第3章:“セカイ”は終わった。だから俺達は

#17:綾咲栞は胸の谷間が気になる(前編)

「はぁ、はぁ、はぁ……ったく、シャワー浴びたい……」

『お! いいね~。帰ったら一緒に浴びない?』

『タクミ! 栞の集中を邪魔するな!』

『へいへ~い』


 相変わらずこのクソ暑い中、シーバーイヤホンから聞こえる男のべったりとした欲望剥き出しのつまらない冗談には辟易していた。

 しかし、より問題なのは気温の高さやいつもの品のない男の冗談よりも湿気の高さだった。

 暑さはともかく、湿気は集中力を削ぎ落としていく。


「ったく、シャワー浴びたいったら……」


 彼女は今日何度目かの同じ呟きを漏らしつつ、ブロック積みの花壇に片足だけ乗せたブーツの先を見つめる。

 コンクリートの壁に身を隠し、静かにタイミングを待つ。

 ナチュラルショートボブのサイドから垂れる黒髪に、透明な雫が伝った。

 よく和彦はそんな彼女を見て欲情するといっていたが、男のそういう感性が彼女にはおよそ理解できない。

 袖がフリルになっていてけっこう気に入っていた黒のブラウスは、とっくにベトベトに濡れていて気持ち悪い。

 その下の同じ黒のスポーツブラは、汗を素早く吸い取る速乾性が売り文句だったが、こうも湿気が多いと乾きようがなかった。

 あまりにも気持ち悪かったので、彼女は花壇の脇で見つけたホースから、思いっきり服を着たまま水を被った。

 その姿を遠くから双眼鏡で覗いていた和彦から、例によって嬉しくない褒め言葉を頂いたのは何度目だろうか。

 いったい、こんな自分の姿の何に欲情するというのか。

 彼女にとって男は時に謎であり、時に気持ち悪い存在だった。

 だが、そんな謎な男のことよりも他に考えなければいけないことがあった。


『トラックの用意ができた』

『こっちもいつでもいける』

 

 これから彼女は思い切り全力疾走しなければいけない。

 走って走って、とにかく息の続く限りの全力疾走をしなければ、即座に待っているのは、逃れようのない死である。

 なのに、疲れが残っていて全身が少しダルい。

 昨日、あまりよく眠れなかったからだろう。

 体調が悪いコがいて、その看病で彼女は昨日、ほとんど眠っていない。

 仕方がない。小さいコはよく体調を崩すものだ。

 注意しなければならない。

 今は病気になっても、看てくれる医者はいないのだ。

 ちょっとした病気でも油断できない。体力のない子供ならなおさらだ。

 しかし、それは自分も同じなのだ。

 彼女は自分に言い聞かせるように心の中で呟く。

 自分が生きていなければあのコ達がどうなるか、想像に難くない。

 死ぬわけにはいかない。

 少し体力が心配だが、やるしかなかった。

 計画もしっかり練っている。準備はそこそこだ。

 ブーツは軽くて問題ない。

 足にぴっちりと吸い付くようなデニムレギンスは、わりと走りやすかった。

 何より、彼女の肉体は無駄な筋肉がなく、スレンダーで走ることには非常に特化しているといえる。毎朝の走り込みも欠かしたことがない。

 動きやすく、軽く、速い。

 ただ、彼女、綾咲栞あやさきしおりは、自分の身体で唯一、胸の大きさが気に入らなかった。

 女性なのだから、胸が膨らんでくることは仕方がない。

 しかし、できればそれほど大きくならないで欲しかった。

 女性としてこういった願望を持っている彼女は珍しい部類なのかもしれない。

 こういったことを胸の大きな人間が言うと、しばしば嫌味に聞こえてしまうらしい。

 しかし、彼女は大真面目にそう望んでいた。大きくならないで欲しいと。

 そして望んではいたが、結局、そんな自分に限って胸の双丘は、彼女の意思とは裏腹に立派に育ってしまった。

 胸は男を寄せ付けるのにはいいかもしれないが、歩く、走る、戦うといった上で、ただただ邪魔でしかない。

 加えて、こうも湿気の多いところでは、胸の下や谷間が汗で蒸れて不快だ。

 彼女にとっては利点よりも欠点の方が多かった。

 できれば女性らしい肉体よりも、より男性的な筋肉質の身体を求めていたが、結局、細い肢体に艶かしい腰のくびれ、豊かな胸の大きさ、これ以上ないくらいに女性らしい身体に育ってしまった。

