかし、それでも彼女は恐ろしいほどの冷静な声で囁いた。
「和彦、どういうつもり?」
押さえつけられたまま、彼女は強く和彦を睨みつけた。
それを平然と受け止める和彦は、静かに語る。
「言ったろ。もうここは限界だ。感染者達の集まりようを見て“リーパー”が来る。その前に逃げ出すんだ」
「自分達だけで逃げるつもり?」
「おまえも連れて行こうとしただろう。断ったのはおまえだ」
「……」
その時、栞は殴られて倒れているケンゴの姿を視線だけ一瞬向けた。
倒れているケンゴは反対側を向いていて、顔は見えないが、頭からかなりの出血をしていた。
「そいつは使い物にならない上に、反抗してきたんで、ちょっと寝てもらってる」
「逃げても市外に向かう道は全部封鎖されてる」
「かもな。でも、町の西側にある川を挟んだ先の山を越えれば、市外に抜け出す隙はあるかもしれない」
そう言う和彦はスポーツバッグをまた一つ担ぎ、栞に背を向けようとした。
そんな中、タクミが下卑た笑いを浮かべながら、押さえつけられた栞の腹部
に手を添えた。
やがて、黒いブラウスの裾から手を差し入れ、彼女のすべらかな肌を不快なほど嘗め回すようなイヤらしい手つきで撫で回し、その手はゆっくりと上を目指して移動していく。
「こ、この……」
栞は渾身の力で抵抗しようとするものの、押さえつけられた両腕はぴくりとも動かない。そんな彼女の悔しそうな表情を見下ろしながら、楽しそうに笑うタクミは、一瞬だけ和彦に顔を向ける。
「なー、和彦ー、オレやっぱヤっときたいんだけどー?」
「バカが! 栞に手を出すな!」
和彦がすぐさま振り返り、スポーツバッグを放り出すと、凄まじい形相でタクミを怒鳴りつけた。
少しでも反抗しようものなら、本気で殺すとばかりに右手を強く握り締め、睨みつける。その眼光に思わず身をすくませたタクミは、すぐに栞から手を離した。
「わ、わかったよ。マジんなるなよ……おっかねーな」
ヘラヘラとした笑みを引きつらせて、両手を広げ、タクミはその場を離れる。
そんなタクミを顎でくいっと指し示し、先に教室から出させると、今度こそ和彦は栞に背を向けた。
スポーツバッグを手にして教室を後にする。
それを受け、栞を押さえつけていた少年達も、ゆっくり彼女から離れた。
暴れるなよとばかりに両手をかざし、荷物を手にして和彦の後を追う。
最後に残った栞に銃を向けていた少年は、彼女に銃口を向けたままゆっくりと教室まで後ずさり、「悪いな」と一言だけ残して走り去った。
そんな少年を最後まで殺意のこもった瞳で見据えていた栞は、少年が立ち去ってすぐに、子供達に素早く駆け寄る。
「みんな、だいじょうぶだった!? ケガしてない!?」
子供達が一斉に栞に抱きつきながら泣き崩れる中、彼女は、一人一人、ケガがないかどうかを確認する。恐怖のあまりに震えて泣き喚く子供達は、ろくに話せる状況ではなく、彼女は顔や頭をそっと一人一人触るなどして、身体に異常がないことを見て回った。
その中には、昨日まで病気だったコージの姿もあった。
子供達は全員怯えてはいるが、ケガをしたり殴られたりした様子はなく、彼女はとりあえずほっとした。
(みんな大丈夫だ……)
その後、しがみついてくる子供達を優しく抱き締めながら、なんとか倒れているケンゴのところまで歩み寄ることにした。
子供がひっついて歩き難いが仕方がない。
なんとか傍によって倒れているケンゴにしゃがみこんで様子を見る。
ケンゴは頭を強く打って、額が割れているようだった。
出血はひどいが、すでに血は止まっている。
「茜、ちょっとお願いがあるんだけど」
栞は、自分にしがみついている子供達の一人で、一番年長の女の子に優しく声をかけた。
彼女はさっきから他の子供達と同じように栞の足に抱きついたまま泣き続けている。
そんな彼女の頭をそっと撫でてやりながら、もう一度囁くように声をかけた。
「ねえ、茜。お願い。ケンゴがケガをしちゃったの。向こうの棚にお水の入ったペットボトルがあるから、取ってきてくれない?」
