#16:世界が終わるなら終わってしまえばいい
二泊三日の合宿。
最後の夜は冷蔵庫に残っていた材料を思いっきり余すことなく使い切って、カレーにした。
それから午前中、アガナと林檎が岸壁にいって釣ってきた大量のキスをカレー風味で焼いたものと、やっぱり残っていた小麦粉で真綾が焼いたナン、それに夏野菜をいっぱいに添えたサラダ。
どれもすごく美味しかった。
そのあとはせっかく持ってきたからと砂浜で花火をやって、あたし達は最後の夜を楽しんだ。結局、当初の目的だった【シェルクラフター】での作業はあまり進まなかったけど、みんなそれぞれ楽しめたと思う。
翌朝、片付けをしたあと、あたし達は朝九時には別荘を出ることにした。
行きは五人とAIとで電車の中で『モンスト』に熱中していたのに、帰りは疲れきっていて、ゲームをするどころから少し眠ってしまった。
本当にこの二日間、とにかく海で遊んでゲームで本気になって、かなり密度の濃い時間を過ごした。
本当楽しかったのだ。
楽しかったんだけど、あれからあたしはアガナに対して、少し特別な気持ちを持つようになっていた。
それが何なのか、あたしにも判然としない。
ちょっと意識しているだけなんだろうけど。
「お姉ちゃん、出かけるの? 今日はみんなで集まる日じゃないよね?」
部屋をノックする音と共に、少し遠慮がちに真綾が顔だけ出してきた。
下着姿のままのあたしと目が合う。
「そうだけど、真綾も出かけるの?」
「うん、もう少ししてからだけど、リンゴと出かける約束があるの」
「そうなんだ?」
「うん、本当はアガナさんを誘いたかったみたいなんだけど、先約があるからって」
「あ、ああ、そうなんだ……」
合宿後、あたしとアガナはよく一緒に出かけている。
みんなで集まることもしょっちゅうだけど、それ以上にあたし達はよく一緒に会っていた。
【シェルクラフター】の作業もそうだけど、備蓄食糧の材料の買出しだとか、必要な機材や資材の注文だとか、とにかくいろんなシェルターに運ぶ物資を準備をする。
それに、先日真綾と林檎が発注した本も、今になって大量に届き始めている。
ダンボール数十箱分はあろうかという書籍の山を、出来たばかりの地下書庫に運んでは、整理したりもしている。けっこう大変だった。
そんな中、今日も実は一緒に出かけることになっているんだけど……。
あたしはそれを真綾にはいえなかった。別に隠すようなことじゃないんだけど。
「そっか。じゃあ、鍵閉めていってね」
「うん」
真綾がドアを閉めて去っていった後、あたしは再び姿見に写った自分を見据える。
実はさっきから、あたしは姿見の前でずっと服を着ては脱ぎ、また服を着ては脱ぎ、と延々同じ事を繰り返していた。
そして最終的に二つに絞って、またさらに悩み続けている。
白いフロントボタンの涼しげなワンピースにしようか、それとも肩が大胆に出て胸元少し上までシースルーになった大人っぽい黒のブラウスと、ワインレッドのタイトスカートにしようかと悩んでいる。
いつもはそんなに服に悩んだりなどしない。
友達と出かけるときは、いつも当たり障りがないものの、そこそこ可愛いと思う服を選んでいる。
自分でも今日はこれを着たいなんていうはっきりしたイメージが沸くものだ。
なのに、あたしは今、何を着ていこうかとかれこれ一時間は悩んでいる。
そろそろ出かけたいのに、どうしても踏ん切りがつかないのだ。
――どっちの服がいいと思う?
――ん? どっちも似合うよ?
合宿前、アガナを荷物持ちにして出かけた時、ついでに服も見てみようかとあれこれ悩んでいた。あいつの前で二つ持ってみてどっちがいいか聞いてみたのだ。
出た答えがこれだった。
(なにそのテキトーな感想は……一番腹立つ答えなんですケド)
まあ、元々服に無頓着だったあいつに、まともな意見を求めたのが間違いなんだろうけど。
(少し肩が出てるこっちにしようかな?)