   

「男なんて……いらないってのに ……いや、女の子もいらないけど……」


 この呟きもまた、今日に限らず彼女の十七年の人生を通して繰り返されてきたものの一つだ。

 普段からボーイッシュなスタイルの彼女は、女性らしさを嫌う反面、大きな瞳と細く優雅な弧を描く長い眉が印象的な容色麗しい顔立ちをしている。

 どこか中性的な危うい魅力の持ち主だ。

 そのため、学校では男よりもむしろ、女性からの人気こそ絶大だった。

 彼女にとって、情けなさの募る記憶だ。


『様子はどうだ?』


 唐突に耳元のシーバーイヤホンからいつもの少年の声がした。

 コンクリートの壁越しにあたりの様子を窺う。

 学校の運動場程度の広さの駐車場。

 車は三台。

 ほとんど町から逃げ出すときに使われて、残っているのは放置自動車か何かだったんだろう。 

 かなり見通しはいい。その先に目的のショッピングモールはある。

 ただ、問題は感染者の数だ。軽く五十体はいる。

 一番近い距離で二十メートル。

 今のところ、こちらの存在に気付いていない彼らは、雲ひとつない快晴の中、呆然と立ち尽くしていた。

 ここ数日の観察で分かったことだが、感染者達は基本的に夜に活発に動き回る。

 昼間はどこかの物陰か暗い建物の中に潜み、もし、日向にいる時でも、動かずじっとしていることが多い。

 倒れ込んだままの者だったり、どこかにへたり込んでいたり、そうでなければ、今彼女が見ている通り、ただ呆然と突っ立っている。

 立っている者はともかく、倒れていたりへたり込んでいる者は、どう見ても死体にしか見えなかった。

 しかし、そこに生きた人間が迷い込んだり、音や何か動くものを感知した途端、彼らは一斉に襲い掛かってくる。

 その動きは驚嘆に値する。

 どう見ても動き回れそうにない老人までもが、信じられない速さで奇声をあげながら飛び掛ってくるのだ。その恐ろしいまでに醜く歪んだ形相、死体特有の白く濁った瞳、そして、腐って爛れ落ちようとしている肉、人間の姿をしていても、もはやそれは人間ではなくなっていた。

 その上、力まで凄まじい。

 数日前に死んだSは、最終的に喉を食い破られたが、その前に片手で喉を掴まれた瞬間に握りつぶされているのを彼女は目の前で見ていた。

 和彦が言うには、感染者は脳の運動神経を司る機能が麻痺しているか破壊されていて、通常では制限されているレベルの力が出せるようになっているというが、実際のところは分からない。

 しかし、実際、掴まれれば骨折することもあるのは事実だ。そんな彼らに、今見つかったらひとたまりもないだろう。

 こちらはただの人間が五人しかいないのだ。


『栞、様子はどうなんだ?』


 シーバーイヤホンから、再度、和彦の声が聞こえた。


「予定通り」


 彼女の囁くような声が短く響く。


『いけるか?』

「……」


 綾咲栞はそれには答えず、黒いブラウスに包まれた豊かな胸の奥でゆっくりと深呼吸を繰り返し、目を閉じて白く細い両手に持った拳銃に意識を集中させる。

 ナチュラルショートボブのサイドの黒髪から、また一雫透明な水滴が滴る。

 やがて先ほどまでの荒い呼吸が鎮まっていった。

 次の瞬間、覚悟を決めたように迷いなく瞳を見開き、小さくはっきりと答える。


「いける」

『よし、始めてくれ。こっちはいつでもOKだ』

 