「し、しおり~、ケ、ケンゴ、ケガしたの~?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった赤い顔の女の子が、震えてしゃくりあげながら、栞の言葉を繰り返す。
そんな彼女に栞は、慈しむように微笑みかけながら、涙に濡れた顔を手近にあったタオルで拭ってやる
「そうなの。痛そうだから手当てしてあげよう? 茜はお姉ちゃんだから、手伝ってくれるよね?」
茜と呼ばれた女の子は、栞に何度顔を拭かれても延々泣きじゃくりながら、やがて泣き叫ぶ他の子供達に抱きつかれてほとんど動けない栞の様子と、倒れたままのケンゴを交互に見やると、服の袖で涙を拭いながら、小さく頷く。
「ありがとう、茜。あそこのお水を取ってくるだけでいいから、行ってくれる?」
「う、うん……」
そう言って、茜はヨタヨタとした歩みで、教室の反対側にある棚へと向かう。
少し背伸びをして棚に置かれたペットボトルを取ると、急いで戻ってきて栞に渡し、また彼女の足に抱きついて泣いた。
そんな茜を苦笑しながら優しく頭を撫でてやりつつ、受け取ったペットボトルの水を少し垂れさせて、血まみれになったケンゴの顔を洗い流してやる。
「ケンゴ! ケンゴ!」
呼びかけながら、割れた額の傷口を洗い、タオルで血を拭き取ってやる。
何度か呼びかけているうちに、硬く閉じていたケンゴのまぶたがぴくりと震え、やがてゆっくりと目を覚ました。
「し、栞……? ……えっと……だいじょうぶ?」
「それ、キミが言えたセリフなの?」
痛そうに頭を抑えながら、心配そうに見下ろしていた栞に向かって言った言葉が、あまりにも間が抜けていて、思わず栞は笑ってしまった。
そんな彼女の笑い声が心地よくて、ケンゴは頭を抑えながら起き上がろうとしたが、不意に身体の力が抜けて再び倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと? まだ動いちゃダメだよ」
そう言いながら、慌ててケンゴを抱き止め、そっと膝の上に彼の頭を乗せて安定させてやる。
ケンゴは少女の細い膝の上で頭を乗せている感覚に、ドギマギとしながら自分を抑えるのに必死だった。
そんな彼の頭の血を再び拭おうとする栞に対して、彼は手で制しながら、だいじょうぶだと言わんばかりに、再度起き上がろうとする。
彼の頑固さに呆れて溜息をつく彼女は、それでも無理に起き上がろうとする彼の肩に手を回してなんとか支えてやる。
「だ、だいじょうぶ。もう動けるから。それより和彦達は?」
今になって、栞の周りに子供達が鈴なりになって抱きついている様子に気付いたケンゴは、すでにここに和彦達がいないことを悟る。
「ケンゴ、和彦達は……」
栞が沈痛な面持ちで言いかけた時だった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
突然、学校中を反響するほどの恐怖に満ちた絶叫が響き渡り、その声に子供達がさらに怯えて、栞に強く抱きついた。
すぐさま、ケンゴが声のした方向を見ようと、ふらつく足取りで窓に立つ。
その間、栞は子供達を強く抱きしめながら、「だいじょうぶだよ」となるべく穏やかに囁きながら繰り返し励ましていた。
そんな彼女は視線だけをケンゴの背中に向ける。
ケンゴは黙って窓から声のした方を探してみるが、何も見つからなかった。
おかしい。確かに運動場の方から聞こえた気がしたのだ。
じっくり目を凝らして、事態を見極めようとした彼は、そこで信じられないものを見つける。
「あ、あれは……!?」
最初、それは陽炎のように揺らめいて見えた。
教室内は空調が聞いていたが、外はひどい暑さだ。
空気が熱で揺らぐこともあるだろう。
しかし、奇妙だったのは、その陽炎の揺らぎが一瞬、人の形に見えたのだ。
しかもその陽炎の端で、不自然に誰かの腕が地面に落ちているのが見える。
投げ出されたように地面に横たわる腕だけが見えて、その根元にあるはずの胴体が見えない。