今、あたしが着ているのは、大胆に肩を見せ、胸元少し上まで透き通って見える黒いブラウスだ。
若干、胸元が見えて恥ずかしい。
これを着た自分をアガナが見たらどんな顔をするだろう?
可愛いと思ってくれるだろうか?
いや、これは可愛いっていうより、ちょっとセクシーな部類だ。
着る方のあたしだって、けっこう勇気がいる。
あいつは、どんな風に思うだろう。
可愛いよりセクシーな方が好みだろうか?
白いワンピースの方は間違いなく可愛い方の部類だ。
けれど、こっちは無難すぎる……。
「……」
いろいろ思い悩んではいるものの、ふと思う。
こんなに悩んだところで、あいつはきっと「どっちも可愛いよ」な反応しか返してこないだろう。
そういえば合宿の初日、水着姿を見せた瞬間のアイツは、あたしよりも海に感動して突っ走って行った。
あれにはさすがに軽く傷ついた。
あたしってそんなに魅力ないのだろうか、などとしばらく浮上できずにスネてしまった。
そんなこんななことを思い出しているうちに、なんだかムカついてくる。
いっそ、思いっきりセクシーな格好にして「可愛いよ」なんて軽く言えないようにしてくれようか。
「あれ? お姉ちゃん、まだいたの? 真綾もう行くけど」
「あ、……うん」
結局、少し虚しいキモチで鍵を閉めて出かけたのはあたしの方だった。
選んだのは黒いセクシーな方のブラウス。
シースルーの隙間からわずかに胸元が覗くのを確認して、あたしはにやりと唇の端を吊り上げた。
今回は、これであいつを少し懲らしめてやろう。
再教育してやるのだ。
女子の恐ろしさを思い知るがいい……。
バッグを手に、そんな覚悟を決めてあたしは家を出る。
擦れ違う会社員らしいおじさんが、少し眩しそうな目でちらっとあたしを見ていくのを感じて、若干、後悔しつつも、威力はバツグンだと自分に言い聞かせた。
そんなあたしの胸元には、あの貝殻と天使の翼のネックレスが光っていた。
「……」
あたしは今、タイトスカートの裾から伸びた足を組んだ状態で、肩肘をついてこのバカの顔を眺めている。
それなりにメイクもして、気合の入ったリップグロスなんかもしてきたあたしの顔は、今、ひくひくと引きつりつつ、なんとか笑顔を取り繕っていた。
このバカは、かなりの勇気を振り絞ってちょっとセクシーな格好をしてみたあたしに、顔を赤くするでもなく、雰囲気の違うあたしに気付くでもなく、かれこれ二十分ほど罪のない無邪気さで新作の『ポケットデジモンスター スピリットゴールド』の面白さについて語っている。
いや、あたしも『ポケデジ』は好きだけど。
おまえは、あたしのセクシーな格好よりピ〇チューの方がいいというのか……。
だとしたら、あたしはこいつを殺しても罪にはならない気がする。
などと考えながら、どこまでも奥深い優しさを湛えた微笑みを向ける。
「……?」
そんなあたしの微笑みにアガナは違和感を覚えたかのような不思議そうな顔をしていた。
うん、やっぱりこいつ、殺してやろう。
今回は、いつもと違う雰囲気で、セクシーさを全面に押し出して、こいつを思いっきりリンゴみたいに赤くしてやろうと意気揚々と来てみたのに、この体たらくだ。
なんだかあたしの女の子としてのプライドが、思いっきり折れそうだった。
(……)
もしかして、こいつって胸のある女の子が趣味ではないとか?
いや、それ以前に女の子に興味ないとかは!?
「……」
いやいやいや……それはない。
雪音先輩のあの巨乳を前に、何度か顔を赤くしているのを見たことがある。
ということは……。
あ、あたしの胸が……む、胸が……。
「……でね。今回は単純なリメイクじゃなくて、オリジナル以降のシリーズで使用された要素やシステムとか、いろんな新要素がたくさん追加されて……」
「ねえ、アガナ」
「ん?」
「アガナって女の子の胸って気になる?」
「……え? あ? な、なに? な、何をいっているのですか?」
あ、動揺してる……。やっぱり興味あるのか。よかった……。
いやよくない!!
