#14:ありがと。手、繋いでくれる?
『そろそろ合宿の主な目的を果たして行きましょう』
唐突な【ここな】の物言いに、僕は向き直る。
午後三時頃。散々遊びつくした僕らは、パラソルの下、海の景色を楽しんでいた。
真綾ちゃんと雪音先輩がシートに寝そべっていて、僕とソアラと林檎の三人は、砂で棒倒しなんて遊びをものすっごい久しぶりにしていたところだった。
「目的って、【シェルクラフター】の作業のこと?」
ビーチパラソルに吊るされたタブレットを見上げながら聞いた。
『いいえ、今回は五人全員で協力し合って危険な領域を離脱する脱出ゲームをしてもらいます』
「ゲーム機持ってきてないけど?」
ソアラが不思議そうに問い返した。その問いに、どういわけか寝そべったままの雪音先輩が答える。
「ゲーム機なら別荘に用意してあるわ。でも、今回はいつもと違うゲームをしてもらうわ。アガナくん、【コーデックス】は持ってきてくれた?」
「え? ああ、持ってきてるけど……。使うの?」
「ま、また……あの映像を見るのか」
「……真綾、あれ苦手……」
林檎と真綾ちゃんが嫌そうな顔をしている。確かに【コーデックス】で見たあの映像は、旅行先に来てまで見たいものじゃなかった。
あれはちょっとしたトラウマにもなりえる……。
ソアラも僕も、二人の様子を見ながら同意する。そんな僕らの気持ちを察してか、いつもの抑揚のない【ここな】の言葉が続いた。
『今回は映像を見てもらうのではなく、先ほども言った通りゲームをしてもらいます。まずは楽しんでみてください。アガナ、【コーデックス】を出してもらえますか?』
「うん、まあ、分かったよ」
訝しく思いつつも、僕は持ってきたカバンから、例の黒い球体とその台座のようなクレードルを取り出した。
片手で軽く持てる程度ではあるが、やっぱり少し重みがある。みんなも興味深そうに僕の取り出したこの物体に視線を向ける。
「我が前回見たものと違うものに見えるのだ……」
「あ……あたしも……」
林檎と真綾ちゃんの呟きに、ソアラも頷く。すると寝そべっていた先輩がゆっくりと起き上がり、僕の前に立つと【コーデックス】をそっと手に取った。
何度もいうが、間近で見るとその……すごいです……。そんな僕を満足気に微笑み返す先輩は、【コーデックス】をパラソルから少し離れた砂の上に置く。
「みんな集まってもらえる?」
言われて僕とソアラが【コーデックス】の前に向かい、さらに林檎が自然と僕の隣に来る。そして真綾ちゃんと先輩が一緒に並んで、僕らは【コーデックス】を囲んで輪を作るように集まった。
『けっこうです。雪音』
全員の準備が整うのを確認して【ここな】が言った。
「ええ、【ここな】ちゃん。それとごめんなさい。今、みんな、タブレットは持ってきているかしら?」
普通、海水浴場に来てまでタブレット端末なんて持ってくる人はそんなにいないものだが、僕らゲーマーは普通に全員持ってきていた。
なんだかな……。
「あるけど、どうするんですか?」
「【コーデックス】がWI-FIのアクセスポイントになっているの。それぞれ繋げてもらえる?」
言われるままタブレット端末の設定画面からWI-FI設定画面を開き、アクセスが可能なネットワーク一覧を表示させる。
『COCONA』と書かれたものがそうだろう。
ネットワーク名を見つけて、みんなはそれぞれ自分のタブレットで言われた通りの操作をして接続を確認する。その後、【ここな】の指示通りの操作をすると、画面上にアプリが自動的にインストールされた。
ショッキングピンクを基調にした中二病っぽいタイトルロゴが表示されている。
「『ココナコネクトサバイバー』……?」
ソアラがタイトルを見て呟く。アプリのアイコンをタッチすると、さも、ありがちなソシャゲっぽいタイトルロゴと共にオープニング画面が立ち上がった。
荘厳なオーケストラと共に、なぜか、主人公キャラ(これ、僕……?)っぽいのがいて、ヒロイン(姫ノ宮ココナ?)と恋人同士なのか寄り添うように描かれている。
他にもモブキャラっぽい登場人物がいて、それぞれ、ソアラっぽいギャル風のキャラと、その妹分みたい真綾ちゃん、そしてなぜか女王様みたいな……これ雪音先輩か……?