 手にした拳銃をスライドし、もう一度初弾を確認する。

 やがて再度深呼吸をした後、彼女は素早く物陰から身を乗り出した。

 右手に持った拳銃を左手で支えるように真っ直ぐに構え、続けざまに三発撃つ。

 二十メートル先にいた三体の感染者の頭部に見事ヒットし、糸の切れた操り人形のように、かくんと倒れる。


『ひゅー! すげぇ! 命中! 三体片付いた』


 当の栞はそんなことを気にも留めずに撃った瞬間、すでに背を向けて全力で走っていた。

 彼女の存在に気付いた感染者達が、一斉に眠りから覚め、人間とは思えない奇声を上げながら、血走った目を見開き、まるで獲物を見つけた野獣のように駆け出す。

 彼らの怪力と関係しているかは謎だが、とにかく感染者達の走る速さは尋常ではない。

 たいていの人間が、この感染者達に見つかって追われた場合、何か乗り物にでも乗っていない限り、すぐに追いつかれて喰らい尽くされてしまう。

 そう。この原因不明の奇病に感染した人間は、仮に人間と呼ぶのならば、彼らは人間を喰う人間に成り果てていた。

 一人の少女に対して、数十人規模の感染者達が襲い掛かろうと迫っている。

 しかし、栞もまた速い。

 普通の人間なら、潜在能力ぎりぎりまで出しているのではないかと思えるような感染者達の疾走に、とっくに追いつかれてしまっても不思議ではなかったが、彼女と感染者たちの距離は、一向に縮まることなく、そのまま反対側の建物を回りこみ袋小路になっている路地へと向かっていた。

 そこにはコンテナトラックが一台駐車されていて、後ろのドアが開かれたままこちらを向いている状態だった。

 ドアからは板が下ろされて、即席のスロープが設置されている。

 奥で目覚まし時計と思われるアラームがいつの間にか鳴り響いていた。

 