やがて、次の瞬間、パン、パン、という銃声が響き渡った。
後ろで子供達の悲鳴が聞こえる中、ケンゴははっきりとそれを見る。
二発の銃弾を受けて、陽炎が波紋のように揺らぎ、やがてその奥から病人のように真っ白な皮膚をした、裸の男が突然、姿を現したのだ。
体長はおよそ三メートル、普通の人間では考えられないような鍛え抜かれた筋肉質の体躯に不似合いなほど病的な肌には、不気味な血管が全身を覆うように浮いている。ところどころの皮膚が爛れて赤黒い筋肉が剥き出しになっていた。
唇は失くしたか溶けたように腐食した跡があり、奇妙に笑っているかのような形で鋭い歯がむき出しになっていた。
その右腕には鋭く尖った凶悪な鉤爪のようなものが二本飛び出ていて、その先からは赤い血のようなものが滴っている。
人間なのかそうでないのかは分からない。
ただ化け物であることは間違いなかった。
それは、静かに佇みつつ、興奮に打ち震えるかのように荒く息をしながら静かにケンゴを見上げていた。
その目はおぞましいほど黄色く濁っていて、所々血走っている。ぞっとするほど冷たく、まるで機械のような無感情な殺意で染まっていた。
間違いない。
あれはリーパーだ。
「うらぁぁぁぁぁぁぁぁ……ひぅっ?」
突然、先ほどの少年のうちの一人が、バットを振りかざしてリーパーの後ろから襲いかかろうとした。
その一瞬、ほんのわずかにリーパーが腕を回したように見えた時、少年は驚いたように目を見開いて立ち止まる。
バットを手から落としてゆっくりと自分の首に手をやろうとしたが、次の瞬間には、あっけなく首から上が地面に落ちるのと同時に、噴水のように血飛沫を上げて胴体が崩れ落ちた。
それを見ていた他の少年が半狂乱になって逃げ出すと、ゆっくりとした足取りで追いかけていくリーパーの姿は、やがて再び陽炎の中に消える。
「ま、まずい……」
ケンゴは自分が身体の芯から震え出していることに、最初気付かなかった。
空調が聞いているとはいえ、肌という肌が収縮して鳥肌が立つ。
全身を氷で覆われたような冷たさが襲った。
「ケンゴ?」
「ま、まずいよ……こ、これ……本当にもうダメかも……」
恐怖で心臓が凍りついたような気がして、彼は身体が一切動かなくなり、その場に佇む。すぐ後ろから栞に呼びかけられていることにも気付かなかった。
「ケンゴ!」
そんな中、突然、すぐ後ろから肩を掴まれて、力任せに振り向くされると、ぱん、という音と共に頬が叩かれた。
思わずそのショックで目を見開く。
びりびりとした頬の痛みが、彼を現実に引き戻した。
「ケンゴ、みんなを連れてバスに向かおう。今ならまだだいじょうぶだから」
「う、うん……。わ、分かったよ」
なんとかそれだけを答えると、弾かれたようにケンゴは急いでバスのキーをカバンから取り出し、栞にはボストンバッグからピストルクロスボウを引っ張り出して手渡した。
受け取った彼女はそれを背中に背負うようにしてから、ひざまずいて子供達の目線になって真っ直ぐ向き直った。
「いい? みんなのこと、絶対、あたしが守るから。絶対の絶対にだいじょうぶだから。ケンゴにくっついて、できるだけ静かについてきて。誰一人はぐれないように手を繋いでいくの。みんなできる?」
泣きじゃくっていた子供達が静かに頷くのを見て、栞はわずかに微笑んだ。
それからケンゴに向き直ると、彼に子供達を託して、自分はクロスボウを構えてゆっくりと教室のドアを開けた。
ドアの隙間から廊下の様子を確認する。
普段、見慣れた学校の廊下は不気味なほど静まり返っていて、気にせいか空気までもが、時が凍りついたように微動だにしていないような気がした。
まるで何か、邪悪で不気味な存在の到来を予感しているかのようだ。
そんな中、栞はケンゴに視線を向けて頷くと、先に外に出る。
「さぁ、行こう。栞に遅れないようについていくんだ」
震えて怖がっている子供達の背をそっと押しながら、全員を先に行かせて、自分は一番後ろで背後に注意する。
――バン、バン……。
遠くで銃声がまた二発聞こえ、新たに叫び声が聞こえた。