林檎にいたっては、王道ファンタジーに出てくるちょっとダークな主人公のライバル的女性キャラになっている。もう何がなんだか分からない。
なのに作り込みがやたら凝っていて、本当にどこかの運営会社が立ち上げたソシャゲっぽさがあった。
――こいつ、こういう芸の細かいこと好きだよな……。
『みんな、アプリのインストールはできたようですね。では、ゲームを立ち上げます』
そう言うと、ブブンという空気が震動するかのような音と共に、突然、僕らの真ん中に置かれた球体が台座の上で回転を始める。その回転はすぐさま高速の域に達していく。
やがて、高速回転する黒い球体が、高熱を発するかのように真っ白に発光しは始めた。
「な、なぁ、これって……」
なんとなく僕が口を開きかけたとき、突然、球体の中央からオレンジ色の幾何学模様を思わせる閃光が一瞬で膨張するかのように迸る。
様々な直線が組み合わさった光のラインが、僕らのすぐ目の前の虚空で、時が止まったかのように停止すると、突然、立体映像のようなものが飛び出す。
僕は目を見開いて、この驚異的な現象を見据えていた。
「す、すごい……」
ソアラが圧倒されるかのように呟く。林檎や真綾ちゃんは、驚きに満ちた表情で目の前の光景を見ていた。
雪音先輩だけが落ち着いた面持ちでその様子を眺めているのが不思議だった。
「こ、【ここな】、これなんなんだ?」
『ご覧の通りのホログラム映像です。まもなくゲームが起動します』
「え? うわ!?」
「き、きゃっ!?」
言うやいなや、それは三次元で描かれた巨大な町のような映像へと切り替る。
「ね、ねぇ、これ……あたしたちの町じゃない?」
言われて僕も気付いた。見覚えのある建物や道路、それに学校や駅、商店街まである。
さながら、僕らの町のグーグ〇マップ3Dをそのまま立体映像にして、目の前の空中に浮かばせているかのようだった。
「こ、こんなことができるのか……」
驚く僕らだったが、ふいに、林檎の前にだけ別のホログラム映像がもう一つ表示されていることに気付く。
僕らの町のホログラム映像は、今、輪になって立っている僕らを突き抜けるほどの大きさで表現されているが、林檎の前には、それとは別にもう一つ、少し小さめの
ものが映し出されている。
「あたしたちの町の立体映像……?」
「お、お姉ちゃん……あたしの学校まである」
「あたしたちのも……」
『林檎は隣町に住んでいるので、彼女には別のマップを用意しました』
「どういうこと?」
問い返す僕に、雪音先輩が答える。
「この町から全員が脱出して、わたしたちのシェルターまで避難すること。それがこのゲームの勝利条件よ」
彼女がそう言うと、町の中におよそ四十体ほどのキャラクター加わった。【マイクラフト】でお馴染みのダンボールを組み合わせたような造形のキャラクター達が、ほとんどは青色に染まって表現される。中には数体ほど赤く表現されているのがあって、なんだか不気味に見えた。
それらとは別に、ここにいる全員の姿をデフォルメしたようなキャラクターが五体加わわる。
ソアラと先輩、それに真綾ちゃんがそれぞれの学校内にいる。僕が深桜山にいて、林檎が……。
「う、うぅ……あたしだけ……別マップ……」
少しだけ不安そうな林檎が、消えいくような声で呟くのが聞こえた。
なぜかいつもゲームをする時は、姫ノ宮ココナの姿で必ず加わろうとする【ここな】が、今回は参加しようとしなかったのが不思議に思える。
『制限時間はゲーム内の時間で3日、現実の時間で言えばおよそ一時間半になります。それまでに全員が生きてシェルターに辿りつければクリアになり、一人でも死亡すればゲームオーバーになります』
【ここな】がそう言うのと同時に、僕らが手にしていたタブレットにゲーム機のコントローラーを思わせる画像が画面下に映し出され、その上に現在の持ち物や体力、精神状態を思わせるメーター等が表示されていた。
たぶん、このソフトコントローラーで自分のキャラクターを操作しろということなんだろう。
そんな中、冒険の始まりを思わせる壮大な音楽が流れると同時に、手にしていたタブレットにゲームのルールを示すメモが表示された。
《ココナコネクトサバイバー》
―リアルタイムストラテジーサバイバルー
場 所:深桜町及び千本桜村
開始時間:1:00 p.m
終了時間:72時間後
開始状況:全員が各所に散っている
勝利条件:全員が終了時間までに深桜山シェルターへ生きて到達
敗北条件:一人でも死亡した場合
敵:特異体リーパー