だとしたら、おまえのその反応はなんなんだ!?
こんなに勇気出してセクシーさをアピールしているあたしに対して、おまえのその反応はなんだ!?
あたしへの挑戦か!?
再び、眉間のあたりがひくひくしてくるのを感じる。
「別に。ただなんとなく女の子に興味ないのかなと思っただけ」
「い、いや……なくはないですよ……可愛いな、とか思ったりするし」
今ごろになって顔を赤くして、顔を背けながら困ったように答えた。
可愛いとか思ったりする? それって誰のこと?
「可愛い? 可愛いのが好きなの?」
だとしたら今回は選択を誤ったのかな。
「分からないよ。女の子の知り合いなんてほとんどいないし」
まあ、それは確かにそうだ。
アガナの女の子の知り合いっていうと、先輩や林檎や真綾、それにあたしくらいしかいない。
……いやでも、それなりにいるんじゃないの?
「なに?」
「なんでもない……」
あたしは右手の人差し指を口元に当てて、しばらく考え込む。
そんなあたしを困ったような、不思議そうな複雑な表情でアガナは見つめていた。
もし……もしもだけど……。
もし世界の終わりが今やって来て、生き残ったのがあたしや雪音先輩、それに真綾や林檎だけだったら、なんていうか……女の子四人とこいつだけが生き残った最後の人間だったら……。
こいつは……その……さ、最後の男として……。
そ、そういうことをこいつは考えたことがあるんだろうか?
「ソアラ、さっきからどうしたの? 顔、赤いけど、熱でもあるとか?」
ないだろーなー。なんか、そんなことぜんぜん考えてなさそう。
「な、なんでもないってば」
あたしだけが意識しているのが、なんだかバカバカしくなってきた。
どうせ、今だってこいつはあたしの格好とかまったく気にも留めてないわけだし。
「……」
けれど、本当に、もし最後の人類としてあたし達だけが生き残ったら、こいつは誰を選ぶだろう。
雪音先輩だろうか。やっぱり先輩は綺麗だし、スタイルもいいし、学校でも有名なくらいだし……。
いや、可愛いで選ぶなら林檎になるのかな?
(……)
あー、ヤメヤメ! なんか考えるとムカついてきた。
「ソアラ?」
「そろそろ出かけよっか? 今日はいろいろ回らないといけないんでしょ?」
「あー、うん。じゃあ、そうしようか」
あっさりアガナは納得して、出かける準備をする。
といっても、いつものタブレット端末をカバンに入れて財布とスマホをポケットに入れるだけだ。
ちなみにアガナが今着ている服も、前にあたしと一緒に選んだもので、着こなし方もそう悪くない。
最近、ちゃんと身なりを気遣うようになったのは、素直にえらいと思う。
こいつなりに努力していると思う。
それに元々、見た目はそんなに悪くない。
髪をもう少し整えれば、もうちょっとよくなるだろう。
自信のなさそうな顔は相変わらずだけど、時々見せる笑顔はちょっといい。
最初の頃は、笑うというより薄い紙に顔らしいものを描いて貼り付けたような、表情というには不自然極まりないものだった。
昔、幼い頃のあたしに父が見せたあの決まり悪そうな笑顔を思い出して、何度となくイライラしたものだった。
まあ、こいつが悪いわけじゃないんだけど……。
でも、今、あたしに見せてくれる笑顔はけっこう好きだ。
「じゃあ、いこっか」
準備できたアガナが、あたしに向き直って微笑みかけた。
ちょっとドキっとする。
その時、不意に部屋を出た直後、思い出したようにアガナが口を開く。
「あ、そうだ。今日、あのネックレス付けてくれてるんだね」
「――え?」
その一言を聞いた瞬間、あたしは驚きのあまり瞳を見開かせた。
急に恥ずかしくて、かーっと顔が熱くなるのを感じる。
アガナの顔を見ていられなくて、顔を背けた。
こ、こいつ……。
胸元は胸元でも、そこを見ていたのか……?