恐らく、栞の持っていた銃で少年達がリーパーに応戦しているのだろう。
この銃声が響いている限り、こちらはまだ安全かもしれない。
しかし、長くはもたないだろう。
リーパーは……恐ろしい存在だった。
彼らには申し訳ないが、今しばらく時間稼ぎしてもらうしかない。
栞は、北側の階段を通って運動場を回り込むようにしてバスに向かうつもりだった。
自分はともかく、子供達の走る速度では、すぐに捕まってしまう。
できるだけ銃声から遠く離れて隠れながら、バスに向かう必要があった。
――ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
再び悲鳴が上がる。
子供達が、小さく声を上げそうになったが、栞は振り返って人差し指を口元に当てた。
気のせいか、先ほどよりも声が近づいている気がする。
急がなければならなかった。
そんな中、なんとか階段を下り切って一階に辿りつく。
机と椅子で積み上げられたバリケードが行く手を遮っていた。
なんとかここを越えていかなければならない。
栞が先に椅子の隙間を這って、外に出る。
(まったく、狭い場所を這っていくのに胸が邪魔で仕方がない……)
なんとか外に這い出た彼女は、周囲の安全を確認した。
だいじょうぶ。まだ、あれはいない。
「ゆっくり下を通って来て。一人ずつ順番に。だいじょうぶ。みんな通れるから。ゆっくりね」
そう言って、栞が子供達に優しく声を掛ける。
不安そうにしている子供の何人かが泣き出しそうだったが、ケンゴも一緒になって励まし、なんとか一人ずつ椅子の隙間を通らせていく。
やがて、一人、また一人と無事にバリケードをくぐっていく中、ついに最後の子供が抜け出したのを確認して、残ったケンゴも通り抜けようとした。
その時である。
――バン!
すぐ上の階段から、銃声がした。ほんの十メートルも離れていない位置である。
「!?」
驚いてケンゴが振り返り、栞がクロスボウを構えて向き直ったその先には、三メートル近い巨大な人型をした陽炎のような存在が、通路いっぱいにその巨体を引きずっていた。
ちょうど階段の踊り場から、ゆっくりと現したその姿は、不気味で獰猛な肉食獣のような圧倒的な殺意と怒りに染まっているかのようだった。
それでいて凍えるほど冷たく静かに獲物となる人間をその瞳に捉えている。
あの黄色く濁り血走った悪魔のような瞳だけが、陽炎の中で不気味に光っている。
その陽炎のような透明に揺らいだ人型の物体が、和彦の首を片腕で掴みあげたまま、ゆっくりと下りてくる。
「か、和彦!」
栞が叫んだ。しかし、和彦にはもはや返事をする力さえ残されていなかった。
ぴくぴくと痙攣したまま、力なく両腕を垂れさせ、両目からは大量の血が流れ落ちている。
口は半開きでヨダレが垂れ落ち、その奥から飛び出した舌は紫色に変色していた。
やがてどういう原理なのか、陽炎の奥から、再び、病的な白い肌に全身血管を浮かばせ、赤黒い筋肉を所々剥き出しにした巨大な怪物が姿を現す。
それは静かに栞達を見下ろしていた。
笑っているわけではない。ただ、唇が腐食してなくなり、引き裂かれたかのように剥き出しになった口は、まるでニヤリと笑っているかのように見えた。
その奥で尖った牙が唾液と血、それに肉片でぬめっているのが見える。
その時。
「あ、あガガガガガ……ガヴァ……アアアアアアア」
かろうじて生きていた和彦の口から悲鳴ともつかない声が漏れた。
助けを求めるかのように、垂れ下がっていた右腕が、栞達に向かって痙攣しながら突き出される。
その瞬間、怪物は右腕の鉤爪をすっと、軽く彼の首を横切らせると、ぷちん、という音を響かせて首から下の胴体があっけなく切り落とされた。
落ちた胴体部分の切断面から、信じられないほどの血が当たり一面に吹き出て壁や床に血飛沫を吹き掛ける。
床一面が血の海と化した。
「う、うわああああああああああああああああああああああああっ」
その凄惨な光景に、恐怖のあまりケンゴが発狂したかのように悲鳴をあげる。