操作方法:タブレット(ソフトコントローラー)
優位条件:通信能力の確保、及び戦場のリアルタイムな状況認識
(ドローンを使用しているという設定)
メモが映し出されると同時に、目の前のホログラムの町の中で、それぞれのキャラクターが動き出した。
青いキャラクターはたぶん、一般人を現しているのだろう。何かから逃げるかのように町の中を走り回って混乱している様子が見て取れる。
それを追いかけているのは、赤く描かれたリーパーだ。【マイクラフト】でもお馴染みの敵キャラクターで、触れるとダメージを受ける。
しかし、異様なのはそのスピードだ。一般人キャラを発見すると、ものすごい速さで追いかけていってダメージを与えている。
そのスピードは僕らが走るスピードよりもわずかに速い。
つまり、見つかって追いかけられたら、どうにかして撒かない限り、いずれ追いつかれてしまうということだろう。けっこう難易度は高いのかもしれない。
「よ、よし、じゃあ、僕は最初から深桜山にいるから、このままシェルターに入ってればいいかな? ……なんか、僕だけつまんなくない?」
「一人でも死んじゃったらゲームオーバーなんだから、むやみに動き回らないでそこにいてよ」
ソアラがあっけらかんとして言う。
――まあ、そうなんですけどね……。
「わたしとソアラちゃんは始めから同じ学校にいるから、このまま一緒に行動した方がいいわね」
「そうですね」
「我はこのままスネークのごとくダンボールプレイで移動するのだ」
林檎の最初の町、というか村は元々人口が少ないのもあって、すぐ近くにリーパーがいる様子はない。しばらくは安全に移動できそうだった。
問題は真綾ちゃんだ。
「お姉ちゃん、あたし、どうしよ……?」
真綾ちゃんの中学校は、ソアラたちの高校から自転車で走っても二十分はかかる距離にある。そこまでの間にリーパーが三体いた。三体のリーパーはこうしている間にも周囲の一般人キャラをどんどん襲っては倒していく。
「何か武器になるものってないの?」
真綾ちゃんは手にしているタブレットを見る。当然だが、ゲーム開始直後に持ってるものなんて何もない。
「ない……」
そこへ【ここな】が口を開く。
『武器になるものはそこら中にあります。使えそうなものはなんでも拾ってみるといいでしょう』
「え、えっと……」
悩んであたりを見渡していると、通路にホウキが落ちているのを見つけた。急いで拾ってみると、それが武器として使用可能なアイテムであると分かる。
「ホウキ! ホウキ拾った!」
「じゃあ、それでリーパーやっつけて」
「え、ええと……う、うん……」
真綾ちゃんはあまり気が乗らない様子だったが、慎重に移動することにする。なんとか見つからないように近づいて、三体いるうちの一体に後ろから忍び寄ろうとした。その時である。
「え?」
突然、彼女の後ろで、先ほどリーパーに襲われて倒されたはずの青い一般人キャラが起き上がった。そして青かったはずのキャラクターがオレンジに染まり、やがて最後には赤く染まったかと思うと、突然、リーパーに変身して真綾ちゃんに向かって襲い掛かってきた。
「い、いやぁぁぁぁぁぁ、こ、こわぃぃ!」
「だめだめ! 逃げて、真綾!」
「に、逃げて、真綾ちゃん!」
「分かってるぅぅぅ……けど……」
僕とソアラが声を発する中、不意を突かれた真綾ちゃんは、動揺しながらもリーパーから走って逃げる。しかし、周りにはまだ青いキャラがそこかしこに混乱したように逃げ回っていて、彼女の退路を塞いでいた。そうしている間に、他の三体が真綾ちゃんの存在に気付き、彼女は完全に囲まれてしまう。
「あ、あー……」
間延びした真綾ちゃんの声が響く中、彼女のキャラクターはリーパーの餌食となってしまった。
その瞬間に全員のタブレットに『ゲームオーバー』という毒々しい表記の文字が連なる。
驚いたのは、最初の一撃を喰らっただけでもう真綾ちゃんのキャラは倒されてしまったということだ。
「い、一撃って……」
ライフが瞬間的にゼロになるのを見て、僕は思わず呟く。
「一回喰らったらアウトなの!?」
あまりの理不尽さにソアラが驚いて真綾ちゃんのタブレットを覗き込んだ。
『そうです。さまざまなダメージ要素がありますが、その中でリーパーの攻撃を受けると、その一回でもう死亡したことになります』
「死亡したことになるってどういうこと?」
複雑な言い回しに、僕は問いかけた。