予想もしていなかったところからの奇襲に動揺が隠せない。
なぜだろう。あんなにあたしの格好なんて気にも留めていないようだったこいつのことを、さっきまで散々毒づきまくっていたのに。
殺してやるとまで思っていたのに。
いざ、あたしの胸元にあるものに気付いていたことが分かると、なんだか、裸を見られたような恥ずかしい気分だった。
そんなあたしの胸元のネックレスを見ながら、あいつはなんでもないことのようにさらりと続けざまに言う。
「それ、絶対ソアラに似合うと思っていたんだよ。うん、すごく可愛い」
「……」
そう言いながら屈託なく笑うアガナは、部屋に鍵をかけて、顔を赤くして呆然とたたずむあたしを尻目に、先に階段の方へと向かった。
あたしはそんなアガナの後姿を見つめながら、顔に一気に血が昇ってくるのと同時に、身体中が熱く火照ってくるのを感じた。
胸の奥がとても切なくなってきて、つらいのか悲しいのか、それとも嬉しいのか、よく分からない感情が込み上げてくる。
力が抜けて、その場にへたり込んでしまいそうだった。
なんなんだろう。こいつは。
あたしの服には一切気付かないくせに。
そのくせ、こんなに小さなネックレスには気付いて可愛いなんてあっさり言ったりする。
言われたあたしは、なんでそんなつまらない一言に、こんなにもドキドキするんだろう。
学校で他の男に可愛いって言われることはよくある。
あたしも適当に笑顔でありがとうなんて言ったりするけど、どこか社交辞令で、こんなにも心がザワついたりするようなことはなかった。
アガナに言われると、なんだか落ち着かない。
アガナの視線が、まるで直に肌に触れてくるような感覚がして身体の芯が熱い。
いったい、アガナはあたしのことをどう思っているんだろう。
そのことを考えると、いつも胸の奥が切なかった。
「ソアラ?」
「う、うん。今いく」
立ち尽くしていたあたしを不思議そうに振り返るアガナを、ぎこちなく追いかけて、あたしは少し小走りに階段を下りていった。
なんとなくその背中を蹴ってやりたいのか、抱きしめてやりたいのか、どっちともつかない気持ちが、あたしの胸いっぱいに広がっていた。
あたしとアガナは町の少しはずれにあるドラッグストアに向かっていた。
その日の目的は、医薬品と燃料の調達だった。
実はもし人類が滅亡したら、この二つはとても重要らしい。
もちろん食糧や水は最も大事なものの一つだけど、今の医療制度が消えた世界では、もし骨折したら、それがそのまま命を落とす原因になりかねないからだ。
小さな刺し傷ひとつでも、感染症にかかってしまえば適切な治療を受けられなければ人は充分に死ぬ可能性がある。
インフルエンザなどのありきたりだと思っている病気で、抗ウイルス剤や抗生物質などの適切な現代医療を受けられなければ、死亡率はグンと上がってしまうのだ。
恐らく、人類の文明が崩壊した後は、こうしたなんでもなかったはずのケガや病気で人が死ぬ確率は飛躍的に高まるだろうと言われている。
とはいえ、医薬品を大量に手に入れることは、ただの高校生であるあたし達には法律上不可能だった。
そこで工藤家の出番となる。
「雪音先輩の親戚の人が町でドラッグストアを経営しているんだっけ?」
あたしが問いかけた。
「うん。医薬品は登録販売者の資格や薬剤師の資格がないと扱えないからね」
「一気に大量購入できないのよね」
「法律上はね」
さらっと言ってくれる。
なんとなく法律上は、という含みのある言い方に、あたしは嫌な予感を覚えた。
どういうわけか、雪音先輩の話によると、もし人類社会が崩壊してしまうようなことがあれば、自分の店にある薬品を自由に使っていいなどという、ちょっと変わった人がいるらしい。
あたし達に言えたことではないんだけど……。
「……その先輩の親戚の人たちって何者なの?」
「さあ、僕も会ったことはないよ」
「知らない人なの?」
「うん」
「……」
アガナも少し不安そうだった。
だいじょうぶなんだろうか。
そうこうしている間にドラッグストアに到着した。
町の郊外なんかでよく見かける日用品や食料品なんかも取り扱うような少し大きなドラッグストアだ。
にもかかわらず、ここはどうやら個人経営の店らしい。
「やぁ、君達が雪音ちゃんの友達のコたちだね」
店に着いた後、雪音先輩に言われた通り、杉下さんという人を訪ねていった。
その人との約束で来たことを入り口手前のレジにいた女性に言うと、まもなく、眼鏡を掛けた痩せた三十歳前後の背の高い男性が、奥の事務所から姿を見せた。