「ケンゴ! ケンゴ! 急いでくぐって!」
栞が我を忘れかけたケンゴに必死に呼びかけ、なんとか彼の精神が崩壊する寸前で食い止めようとしつつ、すぐさま構えていたピストルクロスボウのトリガーを引いた。
この距離なら外しようがない。
しかし、怪物はその巨体にもかかわらず、信じられない速さの反射神経で、掴んでいた和彦の頭部で矢を受け止める。
白目をむいたままピクピクと痙攣している生首状態の和彦の眉間部分に、矢が深々と突き刺さった。
栞はすぐに矢を再びつがえようとするが、その前に子供達に向き直って思い切り叫ぶ。
「みんな、先にバスのところまで走って!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして怖がる子供達が、イヤイヤをするように首を振ったが、そんな子供達に、栞はこれまで発したことのないほど大きく鋭い声で怒鳴った。
「行きなさいっっ!」
その声で泣いていた子供達は、びくりと震え上がり、一人が立ち上がって嗚咽を漏らしながら立ち上がると、その手を繋いでいた子供も同じように泣きじゃくりながら一緒に立ち上がる。
「いいコね。さあ、速く行って!」
その時、ケンゴがバリケードにしていた椅子を思いっきり、リーパーに投げつけた。
激突した椅子はまるで効果がなく、リーパーには傷一つ負わせることはできなかったが、その音に驚いた子供達が一斉に駆け出した。
その様子を後ろで見ながら、栞は新たに矢をつがえてリーパーを狙う。
「栞! 僕のことはいいから先に逃げて!」
そう言って、ケンゴは持っていたキーを栞に投げ渡した。
「キミを置いていけるわけないでしょ! 早くくぐって!」
キーをしっかり受け取った栞だったが、そこを動く気はなかった。
そうしている間に、ついにリーパーが一歩前に踏み出す。
栞がすぐに構えていたクロスボウを撃った。
その一撃はリーパーの腕に刺さり、一瞬だけ怯んだかのように見えたが、怪物は何事もなかったかのように、あっさりと腕から矢を引き抜くと、怒りに震えるかのように荒い息を吐き出し、苦痛に歪んだ顔は恐ろしいほど歪んだ怒りに染まる。
再びゆっくりと動き出した。
栞は急いで新たな矢をつがえようとするが、もはやリーパーの長い爪の生えた巨大手は、ケンゴの首に迫っていた。
人間の頭部など片手ですっぽり収まるほどに大きい。
「も、もういいんだ……早く、バスに……」
「ケンゴ!」
もはやケンゴが覚悟を決めたその時だった。
突然、何か金属の棒のようなものが怪物の胸を貫き、その尖った先が右胸から突き出ていた。
――ホォォォォァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ
それまで声一つ発しなかった怪物が、狼の遠吠えのような悲鳴を上げたかと思うと、その巨体を一気に崩して地面に肩膝を突く。
一トンはあろうかという巨体が膝を突くことで、地面が震えるほどの地響きが轟き、コンクリートの床に亀裂が走る。
何事かと二人が見たその先にいたのは、怪物の後ろで呆然と佇む先ほどの少年の一人だった。
少年は左腕がもがれたらしく、肩から先をなくしており、切断面から止め処なく血が流れ出していた。
そのせいか顔は死人のように真っ青で、今にも倒れそうにふらふらと立っている。
「へ、へへへ、ば、化けモンが……い、痛いだろ? お、おれの腕、おれの腕を抜いちまいやが……」
言い終わる前に怒りに震えた怪物が、その巨体からは信じられないほどの速さで振り返り、少年の顔を片手で掴んだかと思うと、まるでトマトを握りつぶすかのように、あっさりと少年の顔を粉砕した。
赤い血と共にピンク色のどろっとした肉片があたりに飛び散る中、千切れて落ちた胴体に向けて、思いっきり両腕の拳を合わせて叩きつける。
ぶしゃっと、水の詰まった風船が弾けるかのような音と共に、少年の身体が潰され、肉片と血が飛び散る。
しかし、怪物はそれでは飽き足らず、何度も何度も少年の身体をその丸太のような腕で殴りつけ、すり潰していく。