『先ほど見たように、リーパーにダメージを受けたキャラクターは、一見倒されたように見えますが、その後まもなくリーパーに変身します。結果的には死亡扱いというわけです』
「たった一撃で?」
『たった一撃で、です』
ソアラの問いかけに、容赦なく冷然と【ここな】が答えた。
「な、なんたる理不尽……なんたるクソゲー……」
林檎が絶望したように呟く。最後の一言に、気のせいか【ここな】の細い眉がピクっと反応する様子が見えた。
その後、ゲームを再開したが、先ほどの教訓からホウキを使って一撃食らわせては逃げるというヒットアンドアウェイで打開しようとしたものの、元々、リーパーの方が走る速さが速いこともあって逃げ切れない。
さらにホウキで一撃を食らわせても、ほとんどダメージはないらしく、見つかって一撃を喰らう可能性が高くなる分、ほとんど意味のない行為と言えた。
そして最悪なのが、攻撃を与えても意味がないので隠れて少しずつ移動しようとすると、今度はその間に一般人キャラ達が、どんどんリーパーに襲われて彼らがリーパーに変身していってしまうという悪循環だった。
もたもたしていると、周囲のキャラクターはすべてリーパーに変わってしまう。
そうなったら絶望しかなかった。
一つ救いがあるとすれば、リーパーに攻撃されたキャラクターが、変身して起き上がるまでの間に攻撃を加えると、そのキャラクターは消滅させることができるということだった。
しかし、それをするためにわざわざ回り道をすると、結局、リーパーに発見される可能性が高くなる。
「む、むっず……」
「うーん、まるでダメだね」
「あんたね……。そこでじっとしているだけのくせに」
「だ、だって僕がいまさら出て行ってもやられてゲームオーバーになる可能性が高くなるだけじゃん」
「まあ、そうなんだけど……」
「まず、全員が合流することが大事じゃないかしら。林檎ちゃんは隣町だけど、比較的人口が少ないせいか、リーパーも少ないし、なんとか深桜町の端まで来れる?」
「わ、我が
しかし、実際には先ほどから何度となく同じ結末を迎えていた。ソアラと先輩が真綾ちゃんと合流しようと近づくと、その間にリーパーに発見されて襲われるのだ。
正直なところ、ゲーム内で三日、実質、現実時間で一時間半くらいが制限時間となるこのゲームで、最初の三十分も僕らは生き延びることができないでいた。
そんな僕らに、【ここな】が口を開く。
『例えば、軍事作戦で最も重要なのは通信手段の確保です。味方に交信し、絶えず情報を共有することで援軍を呼ぶことができます。そして、最も効果的なタイミングと方法でアプローチすることで、強大な敵の隙を突くことができるでしょう。あなた方は今の状態で、すでにお互いに連絡を取り合うことはできているのです』
「……?」
急に【ここな】がこれまでのポンコツAIっぷりとは違った物言いをしているような気がして、僕はなんだか違和感を覚えていた。
――軍事作戦だって?
しかし、むしろ、これにヒントを得たかのように、ソアラが声を上げる。
「なんか石拾ったんだけど……あ、でもこれで陽動とかできない?」
「陽動?」
「お、お姉ちゃん……」
「投げてみたら? とりあえずは」
おもむろに僕はそう言った。何もないよりはマシだろう。
「……うーん、やってみるけど、いい?」
真綾と先輩が頷く。
ソアラは手にした石を持って、リーパーの様子を窺った。一体でも見つかってしまえば陽動の意味がなくなってしまう。慎重にタイミングを見計らう。
隠れながらここぞという瞬間を待った。
そして……。
「いけ!」
3体が後ろを振り返った瞬間、思いっきり石を投げる。その石は、リーパーを飛び越え、真綾ちゃんがいる中学校の正門よりも、ずっと遠くに向かって飛んでいった。
それを見事にリーパーが凄まじい速さで追いかけていく。
「チ、チャンスじゃん! 真綾! こっち来て!」
「う、うん……」
すかさず真綾ちゃんが学校の正門を飛び出し、ソアラと先輩がいる通路まで駆け出した。遥か後ろのリーパーはその様子に気付くことなく、やがて戻ってくる頃には真綾ちゃんは無事、ソアラと先輩に合流することができた。
「お、おぉぉ!? やった!」
予想外の好プレイに思わず僕が手を叩く。
「お姉ちゃん! やったー!」
「ソアラ殿、ナイスシュートなのである!」
「ソアラちゃん、さすがだわ!」
「あ、いえ……ど、どうも……」
自分でも予想外の連携プレイの成功に呆然としつつも、少し照れたようにソアラは言った。
もっとも、自分たちのアクションが成功したのはこの一回で、その後、合流した三人はすぐに他のリーパーに襲われてゲームオーバーとなってしまった。