清潔感のある真っ白なYシャツに几帳面さが窺える黒い折り目がついたスラックス。
痩せているんだけど、なぜかひ弱な感じがしない。
真っ直ぐに伸びた背中と胸板の厚さが、なんとなくYシャツからも窺える。
もしかして、普段はスポーツでもして鍛えているんだろうか。
この人がこの尋常でない申し出をしてくれた人なんだろうか。
そんな杉下さんは、なんというか、意外なほどあっさりと親しみのこもった笑顔で事務所にあたし達を案内してくれたかと思うと、奥にある重そうなスチール棚を突然、動かし始めた。
重そうだったのに、杉下さんが横からスライドさせようとすると、簡単にスチール棚は動いた。その向こうに鋼鉄かと思われる鈍重そうなドアが出現する。
思わず目が点になるあたし達。
「あ、あの……これってもしかして隠し部屋か何かですか?」
あたしはつい聞いてしまった。
そんなあたしに杉下さんは、いつもの営業スマイルのような笑顔で言う。
「まさか。最近は物騒だからね。用心しているだけだよ」
「……」
「……」
どうしよう。何かの犯罪に巻き込まれたりしないだろうか。
あたしのそんな不安を他所に、杉下さんがスチール棚の向こうのドアに向かう。ポケットから出したカードキーを読み取り機にスライドすると、あっさりとドアが自動で開いた。
奥は真っ暗になっていたけど、下へと続く階段があるようだった。
「じゃ、ついてきてくれるかい」
そう言って、ドアを開けてすぐの壁際のスイッチを押すと、ぱっと明るくなった階段を下りていく。
あたしとアガナは杉下さんが下りていったあとの階段をそっと覗き込んだ。
階段は急になっていて十メートルは下っていくことになるようだ。
階段を下りると、また鋼鉄のドアがあって、そこで杉下さんはあたし達を待ってくれていた。そこでも彼は持っていたカードキーでドアを開ける。
その先にあったのは、店舗内の面積の数倍はあるかのような広さの地下室だった。
恐らく駐車場の地下まで続く広さなんだろう。
そして、その地下室にはパレット積みになった一般医薬品の他、冷蔵された貯蔵庫のようなものまで所狭しと大量にある。明らかに一般医薬品ではないものも含め、恐ろしく膨大な数の医薬品が貯蔵されていた。
「薬品なのでね。温度管理も必要なので電気が通っている。非常時には自家発電に切り替ってここの設備は安定稼動するようになっているんだけど、それも長くはもたない。できるだけ早い段階でここの物資を運び出すことを勧めるよ」
そう言って杉下さんは、微笑みながら手近にあった棚から一冊の大きなファイルをアガナに手渡した。
あたしとアガナはそれを興味深く覗き込む。
相当な厚みのあるファイルで、大量の書類が挟みこまれているらしく、かなり重そうだった。
ファイルには印刷された文字で『薬物管理台帳』と書かれていた。
「そこに、ここにある薬品の種類と数、使用法から管理の仕方までが全部載ってる。本当は専門知識を持った人が扱ったほうがいい薬品もあるんだ。もし、そういう知識がある人がいたなら、その人に扱ってもらってくれ。もしいなければ、そこに必要最低限の使用法は書かれている」
杉下さんは、ごく当たり前に連絡事項を伝えるかのように捲くし立てた。
「あ、そうそう。これがカギね。さっきも言ったように、もし何か非常事態で自家発電に切り替っても、そう長くはもたないんだ。そうなるとカードキーも使えなくなる。その場合はカードリーダーのスライドが簡単に外せるようになっているから、その中の鍵穴にこれを差し込んでくれれば開く。鍵は上も下も共通になってるよ」
彼は、思い出したようにポケットから小さな鍵を取り出し、一緒に持っていたカードキーをあっさりと今度はあたしに手渡した。
あたしもアガナも少しついていけない。
この人はいったい何者なんだろう。
「え、えっとその……し、失礼ですけど杉下さんは、どういう人なんですか?」
アガナが少し混乱したように彼に問いかける。
そうだ。
ちょっとこの人は異様だ。
ただの高校生、それも人類滅亡を信じているようなあたし達に、この人はお店の在庫をそっくりくれようとしている。
こう言ってはなんだけど、とても普通の人には見えなかった。
そんな動揺したあたし達に、彼はにっこりと人の良い笑みを浮かべる。
「僕はただ、もし大災害や大規模テロが発生したときに、在庫解放で地域貢献でもして株を上げたいだけなのさ。赤字覚悟でね。最近、大手が入り込んできてこっちも死に物狂いだからね」
だからってこんなことを普通するだろうか?