その信じられない力は凄まじく、粉々に潰されていく少年の身体の下で、リノリウムに覆われたコンクリートの床さえも砕け散っていく。
「あ、あぁぁ……な、なんてことを……」
目の前の残虐な惨状を前に、もはや恐怖で押し潰されるそうになっていたケンゴは精神の限界に来ていた。
すでに発狂寸前で、動けず固まっている。
次の瞬間にはあれが自分の姿だと思うと、怖くて涙しか出てこない。
そんな中、おもむろにケンゴの首元に細い腕が回された。
栞だ。
栞が必死になって椅子の隙間から身を乗り出し、ケンゴの身を引っ張ろうとしていたのだ。
「なにぼーっとしてるの!? 今のうちに早く!」
「し、栞……ぼ、僕は……」
「泣き言はあと! 早く動いて!」
怪物は先ほどの少年だったモノを潰すのに、まだ余念がないらしく、こちらのことは完全に忘れているようだった。
ケンゴは震えて言うことを聞かない身体をなんとか必死に動かし、椅子の下をくぐろうとした。
視界から怪物の姿が消えて、椅子の下の狭い場所をくぐっている間、いつ何時、怪物がこちらに向き直るかと思うと、心臓が鷲づかみにでもされた気分だった。
しかし、幸運にも怪物は最後まで栞やケンゴの方に向き直ろうとはしなかった。
無事にバリケードを突破したケンゴは、クロスボウを放り投げて彼の脇に腕を回す栞に支えられて、なんとかその場を切り抜けた。
急いで校舎を出て運動場を駆け抜ける。
視界の端、運動場の真ん中に何か人間の欠片のようなものが落ちている気がしたが、もはやそんなことを気にしている余裕はない。
遠くでコンクリートやガラスが破砕される音が聞こえて、何度もビクりと震え、振り返りながら走る。
だいじょうぶだ。まだ追って来ていない。しかし、時間の問題だ。
やがて体育館の裏に回ったところまで辿りつき、バスの傍らで泣きながらしゃがみこんでいた子供達を見つける。
「しおり~!」
「ケンゴぉ~!」
「みんないる!? えらかったね! よくがんばったね!」
口々に子供達が叫んで、駆け寄ってくるのを力いっぱい抱きしめ、誰ひとりはぐれていないのを確認すると、栞はポケットの中のキーをケンゴに渡した。
ケンゴは頷いて大急ぎでバスのドアを開けると、子供達をすぐさま乗せていく。
それから運転席の方に走り、間髪いれずにエンジンを掛けた。
問題なく掛かるのを確認して、栞に向き直る。
栞は全員乗ったことを確認してドアを閉め、同時に運転席に向かって叫んだ。
「ケンゴ! 出して!」
「分かった! 掴まってて!」
力いっぱいアクセルペダルを踏み込んだバスは、大きく揺れながら急発進した。
ところが、ほんのわずかに一メートルほど進んだ瞬間、バスが突然何かにぶつかったかのように停まり、強い衝撃が栞達を襲う。
あまりのショックに椅子から転げ落ちる子までいた。
栞がすぐに駆け寄って子供を抱き上げる。ケガをしている様子はないが、少し額を強く打ったらしく痛そうに泣きじゃくっていた。
その間もケンゴはアクセルを踏み込み続けているらしく、タイヤが地面を虚しく擦る音が車内に響き渡るが、一向に前に進む様子がない。
バスはただ、無意味に苦しそうに揺れているだけだ。
「どうしたの!? ケンゴ」
子供を強く抱きしめてから席に座らせて、シートベルトを掛けさせる栞は、運転席のケンゴに声を張り上げた。
すぐにケンゴが答える。
「分からない! なにかが……」
そう言い掛けたとき、突然、後ろに座っていた子供達が一斉に悲鳴をあげた。
振り返った栞は、そこで恐ろしい光景を目にする。
あの三メートル級の巨大な怪物が、すぐバスの後ろで剥き出しの歯を震わせながら黄色く濁った目を血走らせて、凄まじい形相でこちらを睨みつけていたのだ。
しかも、その丸太のような両腕が後ろのバスの両端を掴み、信じられない力で引き止めている。
「グルルルルァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ」