「栞!」

「和彦!」


 トラックの上に立っていた一人の少年が、全力で走ってきた栞に向かって腕を伸ばす。この時点で、彼女のすぐ後ろ十メートルにまで感染者達の群れは迫っていた。

 栞はスロープを踏み台にして、走ってきた勢いそのままに思い切り飛ぶ。

 空中で和彦の腕を掴んだ瞬間、一気に彼女の身は軽々と引き上げられた。

 すぐ後ろに迫っていた感染者の血にまみれた手が、ぎりぎり彼女のブーツの踵を掴み損ね、虚しく宙をさまよう。

 そのまま続けざまにやってきた群れの多くが、鳴り響く目覚まし時計に引き付けられて、トラックの荷台の奥へと入り込んでいく。

 一方で和彦と呼ばれた少年は、感染者達が数十体近く、袋小路に入ったのを確認して、どこへともなく合図を送った。

 その瞬間、袋小路の入り口が予め用意されたバスによって塞がれる。


「うまく言った?」


 トラックのコンテナの上で、思いっきり力の限り走ってきた栞は、息を切らせてその場に倒れこんでいた。

 すぐ真下のコンテナの中で暴れまわっている感染者達の雄叫びや壁を叩いている音を感じる。


「だいたい四十体くらいだな」

「まあまあってこと?」

「そんなとこだ。……よし、いいぞ。他のも集まってくる! 今のうちに移動しよう!」


 手にしたトランシーバーに向かって仲間達に叫び、すぐに和彦と栞もその場を後にした。




 彼女達がショッピングモールで必要な物資や食糧を調達してから、避難場所にしている市内の小学校に無事戻ることが出来たのは、それから一時間後のことだ。

 五人全員でスポーツバッグやバックパックに出来るだけ缶詰やインスタント、レトルト食品、必要な日用品から薬品までをいっぱいに詰め込んで持ち帰った。

 入り口となる校門は、すべて昨今の不審者対策のために硬く閉じられていて、周囲の感染者達は、それを昇って入り込むことはまずできない。

 校舎の窓には全部、安全のための格子がかかっているので、窓を割って入ることもできないだろう。

 加えて校舎内の最上階へと続く階段には、念のため、すべて教室から運んできた机や椅子でバリケードを築いている。

 仮に敷地内に入り込んできた感染者がいたとしても、このバリケードを突破することは簡単にはできないはずだ。

 この即席のシェルターで、彼女達はすでに一週間、生き延びていた。

 とっくに周囲の家では電気は通らなくなっており、ガスや水も出なくなりつつあった。ネットも電話もすでに繋がらないし、テレビは延々『緊急放送を受信した場合、周囲の方に声をかけ、なるべくたくさんの方にご覧いただけるようご協力をお願いします』という文字だけが並んでいるだけで、いつまで待っても緊急放送など流れてこなかった。

 そして驚くべきことに、市外へ出る道はすべて高い壁で塞がれていて、誰一人出られなくなっている。

 嘘のようだが、現代において、町が完全に孤立した状態で封鎖されているのだ。

 いったい、誰がそんなことをしたのか今だに分からない。

 自衛隊なのか、警察なのか、とにかく武装した集団が、有刺鉄線を絡ませた即席のフェンスを設置し、その外側で武装した人間が銃を構えて監視していた。

 近づこうとすれば、警告もなし撃たれるという噂がずいぶん前に流れた。

 だが、実際にフェンスは立て掛けられているし、武装した集団が外側から拡声器を持って監視しているのも事実だった。

 その拡声器からは『事態収拾にご協力ください。自宅に戻って鍵を閉め、外には出ないように』という録音された音声が延々流されている。

 何一つ説明されることはなかった。

 そんな中、アレが起こったのだ。

 原因不明の病気と、噂で聞いた【転化】という現象。

 信じられないことだが、単なる噂ではなく、事実、町中でその現象は起こり、死んだはずの人間が町中をうろつく様になったのはいつ頃からなのか。

 栞はもう思い出せなかった。

 最初は多くいた生存者同士のコロニーも、やがて死者の群れに呑み込まれ、気がつけば自分達以外に生きている人間には出会わなくなり、代わりに感染者、いや、死人としか出会わなくなった。