そう思ったとき、突然彼は、あたしとアガナの肩に手をかけ、笑みを消した真剣な面持ちであたし達を見つめた。
その鋭い瞳に、思わず緊張が走る。
「いいかい? もし、何か、何か良くないことが起こってしまったら……恐らくこの町の人々は駅前やショッピングモールの食料品、それに医薬品のあるここのようなドラッグストアを真っ先に略奪するようになるだろう。上の売り場にある医薬品は根こそぎなくなっている。だからしばらくは絶対に近づくな。充分に周囲の安全が確認できてから回収するんだ。いいね?」
「……」
「……」
急に彼の尋常ではない気迫のこもった瞳が、あたしとアガナを鋭く貫くように見据え、あたし達は声も出せなかった。
ただ、ひたすら頷き続ける。
「それからここの扉は特別仕様の鋼鉄製だ。軍用爆薬でも持ってこないことには強引に開けることはできない。恐らく、君達が回収できる頃まで安全に保存されているだろう。その後、ここにある物資をどう使うかは君達の自由だ。けれど大事に使ってくれ」
「は、はい」
「わかりました」
あたしもアガナも杉下さんに感謝することしかできない。なのに、彼は心なしか、申し訳なさそうな苦しそうな表情を浮かべる。
「本当に申し訳ない。時間がなくてこれだけしか集め切れなかった。……でもなんとかがんばってくれ。勝手かもしれないが、君たちが頑張ってくれることが僕らの希望なんだ」
そんなあたし達に杉下さんはよく分からないことを言いながら、再びにっこりと微笑んだ。
この人はいったい、どういう人なんだろう。
あたし達と同じように本気で人類滅亡の瞬間が近いと信じているのか。
そんな疑問ばかりが浮かんでは消えていく。
けれど、杉下さんはそれ以上は何も話してくれなかった。
ただ、もしもの場合に使ってくれとしか言わない。
そのもしものために、よく知りもしないあたし達に、彼は大事な在庫の場所を教えてくれて、カギまで渡してくれたのだ。
不思議に思わない方が変だろう。
けれど、あたし達からの質問には彼は答えてくれなかった。
もともと、雪音先輩からも何も聞くな、としか言われていなかった。
それがけっこう不安ではあったのだけど。
その後、あたし達は、お店にある商品の中で法的に購入可能なぎりぎりの数の一般医薬品や医療資材をめいいっぱい持たせてくれた。
しかも、その代金も受け取ってくれなかったのだ。
そんな杉下さんにあたしとアガナは深くお礼をしたけど、彼は大したことないというように気さくに微笑みながら手を振っていた。
杉下さんのドラッグストアを出てから、あたしとアガナは、なんとなくキツネにつままれたみたいな気分で呆然と歩いていたと思う。
なんだか不思議な気分だった。
結局、あの人が何者なのかはよく分からないままだ。
ただ、あたし達が知っていることを同じように知っているかはさておき、あたし達が信じているものを、あの人も同じように信じている。
そしてあたし達のことを心から応援してくれていた。
それだけは伝わってきた。
それは同時に、分かっていた事とはいえ、何か得体の知れない事が今も知らないどこかで進行していることを示しているようで、あたしはなんだか急に怖くなった。
アガナはどう思っているんだろう。
いよいよ、何かが起ころうとしている。
そんな予感を感じたりはしないんだろうか。
それを怖いと思わないんだろうか。
それとも、アガナにとってはずっと前から備えてきたことで、とっくに覚悟ができているんだろうか。
「あ、アイスクリーム売ってるよ?」
不意に、アガナがあっけらかんとした表情で駅前の公園にあるアイスクリームの屋台を指差す。
昼間の公園内にはほとんど誰もいなかったけれど、近くの会社のOLらしい女の人が何人か屋台の前で並んでいるのが見えた。
「本当だ」
少し呆れた気持ちであたしは呟く。