とてもではないが、人間の声帯から発せられた声とは思えないほどの潰れた醜い雄叫びが響き渡り、バス全体が震えた。
怪物は狂気に満ちた怒りのままに、驚異的な怪力でバスを押さえ、今にもリアガラスを突き破って襲い掛かってこようとしている。
このままでは車体がもたないだろう。
(もうだめだ……。ここで死ぬんだ)
ケンゴがそう覚悟を決めたときだった。
「みんな! 前の方に移動して! 早く!」
栞が子供達全員を席から立たせて、ケンゴのいる前の座席に移動させていく。
子供達は絶叫しながら、逃げるように前に駆け出して行った。
なかなかシートベルトが外せない子供のところに駆け寄り、全員が後方から離れたのを確認すると、彼女はおもむろに、リアガラスをはみ出すくらいの巨大な怪物に向かって臆することなく一人進んでいく。
「栞、何をするんだ!?」
「ケンゴはそのままアクセル踏み込んでて!」
栞はそのまま一番後ろの席までいくと、すぐ目と鼻の先にいるリーパーに向かって進み出て、片足のブーツを座席の上に踏ん張るようにして乗せる。
すると何を思ったか、突然、その豊かに盛り上がったブラウスの胸元を両手で引っ掴み、思い切り引き裂いた。スポーツブラに包まれた豊満な胸が弾けるようにして外に飛び出したかと思うと、その胸の谷間から意外なものを引き抜く。
それは、彼女の手ですらすっぽり収まるほど小さな拳銃、グロック26だった。
「……」
彼女はそれを両手で構え、ほとんど数十センチと離れてない距離から、ガラス越しに怪物の眉間に狙いをつけると、迷うことなくトリガーを引いた。
ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ……。
鎮まり返った車内に、ひたすら銃声が何度も重々しく叩きつけるように響き渡る。
フル装填された十発の9ミリ弾が、パリンと割れたガラスを貫通して、容赦なく怪物の顔に大穴を空けて撃ち抜いていった。
おびただしい量の血潮が舞い散り、大量の返り血がガラスに降り注ぐ。
黄色く腐ったような肉片があたり一面に散乱した。
割れて砕け散るガラスの向こうで、怪物は苦痛に顔を歪ませるが、悲鳴を上げる隙も与えぬほど冷徹な意思による銃撃は続いた。
やがて全弾が怪物の顔面を撃ち抜く頃、黄色い目は両方とも潰れ、鋭く尖っていた歯は粉々に吹き飛んだ穴だらけの怪物の頭部からは、止め処なく赤黒い血が吹き流れ、ゆっくりと膝を突いた怪物はそのまま地響きを立てて崩れ落ちた。
その瞬間、怪物の手を離れたバスが一気に走り出し、そのまま全力で駆け抜ける。
急発進した衝撃に子供達が驚いたように声を上げた。
しばらく砕け散ったリアガラスの向こうで、倒れた怪物が起き上がる様子もなく、やがて視界の果てに消え去るのを確認した栞は、手にしていた銃を投げ出し、その場に倒れるようにして座り込んだ。
緊張が一気に解けて力が抜けたのだ。
そんな彼女に、前の席に避難していた子供達が一斉に駆け寄り、再び彼女に抱きついた。
アクセルを力いっぱい踏み込み、サイドミラーを何度見ても怪物が追ってくる様子がないことを確信したケンゴは、信じられないとばかりに興奮した顔で叫ぶ。
「やった! やったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 助かった! 助かったんだ!」
ケンゴは興奮のあまりハンドルを持つ手が震えた。
栞は疲れきっていて何も言う気がしなかった。
ただ、子供達をそっと抱き締め、皆ケガをしていないことだけ確認すると、力なく微笑んだ。
「いや、ほんっとすごいよ! よくあんな状況で全員逃げ出せたもんだ!」
「ほんとにね……」
ケンゴも緊張から一気に解き放たれ、アドレナリンのせいか興奮が冷めず開いた口はひたすら喋り続けていた。
栞は改めて全員無事で良かったとほっとする。
「銃もう一挺持ってたのか!? びっくりしたよ。ずっと隠してたのか!?」
「和彦達には一挺だけだと思わせておいた方がいいでしょう?」