 彼女達も今はただ、必死に現実を受け入れて日々を生き抜くことを考える以外になかったのだ。




「やったな! 栞、さすがだよ! あんなに速く走れるなんてな!」


 栞と同い歳くらいの少年が意気揚々とスポーツバッグを肩に担ぎながら、嬉しそうに彼女の健闘を称える。

 すると、もう一人が同じように彼女に向き直った。


「本当だよ。その上、あの距離で三発ピンポイントにヘッドショットだぜ?」

「なぁ、オレにも撃たせてくれよ~。次はオレが撃ってみてー」


 そう言って、彼女の小さく形のいいレギンスの腰に刺さった拳銃に視線を落とす。

 気のせいか、その視線はいつの間にか銃からお尻に向かっているのを感じた栞は、突然立ち止まって少年に悪戯っぽい笑みで挑発するかのように微笑む。


「いいけど、撃ったあとは一斉に他がタクミに向かってくるよ? すぐミンチにされるけど、いい?」


 そう言われたタクミは、顔をひくつかせながらも、なんとか笑みを浮かべる。


「それな。オレらどう頑張っても栞みたいに走れねーよ。どんだけ速いんだっつーの。陸上かなんかやってたん?」

「別に。ただ毎朝走ってただけ」


 なんでもないことのように栞はそう言うと、彼女は最上階にある教室の引き戸を開ける。

 すると、ドアの向こうで十人近くいた十歳弱くらいの小さな子供達が一斉に栞の元に駆け寄ってきた。


「しおり~~!」

「お姉ちゃんおかえり~!」

「お菓子あったー?」


 一気に栞の周りに鈴なりの小さな輪が出来上がり、彼女は困ったようか顔をしながらも、どこかまんざらでもないとばかりに微笑む。


「はいはい。みんなの分、ちゃんとあるから。そんなに騒がないで。コージ眠ってるんだからね」


 栞は肩に担いでいたスポーツバッグを下ろし、中に溢れるほど入っていたクッキーやチョコレートなどのお菓子を取り出し、一人ひとりに手渡していく。

 子供は嬉しそうに受け取っては、はしゃぎ回っている。


「まだ食べちゃだめだからね。晩御飯、しっかり食べてから。いいね?」

「はーい」


 間延びした子供らしい返事が教室中に響き渡った。


「栞、ガキに超モテてんじゃん」

「へへへ、俺らの相手もそのおっぱいでしてくれよ」

「うっさい。さっさと運んできたものを片付けてよ」


 うんざりした調子でそう言う彼女は、その後、彼らを無視して教室の端で一人だけ床に敷かれた布団で眠る男の子の傍へと向かう。

 丸くなるようにして寝かされている七歳くらいの男の子は、少し苦しそうに時折咳込んでいた。


「なんとか熱は治まった。脱水を防ぐためにこまめに水を飲ませてるし、たぶん、だいじょうぶだと思う」


 男の子の傍にいた少し小太りの少年が、近づいてきた栞に気付いてそっと耳打ちした。

 栞が黙って頷くと、少年は彼女に引き継いでその場を離れる。

 栞はゆっくりと男の子を起こさないように近づくと、手にしたフルーツの缶詰を男の子の横に置いた。

 すると男の子はびくりと震え、掠れたような弱々しい声を出す。


「栞お姉ちゃん?」

「ごめん。起こしちゃった?」


 栞は男の子にそっと囁きながら優しい微笑みを向けた。


「ううん、起きてた……暑くてて眠れない」


 男の子はゆっくりと彼女の方に顔を向ける。そんな彼の顔は少し熱っぽく赤かった。汗もずいぶんかいたらしく、髪が頬に張り付いている。

 学校内は災害時のための自家発電がまだ生きていて、空調も最低限効いている。

 男の子が暑いと感じているのは気温のせいではなかった。

 栞は、手近にあったタオルで優しく顔を拭いてやりながら、その白い手をそっと男の子の額に当てる。

 手から感じる男の子の温かみに、栞は少しほっとした。


「熱はだいぶ引いてる。よく頑張ったね、コージ。もう少しだからね」

「うん」

「この分だと明日には元気になれるよ」

「お姉ちゃんの手、冷たくて気持ちいい」


 本当に心地良さそうに男の子は力なく呟く。

 そんな男の子の頬を優しく撫でてやる。


「コージの好きなミカンの缶詰あるけど頑張って食べれそう?」

「……うん」

「じゃあ、少し起きてみようか」


 栞は、男の子がゆっくりと起き上がろうとするのをそっと手伝い、布団の上でなんとか座れるようになったところで、缶詰を開けた。

 一欠けらずつ、ゆっくり男の子の口にフォークで運んでやる。

 男の子は美味しそうに食べているが、まだ喉が腫れていてすぐには飲み込めない。

 それに食欲も、まだそれほど回復していないのか、三口くらいでもう食べられなくなってしまった。

 それでも、食べられるようになっただけ、ずいぶんな回復ぶりだと栞は安心した。

 昨日の深夜の高熱を思えば、本当に素晴らしい回復ぶりだった。

 保健室にあった薬を飲ませたが、なかなか熱が冷めず、一晩中、タオルを換えたり、汗を拭きながら泣き出してしまう男の子をあやしたり、励ましたりしていたが、その甲斐はあったのかもしれない。


「ちゃんと食べられたね。えらいよ、コージ。あとはゆっくり寝てな」

「うん。ありがとう」


 栞は男の子の背に手を回して支えてあげながら、再び寝かせる。

 布団を掛けなおして、冷やしたタオルを額に乗せてやると、幾分、男の子の顔が安らいだようだった。どうやら咳もだいぶ減ったらしい。

 しばらくそんな男の子の傍に座って、寝顔を眺めながら様子を見ていた。

 