ここまでの流れで、すでにかなりの時間が過ぎていて、周りにリーパーが溢れてしまっていたのだ。
しかし、僕らはそこで大きなヒントを得ることになる。この次から、まずソアラと先輩の二人が真綾ちゃんと合流するのは、それほど難しいことではなくなった。
開始五分以内でまず、三人が合流に成功するようになったのだ。
「ここまでにしましょう」
午後四時を少し過ぎようという頃。
僕らはコツを掴み始めていたが、そこからなかなか思うように進まず、先輩が時間を見て言った。見ると、あたりはそこまで暗くはないものの、やはり夕暮れ時を思わせる紫色に染まった空が見え始めていた。
「疲れたー。ほんと難しいわ。これ」
「くっ、かつて出会ったことのない魔物との遭遇……お兄ちゃん……お腹すいた」
「ま、真綾も……」
「そうだね。片付けてご飯にするか」
ずっと立って操作していた僕らも、それなりに疲労の色が濃くなってきている。実際、林檎の言う通りそろそろお腹も空き始めていた。陽が沈むのも、これから早くなってくるようだし、このへんでお開きにすることにした。
僕らはそれぞれパラソルを折りたたんだり、シートを畳んだりして片付けに入る。ビーチボールや浮き輪、イルカフロートなんかは林檎や真綾ちゃんが持ってくれた。先輩とソアラが細かいゴミや他の荷物を持って別荘に戻ろうとする。
僕はクーラーボックスと折りたたんだパラソルを持って、先に戻っていくみんなを追いかけようとした。
正直、僕みたいなモヤシ野郎がデカいクーラーボックスを抱え、一方でパラソルを肩にひっかけながら持ち上げるのは、なかなか大変だった。
来るときは階段を下りて来たが、戻るときは当然昇らなければいけない。
(……やっぱ重っ……)
「アガナ、だいじょうぶ?」
見ると、ソアラが危なっかそうな目で僕を振り返っていた。
「よ、余裕ですよ……こんなの」
不敵に笑いながら、軽々と持ち上げようとするが、どうにもぎこちなく見えたことだろう。ソアラは溜息をついて、こちらに戻ってきた。
「クーラーボックスの反対側持つから、あんたはその反対を持ってよ」
「いや、だいじょ……」
「だめ。いいからそっち持ちなさい」
「はい……」
僕とソアラはクーラーボックスを一緒に持って並んで歩いた。行きのときに比べて中身は減っているんだけど、それでもやっぱり重い。正直、ソアラが手伝ってくれて助かった。
なんとか別荘まで戻り、僕とソアラでクーラーボックスとパラソルを元の倉庫に戻すと、代わりにバーベキューコンロを引っ張り出す。
片付けが終わって、みんなは一旦着替えを取りに部屋に戻り、その後、お風呂に行ったらしい。
僕とソアラは、ついでなので水着のまま先にバーベキューコンロだけテラスに運ぶことにした。
僕らがこの間作ったものとは違って、普通にホームセンターで売られているような物だ。
なんとなくこれを見ると最初のあの悪夢を思い出して、なんだか笑ってしまいそうになる。するとソアラも同じだったのか、つい我慢できないとばかりに吹き出した。
「ねぇ、これ見ると思い出さない? 最初のあの爆弾事件」
「ホントだよ。あれひどかった」
「めちゃくちゃ熱かったし」
「そういや、ソアラと先輩は、けっこう前の方にいてチーズとか被ってたけど、火傷しなかった?」
「火傷はしなかったけど、首のところは少し赤くなったかな。この辺とか。もう治ったけど」
「ふーん?」
軽い気持ち僕が頷くと、彼女は設置したコンロの横で、その細い首筋を見せるように上半身と顔を反らして見せた。
「ほら、このへん」
「どこ?」
そう言って、僕はつい何気なく彼女の首筋に顔を向ける。その途端、目の前に触れれば折れてしまいそうなほど細い首筋と、艶やかな鎖骨から零れ落ちそうなほど豊かでありながら、その破壊力を主張するかのようにやや上を向いた胸元へと視線が行っていることに気付いた。
「……」
濡れた白い肌を伝う水滴が、細い首筋から豊かに膨らんだビキニの谷間へと悩ましい曲線を描きながら吸い込まれていくのが見えた。
その瞬間、凄まじいほどの強烈で抗いがたい衝動が、僕の心臓を叩き付けて行くのを感じる。
「ねぇ? 見えた? まだ赤い?」
のん気というか無防備というか、彼女は顔をそらしたまま、ごく自然に聞いてくる。
「あ、あぁ、えーと……く、暗くてよくわかんない……」
硬直した僕は、できるだけ落ち着いた声で言った。
「そっか」