「なるほどね。いい判断だよ。とにかく助かった。君は本当にすごいよ。栞」
「いいから……安全運転で……走ってよ……あたしもう……」
ここに来て疲労のためか、急に眠気が襲ってきた栞は、そこで事切れるように子供達を抱いたまま意識を失った。
あれからどれくらいの時間、栞は眠っていたか分からなかった。
とにかく疲れ切っていて、泥のように眠った。
時折、バスは小刻みに揺れたが、それでも彼女は目を覚ますことなく、眠り続けた。
やがて、数時間か、十数時間ほどの後、眩しいほどの光が彼女の顔を照らすようになると、ゆっくりと閉じていたまぶたを開ける。
彼女は眠り込んでしまったときと同じように、バスの床に仰向けになって寝かされていて、どこから用意したのかタオルケットが掛けられていた。
そんな彼女の周りに寄り添うように子供達も一緒に静かな寝息を立てている。
彼女は起こさないようにそっと起きて、全員がこの場にいることを改めて確認すると、ほっとしたように傍らの椅子の肘掛もたれかかった。
「起きたかい?」
声のした方を向くと、そこには朝陽に照らされたケンゴの姿があった。
彼は湯気の立つのカップと彼女が持っていた小型のグロッグを渡す。
「どこまで行ったの?」
栞はグロッグを先に受け取ると、腰に刺す。
そして眩しそうに朝陽を手で遮るようにしながら起き上がると、ケンゴの立っている傍まで歩み寄りながら、窓の外を伺う。
当然ながらバスは現在、停まっていて、どこか広いグラウンドか何かの広場に駐車しているようだった。
「だいぶ遠くだよ」
そう言って、ケンゴは持っていたカップを今度は彼女に手渡した。
どこか破けたシャツから弾け出た、ブラに包まれた豊満な胸をなるべく見ないようにしているのが滑稽で、彼女はつい可笑しくて笑いそうになる。
「遠くってどこまで?」
「市外にはもう出た」
「え?」
驚いてカップを持ったまま、もう一度窓の外を見る。
よく見ると、駐車しているのは彼女達だけではなかった。
何台もの軍用車のような巨大なSUV車が周りを取り囲んでいて、何人かの人間が忙しなく周囲を歩き回っていた。
「どういうこと? 封鎖されていたんじゃなかったの?」
「……もう封鎖する意味なんてないんだよ……」
「それって……」
ケンゴが何から説明したらいいのか分からないと言った顔をしている中、栞が口を開けようとした瞬間、突然、誰かがバスの前部ドアから入ってきた。
「!?」
思わず身構える栞の前で、その男はにやりと笑った。
穿き古したデニムパンツに白いTシャツ姿の男は、年齢は三十台後半頃だろう。
無精髭がわずかに伸びた顔は精悍で、瞳には鋭角的な米軍仕様の黒いサングラスが掛けられている。すらりとまっすぐに伸びた身長、一切のムダのない筋肉が、どこか屈強な兵士を思わせた。
「よぉ、おはよう。目が覚めたか。可愛いのに、なかなかいい射撃の腕をしているらしいじゃないか」
「あ、あなた誰?」
底抜けに明るい調子で語りかけてきた男は、これまでの張り詰めていた緊張感を完全に崩す勢いで軽快に挨拶してくる。
そんな男に栞が呆気に取られていると、男はサングラスを取って再びにやりと笑った。
「オレはR.H。仲間はアルと呼んでる。君たちを助けに来たんだ」
その男の傍らにあるバスの前部座席には、いつの間にかテレビが備え置かれていた。
そこには信じられないことに、ここしばらくストップしていたはずの放送が再開されていたのである。
『緊急速報をお伝えします。たった今、首相官邸にて相良官房長官による緊急記者会見が執り行われました。現在、某県全域、及び東京近郊にて各自治体、または医療機関などの報告から新型インフルエンザ感染症の発生、及びその感染拡大が確認されました。これを受け政府は、新型インフルエンザ特例法を適用し、新型インフルエンザ等緊急事態宣言を発すると共に、政府による対策行動計画が発表されました。特例法基本措置に準じ……』
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