「……栞」


 不意に後ろから声が掛けられた。

 見るとそこにいたのは、さっきまで荷物を他のメンバーに預けて水を汲みに行っていた和彦だった。

 彼は少し離れた場所から、栞に向かってこっちに来いとばかりに視線を向けていた。

 栞は右手の人差し指を素早く口元に寄せて、静かにしろ、と合図を送る。

 コージの方に向き直って様子を見たが、彼は気付く様子もなく、いつの間にか深く眠っているようだった。

 ほっとした栞は、ゆっくりと静かに立ち上がって和彦の傍に向かう。

 やっと眠ったコージを起こしたくはなかった。


「なに? あのコ、眠ったばかりだから静かに話して」

「さっき、タクミたちと相談した。いいかげん、この辺りの感染者の数もだいぶ増えてきた。ヤツら、生きている人間のいる場所を目指して自然に集まってきてるんだ」


 そう言って、和彦は窓の外から見える学校の敷地外へと視線向ける。

 校門前にぽつぽつと集まりつつある人影は、時折、ゆらゆらと揺れているかのように歩き回っているのもいるが、ほとんどは呆然と立ち尽くしている。


「それが何?」

「ヤツらが増えると“リーパー”も来る」


 ようやくそこで和彦が何を言わんとしているのかを栞は察した。

 

「分かってる。でも、子供を外には出せない。危険すぎる。みんなで外に出るには準備がいるの。コージだってまだ治りきってないんだから動かせない」


 迷いもなくそう言う栞に対して、和彦はやや苛立っていた。


「だから、オレ達だけでひとまず移動して完璧に準備してから迎えに来てやればいい。今回の調達で当面の食糧は確保できた。しばらくはここのガキ共も生きていける。今ならオレ達だけなら市外に脱出できるかもしれない」