「食べていこうよ」
そんなあたしの内心など気付かない様子でそう言うと、アガナは微笑みながらどんどん公園の屋台へと向かう。
まったく、前は外を歩くのをあんなに嫌がっていたのに。
今はアイスクリームが欲しいからと自分から足を向けていくのだ。
この頃、アガナは前ほど外に出かけることを嫌がらなくなった。
あたしが買い物に付き合わせたり、備蓄食糧の材料なんかをネットの宅配に頼らず買いに行こうといって連れ出したのもあるけど、本当にこいつなりに変わろうと努力しているんじゃないかと思う。
そう思うと、呆れ半分、なんだか胸の奥がじわっと暖かい気持ちになって、少しいじらしい気持ちが溢れてくる。
そして奇妙に意地悪したくなってくるのだ。
FPSのゲームをしているときのあたしを、こいつはドSそのものだと言っていて、あたしはそれを否定してきたけど、案外、その通りなのかもしれない。
あたしはこいつを時々いじめたくなる。
無性になんだか意地悪したくなるのだ。
それをいつも必死に抑えている。
あたしはアガナと出会って、アガナのことを知るようになってから、さらに生い立ちのことを知ったとき、これ以上こいつに傷ついてほしくないと思った。
アガナ自身のことではないことで、アガナが傷つけられるのを見たくないと思った。
きっと今、彼の父親のことで彼自身とは関係ない中傷をするような人が現れたら、あたしは本気で怒るだろう。
なのにそんなあたしが、今、こいつを少しいじめて困らせてやりたいと思っている。
あたしは少し変なのかもしれない。
そんなことを思いながら、手近なベンチでゆったりと寛ぎ、足を組んでぼうっとアイツを見つめていた。
アガナが屋台の列に並んでくれるらしいので、あたしは特にすることがない。
すると、アイツは時々、こっちを見てはにっこり笑って手を振っている。
それを後ろに並んだやっぱりOLらしい女の人三人が微笑ましそうに笑って何か話しているのが見えた。
(子供か!)
出来の悪い弟を遠目に見ているようで、あたしはちょっと恥ずかしくて居たたまれない気持ちになりながら、アイツにそっと手を振り返す。
そのうち二つ分のアイスクリームを受け取って、アガナがこっちに戻ってくるのが見えた。
「はい」
「うん、ありがとう」
受け取って、あたしはアイスクリームを口にする。
しばらく並んでいる列の様子を見ながら静かに食べていると、不意にアガナが口を開く。
「ソアラ、少し怖くなった?」
「え?」
まるで心の奥を見透かされたような気がして、あたしは思わず動揺する。
「そ、そんなことないわよ。ずっと準備してきたんだし」
「うん。でも、どんなに準備してきても予想外のことが起こってしまうかもしれない。何が起こるか分からないからね」
「……」
あの時の杉下さんの真剣な面持ちを思い出す。
あれだけたくさんの医薬品があっても、絶対の安心なんてないんだ。
そう思うと、やはり怖くなっていた。
あたしの中で、以前見た【コーデックス】の映像が思い起こされる。
攻撃ヘリに破壊されるビル、その下で灰にまみれケガをした人々、狂気に駆られて市民に銃を向ける兵士と最後に見たあの大量破壊兵器。
あれが現実になると予言する【クァンタムセオリー】。
今頃になって、あたしは改めて怖いと思った。
怖くて怖くて仕方がなくなった。
今まで無邪気に終末に備えようといろんなことをしてきた。
だけど、本当にあたし達のやっていることは正しく準備できているといえるんだろうか。
あんな世界の中で本当に終末が来たとき、あたし達は生きていけるんだろうか。
不安からか、あたしは無意識のうちに膝の上の手をきゅっと握り締めた。
そんな疑念が心の片隅を駆け抜けようとした時、おもむろにアガナがあたしを真っ直ぐ見つめて返してきた。膝の上のあたしの手に、そっとアガナが手を重ねる。