彼女はなんでもないことのように呟くと、急に反らしていた状態を戻し僕の方に向き直った。その瞬間、思いがけず彼女の首筋に顔を向けたまま固まっていた僕の顔と彼女の顔が、必要以上に近づいた。
一瞬、驚いたようにびくんと震える彼女と僕。時が凍りついたようだった。
それはたぶん、きっかけとしては事故に近いものだったと思う。けれど、その瞬間、できることなら永遠にそのままであってほしいという願望が、急に僕の中で湧き上がった。
このままずっと……できることなら一秒でも長く……。
「……」
「……」
お互いの鼻と鼻がぶつかりそうなほどに近く、目はお互いを見つめ合ったまま、まさに永遠とも思える時間、僕らはそうしていた。
頭の奥が、かっと燃えるように熱く、その熱のせいで思考が溶け出して朦朧とする。何も考えられなかった。ただ、彼女の瞳を永遠に見つめていたいという衝動に駆られる。それだけじゃない。
その結い上げられた美しい茶色の髪に、その透き通るような白い肌に、その紅い無垢な唇に、彼女のすべてに触れたいという凄まじく抗いがたい感情が僕を襲う。
まるで未知の引力によって強制的に引き付けられているかのように、僕らは少しずつお互いを求めるように近づいていく。
彼女の瞳が大きく見開かれ、頬が桜色に染まっていくのが分かった。
気のせいか、そのビキニ姿の豊かな胸が興奮に打ち震えるかのように、わずかに上下に揺れているようだった。
それに合わせて、繊細な花びらにも似た紅い唇がわずかに開かれ、そこから彼女の甘く熱っぽい吐息を感じる。
そして僕と彼女の鼻先が、ついにお互いのそれを掠め、彼女の唇が限りなく僕の瞳いっぱいに映る。
すべてを受け入れようとするかのように開かれ、やや乱れた吐息の紅い唇と、同じように開かれた僕の唇が合わさろうとするかのように。
――触れ合いたい……。
それは僕の声なのか。僕ではない誰かの声なのか。確かなのは、今、その声が僕のすべてを支配していた。
「……」
その瞬間、何かを覚悟したかのように彼女の全身からふっと力が抜けたような気がした。
熱に浮かされたその瞳がゆっくりと閉じられる。
僕はそのまま彼女に……。
「お兄ちゃーん?」
「!?」
「!!」
僕とソアラは、たぶん、これまでの人生で一番高速で動いたんじゃないかというほど、一瞬にして安全圏まで離れた。ソアラに至っては、完全に僕に背中を向けていて、まだ少し動悸が激しいのか、両手で胸元を押さえているようだった。
そんな中、林檎がすっきりした顔でテラスに姿を現した。お風呂で身体からすっかり海水を落としてきた彼女は、上機嫌な様子で顔を出す。
彼女は少しドヤ顔で、上は白地に薄い花柄、腹部から下はコルセットっぽいデザインの黒いミニスカートになったワンピース姿だった。
なんとなく、少し林檎には大人っぽすぎるんじゃないかと思うような服だったが、彼女はこれ見よがしに着こなそうとしている。
「お風呂、みんなもう入ったのだ」
「あ、うん……。そ、そうか……」
「……」
正直、僕の動悸だってまだぜんぜん鎮まっているわけではなく、声を発するのもつらい。
ソアラはずっと押し黙っていた。
林檎はそんな僕らの様子に訝しげな視線を向けてくる。
「あ、えっと……ソ、ソアラ、先に入ってきたら? ぼ、僕は今のうちに木炭に火入れておくから」
「う、うん……。じ、じゃあ、そうさてもらうね」
背中を向けたまま、僕に顔を見せようとしないソアラは、そのまま逃げるようにしてその場を去って行った。
そんな彼女を見送りながら、林檎が僕の方を怪しむようにして見返す。
「お兄ちゃん……またソアラ殿を怒らせたの?」
「う……うーん、よく分からない……もしかしたらそうかも……」
まだしっくりこないぼんやりとした頭ではあったけど、一方で心の奥で今、ものすごく大変なことをしてしまったという実感があった。不安になってきた僕は、自分の行動を改めて思い返してみる。さっきはまるで魔法にでもかかったみたいに何も考えられなかったが、だんだん思考がクリアになってくるにつれ、自分の行動がどんなものだったかを客観的に思い返すことができるようになってきた。
それと共に、僕の顔が徐々に青くなっていく。
「……」
そ、そうでした。
まず僕はソアラの胸の谷間を超至近距離からガン見してました……。そのあと、彼女の顔に近づいて、その……く、唇を……つまりその……。
――完全にアウトやないかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?
「うぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
あの瞬間の自分の行動がありありと頭に浮かび、僕は絶望のあまり両手で頭を抱えて、膝から崩れ落ちる。
いつもの僕のお得意のポーズであるザ・土下座である。そんな僕に驚いた林檎が駆け寄ってきた。
「ど、どうしたの!? お兄ちゃん! そんなにソアラ殿を怒らせるようなことしたの!?」
「り、林檎……ぼ、僕は……僕は……もうアカンかもしれへん……」
「ア、アカンの……?」
「アカン……」
その後、お風呂から出たソアラが、夏っぽい白のフレアスカートに薄いピンクのブラウス姿で戻ってきて、僕の腕を、ちょいちょいと突いた。
思いっきり飛びのく僕に、恥ずかしそうに顔を反らしたままのソアラが「お風呂あいた」と掠れるような小声で言う。
湯上りで火照った姿と、覗くうなじが、また僕の心臓を叩きつける。
ドクンドクンと鳴り響くその音が、彼女に聞こえないかとさえ思うほどだった。
僕は分かったとだけ言って、その場を急いで後にする。
さすがの工藤家の別荘だけあって、とにかく広くて綺麗な総ヒノキ造りの浴室の中、僕は修行僧のように湯船に浸かって、ひたすら精神を落ち着かせることに集中する。
一時間後。まったく煩悩の消えない僕が、ほぼのぼせた状態で、なんとか湯船から這い出ることに成功する。服を着替え終わる頃には、テラスの方からいい匂いが漂ってきていた。
あたりはもうすっかり夜になっていて、周囲に街灯一つないこの高台では、別荘内の照明を除けば、空の星々や月の輝きだけが頼りのほとんど真っ暗闇だった。
どこからともなく鈴虫の奏でる心地いい音色と砂浜から聞こえる波の音以外は、本当に静かだった。
そんな中、テラスの四方に立っている柱と中央の柱に備え付けられた少し大きめのランプがそこかしこで輝いていて、そこだけは明るく温かみのある空間になっている。
テラスの先には雄大な夜の浜辺が、満点の星空の輝きを映して光っているのが見える。まさにオーシャンビューだ。そんな中、誰かが持ってきたらしくFMラジオから流れる少し古いナツメロが、じゅうじゅうと肉の焼ける音と共に流れていた。
もっとも、林檎や真綾ちゃんの声でほとんど掻き消されていたけど。
「遅いわよー。アガナくん」
「お兄ちゃん! すっごい、おいしい!」
「ア、アガナさんも……早く……」
『アガナ、ピーマンを避けてはいけません』
「……」
雪音先輩が、僕を手招きしながらコンロにどんどん昼間買っておいた野菜や肉を焼いているのが見えた。
折りたたみの簡単なテーブルで、林檎や真綾ちゃんが席について美味しそうに焼けたトウモロコシに齧り付いていた。テーブルの真ん中に置かれた僕のタブレットからは、【ここな】が真綾ちゃんに『それ、おいしいのですか?』と珍しく興味があるようなことを言っている。
ソアラはあまり食が進まないらしく、グラスに口をつけて少しぼんやりしているようだった。
「ほら、食べて」
先輩が焼きあがった肉を小皿に移して僕に渡してくれた。
「あ、ありがとう。替わるよ。先輩」
「いいのよ。昼間は重たい荷物をたくさん持ってくれたでしょう? 今は食べて」
「う、うん……」
あまり食欲はなかったが、せっかく先輩が差し出してくれたので僕は皿を受け取って席につく。
よりにもよって、空いていた席はソアラの隣だった。
(き、気まずい……)
相変わらず遠くの波音が心地よく響いてくるが、僕の心はざわざわと落ち着かない。
とてもじゃないが、ソアラの方を向いて話すことなんてできる気分じゃなかった。
「……」
「……」
林檎と真綾ちゃん、それに先輩が楽しそうに食べながら会話しているのを、僕とソアラの二人は並んでぼんやりと眺めているだけだった。二人とも、この時はコンロの熱に当てられたみたいに顔が赤かったらしい。
それから食事を終えた僕らが、それぞれ片付けや皿洗いを終える頃には、だいぶ夜も更けようとしていた。
林檎と先輩、それにソアラがリビングでテレビを見ていて、真綾ちゃんと【ここな】がずいぶん仲良くなったらしく、携帯ゲーム機で一緒に何かで遊んでいる。
もちろん、【ここな】はゲームの中に直接入り込んで、二人で協力プレイしているわけなんだけど……。
そんな中、夜九時を回る少し前、僕は駅前のスーパーが十時閉店と聞いて出かけることにした。思っていた以上に林檎や真綾ちゃんは育ち盛りらしく、冷蔵庫の中身の減りが良かったからだ。合宿は二泊三日の予定なので、今のうちに買出しに行っておこうかと思った。
「先輩、ちょっと買い物に行ってくるから。なんだったら先にもう寝てて」
「分かったわ。ありがとう。アガナくん」
先輩から鍵を受け取り、僕は玄関に向かう。この高台から旅館が建ち並ぶ宿泊通りまでは、ほとんど街灯がない。
それほどの距離ではないけれど、ちょっと足元が不安ではあった。そう思っていた矢先、別荘を出てすぐに後ろから「きゃっ!」という短い悲鳴が聞こえた。
振り返ると、そこにソアラがいた。
――な!?