「ダメよ。絶対に子供は置いていかない」


 和彦の提案を間髪入れずに切り捨てる栞は、瞳がすっと細まり、殺気にも似た鋭い視線で少年を見返した。

 和彦はその鋭い眼光を平然と受け止める。


「おまえも見ただろう? 感染者ならまだなんとかなる。おまえのベレッタもまだ十発くらいは残ってるんだろう? でもな。“リーパー”相手じゃ死ぬぞ」

「……」


 なぜ分からないんだと言わんばかりに、苛立たしげにはっきりと語気を強めて言う和彦に対して、栞は腕を組んで表情一つ変えずにその瞳を見返していた。

 沈黙したまま議論の余地はない意思を示す。

 絶対の拒絶がそこにはあった。

 しばらくその瞳を見つめ、彼女の意思が変わらないことを見て取ると、和彦はうんざりしたように首を振って、その場を去っていく。

 栞はただ静かにそんな彼の背を見送った。

 その様子を遠目に見ていた先ほどの小太りの少年が、そっと栞の傍にやってくる。


「ここから逃げるって?」


 およそ、彼には予想できていたことらしい。


「……そのつもりだと思う」

「栞はどうするの?」

「あのコ達を置いてはいけない」

「……」


 何かを考え込むように眉間にシワを寄せ、顎元に手をかけている小太りの少年に、改めて栞は向き直って問いかける。


「キミはどうするの? えっと……」

「中氏だよ。中氏研吾なかうじけんご。ケンゴって呼んでくれればいい」


 苦笑しながら、ケンゴは改めて自己紹介する。

 そんな少年に、さっきまで不機嫌だった栞は、腕を組んだまま、少しすまなさそうに眉を垂れさせた。


「そうだったね。ごめんね。ケンゴ」

「いいさ。僕はあんまり君達と調達に行ったりできないから、ほとんどまだ話す機会もなかったしね」

「そんなこと……。留守の間、コージをしっかり看てくれてありがとう」

「あんなに弱っているコを放っておけないよ。僕にできることならなんでもするさ」

「ケンゴ……」


 どうしようもない男ばかりだと思っていた栞はケンゴの申し出が嬉しくて、先ほどまでの鋭い刃物のようだった表情からは想像出来ないほど、柔らかく穏やかな笑みを浮かべた。

 そんな彼女に、思わずケンゴが顔を赤くする。


「そ、それより子供達と一緒に脱出するなら渡しておきたいものがあるんだ」


 そう言ってケンゴは周囲の様子を伺いながら、そっと彼女を手招きして教室の隅に置かれた彼のバッグの元へと向かう。

 彼は他からの視線が向いていないかどうかを確認してから、栞にだけ見えるように、そっとバッグを開けてみせる。

 不思議そうに彼の後ろをついていった栞は、バッグの中で驚くべき物を発見した。


「これって」


 それは大型のハンドガンの上にやや小さめの弓を接続したような形をしていた。

 いわゆるボウガンと呼ばれるものだが、よく見るものよりも一回り小さい。

 一緒に矢となるボルトが十五本あった。


「小型のピストルクロスボウだよ。有効射程は二十メートル、ドローウェイト(弓を引くのに必要な力)は80ポンド(約36キロ)だ。女の子のキミでも、ぎりぎり扱えるんじゃないかな」

「こんなものどこで?」


 少し呆れながら栞は問い掛ける。


「警察署の押収物保管室で見つけたんだよ。本当は銃が欲しかったんだけど、君も知っての通り、銃は実際には感染者相手にあまり役に立たないしね」

「あたしが持ってていいの?」

「僕より君の方が上手に扱えるんじゃないか?」

「どうかな? 銃は撃ったことあるけど」

「僕を撃たないでよ」


 ジョークのつもりだろうか。苦笑しながらそう言うケンゴに、栞は正直、一緒になって笑う気分にはなれなかった。

 銃なら何度か撃って、その使い方も我流だが覚えた。

 しかし、クロスボウなんて当たり前だが使ったことがない。銃とは当然、その機構も使い方も異なるだろう。

 じっくりと観察している栞に対して、ケンゴはさらに言う。

 

「それから、あそこを見て」


 そう言って、ケンゴは窓の外に立ち寄り、運動場を挟んだ先にある体育館の脇を指差す。

 そこには茶色い塗装の古いバスがあった。

 恐らくこの学校のスクールバスだろう。

 もっとも、あのバスを利用しようという案はずっと前にもあった。

 ただ、あのバスは現状使えないことがすでに分かっている。

 キーは見つけてあり、何度かエンジンを回そうとしたことがあったが、まったくかからなかったのだ。故障して放置されているのかもしれない。

 確かケンゴが合流する前の話だ。

 

「あのバスでしょ。キーは職員室で見つけたけど、動かなかったよ?」


 前回使えないことが分かったときのがっかりした気持ちで栞は言った。

 しかし、ケンゴはそんな彼女に首を振る。


「バッテリーが上がってるだけだよ。交換できるバッテリーをバスの駐車スペースの棚で見つけたんだ。実はもう交換してエンジンがかかるのも確認済み」

「!?」


 意外なケンゴの発言に、栞が驚いて見返す。


「あれなら子供達を全員乗せられるし、安全に移動もできるよ。僕は運転できるし」


 少し得意気に言うケンゴに、栞は思わず抱きつきたくなるのをぎりぎりで堪える。


「すごい! そんなのよく出来たね!」

「あ、うん。いや、別に大したことじゃないよ。前に修理工やってる親に教えてもらったことがあるんだ」


 本当に嬉しそうに満面の笑みで微笑む栞を見て、照れたように頭を掻きつつ、ケンゴは言った。

 

「ありがとう! ケンゴ。みんな助かるよ」


 栞はケンゴの手を取って喜ぶ。生まれて初めて女の子の手を握ったケンゴはどんどん顔を赤らめていくが、一方で大事なことを伝えなければいけないと真面目な顔で彼女に向き直った。