「だけどだいじょうぶだよ。何が起こっても絶対にソアラを守るから」
「……」
なにげなく語りながらもその目は真剣だった。
本気であたしを守ると言ってくれているアガナの手が暖かい。
その瞬間、不思議と胸がいっぱいになって、わけの分からない涙がこみ上げそうになる。
顔が熱い。
恥ずかしい。でも目を逸らせない。
強く迷いなくあたしを見つめるアガナの目。
その目はあの合宿の夜を思い出させる。
「アガナ……」
徐々に、あの恍惚とした甘く熱い感覚が、またあたしの中で沸き起こってくるのを感じる。
あの時のアガナの目に見つめられたように、あたしは凍りついたようにその目に吸い込まれそうになる。
『絶対にソアラを守るから』
その言葉が、あたしの心の奥深くに沈み込んで、まだ誰もいなかったあたしの心に焼印のように深く刻まれる。
――ウレシイ……。
ヤケドしそうなほど熱い衝動が、思考を溶かすかのようにあたしを満たしていった。
胸の奥から一気に全身に広がるかのような昂ぶりに、身体中が震える。
あたしの中で、ずっと何かが叫んでいた。
アガナに触れたい! アガナに触れられたい!
それは、お互いの唇が重なりそうになったあの合宿の夜からずっと続いているあたしの願望。
いや、もしかしたら初めて会ったときから、あたしはずっとアガナに触れたいと思っていたのかもしれない。触れられたいと思っていたのかもしれない。
それほど心の奥から強く感じる。
「……」
なのに、理性が歯止めを利かせようと躍起になっている。
それが胸の奥をきゅっと締め付けて苦しい。
すぐそこにあるものを欲しいと願うことを止めようとする。
けれど、そんな理性などではどうしようもなく、あたしの中の衝動はアガナを欲しがっていた。
胸がドキドキと興奮に打ち震え、燃えるような熱っぽい吐息が切なく唇から漏れる。
瞳が自然と潤んでくるのを、あたしは必死に堪えた。
知らず知らず伸ばしたあたしの両手が、そっと愛おしくアガナの顎元に触れる。
少し鋭角的なほっそりとした頬。
アガナの少し驚いたような表情と共に、その唇があたしの濡れた瞳いっぱいに映し出される。
切なさが止まることなく溢れてきて、溺れそうだった。
手にしたアイスクリームの先がアガナの頬に垂れて、あたしの指先が切り裂くようにアガナの頬に一筋の線を引かせる。
そして、とうとう、あたしの中で何かが吹っ切れた。
「ソ、ソアラ」
「アガナ、あたし……」
――もうどうなってもいい。今はもう一秒だって待てない。苦しい。
世界が終わるなら、終わってしまえばいい。
今、この瞬間、ここにいるのがあたしとアガナだけになるのなら、終わってしまえばいいんだ。
怖くなどあるものか。
もう認めてしまおう。
あたしは……。
あたしは……こいつを……こいつのことが……。
――あたしはアガナが好きだ。
その時だった。
「ソアラ? おまえ、ソアラか?」
突然、聞き覚えのある声があたしを呼んだ。
その時、振り返ったあたしの前にいたのは、
「なお……き……?」
『緊急速報をお伝えします。たった今、首相官邸にて相良官房長官による緊急記者会見が執り行われました。現在、某県全域、及び東京近郊にて各自治体、または医療機関などの報告から新型インフルエンザ感染症の発生、及びその感染拡大が確認されました。これを受け政府は、新型インフルエンザ特例法を適用し、新型インフルエンザ等緊急事態宣言を発すると共に、政府による対策行動計画が発表されました。特例法基本措置に準じ、今後、政府による以下の対応が講じられます。
①外出自粛要請、興行場、催物等の制限等の要請・指示、②埋葬、火葬の特例……』
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