「ソ、ソアラ、どうしたの?」
「うん、あたしも一緒に行く」
「そうか……」
「うん」
僕らは並んで歩く。無言で。とても気まずいんだけど、とてもなんだか、なんていうか……。胸が高鳴った。
見ると、ソアラも少し何かを思いつめるように、右手を胸元に当てながら下を向いて歩いている。
な、何か……何か話さないと……。
(そ、そうだ……。さっきのことを謝っておこう)
「あ、あのさ」
「あのね!」
「……」
「……」
間が悪い……。なんという間の悪さだ。もし神様がいるとしたら、今、僕らのこの気まずい空気を意地悪く楽しんでいるようにしか思えなかった。
「なに?」
「アガナこそ、なに?」
「い、いや、いいよ。ソアラが先に話してよ」
「……」
僕は緊張しすぎて、言葉を発するだけでも精一杯だった。
いったい、なんなんだろう。
なんでこんなことになってしまったんだ。
今日まで、いや、さっきまでこんなにもソアラと話すのが気まずいなんて思ったことはなかった。
どうして……どうして……。
(どうして、こんなにソアラのことが気になるんだろう)
(どうして、こんなにアガナのことが気になるの)
僕らの間に、再び沈黙が降り立った。一緒に服を選びに町を歩いてたあの頃、彼女との間に沈黙があって多少気まずいと思ったりもしたけど、今ほどじゃなかった。
今は、とにかく沈黙が怖かった。
彼女になんて話せばいいだろう。そう思って、なんとなく彼女の方を見た。
暗い闇の中、彼女は少し歩き難そうにしている。
そういえば、彼女はサンダルで歩いていた。
「……」
ふいに、僕は立ち止まる。
「?」
ソアラも立ち止まって、不思議そうに僕の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」
「……」
僕は、そっと右手を彼女に差し出した。
「なによ? その手」
彼女が訝しげに僕の手を見る。
「あ、えっと……暗いからさ」
「?」
「手とか繋ぐ?」
どう切り出していいか分からない僕は、確実に目が泳ぎながら挙動不審な物言いだったと思う。
「ぷっ、くふふふ、あはははははははははは! ご、ごめんね! ごめん!
で、でも……くははははは!」
そんな僕をしばらく呆気に取られて見ていたソアラだったけど、やがて苦しそうにお腹を抱くようにして笑い出した。
呆然とする僕に、彼女は申し訳なさそうに「ごめんね」を繰り返すけど、可笑しくて堪えきれないとばかりに彼女は笑っていた。けれどひとしきり笑った彼女は、やがてゆっくりと向き直る。
「はぁ……ごめんね」
その時にはもう可笑しくて笑っている姿はなかった。
代わりに気のせいか少し瞳が潤んでいて、顔が少し赤い。そしてなにより、今まで一度も見せたことがなったような、穏やかで優しい微笑みを浮かべた彼女がそこにいた。何かを慈しむような、そんな不思議と心が温かくなるような微笑だったのを憶えている。
僕がこの先、生涯忘れない彼女の微笑みだった。
「ありがと。手、繋いでくれる?」
今度は彼女の方からそう言って、遠慮がちにその手を、そっと僕の手に重ねた。
「行こうか」
「うん」
まるで降ってくるような気がするくらいに、漆黒の夜空いっぱいに散りばめられた星々の下、僕ら二人は手を繋いでセカイの果てを歩く。
このとき、僕は気づいていなかった。
彼女の胸元に、小さな貝殻と天使の翼が星空の煌めきによって小さく、しかしはっきりと輝いていたことに。
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