「うん。でも和彦達にはぎりぎりまでこの事を秘密にしておきたいんだ。知れば彼らはバスを奪って自分達だけで逃げ出そうとするかもしれない」

「そうだね。キミの言うとおりだと思う。この事はあたし達だけの秘密にしよう」


 やや興奮気味にそう言った栞に、ケンゴは黙って頷いた。







 その夜、学校備え付けのシャワーを浴びて、少年達や子供達が寝静まったのを確認した後、栞はゆっくりと起きた。

 みんなそれぞれに寝袋や学校の宿直室、保健室などに残されていた布団に包まって眠っている。

 念のため、コージの隣で眠っていた栞は、彼が安らかに眠っているのを確認し、そっと、彼が起きないように注意してその額に手を当てた。

 やはり、熱は昼間に比べてかなり下がっている。

 寝息もずいぶん落ち着いた。

 まだ油断はできないが、この調子なら明日には起き上がれるだろう。

 彼女はコージの布団を整えてやりながら、そっと起き上がると、昼間、ケンゴから渡されたボストンバッグを手に静かに教室を抜け出した。

 そのまま屋上へと向かう。

 電気が通らなくなって久しく、周囲のすべての家屋に明かりはない。

 ただ、太陽光発電のいくらかの街灯が弱々しく光っているのが見える。

 その周囲を蠢いている黒い影も、わずかながらに確認できた。


「……」


 栞はそれらの様子を横目で見ながらも、もはや興味なさそうに屋上に立つと、持ってきたボストンバッグをその場に置き、少し離れた位置にダンボール箱を置いた。

 中には予めダンボールの仕切り版をいっぱいに詰め込んでいる。

 簡単には突き抜けられないことを確認してから二十メートルほど離れて、カバンの中からピストルクロスボウを取り出した。

 なるほど、確かに栞の細い腕でもなんとか弓を引くことはできそうだった。

 しかし、その分、有効射程は短い。

 二十メートルとケンゴは言っていたが、実際にはそれより短いかもしれない。

 ボルト(矢)をスリットにつがえて、銃と同じようにある安全装置をゆっくりと外す。

 両手でしっかりと構え、静かにその鷹のように鋭い視線で狙いを定めた。

 ピストルクロスボウといっても、M9(92FS)に慣れ親しんできた彼女には、かなり重い。

 しばらく数分間、構えたままの姿勢で標的のダンボールを狙い続ける。


「……」


 やがて、彼女の指がトリガーにかかった。

 次の瞬間、パンという小さな音と共に、まるで雷のような光の筋が一瞬だけ見えたかと思うと、吸い込まれるようにボルトはダンボールの中心を撃ち抜いていた。

 凄まじい威力にダンボールは後方へと吹っ飛ぶ。

 栞はクロスボウを下げ、ゆっくりとダンボールに歩み寄って、その威力を確認した。

 ボルトは完全にはダンボールを貫通することはなかったが、矢先はダンボールの反対側を突き抜けていた。


「……今はこれに頼るしかない……か。なるべく銃を使うのは避けないと」


 威力を確認すると、ボルトを渾身の力を込めてなんとか引き抜き、その後、何度となく射撃を繰り返す。

 発射の音が小さいことは利点だが、やはり銃に比べるとどうしても連射性に劣る。

 複数の感染者を相手には使えないだろう。


「……」

 

 それとは別に、やはり、構えるときにどうしても胸の大きさが邪魔だった。

 少しまた大きくなったかもしれない。

 栞は改めて自分の胸元を気にした。

 その時だった。

 不意に背後で人の気配がして、栞は素早く振り返る。

 そこにたのは、眠そうに目をこすりつけて佇んでいる七才くらいの女の子だった。

 栞はすぐに隠すようにクロスボウをボストンバッグに直して、女の子に歩み寄ると、しゃがんで女の子の目線に合わせて囁く。


「茜? どうしたの。みんなと寝てなきゃ」 

「起きたらしおり、いないから探したの」

「ひとりで歩いてたら危ないでしょ」


 そう言って栞はバッグを肩に担ぎ、女の子の手を優しく引いて教室に戻ることにする。女の子は眠そうにしながら、どこか可笑しそうに笑う。


「しおり、ママみたい」

「はいはい、あんまり『ママ』を困らせないでよね」







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る